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永青文庫で感慨に耽り、回遊式泉水庭園を巡り、かなりJAPANESE MINDが刺激されました。絵的に色が無く地味ですが、侘び寂びの世界に浸ろうと思います。<br /><br />さて、旅行記の主な部分を占める関口芭蕉庵とは・・<br /><br />江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677(延宝5)年から3~4年間この地に居住しました。<br />当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりです。<br />後の1726(享保11)年の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られました。1750(寛延3)年には芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」も建立されました。<br />また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。<br />1926(大正15)年には東京府(現:東京都)の史跡に指定され、芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立されました。<br />芭蕉庵にある建物は第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し現在のは戦後に復元されたものです。<br />現在では講談社・光文社・キングレコード(近隣の会社)らが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっています

関口台で200分 ~目指した 『信長からの手紙』 ~ 更に続く歴史散歩は侘び寂びの世界

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2015/02/21 - 2015/02/21

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PHOPHOCHANG

PHOPHOCHANGさん

永青文庫で感慨に耽り、回遊式泉水庭園を巡り、かなりJAPANESE MINDが刺激されました。絵的に色が無く地味ですが、侘び寂びの世界に浸ろうと思います。

さて、旅行記の主な部分を占める関口芭蕉庵とは・・

江戸時代を代表する俳人松尾芭蕉(1644~1694)が、2度目の江戸入りの後、1677(延宝5)年から3~4年間この地に居住しました。
当時、旧主筋の藤堂家が神田上水の改修工事を行っていて、芭蕉はこれにたずさわり、当地付近にあった「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んだといわれているのが関口芭蕉庵の始まりです。
後の1726(享保11)年の芭蕉の33回忌にあたる年に、「芭蕉堂」と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った建物が敷地に作られました。1750(寛延3)年には芭蕉の供養のために、芭蕉の真筆の短冊を埋めて作られた「さみだれ塚」も建立されました。
また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。
1926(大正15)年には東京府(現:東京都)の史跡に指定され、芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立されました。
芭蕉庵にある建物は第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し現在のは戦後に復元されたものです。
現在では講談社・光文社・キングレコード(近隣の会社)らが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっています

旅行の満足度
3.0
同行者
一人旅
交通手段
徒歩

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  • 旧細川家の庭園だった新江戸川公園を出た所にこんな詰め所みたいなのが在りました。今では使われてないようですが

    旧細川家の庭園だった新江戸川公園を出た所にこんな詰め所みたいなのが在りました。今では使われてないようですが

  • その細い路地を挟んだ向かいにこんな案内板。どうも見慣れ無い地名ばかり

    その細い路地を挟んだ向かいにこんな案内板。どうも見慣れ無い地名ばかり

  • んでもって、坂です。関口台地ってくらいですから、とにもかくにも坂だらけ

    んでもって、坂です。関口台地ってくらいですから、とにもかくにも坂だらけ

  • 上った所にこんな宿舎風の建物。さっき永青文庫に向かう手前で見た和敬塾の裏かな?<br />で、『和敬塾というのは、公益財団法人和敬塾は、東京都文京区にある男子大学生のための学生寮です。<br />冷凍機メーカー・前川製作所の創立者でもある前川喜作氏が、日常の共同生活を通じて社会人としての知性と徳性を備えた人材を育成するため、昭和30(1955)年に設立しました(現理事長は前川正雄氏)。<br />文京区目白台7,000坪の敷地の中で、東寮・西寮・南寮・北寮・乾(いぬい)寮・巽(たつみ)寮の全6棟、約500人が共同生活を送っています。』 by HP<br />

    上った所にこんな宿舎風の建物。さっき永青文庫に向かう手前で見た和敬塾の裏かな?
    で、『和敬塾というのは、公益財団法人和敬塾は、東京都文京区にある男子大学生のための学生寮です。
    冷凍機メーカー・前川製作所の創立者でもある前川喜作氏が、日常の共同生活を通じて社会人としての知性と徳性を備えた人材を育成するため、昭和30(1955)年に設立しました(現理事長は前川正雄氏)。
    文京区目白台7,000坪の敷地の中で、東寮・西寮・南寮・北寮・乾(いぬい)寮・巽(たつみ)寮の全6棟、約500人が共同生活を送っています。』 by HP

  • これ何?なばなの里でも見た記憶が…

    これ何?なばなの里でも見た記憶が…

  • ミツマタって書かれてました。ホント三つ叉になってるね

    ミツマタって書かれてました。ホント三つ叉になってるね

  • 旧町名の案内板。シリーズで載せ続けてるのでコレも

    旧町名の案内板。シリーズで載せ続けてるのでコレも

  • 和敬塾についての説明板です。この施設の存在は初めて知りました。<br />本館は細川家第16代細川護立侯により昭和11(1936)年に建てられた、昭和初期の代表的華族邸宅です。詳しくはhttp://www.wakei.org/honkan/overview.html

    和敬塾についての説明板です。この施設の存在は初めて知りました。
    本館は細川家第16代細川護立侯により昭和11(1936)年に建てられた、昭和初期の代表的華族邸宅です。詳しくはhttp://www.wakei.org/honkan/overview.html

