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カナウス城の紹介です。戦略上、重要な地点として13世紀には石造りの砦が築かれていました。1410年に騎士団に勝利したことで、砦の役目を終え、居住用として使われた時代もありました。17世紀にロシアとの戦いで破壊されましたが、歴史的価値が見直され、20世紀に入り再び修復作業が始まりました。その後に歩いて移動し、旧市庁舎広場と今は結婚登記所として使われている旧市街・庁舎を見学しました。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

2012秋、バルト三国旅行記(34/40):10月12日(11):リトアニア、カウナス城、カウナス旧市街・広場

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2012/10/09 - 2012/10/14

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

カナウス城の紹介です。戦略上、重要な地点として13世紀には石造りの砦が築かれていました。1410年に騎士団に勝利したことで、砦の役目を終え、居住用として使われた時代もありました。17世紀にロシアとの戦いで破壊されましたが、歴史的価値が見直され、20世紀に入り再び修復作業が始まりました。その後に歩いて移動し、旧市庁舎広場と今は結婚登記所として使われている旧市街・庁舎を見学しました。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

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  • カウナスの町の歴史は、少なくとも10世紀 まで遡ることができるようです。カウナス城は、13世紀にチュートン騎士団(ドイツ騎士団)による侵略を防ぐために築かれました。カウナスの旧市街の北西部に位置します。((同上)<br />*カウナスの街は、ネムナス川とネリス川の合流地点に築かれました。写真の川は、カウナス城の北側を流れるネリス川のようです。

    カウナスの町の歴史は、少なくとも10世紀 まで遡ることができるようです。カウナス城は、13世紀にチュートン騎士団(ドイツ騎士団)による侵略を防ぐために築かれました。カウナスの旧市街の北西部に位置します。((同上)
    *カウナスの街は、ネムナス川とネリス川の合流地点に築かれました。写真の川は、カウナス城の北側を流れるネリス川のようです。

  • ネリス川らしい川に架かる橋を渡ってカウナス城に向かいました。『城の北側を流れるネリス川を天然の水堀として利用し、他の三方を濠で取り囲んだ、いわゆる梯郭式の縄張りだった』とするネット記事もありました。城跡の東側から南側にかけて大規模な空堀跡が残っています。現存する文書で、最初にカウナスが登場するのは、1361年 のこととされます。(同上)

    ネリス川らしい川に架かる橋を渡ってカウナス城に向かいました。『城の北側を流れるネリス川を天然の水堀として利用し、他の三方を濠で取り囲んだ、いわゆる梯郭式の縄張りだった』とするネット記事もありました。城跡の東側から南側にかけて大規模な空堀跡が残っています。現存する文書で、最初にカウナスが登場するのは、1361年 のこととされます。(同上)

  • カウナス城の公式サイトからの紹介です。リトアニア語を日本語自動翻訳翻訳できました。『14世紀のカウナス城は、カウナスのもっとも古い暦的建造物であり、リトアニアで最も古いレンガ造りの城の一つです。城の塔の復原されたスペースには、城の歴史に捧げられた展覧会が』があることが紹介されていました。(同上)<br />*先ほどの写真に見えていたように、カウナス城は左手方面です。

    カウナス城の公式サイトからの紹介です。リトアニア語を日本語自動翻訳翻訳できました。『14世紀のカウナス城は、カウナスのもっとも古い暦的建造物であり、リトアニアで最も古いレンガ造りの城の一つです。城の塔の復原されたスペースには、城の歴史に捧げられた展覧会が』があることが紹介されていました。(同上)
    *先ほどの写真に見えていたように、カウナス城は左手方面です。

  • シルエット気味の暗くなった写真になってしまいましたが、『カウナス城』の光景です。1363年に、ドイツ騎士団に占領され破壊されましたが、15世紀初頭のヴィタウタス大公の時代になって再建されました。しかし、1410年のジャルギリスの戦いで、チュートン騎士団(ドイツ騎士団)に勝利した後は、城としての重要性がなくなり、外賓を接客する際などに使われました。(同上)

    シルエット気味の暗くなった写真になってしまいましたが、『カウナス城』の光景です。1363年に、ドイツ騎士団に占領され破壊されましたが、15世紀初頭のヴィタウタス大公の時代になって再建されました。しかし、1410年のジャルギリスの戦いで、チュートン騎士団(ドイツ騎士団)に勝利した後は、城としての重要性がなくなり、外賓を接客する際などに使われました。(同上)

