2012/10/09 - 2012/10/14
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旅人のくまさんさん
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日本が世界に誇ることが出来る良識、良心の外交官、カウナスにある杉原千畝所縁の記念館等の紹介です。今回の旅行の主要な目的の一つでした。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国、杉原記念館公式サイト)
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リトアニアの首都・ヴィリニュスから、杉原千畝記念館があるカウナスに向かう途中の光景です。カウナスは、リトアニア第二の都市で、ソビエト連邦併合以前のリトアニアの臨時の首都でした。人口は約35.5万人(2008年)です。リトアニアのほぼ中央に位置し、現在の首都のヴィリニュスの西北に位置し、ネムナス川とニャリス川の合流点にあります。(同上)
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ヴィリニュスから、杉原千畝記念館があるカウナスに向かう途中の郊外光景です。移動距離は100キロ弱です。個人旅行では、電車かバスが利用できるようです。バルト三国は『バス王国』とも呼ばれ、この幹線区間の運行本数は多く、所要時間は1時間半ほどです。本数は少ないですが、料金が安いのが電車になります。(同上)
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カウナスの『杉原千畝記念館』に到着しました。『日本のシンドラー』とも呼ばれている、外交官の杉原千畝がいた元日本領事館を記念館として一般公開しています。『オスカー・シンドラー(1908~1974年)』は、メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテン・ドイツ人の実業家です。第二次世界大戦中、自身のエナメル工場で雇用していた1,200人のユダヤ人を虐殺から救いました。(同上)
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カウナスの『杉原千畝記念館』の入り口に設置してあった『希望の門・命のヴィザ』の日本語表示の標識の光景です。第二次世界大戦中に、日本本国の方針に反してユダヤ人を助けるために『命のビザ』と言われる日本国の通過ビザを発給し、日本人として唯一イスラエルから『諸国民の中の正義の人』として表彰された杉原千畝の勇気と決断を実感できる記念館です。(同上)
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日本語を含めた3か国語で表示された案内標識の光景です。矢印での入り口表記の上に、『杉原記念館・入口』の日本語表示がありました。石段を上った先が室内への入口でした。(同上)
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名前:『ヒマラヤユキノシタ(ひまらや・雪の下)』(推定)
分類:ユキノシタ科ヒマラヤユキノシタ属
分布:ヒマラヤ山脈周辺が原産。
その他:記念館の入口脇で咲いていました。常緑多年草で、らせん状にロゼットをつくり、桃色の花を春に多数咲かせます。(同上) -
3か国語で記された記念館の表示です。その中央に、日本語表記で『杉原ー命の外交官基金・杉原記念館』の文字が記されていました。一番上がリトアニア語表記、一番下が、英語表記でした。(同上)
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イチオシ
杉原千畝氏が執務を行った部屋とデスクの光景です。その背後に日本国旗が掲げられていました。この後は、『杉原記念館』の公式サイト(Sugihara House in Kaunas)からの紹介です。『1940年よりリトアニアのカウナスにある日本領事館領事代理として赴任することとなった杉原千畝氏。赴任した当時は、ヒトラー率いるナチス・ドイツとソ連の連合軍によるユダヤ人の弾圧が少しづつ激しさを増し』(続く・同上)
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イチオシ
『多くのユダヤ人たちは中立国だった隣国のリトアニアへ避難民として逃げ込んでいました。しかし、リトアニアもソ連に併合されることが確実となった1940年7月、カウナスの日本領事館の前に大勢のユダヤ人が押し寄せることに…杉原氏が話を聞くと、「生き延びるには日本通過ビザを得て、ヨーロッパ以外の第三国へ再び逃れる道しか残されていない」と』写真は、領事館で撮影された杉原氏です。(同上)
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『当初、杉原千畝氏は正規のルートである日本の外務省に日本通過ビザの発給の是非を打診しましたが、何度も依頼した末に来た回答は「NO」。しかし、目の前に逃げてきたユダヤ人達はここでビザを得られないと、いわゆる絶滅収容所に送られ処刑される事が濃厚だったため、杉原氏は国の服務に忠実に「NO」を門前のユダヤ人達に伝えるか、服務に反して人道的な判断を取るかの決断を迫られます』(同上)
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『当時、日本はドイツの同盟国であったので、人道的な判断を取れば国家から反逆の罪に問われる可能性や外交問題に発展する可能性もありましたが、杉原氏は人間としてユダヤ人たちに対してビザを発給し、助ける道を選択しました。杉原千畝氏が発給したビザは「命のビザ」とよばれ、 このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて、現在は十万人以上に及び、世界各国で活躍しています』(同上)