  • 奥までは行かれませんが、ちょっとだけ敷地内へ。団地みたい

    奥までは行かれませんが、ちょっとだけ敷地内へ。団地みたい

  • 学校っぽい

    学校っぽい

  • グルッと廻って反対側、永青文庫の通りから

    グルッと廻って反対側、永青文庫の通りから

  • さっきは永青文庫の中から新江戸川公園へと下ったので、この坂は下りてません。急だって話でしたが、ホントに

    さっきは永青文庫の中から新江戸川公園へと下ったので、この坂は下りてません。急だって話でしたが、ホントに

  • 下りて来ました

    下りて来ました

  • その名も胸突坂ですから

    その名も胸突坂ですから

  • 胸突坂説明板。<br />坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上がれない事から、江戸時代の人は急な坂にはこの名を付けました

    胸突坂説明板。
    坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上がれない事から、江戸時代の人は急な坂にはこの名を付けました

  • 下り切った角に芭蕉庵

    下り切った角に芭蕉庵

  • 芭蕉庵というと深川が有名ですよね。こちらの存在は今回来る事になって初めて知りました<br />

    芭蕉庵というと深川が有名ですよね。こちらの存在は今回来る事になって初めて知りました

  • 内部の案内図。番号の付いてるのは全部撮影しときます

    内部の案内図。番号の付いてるのは全部撮影しときます

  • 入ってみます。まず左手に芭蕉庵

    入ってみます。まず左手に芭蕉庵

  • 更に奥へ

    更に奥へ

  • 竹林が在ります

    竹林が在ります

  • 細い竹

    細い竹

  • 太い竹

    太い竹

  • 朱楽菅江 狂歌辞世碑<br />『執着の心や<br />   娑婆に残るらん<br /> 吉野の桜<br />     更科の月』<br /><br />寛政11(1799)年

    朱楽菅江 狂歌辞世碑
    『執着の心や
       娑婆に残るらん
     吉野の桜
         更科の月』

    寛政11(1799)年

  • 石段を上がったところに何か在るようです

    石段を上がったところに何か在るようです

  • 芭蕉堂。<br />芭蕉翁33回忌の享保11(1726)年、木像が出来、ここに祀られました

    芭蕉堂。
    芭蕉翁33回忌の享保11(1726)年、木像が出来、ここに祀られました

  • 見られません

    見られません

  • また下ります。さっきの胸突坂に面しているくらいですから、斜面を利用してるんですね

    また下ります。さっきの胸突坂に面しているくらいですから、斜面を利用してるんですね

  • さみだれ塚。<br /><br />素道の弟子の馬光が中心となり、<br />『五月雨にかくれぬものや<br />        瀬田の橋』<br />の芭蕉の短冊を埋めて墓としたものです。<br /><br />寛延3(1750)年<br /><br />

    さみだれ塚。

    素道の弟子の馬光が中心となり、
    『五月雨にかくれぬものや
            瀬田の橋』
    の芭蕉の短冊を埋めて墓としたものです。

    寛延3(1750)年

  • 芭蕉翁之墓

    芭蕉翁之墓

  • 池が在ります。あんまり水が綺麗そうではありません

    池が在ります。あんまり水が綺麗そうではありません

  • 庭園というより、自然って感じです

    庭園というより、自然って感じです

  • 伊藤松宇句碑。<br />『真中に富士<br />  聳えたり 国の春』<br /><br />昭和10(1935)年

    伊藤松宇句碑。
    『真中に富士
      聳えたり 国の春』

    昭和10(1935)年

  • また、ちょっとアップで

    また、ちょっとアップで

  • 芭蕉句碑。<br />『古池や<br />  蛙飛こむ<br />   水のをと』<br /><br />句碑の立てられたのは昭和48(1973)年ですが、文字は真筆だそうです

    芭蕉句碑。
    『古池や
      蛙飛こむ
       水のをと』

    句碑の立てられたのは昭和48(1973)年ですが、文字は真筆だそうです

  • ちょっとアップで

    ちょっとアップで

  • 芭蕉庵だからでしょうか?<br />しょぼい芭蕉(バナナ)の木

    芭蕉庵だからでしょうか?
    しょぼい芭蕉(バナナ)の木

  • 范石湖の碑。<br />中国の范石湖の碑を石摺により再刻したものを田中光顕氏が立てました。<br /><br />明治22(1889)年

    范石湖の碑。
    中国の范石湖の碑を石摺により再刻したものを田中光顕氏が立てました。

    明治22(1889)年

  • 夜寒碑。<br />『二夜鳴く一夜は<br />  寒しきりぎりす』<br /><br />武玉川の撰者<br />四時庵慶紀逸の句碑<br /><br />宝暦3(1753)年

    夜寒碑。
    『二夜鳴く一夜は
      寒しきりぎりす』

    武玉川の撰者
    四時庵慶紀逸の句碑

    宝暦3(1753)年

  • 芭蕉庵から出ました。<br />神田川沿いの塀

    芭蕉庵から出ました。
    神田川沿いの塀

  • 胸突橋から真っ直ぐに神田川を渡る駒塚橋

    胸突橋から真っ直ぐに神田川を渡る駒塚橋

  • この辺りも桜並木

    この辺りも桜並木

  • 周囲は派手では有りませんが、色々な見所が在ります

    周囲は派手では有りませんが、色々な見所が在ります

  • こちらが正門ですが普段は閉まっています。出入りは胸突坂下の通用門から

    こちらが正門ですが普段は閉まっています。出入りは胸突坂下の通用門から

  • 芭蕉庵の説明板

    芭蕉庵の説明板

  • この塀に沿って歩くと椿山荘が在ります。<br /><br />行ってみようかな♪

    この塀に沿って歩くと椿山荘が在ります。

    行ってみようかな♪

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