  • 『カウナス城』の尖塔のズームアップ光景です。塔の中間部辺りに、模様と色合いが異なる部分がありますが、下側が残されていた遺跡部分、上側が再建された部分になるようです。ネット写真で、再建前の写真を見ることが出来ました。また、塔の最下部付近は、石積みの部分が見えていました。右手部分に塔の入口があります。(同上)

    『カウナス城』の尖塔のズームアップ光景です。塔の中間部辺りに、模様と色合いが異なる部分がありますが、下側が残されていた遺跡部分、上側が再建された部分になるようです。ネット写真で、再建前の写真を見ることが出来ました。また、塔の最下部付近は、石積みの部分が見えていました。右手部分に塔の入口があります。(同上)

  • 少し離れた場所から眺めた、尖塔部分の全景です。13世紀にはドイツ騎士団の攻撃から街を守るためにカウナスの町には、城壁が造られたようです。1408年、マクデブルク法による特許を得て以後、重要な川港を擁する交易の中心地として発展を始めました。1441年、ハンザ同盟の都市となり、同盟の商業事務所が置かれました。16世紀、リトアニア大公国の元で街は大きく発展しました。(同上)

    少し離れた場所から眺めた、尖塔部分の全景です。13世紀にはドイツ騎士団の攻撃から街を守るためにカウナスの町には、城壁が造られたようです。1408年、マクデブルク法による特許を得て以後、重要な川港を擁する交易の中心地として発展を始めました。1441年、ハンザ同盟の都市となり、同盟の商業事務所が置かれました。16世紀、リトアニア大公国の元で街は大きく発展しました。(同上)

  • カウナス城の軍事的役割は終わりましたので、次はカウナスの街の歴史の紹介です。17世紀から18世紀に掛けて、ロシア、スウェーデン、ナポレオン軍などの侵攻を受け、また疫病の流行などもあって街は荒廃しました。1862年、ロシアとドイツを結ぶ鉄道が開通すると、カウナスは重要な中継地点となり、1892年には最初の発電所が稼働を始めました。(同上)<br />

    カウナス城の軍事的役割は終わりましたので、次はカウナスの街の歴史の紹介です。17世紀から18世紀に掛けて、ロシア、スウェーデン、ナポレオン軍などの侵攻を受け、また疫病の流行などもあって街は荒廃しました。1862年、ロシアとドイツを結ぶ鉄道が開通すると、カウナスは重要な中継地点となり、1892年には最初の発電所が稼働を始めました。(同上)

  • 1862年、ロシアとドイツを結ぶ鉄道が開通すると、カウナスは重要な中継地点となり、1892年には最初の発電所が稼働を始めました。1919年、それまで首都であったヴィリニュスがロシアに占領されると、リトアニア政府はこの街に移転しました。そして翌1920年、ヴィリニュスがポーランドに併合されると、カウナスは臨時に首都となりました。ただし、憲法上はヴィリニュスが首都とされました。(同上)

    イチオシ

    1862年、ロシアとドイツを結ぶ鉄道が開通すると、カウナスは重要な中継地点となり、1892年には最初の発電所が稼働を始めました。1919年、それまで首都であったヴィリニュスがロシアに占領されると、リトアニア政府はこの街に移転しました。そして翌1920年、ヴィリニュスがポーランドに併合されると、カウナスは臨時に首都となりました。ただし、憲法上はヴィリニュスが首都とされました。(同上)

  • カナウス城の博物館には入場はしませんでしたから、カナウス城の紹介はここまでです。カウナス市の歴史紹介は続きます。それから第二次世界大戦までの間、カウナスはリトアニア最大の都市として、工業的にも発展しました。大戦が始るとリトアニアを含むバルト三国はポーランド東部と共にソ連に占領されましたが、間もなくドイツ軍が侵攻して来て、街は破壊されました。(同上)

    カナウス城の博物館には入場はしませんでしたから、カナウス城の紹介はここまでです。カウナス市の歴史紹介は続きます。それから第二次世界大戦までの間、カウナスはリトアニア最大の都市として、工業的にも発展しました。大戦が始るとリトアニアを含むバルト三国はポーランド東部と共にソ連に占領されましたが、間もなくドイツ軍が侵攻して来て、街は破壊されました。(同上)

