2016/11/18 - 2016/11/30
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旅人のくまさんさん
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現在の平針街道(姫街道)の街並み風景です。平針街道は、慶長1717年(1612年)、徳川家康の命により、岡崎から名古屋城への近道として造られました。この街道は、江戸時代の主街道の五街道の一つの東海道に対して、姫街道とも脇街道ともいわれました。(ウィキペディア、あいちのお城めぐり)
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東に向かって表示された、現在の愛知県道56号線と58号線の分岐点の道路標識です。更に221号線も合流しています。56号線は、名古屋城下の伝馬町から昭和区川名、天白区平針を経て日進・岡崎方面に向かいます。221号線は、島田地蔵寺を経由して、熱田神宮方面に向かう道路です。
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徳川家康の肝いりで、岡崎と名古屋城を結ぶ最短コースの街道として整備された岡崎街道の経路に平針があります。その街道脇に地元民を引っ越しさせて、『平針駅』が設けられました。その名残で、今も交通の要所となっています。
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イチオシ
かつての街道の分岐点に置かれている、『毛替地蔵』の石標と、金属製の社に納まった『地蔵尊』の光景です。辺りに公孫樹の黄葉が舞い散っていました。ここが熱田・お伊勢さんへ行く道と、名古屋城方面への分岐点です。
(付記)天白区役所編集の観光案内に、『石仏地蔵尊、施主近藤佐太郎・明和4年(1767年)2月に建立したもので、『追分地蔵』の呼び名があると紹介されていました。 -
『毛替地蔵』の文字が刻まれた石標の光景です。大泥棒の熊坂長範の逸話がある島田地蔵と関連がある名前です。広い通りを西南方向の左に行けば、その『毛替地蔵』がある島田地蔵尊ヘ向かいます。
(付記)天白区役所編集の観光案内に、『島田地蔵道の自然石の道標』、『名古屋市に合併した昭和30年には、田圃の畦道にあったが、区画整理のため一時小学校に保管され、その後区画整理が終わると現在の位置に戻された』、と紹介されていました。 -
台座はそのままで、金属製の社に置き換わった、『地蔵尊』のズームアップ光景です。その中がはっきりとは写りませんでしたが、地蔵尊が置かれています。その石像の右側には『なごや道』、左側には『みやいせ道』と刻まれています。『なごや道』が名古屋城方面、『みやいせ道』が熱田神宮とお伊勢さんを示しているようです。
(付記)天白区役所編集の観光案内に、『石仏地蔵尊・施主近藤佐太郎・明和4年(1767年)2月に建立』したもので、『追分地蔵』の呼び名があると紹介されていました。 -
幹線道路の真っただ中にある地蔵尊と石碑を守るように生えている銀杏の木です。黄葉がピークを過ぎ、葉を散らしていました。
(付記)天白区役所編集の観光案内に記された、『平針の街道』の紹介です。基本を『駿河街道』とし、江戸時代の古図には、次の三つの街道に分かれていたと解説されていました。
〇『挙母街道』:平針・浅田から右折
〇『飯田街道』:浅田を東へ、保見・足助へ
〇『平針街道』:南区呼続から平針まで -
平針西口の交差点光景です。今日の散策の目的は、ここを起点として、岡崎街道、別名平針街道の江戸時代の名残を探すことです。先ほどの『毛替地蔵』の石標と、金属製の社に納まった『地蔵尊と道路標識』がその手始めです。
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先ほど紹介した、『駿河海道』とも呼ばれた、『駿河街道』についての補足です。江戸時代、徳川家康が名古屋と駿河を往還するために拓かれた道とされます。名古屋側からは、名古屋城下伝馬町札の辻から、昭和区川名、天白区平針を経て岡崎の宇頭で東海道に至る街道です。現在の愛知県道56号名古屋岡崎線はこの路線を継承している部分が多いとされます。
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県道58号線を横断するところです。横断した先に、先ほど紹介した駿河街道の県道56号線が見えています。江戸時代には、すべて「駿河街道」の表記だったとされますが、明治期以降には『飯田街道』、『岡崎街道』、『平針街道』の呼び名の方が主流になりました。
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県道56号線に沿って少しだけ東に進んだ場所です。信号機のない通りが56号線と合流していました。これが『駿河街道』の旧道です。その角にある樹木が生い茂った場所を目指しています。旧道は、平針の宿場を通り、平針三丁目を越えて道なりに秋葉山の山裾を通り、愛知県道56号名古屋岡崎線に再合流します。
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先程前方に見えた、樹木がこんもりとした場所に到着しました。県道56号線側の木々の隙間から眺めた中の様子です。石碑や墓場が見えました。車が錯綜する、名古屋の街中に残された不思議な場所です。
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『東山古碑』の説明プレートです。少し拾い読みしますと、伝説か残っていませんが、仇討ちか何かで亡くなった人を憐れみ、村人が祀ったものと推測されていました。一基の石碑には『南無阿弥陀仏』もう一基には、『享保十五庚戌年』の文字が刻まれています。江戸時代の8代将軍徳川吉宗の時代の1730年の出来事です。
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こちらには、『長塚古碑』のタイトルがありました。日の文字は、南無阿弥陀仏と、正徳3年の日付です。紹介されている伝説は平安時代のことでしたが、正徳3年(1713年)とはあまりにかけ離れていました。エピソードの中の源義朝(1123~1160年)は、確かに平安時代末期の人です。碑の日付とは、600年の差があります。
