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龍泉寺観音と龍泉寺城址の紹介です。本尊の馬頭観音には、伝教大師、最澄が多々羅池の畔でお経を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したとの言い伝えがあります。(ウィキペディア、龍泉寺観音関連サイト)

2016春、龍泉寺観音と龍泉寺城(4/4):山門、南側の参道、空堀址の探索、御嶽神社

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2016/05/24 - 2016/05/24

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旅人のくまさん

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龍泉寺観音と龍泉寺城址の紹介です。本尊の馬頭観音には、伝教大師、最澄が多々羅池の畔でお経を唱えると、龍が天に昇ると同時に馬頭観音が出現したとの言い伝えがあります。(ウィキペディア、龍泉寺観音関連サイト)

交通手段
私鉄
  • 幟で飾られた山門の光景です。今回の龍泉寺観音と龍泉寺城址の見学の締め括りに、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた『小牧・長久手の戦い』を紹介します。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれました。(同上)

    幟で飾られた山門の光景です。今回の龍泉寺観音と龍泉寺城址の見学の締め括りに、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた『小牧・長久手の戦い』を紹介します。尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれました。(同上)

  • 『小牧・長久手の戦い』は、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起き、全国規模の戦役でした。天正12年(1584年)3月21日、3万の軍勢を率いて秀吉は家康と戦うため西へ、27日に犬山城へ入りました。一方、家康は小牧山に陣を敷き、清洲、三河との連絡のため各地に砦を作り、小幡城を修復し本多広孝を配しました。(同上)

    『小牧・長久手の戦い』は、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起き、全国規模の戦役でした。天正12年(1584年)3月21日、3万の軍勢を率いて秀吉は家康と戦うため西へ、27日に犬山城へ入りました。一方、家康は小牧山に陣を敷き、清洲、三河との連絡のため各地に砦を作り、小幡城を修復し本多広孝を配しました。(同上)

  • 両軍の勢力は秀吉軍15万余人、対する家康軍は6万余人とされます。しかし家康は、この数の劣性を補うに十分の根来衆、雑賀衆を初め多くの忍びの者を擁していました。秀吉軍の池田信輝は、家康が小牧山に陣を敷いている隙に、家康の本拠地三河を攻め、家康を孤立する作戦を進言し、4月8日夜半、池田信輝、森長可、堀秀政、三好秀次らに率いられた軍勢2万余は楽田(愛知県小牧市)を出発しました。(同上)

    両軍の勢力は秀吉軍15万余人、対する家康軍は6万余人とされます。しかし家康は、この数の劣性を補うに十分の根来衆、雑賀衆を初め多くの忍びの者を擁していました。秀吉軍の池田信輝は、家康が小牧山に陣を敷いている隙に、家康の本拠地三河を攻め、家康を孤立する作戦を進言し、4月8日夜半、池田信輝、森長可、堀秀政、三好秀次らに率いられた軍勢2万余は楽田(愛知県小牧市)を出発しました。(同上)

  • 三河攻めに向かう秀吉軍の2万余は、庄内川龍泉寺下、上ノ瀬、中ノ瀬、下ノ瀬辺りを夜間に渡河しました。徳川軍の小幡城の本多広孝はいち早く情報を入手、家康隊は直ちに小幡城に夜間行軍で移動し、秀吉軍を分断する作戦に出ました。秀吉軍は、三好隊を白山林(守山区本地が丘他)に追撃、隙を付かれた三好軍は壊滅状態になり、9日午前4時頃に始まった戦いは約1時間で終結しました。(同上)

    三河攻めに向かう秀吉軍の2万余は、庄内川龍泉寺下、上ノ瀬、中ノ瀬、下ノ瀬辺りを夜間に渡河しました。徳川軍の小幡城の本多広孝はいち早く情報を入手、家康隊は直ちに小幡城に夜間行軍で移動し、秀吉軍を分断する作戦に出ました。秀吉軍は、三好隊を白山林(守山区本地が丘他)に追撃、隙を付かれた三好軍は壊滅状態になり、9日午前4時頃に始まった戦いは約1時間で終結しました。(同上)