  • リトアニアは、第二次大戦後はソ連の一部となり、再び工業が盛んになりました。カウナスは、リトアニアの工業生産の四分の一を担うまでになり、1966年にはトロリーバスが開通しました。1991年、ソ連の崩壊に先立ってリトアニアが独立すると、カウナスもその一部となり現在に至っています。(同上)

    リトアニアは、第二次大戦後はソ連の一部となり、再び工業が盛んになりました。カウナスは、リトアニアの工業生産の四分の一を担うまでになり、1966年にはトロリーバスが開通しました。1991年、ソ連の崩壊に先立ってリトアニアが独立すると、カウナスもその一部となり現在に至っています。(同上)

  • 現在、カウナスの市民は、多くはリトアニア人です。ただし、かつて19世紀において、リトアニア人の割合はわずか 6.6 % に過ぎませんでした。因みに、2001年のカウナス市の人口は約38万人、その内訳は、リトアニア人:92.9%、ロシア人:4.4%、ウクライナ人:0.5%、ポーランド人:0.4%、その他:1.8%です。1939年時点では25%を占めたユダヤ人が激減していました。(同上)<br />

    現在、カウナスの市民は、多くはリトアニア人です。ただし、かつて19世紀において、リトアニア人の割合はわずか 6.6 % に過ぎませんでした。因みに、2001年のカウナス市の人口は約38万人、その内訳は、リトアニア人:92.9%、ロシア人:4.4%、ウクライナ人:0.5%、ポーランド人:0.4%、その他:1.8%です。1939年時点では25%を占めたユダヤ人が激減していました。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その1):リトアニアにおけるホロコーストは、ナチス・ドイツ占領下のリトアニア(1941~1944年)でも起きました。ホロコーストは、『焼かれた生け贄』という意味のギリシャ語を語源とするユダヤ人虐殺のことです。第二次世界大戦中の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)率いるドイツ国がユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺です。(同上)

    『リトアニアにおけるホロコースト(その1):リトアニアにおけるホロコーストは、ナチス・ドイツ占領下のリトアニア(1941~1944年)でも起きました。ホロコーストは、『焼かれた生け贄』という意味のギリシャ語を語源とするユダヤ人虐殺のことです。第二次世界大戦中の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)率いるドイツ国がユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺です。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その2):リトアニアでは、およそ20万8000人から21万人いたリトアニア・ユダヤ人のうち、19万5千人~19万6千人が犠牲となり、ほとんどが1941年6月~12月の間に殺害されました。またリトアニア・ユダヤ人以外にも、ヴィリニュスのポーランド・ユダヤ人やポーランドからの亡命者、西欧諸国からリトアニアに移送されたユダヤ人も犠牲となりました。(同上)

    『リトアニアにおけるホロコースト(その2):リトアニアでは、およそ20万8000人から21万人いたリトアニア・ユダヤ人のうち、19万5千人~19万6千人が犠牲となり、ほとんどが1941年6月~12月の間に殺害されました。またリトアニア・ユダヤ人以外にも、ヴィリニュスのポーランド・ユダヤ人やポーランドからの亡命者、西欧諸国からリトアニアに移送されたユダヤ人も犠牲となりました。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その3):リトアニア・ユダヤ人以外では、合わせて数万人が殺害され、犠牲者にはユダヤ人以外の者も含まれます。短期間にこれほど多くの命が失われた例は、リトアニア史上ほかにないとも指摘されます。ホロコーストはドイツ本国だけでなく、ドイツが占領したポーランド等の東欧諸国のほか、ソヴィエト西部などでも起き、リトアニアもそこに含まれます。(同上)

    『リトアニアにおけるホロコースト(その3):リトアニア・ユダヤ人以外では、合わせて数万人が殺害され、犠牲者にはユダヤ人以外の者も含まれます。短期間にこれほど多くの命が失われた例は、リトアニア史上ほかにないとも指摘されます。ホロコーストはドイツ本国だけでなく、ドイツが占領したポーランド等の東欧諸国のほか、ソヴィエト西部などでも起き、リトアニアもそこに含まれます。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その4):リトアニアはナチス・ドイツに占領される前の年に、ソヴィエト政権に併合されていましたが、ナチス・ドイツはこうしたソヴィエト併合の原因はユダヤ人のせいであったとして彼らを非難し、リトアニア人の反ユダヤ主義を煽り立てていきました。(同上)<br />*写真は、カウナス旧市街の北西端付近の光景です。

