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今川義元と織田信長が戦った桶狭間の古跡の一つ、今川義元が陣を構えた沓掛城址の紹介です。永禄3年(1560年)、約2万5千の大軍を率いた今川義元は、5月18日(新暦6月11日)、池鯉鮒(知立)を出立して沓掛城に入ったとされます。

2016秋、沓掛城と縁区のお寺(1/4):沓掛城址公園(1):侍屋敷、本丸、諏訪曲輪、内堀

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2016/10/15 - 2016/10/15

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

今川義元と織田信長が戦った桶狭間の古跡の一つ、今川義元が陣を構えた沓掛城址の紹介です。永禄3年(1560年)、約2万5千の大軍を率いた今川義元は、5月18日(新暦6月11日)、池鯉鮒(知立)を出立して沓掛城に入ったとされます。

交通手段
自家用車

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  • 『沓掛城址公園』の石碑です。豊明市による設置のようです。沓掛城は、『桶狭間の戦い』の前夜に今川義元が宿泊した城として知られています。初代城主は正中2年(1325年)の近藤宗光とされます。関ヶ原の戦いで敗れ、その年の慶長5年(1600年)に廃城となりました。愛知県指定の史跡です。

    『沓掛城址公園』の石碑です。豊明市による設置のようです。沓掛城は、『桶狭間の戦い』の前夜に今川義元が宿泊した城として知られています。初代城主は正中2年(1325年)の近藤宗光とされます。関ヶ原の戦いで敗れ、その年の慶長5年(1600年)に廃城となりました。愛知県指定の史跡です。

  • 『沓掛城址公園』の前から眺めた東方面の0光景です。中央奥に見える建物は、豊明高校です。この日は写真中間付近に見える街道を、左側になる北方面から車でやって来ました。

    『沓掛城址公園』の前から眺めた東方面の0光景です。中央奥に見える建物は、豊明高校です。この日は写真中間付近に見える街道を、左側になる北方面から車でやって来ました。

  • 『沓掛城址公園』には、無料の駐車場が整備されています。その使用上の注意事項です。豊明市の教育委員会名でした。

    『沓掛城址公園』には、無料の駐車場が整備されています。その使用上の注意事項です。豊明市の教育委員会名でした。

  • 『侍屋敷址』と想定されている現在の駐車場です。やって来た時にはがら空きでしたが、帰りの頃には5~6台が駐車していました。

    『侍屋敷址』と想定されている現在の駐車場です。やって来た時にはがら空きでしたが、帰りの頃には5~6台が駐車していました。

  • 『沓掛城址公園案内図』のタイトルがあった看板です。沓掛城の縄張りと、その説明が記されていました。城址公園として整備される前は、大部分が田畑、一部が山林だったようです。城址公園の広さは、約1万平方メートルです。桶狭間の戦い時点での沓掛城の縄張りは、もっと広かったように思われます。

    イチオシ

    『沓掛城址公園案内図』のタイトルがあった看板です。沓掛城の縄張りと、その説明が記されていました。城址公園として整備される前は、大部分が田畑、一部が山林だったようです。城址公園の広さは、約1万平方メートルです。桶狭間の戦い時点での沓掛城の縄張りは、もっと広かったように思われます。

  • 『沓懸城』のタイトルがあった、豊明市教育委員会名での石碑の光景です。正中2年(1325年)、初代城主の近藤宗光に始まり、桶狭間の戦いを経て、関ヶ原の戦いの後に廃城になるまでが略述してありました。

    『沓懸城』のタイトルがあった、豊明市教育委員会名での石碑の光景です。正中2年(1325年)、初代城主の近藤宗光に始まり、桶狭間の戦いを経て、関ヶ原の戦いの後に廃城になるまでが略述してありました。

  • 南側になる前方の石段は、『侍屋敷址』から『本丸跡』に移動する経路となり、その途中には堀が設けられていました。以前の発掘調査と沓掛村古城絵図を資料にした復元模型による縄張り図では、二の丸のほかに三の丸もあり、この堀が内堀で、更に外側に廻らされた外堀があったと想定されています。

