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歴史のミステリーが残る、『守山崩れ』の地の守山城址の紹介です。規模は東西に約58メートル、南北に約51メートルの平山城で、四方には堀が巡らせてあったと言われます。

2016春、守山崩れの地・守山城(2/4):白山神社、守山城址の石碑、堀址

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2016/05/24 - 2016/05/24

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旅人のくまさん

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歴史のミステリーが残る、『守山崩れ』の地の守山城址の紹介です。規模は東西に約58メートル、南北に約51メートルの平山城で、四方には堀が巡らせてあったと言われます。

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  • 白山神社の北側を守山城址に向かって歩いた途中の光景です。この場所が高台であることがわかる北側方面の光景です。

    白山神社の北側を守山城址に向かって歩いた途中の光景です。この場所が高台であることがわかる北側方面の光景です。

  • 『白山神社』の周りの石柵の光景です。この神社は、古墳址に造られた神社とされます。石柵の中の古墳址の盛り土の光景です。全長約98メートル、高さ約6.5メートルの前方後円墳は、4世紀後半の築造と考えられ、周辺には周濠があった可能性もあります。

    『白山神社』の周りの石柵の光景です。この神社は、古墳址に造られた神社とされます。石柵の中の古墳址の盛り土の光景です。全長約98メートル、高さ約6.5メートルの前方後円墳は、4世紀後半の築造と考えられ、周辺には周濠があった可能性もあります。

  • 『白山神社』の麓の光景です。入口近くに小さな境内神社がありました。現在白山神社があるこの古墳は、当時は南に矢田川、北に庄内川を望む台地先端、眼下に平野部を見下ろす絶好の地にあります。この地を治めた首長の墓と想定されているようです。

    『白山神社』の麓の光景です。入口近くに小さな境内神社がありました。現在白山神社があるこの古墳は、当時は南に矢田川、北に庄内川を望む台地先端、眼下に平野部を見下ろす絶好の地にあります。この地を治めた首長の墓と想定されているようです。

  • 『白山神社』の入口近くにあった境内神社の光景です。『樫水神社』の石碑がありました。その奥の石碑の文字は、白龍樫水明神の文字でした。

    『白山神社』の入口近くにあった境内神社の光景です。『樫水神社』の石碑がありました。その奥の石碑の文字は、白龍樫水明神の文字でした。

  • 左が『樫木神社』、正面が白山神社に上る石段です。今回はこの石段は登りませんでした。前方後円墳の古墳上に造られた『白山神社』は、菊理媛命を祭神として、養老年間(717〜723年)に加賀の国から勧請されたと伝わります。

    左が『樫木神社』、正面が白山神社に上る石段です。今回はこの石段は登りませんでした。前方後円墳の古墳上に造られた『白山神社』は、菊理媛命を祭神として、養老年間(717〜723年)に加賀の国から勧請されたと伝わります。

  • 石段の下から見上げた、『白山神社』の本殿光景です。『守山崩れ』で亡くなった、松平清康が再興し、1555年に守山城主の織田信次が社殿を建立したと伝わります。現在の社殿は昭和46年(1971年)10月に再建されたものです。

    石段の下から見上げた、『白山神社』の本殿光景です。『守山崩れ』で亡くなった、松平清康が再興し、1555年に守山城主の織田信次が社殿を建立したと伝わります。現在の社殿は昭和46年(1971年)10月に再建されたものです。

  • 白山神社から守山城址に向かって歩いた途中の光景です。お地蔵様の小さな社がありました。この場所を北に進み、さらに西方向に向かいました。

    白山神社から守山城址に向かって歩いた途中の光景です。お地蔵様の小さな社がありました。この場所を北に進み、さらに西方向に向かいました。

  • 名古屋市教育委員会名で建てられた、『守山城跡』の立札です。築城年代、創建者ともに不明と記されていました。桶狭間の戦いで信長が勝利し、今川氏からの脅威がなくなったことで廃城となりました。