    『リトアニアにおけるホロコースト(その4):リトアニアはナチス・ドイツに占領される前の年に、ソヴィエト政権に併合されていましたが、ナチス・ドイツはこうしたソヴィエト併合の原因はユダヤ人のせいであったとして彼らを非難し、リトアニア人の反ユダヤ主義を煽り立てていきました。(同上)
    *写真は、カウナス旧市街の北西端付近の光景です。

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その5):また、ナチス占領政権がユダヤ人虐殺を計画、準備、実行するにあたりリトアニア人を利用していた点も、ホロコーストを理解する上で重要な要素の一つとされます。ホロコーストの社会的背景の説明です。1940年、ソ連がリトアニアに侵攻、併合しました。翌年6月22日、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始し、ソ連に侵攻、独ソ戦が始まりました。(同上)

    『リトアニアにおけるホロコースト(その5):また、ナチス占領政権がユダヤ人虐殺を計画、準備、実行するにあたりリトアニア人を利用していた点も、ホロコーストを理解する上で重要な要素の一つとされます。ホロコーストの社会的背景の説明です。1940年、ソ連がリトアニアに侵攻、併合しました。翌年6月22日、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始し、ソ連に侵攻、独ソ戦が始まりました。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その6):ナチス・ドイツは、リトアニア人からは解放軍として歓迎され、ソ連と戦っていた非正規民兵からの支持を集めました。リトアニア人の多くは、ドイツによってリトアニアの再独立が認められると信じていいました。そのためナチス・ドイツが展開していた反ユダヤ主義政策に同調する者もいました。(同上)

    『リトアニアにおけるホロコースト(その6):ナチス・ドイツは、リトアニア人からは解放軍として歓迎され、ソ連と戦っていた非正規民兵からの支持を集めました。リトアニア人の多くは、ドイツによってリトアニアの再独立が認められると信じていいました。そのためナチス・ドイツが展開していた反ユダヤ主義政策に同調する者もいました。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その7):攻撃を開始したその日の内にリトアニアを制圧したナチス・ドイツは、こうした状況を利用し、リトアニア人行動主義戦線(LAF)にリトアニア臨時政府の樹立を認めました。スロヴァキアがナチスによって解放された後に『独立スロヴァキア』として独立が認められたこともあり、当初ナチスはリトアニアに自治権を与えるものと思われていました。(同上)

    『リトアニアにおけるホロコースト(その7):攻撃を開始したその日の内にリトアニアを制圧したナチス・ドイツは、こうした状況を利用し、リトアニア人行動主義戦線(LAF)にリトアニア臨時政府の樹立を認めました。スロヴァキアがナチスによって解放された後に『独立スロヴァキア』として独立が認められたこともあり、当初ナチスはリトアニアに自治権を与えるものと思われていました。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その8):その後、ドイツは支配を強めるようになり、1941年8月から9月頃にはより独立志向の強いリトアニア人団体は解散させられました。リトアニアでのホロコーストの歴史は三つの段階に分けられています。第1段階が、は1941年の夏からその年の末まで、第2段階が、1941年12月から1943年3月まで、最後が1943年4月から1944年7月中旬までです。(同上)

    『リトアニアにおけるホロコースト(その8):その後、ドイツは支配を強めるようになり、1941年8月から9月頃にはより独立志向の強いリトアニア人団体は解散させられました。リトアニアでのホロコーストの歴史は三つの段階に分けられています。第1段階が、は1941年の夏からその年の末まで、第2段階が、1941年12月から1943年3月まで、最後が1943年4月から1944年7月中旬までです。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その9):ドイツの行動部隊(アインザッツグルッペン)は、ドイツ陸軍部隊の進軍に連れてユダヤ人を組織的に殺害しました。ドイツが占領して数ヶ月経った1941年末までに、リトアニア・ユダヤ人の多くが殺されました。約8万人のユダヤ人が10月までに殺され、そして年末までに約17万5千人が殺害されました。これがリトアニアでのホロコーストの第1段階です。(同上)

    『リトアニアにおけるホロコースト(その9):ドイツの行動部隊(アインザッツグルッペン)は、ドイツ陸軍部隊の進軍に連れてユダヤ人を組織的に殺害しました。ドイツが占領して数ヶ月経った1941年末までに、リトアニア・ユダヤ人の多くが殺されました。約8万人のユダヤ人が10月までに殺され、そして年末までに約17万5千人が殺害されました。これがリトアニアでのホロコーストの第1段階です。(同上)