  • 秀吉軍の三好隊は、長久手方面へ敗走、敗戦の報を聞いた池田信輝、森長可軍は、直ちに仏が根(愛知県長久手町)に陣を敷きますが、追走した家康側の井伊直正軍の鉄砲攻撃を受け、信輝、長可は討ち死、戦いはお昼頃には終結しました。夕刻4時頃家康隊は小幡城に戻り、この頃秀吉本体は犬山城を出て楽田城へ移動、一戦を交えるため長久手を目指していましたが、日が暮れ、龍泉寺城に入りました。(同上)

    秀吉軍の三好隊は、長久手方面へ敗走、敗戦の報を聞いた池田信輝、森長可軍は、直ちに仏が根(愛知県長久手町)に陣を敷きますが、追走した家康側の井伊直正軍の鉄砲攻撃を受け、信輝、長可は討ち死、戦いはお昼頃には終結しました。夕刻4時頃家康隊は小幡城に戻り、この頃秀吉本体は犬山城を出て楽田城へ移動、一戦を交えるため長久手を目指していましたが、日が暮れ、龍泉寺城に入りました。(同上)

  • 秀吉の龍泉寺城と、家康の小幡城の距離は2キロほど、秀吉は明朝の総攻撃を命じ、すぐさまの攻撃を躊躇しました。一方、小幡城に入った家康隊は情報戦で秀吉本体が龍泉寺城に入った事を確認しますと、素早く、僅かな兵を残して、夜陰に紛れ庄内川を渡河し、本陣の小牧城に帰還しました。(同上)

    秀吉の龍泉寺城と、家康の小幡城の距離は2キロほど、秀吉は明朝の総攻撃を命じ、すぐさまの攻撃を躊躇しました。一方、小幡城に入った家康隊は情報戦で秀吉本体が龍泉寺城に入った事を確認しますと、素早く、僅かな兵を残して、夜陰に紛れ庄内川を渡河し、本陣の小牧城に帰還しました。(同上)

  • 翌10日の朝、この事に気付いた秀吉は、真偽のほどはともかく、『罠にももちにもかけることができない。敵ながら天晴れ』と言ったとも伝わります。そして秀吉本隊も龍泉寺に火を放ち楽田城に引き上げました。秀吉は合戦から半年以上経った11月12日に、信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾しました。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は11月17日に三河に帰国しました。(同上)

    翌10日の朝、この事に気付いた秀吉は、真偽のほどはともかく、『罠にももちにもかけることができない。敵ながら天晴れ』と言ったとも伝わります。そして秀吉本隊も龍泉寺に火を放ち楽田城に引き上げました。秀吉は合戦から半年以上経った11月12日に、信雄に講和を申し入れ、信雄はこれを受諾しました。信雄が戦線を離脱し、戦争の大義名分を失ってしまった家康は11月17日に三河に帰国しました。(同上)

  • 『小牧・長久手の戦い』は、徳川家康と豊臣秀吉が直接対決した、唯一の戦いでした。龍泉寺城址の空堀などがないか散策した時の光景です。現在でも境内の周囲の一部には、『太閤堀(一夜堀)』と呼ばれる、秀吉が築いた空掘が残っているようです。(同上)

    『小牧・長久手の戦い』は、徳川家康と豊臣秀吉が直接対決した、唯一の戦いでした。龍泉寺城址の空堀などがないか散策した時の光景です。現在でも境内の周囲の一部には、『太閤堀(一夜堀)』と呼ばれる、秀吉が築いた空掘が残っているようです。(同上)

  • 同じく、龍泉寺城址の空堀などがないか散策した時の光景です。参道の東側方面の光景です。(同上)

    同じく、龍泉寺城址の空堀などがないか散策した時の光景です。参道の東側方面の光景です。(同上)