    イチオシ

    名古屋市教育委員会名で建てられた、『守山城跡』の立札です。築城年代、創建者ともに不明と記されていました。桶狭間の戦いで信長が勝利し、今川氏からの脅威がなくなったことで廃城となりました。

  • 守山城址』の石碑がある場所の麓の光景です。石碑がある場所は、左側の丘、左側には、城跡に建立された『宝勝寺』がありました。

    守山城址』の石碑がある場所の麓の光景です。石碑がある場所は、左側の丘、左側には、城跡に建立された『宝勝寺』がありました。

  • 左側の『宝勝寺』と、右側の守山城址』の石碑がある場所の中間の光景です。歴史の場所らしい樹木と竹林の光景が残っていました。

    左側の『宝勝寺』と、右側の守山城址』の石碑がある場所の中間の光景です。歴史の場所らしい樹木と竹林の光景が残っていました。

  • 同じく、左側の『宝勝寺』と、右側の守山城址』の石碑がある場所の中間の光景です。この辺りは竹林でした。

    同じく、左側の『宝勝寺』と、右側の守山城址』の石碑がある場所の中間の光景です。この辺りは竹林でした。

  • この後紹介する、『守山城址』の石碑がある場所への登り口です。地形的には、この付近で一番高い場所になります。

    この後紹介する、『守山城址』の石碑がある場所への登り口です。地形的には、この付近で一番高い場所になります。

  • 『守山城址』の石碑がある場所への登り口の上から眺めた光景です。

    『守山城址』の石碑がある場所への登り口の上から眺めた光景です。

  • 『守山城址』の石碑がある場所と、その南側に当たる左側の宝勝寺の間の地形の光景です。相当の段差がありました。

    『守山城址』の石碑がある場所と、その南側に当たる左側の宝勝寺の間の地形の光景です。相当の段差がありました。

  • 大正5年(1916年)に、愛知県によって建てられた『守山城址』の石碑です。この守山城は『信長公記』をはじめ、古くから様々な文献に登場しています。しかし、城郭域を示す古文書(絵図)が残されていませんから、城郭の規模や様相はよく分かっていません。主な説には、現在の宝勝寺を中心とした説と、この城址碑がある場所を本丸とする二つがあります。

    大正5年(1916年)に、愛知県によって建てられた『守山城址』の石碑です。この守山城は『信長公記』をはじめ、古くから様々な文献に登場しています。しかし、城郭域を示す古文書(絵図)が残されていませんから、城郭の規模や様相はよく分かっていません。主な説には、現在の宝勝寺を中心とした説と、この城址碑がある場所を本丸とする二つがあります。

  • 同じく、愛知県によって建てられた『守山城址』の石碑の周りの光景です。地形から言って、守山城の『本丸』があった場所と比定するのが自然な場所です。残念ながら、発掘調査は行われていないようです。

    イチオシ

    同じく、愛知県によって建てられた『守山城址』の石碑の周りの光景です。地形から言って、守山城の『本丸』があった場所と比定するのが自然な場所です。残念ながら、発掘調査は行われていないようです。

  • 先にも紹介しましたが、『守山城址』の石碑がある場所と、その南側に当たる左側の宝勝寺の間の地形の光景です。竹林の中に堀址らしい光景がありました。

    先にも紹介しましたが、『守山城址』の石碑がある場所と、その南側に当たる左側の宝勝寺の間の地形の光景です。竹林の中に堀址らしい光景がありました。

  • 同じく、『守山城址』の石碑がある場所と、その南側に当たる『宝勝寺』の間の地形の光景です。竹林の中の堀址らしい光景です。

    同じく、『守山城址』の石碑がある場所と、その南側に当たる『宝勝寺』の間の地形の光景です。竹林の中の堀址らしい光景です。

  • 『守山城址』の石碑がある場所の見学を終えて、同じ道を通って平地に下りました。『守山城址』がある場所が標高27メートル、『宝勝寺』の場所とは、比高2メートルほどの差があるようです。