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その10):リトアニア・ユダヤ人の大半は居住地の近くで射殺されるなどしました。カウナス近郊の第9要塞やヴィリニュス近郊のポナリの森などで起きた大量が知られています。1942年の段階で4万5千人のユダヤ人が生き残り、その多くはゲットーや収容所へ送られました。これがリトアニアのホロコーストの第2段階です』(同上)、写真はベルナディン修道院です。

    『リトアニアにおけるホロコースト(その10):リトアニア・ユダヤ人の大半は居住地の近くで射殺されるなどしました。カウナス近郊の第9要塞やヴィリニュス近郊のポナリの森などで起きた大量が知られています。1942年の段階で4万5千人のユダヤ人が生き残り、その多くはゲットーや収容所へ送られました。これがリトアニアのホロコーストの第2段階です』(同上)、写真はベルナディン修道院です。

  • 『リトアニアにおけるホロコースト(その11):ドイツ経済のためにユダヤ人に強制労働させるようになり、以前ほど虐殺は行われなくなりましたが、1943年4月から1944年7月中旬にかけてはゲットーや収容所は解体され、ユダヤ人虐殺は再びナチスの優先事項となりました。リトアニア・ユダヤ人の虐殺が短期間のうちに実行された背景には、二つの要因が考えられます。一つはリトアニア人住民がリトアニアの「脱ユダヤ化」を後押ししたこと、そしてもう一つはドイツによるリトアニアの植民地化計画の存在です。この計画が存在したために、リトアニア・ユダヤ人コミュニティの絶滅政策が優先的に行われることとなりました。自国民の関わりを含めて、今日まで議論が続いているリトアニアのホロコースト問題です。(以上)<br />*写真は、旧市街・広場に立つ、市庁舎です。

    『リトアニアにおけるホロコースト(その11):ドイツ経済のためにユダヤ人に強制労働させるようになり、以前ほど虐殺は行われなくなりましたが、1943年4月から1944年7月中旬にかけてはゲットーや収容所は解体され、ユダヤ人虐殺は再びナチスの優先事項となりました。リトアニア・ユダヤ人の虐殺が短期間のうちに実行された背景には、二つの要因が考えられます。一つはリトアニア人住民がリトアニアの「脱ユダヤ化」を後押ししたこと、そしてもう一つはドイツによるリトアニアの植民地化計画の存在です。この計画が存在したために、リトアニア・ユダヤ人コミュニティの絶滅政策が優先的に行われることとなりました。自国民の関わりを含めて、今日まで議論が続いているリトアニアのホロコースト問題です。(以上)
    *写真は、旧市街・広場に立つ、市庁舎です。

  • 正面から眺めた、市庁舎の尖塔光景です。16世紀に建設されましたが、当時の白い外装と、とんがり帽のような尖塔の姿から『白鳥(White Swan)』と呼ばれています。カウナスで最も美しい建物といわれてますが、リトアニア臨時政府が置かれていたときには、政権の中枢として、また、シアターや消防署、ロシア人クラブ、収容所などリトアニアが歩んだ歴史とともに様々な用途で使用されました。現在は結婚登記所、セラミック博物館となっています。カウナス城見学の時に出会った新婚さんのグループは、この建物に用事があったようです。(同上)

    正面から眺めた、市庁舎の尖塔光景です。16世紀に建設されましたが、当時の白い外装と、とんがり帽のような尖塔の姿から『白鳥(White Swan)』と呼ばれています。カウナスで最も美しい建物といわれてますが、リトアニア臨時政府が置かれていたときには、政権の中枢として、また、シアターや消防署、ロシア人クラブ、収容所などリトアニアが歩んだ歴史とともに様々な用途で使用されました。現在は結婚登記所、セラミック博物館となっています。カウナス城見学の時に出会った新婚さんのグループは、この建物に用事があったようです。(同上)

  • 『白鳥(White Swan)』と呼ばれている市庁舎の尖塔の上部のズームアップ光景です。白色のゴチック様式の建物です。過去には、リトアニアが帝政ロシア領になったときは、政治犯の牢獄として、その後は皇帝の別宅としても使われたことがある建物です。また、古い地下室は、現代作家の陶器博物館として利用されています。最上階からの見晴らしがよさそうです。(同上)