  • 参道の東側方面の光景です。これだけの段差がある崖ですと、空堀は必要ない地形に見えます。必要な空堀は参道とは直角方向です。(同上)

    参道の東側方面の光景です。これだけの段差がある崖ですと、空堀は必要ない地形に見えます。必要な空堀は参道とは直角方向です。(同上)

  • この辺りは、空堀址にも見える地形でしたが、確実なことは分かりませんでした。江戸時代の『尾張名所図会』の『後編第四巻春日井郡』の『龍泉寺』の図には、本堂裏手に『太閤岩』が描かれ、その右手の多宝塔の裏辺りに『秀吉公一夜堀跡』と記されています。多宝塔は現在の位置ではなく、仁王門に向かって右手に記されていました。現在の書院辺りのようです。(同上)

    この辺りは、空堀址にも見える地形でしたが、確実なことは分かりませんでした。江戸時代の『尾張名所図会』の『後編第四巻春日井郡』の『龍泉寺』の図には、本堂裏手に『太閤岩』が描かれ、その右手の多宝塔の裏辺りに『秀吉公一夜堀跡』と記されています。多宝塔は現在の位置ではなく、仁王門に向かって右手に記されていました。現在の書院辺りのようです。(同上)

  • 龍泉寺観音と龍泉寺城後の見学の後に立ち寄った、御嶽神社(みたけじんじゃ)の紹介です。(同上)

    龍泉寺観音と龍泉寺城後の見学の後に立ち寄った、御嶽神社(みたけじんじゃ)の紹介です。(同上)

  • 御嶽神社(みたけじんじゃ)の敷地と思われる範囲では一番大きな社ですが、名前は記されていませんでした。柱が細く、鉄材での補強が施されていました。(同上)

    御嶽神社(みたけじんじゃ)の敷地と思われる範囲では一番大きな社ですが、名前は記されていませんでした。柱が細く、鉄材での補強が施されていました。(同上)

  • 『龍泉寺御嶽神社』の由来が記された大きな石碑の光景です。昭和43年(1968年)10月に建てられたものでした。春日井郡吉根村の柴田某氏が、大先達に帰依して始まる縁起でした。(同上)

    『龍泉寺御嶽神社』の由来が記された大きな石碑の光景です。昭和43年(1968年)10月に建てられたものでした。春日井郡吉根村の柴田某氏が、大先達に帰依して始まる縁起でした。(同上)

  • 先に紹介した、江戸時代の『尾張名所図会』の『後編第四巻春日井郡』の『龍泉寺』の図には、三度の左下に多々良池跡が記されていました。『多々良』は、『たたら吹き』の日本の古式製鉄に通じます。ここに置かれている石には、『サザレ石』や、『壷石』と呼ばれる鉄鉱石を含むものもあるようです。(同上)

    先に紹介した、江戸時代の『尾張名所図会』の『後編第四巻春日井郡』の『龍泉寺』の図には、三度の左下に多々良池跡が記されていました。『多々良』は、『たたら吹き』の日本の古式製鉄に通じます。ここに置かれている石には、『サザレ石』や、『壷石』と呼ばれる鉄鉱石を含むものもあるようです。(同上)

  • 賽銭箱が置かれた、小さな社の光景です。『津島神社』の立札が置かれていました。愛知県津島市にある津島神社は、東海地方を中心に全国に約3千社ある津島神社・天王社の総本社です。建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿に祀ります。(同上)

    賽銭箱が置かれた、小さな社の光景です。『津島神社』の立札が置かれていました。愛知県津島市にある津島神社は、東海地方を中心に全国に約3千社ある津島神社・天王社の総本社です。建速須佐之男命を主祭神とし、大穴牟遅命(大国主)を相殿に祀ります。(同上)

  • 二つ並んだ小さな社の光景です。左の社の立札の文字は読めなくなってしまいましたが、右側には『火災除けの神さま。秋葉神社』の表示がありました。(同上)