    南側になる前方の石段は、『侍屋敷址』から『本丸跡』に移動する経路となり、その途中には堀が設けられていました。以前の発掘調査と沓掛村古城絵図を資料にした復元模型による縄張り図では、二の丸のほかに三の丸もあり、この堀が内堀で、更に外側に廻らされた外堀があったと想定されています。

  • 先程の石段を登る手前の右手方向の光景です。こちらも現在の駐車場と同じく、『侍屋敷址』と想定されています。左手に見える、樹が生い茂った一段高い場所は、この後紹介する『諏訪曲輪址』です。

    先程の石段を登る手前の右手方向の光景です。こちらも現在の駐車場と同じく、『侍屋敷址』と想定されています。左手に見える、樹が生い茂った一段高い場所は、この後紹介する『諏訪曲輪址』です。

  • 『侍屋敷址』と想定されている場所の光景です。一面の草原でしたが、イベントの前などには草刈りが行われるようです。

    『侍屋敷址』と想定されている場所の光景です。一面の草原でしたが、イベントの前などには草刈りが行われるようです。

  • 『侍屋敷址』から『本丸跡』に移動する経路となる石段の光景です。中央付近に見える柵は、堀の上に架かる橋の手摺りです。もちろん後代に造られたものです。

    『侍屋敷址』から『本丸跡』に移動する経路となる石段の光景です。中央付近に見える柵は、堀の上に架かる橋の手摺りです。もちろん後代に造られたものです。

  • 『本丸址』を取り囲む堀の上に架けられた橋の上から眺めた光景です。東側方面の『堀址』の光景です。古い絵図には、二重の堀の内堀として描かれていました。

    『本丸址』を取り囲む堀の上に架けられた橋の上から眺めた光景です。東側方面の『堀址』の光景です。古い絵図には、二重の堀の内堀として描かれていました。

  • 同じく、『本丸址』を取り囲む堀の上に架けられた橋の上からの光景です。西側方面の堀址の光景です。

    同じく、『本丸址』を取り囲む堀の上に架けられた橋の上からの光景です。西側方面の堀址の光景です。

  • 『本丸址』を取り囲む堀の上に架けられた橋の上からの光景です。出発地点の『侍屋敷址』方面になります。現在の駐車場です。

    『本丸址』を取り囲む堀の上に架けられた橋の上からの光景です。出発地点の『侍屋敷址』方面になります。現在の駐車場です。

  • 同じく、『本丸址』を取り囲む堀の上に架けられた橋の上からの光景です。出発地点の『侍屋敷址』の方面です。現在の駐車場になります。

    同じく、『本丸址』を取り囲む堀の上に架けられた橋の上からの光景です。出発地点の『侍屋敷址』の方面です。現在の駐車場になります。

  • 『本丸址』の光景です。北側から南側を眺めた光景です。『本丸址』は、このレベルよりもう一段低い、井戸址があるエリアも含まれます。

    『本丸址』の光景です。北側から南側を眺めた光景です。『本丸址』は、このレベルよりもう一段低い、井戸址があるエリアも含まれます。

  • 『堀跡』に架かる橋の光景です。渡った先は『諏訪曲輪址』になります。古い絵図では、二重堀の内堀として描かれていました。内堀が本丸の周りの堀です。

    イチオシ

    『堀跡』に架かる橋の光景です。渡った先は『諏訪曲輪址』になります。古い絵図では、二重堀の内堀として描かれていました。内堀が本丸の周りの堀です。

  • 『本丸跡』の東北方面の光景です。柵が設けられているのは、『本丸跡』を取り囲む内堀との境部分です。

    『本丸跡』の東北方面の光景です。柵が設けられているのは、『本丸跡』を取り囲む内堀との境部分です。

  • 『本丸跡』から『諏訪曲輪址』に移動する途中の橋の袂から眺めた石垣と塀の光景です。城跡公園に隣接する『慈光寺』の石垣と塀です。元々は、沓掛城の一部だった場所に建つお寺のようです。

    『本丸跡』から『諏訪曲輪址』に移動する途中の橋の袂から眺めた石垣と塀の光景です。城跡公園に隣接する『慈光寺』の石垣と塀です。元々は、沓掛城の一部だった場所に建つお寺のようです。