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囲いの中に建つ古碑の光景です。三つの碑が建つ右側が『長塚古碑』、二つの碑が建つ左側が『東山古碑』です。二つの古碑ともに、別の場所からここに移設されたようですが、古碑の名前の由来については記されていませんでした。
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『東山古碑』のズームアップ光景です。右の石碑の『南無阿弥陀仏』は読み取れますが、左側は読み取れませんでした。日付は古碑の説明文を参照しました。
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地蔵尊を中央に、左右に『南無阿弥陀仏』の石碑が建つ『東山古碑』の光景です。『享保十五庚戌年9月十五日』の日付は、左端の石碑の南無阿弥陀仏の文字の左右に記されていました。
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車が錯綜する名古屋の街中に残された、不思議な場所から眺めた西方向の光景です。樹木はこの三角地を包むように周りに生えていました。
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『長塚古碑』と『東山古碑』が立つエリアと背中合わせになった場所は、墓地でした。右側に見える通りが、駿河街道、または姫街道とも呼ばれる旧道です。
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建てられて間がないような、立派な五輪塔などの光景です。同じ区画に二基の墓標もたっていました。『近藤家先祖代々之墓』です。下り藤の家紋でした。
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『先祖代々之墓』の文字だけで、加盟は記されていなかった墓碑です。ただし、下の方に家紋がありました。藤原氏を祖とする『藤紋』でした。
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色とりどりの生花が手向けられた、『近藤家之墓』です。墓石の中央に記されていたのは下り藤の紋でした。日本で一番多く使用されている家紋の一つとされます。
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真新しいお墓で、溢れるように花が飾られていました。『近藤家之墓』です。家紋は、同じく下り藤でした。
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『横地家之墓』です。この場所から近い、植田城址の城主は横地氏でした。植田城址は、文明3年(1471年)に横地太郎左衛門秀綱が築いたと伝わります。秀綱は、遠江の横地城の横地長秀の子で、室町将軍足利義政の命により植田城を築きました。8代の秀住頃に江戸期となり、植田城は廃城となったようです。その子孫の一人のようです。『亀甲に花菱』の紋がありました。大陸由来の紋とされ、家紋としては甲斐武田家が始めて使用したと伝わります。
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『横地家之墓』の墓誌です墓誌自体は新しいですが、。一番年代の古い方は、江戸時代の文久2年(1862年)、幕末期の日付がありました。
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しっかりとした台石の上に築かれていた、『須賀家之墓』です。初めて目にする丸に三つ割の家紋でした、須賀氏は、日本列島の東側に多くみられ、語源は、川海の砂地、すがすがしい所などからきているようです。
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かつての駿河街道に正面を向けたお墓の光景です。最前列は、右から『丸に沢潟紋』の清水家、『扇紋』の朝日家、『轡十字紋』の小島家のお墓です。
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二基とも『横地家之墓』です。横地氏は、遠江東部における最古の武士団とされます。横地氏の始祖・家長(家永)は、父は源氏の統領として名高い八幡太郎義家と伝わります。横地氏は、勝間田氏とともに室町幕府の尾張守護・斯波氏に通じて対今川戦の防備を固めたとされます。その頃に、横地城の横地長秀の子の秀綱が、室町将軍足利義政の命により植田城を築いたのかも知れません。
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イチオシ
『和合山碑』の文字が刻まれた石碑の光景です。『天白歴史探訪マップ・駿河街道(姫街道)・平針宿跡コース』から、説明文を紹介しておきます。『昭和初期、和合山から採掘した黄土を、平針の農民が前庭で乾燥し粉(当時の住宅の壁の仕上げ材)にして、名古屋に販売したという。平針地区の産業となっていた。採掘中の落盤により命を落とした坑夫の霊を慰る碑が建っている』殉職者の慰霊碑でした。
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中央部分に刻まれた大きな文字だけを紹介します。『奉納経大日本神社仏閣』らしい文字がありました。頭の梵語らしい文字と、末尾の方は読み取れませんでした。末尾に加藤某の名前が記されていました。江戸時代には、『神社仏閣大日本納経集』が出版されていますが、いわゆる御朱印帳でした。
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これで天白の名町中に残る古碑と地元に残る歴代のお墓の紹介はおしまいです。この後はかつての駿河街道、今は平針街道や媛街道と呼ばれている古道の紹介です。
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