    イチオシ

    『白鳥(White Swan)』と呼ばれている市庁舎の尖塔の上部のズームアップ光景です。白色のゴチック様式の建物です。過去には、リトアニアが帝政ロシア領になったときは、政治犯の牢獄として、その後は皇帝の別宅としても使われたことがある建物です。また、古い地下室は、現代作家の陶器博物館として利用されています。最上階からの見晴らしがよさそうです。(同上)

  • イエズス会教会の建物のズームアップ光景です。イエズス会は、カトリック教会の男子修道会です。1534年、宗教改革に対抗して、イグナティウス・デ・ロヨラらによって結成されました。同会士ザビエルは日本へ初めてキリスト教を伝えるなど、アジアや新大陸をはじめとして世界各地で布教活動を行いました。(同上)

    イエズス会教会の建物のズームアップ光景です。イエズス会は、カトリック教会の男子修道会です。1534年、宗教改革に対抗して、イグナティウス・デ・ロヨラらによって結成されました。同会士ザビエルは日本へ初めてキリスト教を伝えるなど、アジアや新大陸をはじめとして世界各地で布教活動を行いました。(同上)

  • 市庁舎に向かって左側(南)に建っているイエズス会教会の建物です。1660年から1720年にかけて建てられたバロック様式のカトリック教会です。ソ連時代には、技術学校の体育館として使用されましたが、リトアニアの再独立により教会に戻されました。(同上)<br />

    市庁舎に向かって左側(南)に建っているイエズス会教会の建物です。1660年から1720年にかけて建てられたバロック様式のカトリック教会です。ソ連時代には、技術学校の体育館として使用されましたが、リトアニアの再独立により教会に戻されました。(同上)

  • さらにズームアップした、イエズス会教会の建物中央の尖塔光景です。イエズス会は、イグナティウス・デ・ロヨラを中心として、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルら7人によって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認されました。『イエズス』の呼び名は、中世ラテン語による『Iesus(イエス・キリスト)』の古くからのカトリックの日本語表記とされます。『ジェスイット(Jesuit)教団』や、『耶蘇会(やそかい)』とも呼ばれます。(同上)

    イチオシ

    さらにズームアップした、イエズス会教会の建物中央の尖塔光景です。イエズス会は、イグナティウス・デ・ロヨラを中心として、フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルら7人によって創設され、1540年にローマ教皇パウルス3世により承認されました。『イエズス』の呼び名は、中世ラテン語による『Iesus(イエス・キリスト)』の古くからのカトリックの日本語表記とされます。『ジェスイット(Jesuit)教団』や、『耶蘇会(やそかい)』とも呼ばれます。(同上)

  • 3本並んだ街路樹越しに眺めた、『旧市庁舎広場』方面の光景です。広場を取り巻くように、商店やレストラン、中小規模のホテルなどが並んでいるようでした。ネット情報の検索では、クリスマスなどのイベントでは大賑わいでした。(同上)

    3本並んだ街路樹越しに眺めた、『旧市庁舎広場』方面の光景です。広場を取り巻くように、商店やレストラン、中小規模のホテルなどが並んでいるようでした。ネット情報の検索では、クリスマスなどのイベントでは大賑わいでした。(同上)

  • 商店やレストラン、中小規模のホテルなどが並んでいるように見えた建物のズームアップ光景です。黄色からオレンジ、茶色など、落ち着いた色合いの街路光景でした。広場とは、道路で分離されていました。(同上)

    商店やレストラン、中小規模のホテルなどが並んでいるように見えた建物のズームアップ光景です。黄色からオレンジ、茶色など、落ち着いた色合いの街路光景でした。広場とは、道路で分離されていました。(同上)

  • リトアニアの首都のヴィリニュスは、『ヴィリニュス歴史地区』として1994年に世界遺産になりましたが、カウナスは『カウナス 1919~1939: 近代建築運動に触発された首都』、トラカイは『トラカイ国立公園』として、暫定リストにアップされていますが、まだ、世界遺産にとしては登録されていないようです。(同上)

    リトアニアの首都のヴィリニュスは、『ヴィリニュス歴史地区』として1994年に世界遺産になりましたが、カウナスは『カウナス 1919~1939: 近代建築運動に触発された首都』、トラカイは『トラカイ国立公園』として、暫定リストにアップされていますが、まだ、世界遺産にとしては登録されていないようです。(同上)

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