    二つ並んだ小さな社の光景です。左の社の立札の文字は読めなくなってしまいましたが、右側には『火災除けの神さま。秋葉神社』の表示がありました。(同上)

  • これで、帰り道に立ち寄った、御嶽神社の紹介はおしまいです。御嶽神社(みたけじんじゃ)は、蔵王権現を祀った神社で、総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂です。(同上)

    これで、帰り道に立ち寄った、御嶽神社の紹介はおしまいです。御嶽神社(みたけじんじゃ)は、蔵王権現を祀った神社で、総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂です。(同上)

  • これで龍泉寺観音と、龍泉寺城址の見学はおしまいです。次回の見学は、寺宝館が開いている日曜日にする予定です。(同上)

    これで龍泉寺観音と、龍泉寺城址の見学はおしまいです。次回の見学は、寺宝館が開いている日曜日にする予定です。(同上)

  • 参道の南側入口にある『松洞山・龍泉寺』の立派な石標の光景です。赤いツツジの花で囲われていました。(同上)<br />(注記):この後のブログの文章は、『旅行の4トラベル』準公的処置(?)により、すべての文書と写真が繰り返し削除されました。その検閲されたらしい場所を伏字にし、写真も差し替えて再々度アップします。

    参道の南側入口にある『松洞山・龍泉寺』の立派な石標の光景です。赤いツツジの花で囲われていました。(同上)
    (注記):この後のブログの文章は、『旅行の4トラベル』準公的処置(?)により、すべての文書と写真が繰り返し削除されました。その検閲されたらしい場所を伏字にし、写真も差し替えて再々度アップします。

  • 付録として紹介する、『●●●●●●』の『●●●●●●●●●●』の『●●●』の説明文です。『●●●●●●』の紹介書き出しは、『●●●●●●●●●●●●●●●●●●』で始まっていました。(同上)

    付録として紹介する、『●●●●●●』の『●●●●●●●●●●』の『●●●』の説明文です。『●●●●●●』の紹介書き出しは、『●●●●●●●●●●●●●●●●●●』で始まっていました。(同上)

  • 『●●●●●●』の『●●●●●●●●●の『●●●』のタイトルの●●です。現在の●●●とはかなり違った●●の様子ですが、●●、●●と●●の大雑把な位置は、現在と変わっていないようです。●●の●●●寄りの裏手に●●と●●がある●●です。(同上)

    『●●●●●●』の『●●●●●●●●●の『●●●』のタイトルの●●です。現在の●●●とはかなり違った●●の様子ですが、●●、●●と●●の大雑把な位置は、現在と変わっていないようです。●●の●●●寄りの裏手に●●と●●がある●●です。(同上)

  • 『●●●●●●』の『●●●●●●●●●』の『●●●●●●●●』のタイトルの●●です。●●●と更にその先の眺望が、●●などを添えて紹介されていました。(同上)

    『●●●●●●』の『●●●●●●●●●』の『●●●●●●●●』のタイトルの●●です。●●●と更にその先の眺望が、●●などを添えて紹介されていました。(同上)

  • ●●●の公式HPから紹介する、現在の●●●です。(同上)<br />(注記) 4枚の写真は、すべて検閲により削除されましたが、最初の3枚は、国会図書館等で、広く公開されている古文書の写しです。4トラベルさんとして筋を通すなら、国に対して公開しないよう抗議すべきです。しかし、個人的には、正当な情報公開の流れに対し、著しく掉さすものと感じます。

    ●●●の公式HPから紹介する、現在の●●●です。(同上)
    (注記) 4枚の写真は、すべて検閲により削除されましたが、最初の3枚は、国会図書館等で、広く公開されている古文書の写しです。4トラベルさんとして筋を通すなら、国に対して公開しないよう抗議すべきです。しかし、個人的には、正当な情報公開の流れに対し、著しく掉さすものと感じます。

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