    『守山城址』の石碑がある場所の見学を終えて、同じ道を通って平地に下りました。『守山城址』がある場所が標高27メートル、『宝勝寺』の場所とは、比高2メートルほどの差があるようです。

  • 『守山城址』の石碑があった場所の見学を終えて、次に向かったのは、その北側です。北側から眺めた、『守山城址』の石碑があった場所の光景です。

    『守山城址』の石碑があった場所の見学を終えて、次に向かったのは、その北側です。北側から眺めた、『守山城址』の石碑があった場所の光景です。

  • 先ほどの写真を撮った、『守山城址』の石碑があった場所の北側に当たる駐車場脇の光景です。カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)が満開でした。

    先ほどの写真を撮った、『守山城址』の石碑があった場所の北側に当たる駐車場脇の光景です。カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)が満開でした。

  • 『守山城址』の石碑があった場所の北側方面の見学の後、更に反時計回りに進んで、『守山城址』の西側方面に向かいました。

    『守山城址』の石碑があった場所の北側方面の見学の後、更に反時計回りに進んで、『守山城址』の西側方面に向かいました。

  • 『守山城址』の石碑があった場所西側から眺めた、矢田川方面の光景です。この場所が、高台であることが実感できました。

    『守山城址』の石碑があった場所西側から眺めた、矢田川方面の光景です。この場所が、高台であることが実感できました。

  • 同じく、『守山城址』の石碑があった場所西側から眺めた、矢田川方面の光景です。守山城の廃城後の明和4年(1767年)、守山城址の南を流れる矢田川の氾濫による流路変更が、その後の城域の特定に少なからず影響を与えたようです。

    同じく、『守山城址』の石碑があった場所西側から眺めた、矢田川方面の光景です。守山城の廃城後の明和4年(1767年)、守山城址の南を流れる矢田川の氾濫による流路変更が、その後の城域の特定に少なからず影響を与えたようです。

  • 『守山城址』の石碑があった場所西側の通りの光景です。矢田川に向かって、急傾斜地になっているようでした。

    『守山城址』の石碑があった場所西側の通りの光景です。矢田川に向かって、急傾斜地になっているようでした。

  • 『守山城址』の石碑がある場所と、その南側に当たる『宝勝寺』の間にある竹林の光景です。西側から眺めた光景です。

    『守山城址』の石碑がある場所と、その南側に当たる『宝勝寺』の間にある竹林の光景です。西側から眺めた光景です。

  • 同じく、『守山城址碑』がある場所と、その南側の『宝勝寺』の間にある竹林の光景です。空堀址らしい光景でした。

    同じく、『守山城址碑』がある場所と、その南側の『宝勝寺』の間にある竹林の光景です。空堀址らしい光景でした。

  • 『新修名古屋市史』に記されたこの空堀は、長さはおよそ100メートル、幅は4メートルと記されているようです。

    『新修名古屋市史』に記されたこの空堀は、長さはおよそ100メートル、幅は4メートルと記されているようです。

  • 『守山城址碑』がある場所と、その南側の『宝勝寺』の間にある竹林の紹介が続きます。『新修名古屋市史』ではこの空堀を根拠に、『守山城は一辺約100メートルの四角い形をした館型の城』と述べているようですが、これには強い異論がありました。

    イチオシ

    『守山城址碑』がある場所と、その南側の『宝勝寺』の間にある竹林の紹介が続きます。『新修名古屋市史』ではこの空堀を根拠に、『守山城は一辺約100メートルの四角い形をした館型の城』と述べているようですが、これには強い異論がありました。

  • 守山城址と宝勝寺の北側を散策していた時に目にした小さな社の光景です。地元で大切にされている社のようでした。

    守山城址と宝勝寺の北側を散策していた時に目にした小さな社の光景です。地元で大切にされている社のようでした。

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