  • 『本丸址』から『諏訪曲輪址』に向かう登り道の光景です。『沓掛城址』の中では最も高い場所が『諏訪曲輪址』です。推測ですが、かつては、見張台があったかもしれません。

    『本丸址』から『諏訪曲輪址』に向かう登り道の光景です。『沓掛城址』の中では最も高い場所が『諏訪曲輪址』です。推測ですが、かつては、見張台があったかもしれません。

  • 沓掛城』の中では最も高い場所になる『諏訪曲輪址』の光景です。前方に見えるのは、西側方面の光景です。

    沓掛城』の中では最も高い場所になる『諏訪曲輪址』の光景です。前方に見えるのは、西側方面の光景です。

  • 『諏訪曲輪址』から眺めた、北側方面の光景です。駐車場の西側にあった『侍屋敷址』に下りる階段が眼下に見えていました。

    『諏訪曲輪址』から眺めた、北側方面の光景です。駐車場の西側にあった『侍屋敷址』に下りる階段が眼下に見えていました。

  • 『諏訪曲輪址』から眺めた、北東方面の光景です。樹々がなければ、もっと見晴らしが利く場所でした。左手奥に『侍屋敷址』、『内堀跡』を挟んで、右手奥に『本丸址』が見えていました。

    『諏訪曲輪址』から眺めた、北東方面の光景です。樹々がなければ、もっと見晴らしが利く場所でした。左手奥に『侍屋敷址』、『内堀跡』を挟んで、右手奥に『本丸址』が見えていました。

  • 『諏訪曲輪址』から眺めた、東方面の光景です。『本丸址』と『諏訪曲輪址』の間にある『内堀址』沿いの柵が見えていました。

    『諏訪曲輪址』から眺めた、東方面の光景です。『本丸址』と『諏訪曲輪址』の間にある『内堀址』沿いの柵が見えていました。

  • 『諏訪曲輪址』から眺めた、南側方面の光景です。右手方面に大きな瓦屋根が見えました。お寺の本堂です。

    イチオシ

    『諏訪曲輪址』から眺めた、南側方面の光景です。右手方面に大きな瓦屋根が見えました。お寺の本堂です。

  • 『諏訪曲輪址』から眺めた、お寺の本堂の光景です。この後、紹介する慈光寺です。古い絵図には、沓掛城の一部として記載されている場所です。かつての内堀と外堀の間に位置するようです。

    『諏訪曲輪址』から眺めた、お寺の本堂の光景です。この後、紹介する慈光寺です。古い絵図には、沓掛城の一部として記載されている場所です。かつての内堀と外堀の間に位置するようです。

  • 『諏訪曲輪址』の見学を終え、『本丸跡』に戻る途中の光景です。左手に見えていた、『諏訪曲輪址』の斜面の光景です。

    『諏訪曲輪址』の見学を終え、『本丸跡』に戻る途中の光景です。左手に見えていた、『諏訪曲輪址』の斜面の光景です。

  • 同じく、『諏訪曲輪址』の見学を終え、『本丸跡』に戻る途中の光景です。今度は右手に見えていた、慈光寺の石垣と石塀の光景です。

    同じく、『諏訪曲輪址』の見学を終え、『本丸跡』に戻る途中の光景です。今度は右手に見えていた、慈光寺の石垣と石塀の光景です。

  • 『本丸址』の光景です。一段高くなっている通路から眺めた、本丸址の井戸がある場所の光景です。

    『本丸址』の光景です。一段高くなっている通路から眺めた、本丸址の井戸がある場所の光景です。

  • 『本丸址』から眺めた西側方面の光景です。隣接する慈光寺の石垣と石塀、それと建物の光景です。後ほど紹介しますが、慈光寺の石碑には、『沓掛城址』の添え書きがありました。

    『本丸址』から眺めた西側方面の光景です。隣接する慈光寺の石垣と石塀、それと建物の光景です。後ほど紹介しますが、慈光寺の石碑には、『沓掛城址』の添え書きがありました。

  • 同じく、『本丸址』から眺めた西側方面の光景です。斜め前から眺めた、隣接する慈光寺の石垣と石塀、それと建物の光景です。

    同じく、『本丸址』から眺めた西側方面の光景です。斜め前から眺めた、隣接する慈光寺の石垣と石塀、それと建物の光景です。

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