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『杉原千畝氏が日本国の指示に背いてまで、人々の命を救うビザを発給したカウナスにある旧日本領事館は現在、彼の功績を称える記念館として、今もそのまま保存されています。後に杉原氏は「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった。私に頼ってくる人を見捨てるわけにはいかない』と語っています。(以上)
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イチオシ
杉原千畝夫人の『杉原幸子(すぎはら・ゆきこ:1913~2008年10月)』さんの写真のようです。旧姓は菊池、父親が学校長(香川県立志度商業学校、現香川県立志度高等学校)をしていた関係で、香川県に住んでいました。昭和10年(1935年)、13歳年上の杉原千畝から『あなたなら外国に連れて行っても恥ずかしくない』と言われて結婚、命のビザ発行時には、在カウナス大日本帝国領事館に住んでいました。(同上)
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杉原夫妻のお子さん達のようです。4人の男のお子さんがいましたが、三男の晴生(1940~1947年)さんは7歳の時に病気で他界、長男の『弘樹(1936~2001年)』さん、次男の『千暁(1938~2010年)』もすでに亡くなり、ご存命なのは、四男の『伸生(1949年~)』さんだけになりました。(同上)
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推測ですが、壁いっぱいに貼られた写真は、杉原千畝さんが発行した『命のビザ』で命を永らえ、その後に幸福を得たり、戦後に活躍された人たちのように見えました。『命のビザ』で直接助かった人達は6千名とされますが、現在は、その子孫の方達の総勢は、10万人とも言われます。(同上)
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1940年夏の数ヵ月間に、杉原千畝は3000以上の日本通過ビザを発給し、これにより6000人以上の人々が救われた。杉原千畝に救われた人々は、その後、長い旅を経て、神戸にたどり着いた。そして、彼らは更に長い旅を続ける可能性を採った。多くの難民は、アメリカ、カナダ、イスラエルに渡りました。(同上)
*写真は、世界中の安全な場所を目指した、ユダヤ難民の辿ったコースです。 -
写真と、各国語で説明されていた避難の様子です。左下の日本語部分を紹介します。『モスクワからウラジオストックへ、シベリア鉄道での旅は長く、12日間にも及びました。窓からの風景は、ところどころに木が見えるほかは、真っ白でした。途中、多くの停車駅がありました。駅には『熱湯』という意味の『Kipiatok』という表示があり、熱湯が売られていました。それは、私たちが旅の間に購入することができた唯一のものでした。私たちは、日本に到着すると、係官による聴取を取られました』以下略) (同上)
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『左下にあった、日本語の解説文の紹介です。「ニーナ・ベルダンス」は、ポーランドのワルシャワで1932年11月12日に生まれました。ナチが、ポーランドを攻撃する1939年9月1日まで、平穏な時代を過ごしました。家族会議の結果、私たちはスゼンスキ家の祖母が住む、リトアニアのヴィルノ(ヴィリニュス)に疎開することになりました。ドイツ軍が迫っていましたが、私たち家族には、この戦争は、長く続かないと思っていました。ロシアは、ヴィルノ(ヴィリニュス)を占領し、ミロン・スゼスキンは投獄され、まもなくシベリアに送られました(続く)』。(同)
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『後にイスラエルの首相になった『メナハム・ペギン(1913~1992年)』は、父と同じ監獄でした。ソ連軍は、『資本主義者』を捕まえるため、私たちのアパートを夜間捜索しました。リトアニアの首都であるコブノ(カナウス)へ向かう列車の中と、私の母がユダヤ教専門学校で学んでいるチャンドという人物から、日本の通過ビザを取得するために、カウナスの日本領事館に行き、キュラソー島行きビザがあれば、ロシア軍に占領されているヴィルノからの出国許可を得ることが出来るという情報を聞きました(続く)。(同上)
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『オランダの領事は、キュラソー島へ渡航する渡航する際に、査証は不必要であるという証明書を私たちに発給してくれました。私たちは。それらを持ってウィルノにあるソビエト当局から出国査証を受け取りました(以上)。 (同上)
*写真は、推測になりますが、杉原千畝さんが発行した『命のビザ』で難を逃れた人達のようです。 -
年表で紹介する、ヒトラーとナチスの台頭です。背景に世界恐慌などの経済的な出来事がありますので、日本の場合も、油断は出来ません。(同上)
〇1921年(大正10年):ヒトラー、ナチ党の指導者となる。
〇1928年(昭和3年):ナチ党として初の国政選挙で12議席を獲得。
〇1930年(昭和5年):この年の選挙でナチス党は第2党の地位を獲得。 -
〇1931年(昭和6年):ヒトラーとヒンデンブルク大統領の初会見。
〇1932年(昭和7年):7月の国会議員選挙で230議席を獲得し、第一党となる。
〇1932年(同上):8月にヒンデンブルク大統領会談、ヒトラーの首相要請は拒絶。
〇1933年(昭和8年):1月にヒトラー内閣成立。
〇1933年(同上):ゲーリングが無任所相兼プロイセン州内相に、警察を傘下。(同上) -
〇1933年(昭和8年):突撃隊・親衛隊・鉄兜団等の5万名がプロイセン州補助警察。
〇1933年(同上):2月に 国会議事堂放火事件発生。大粛清始まる。
〇1933年(同上):3月にドイツ共産党が禁止される。
〇1933年(同上):4月にユダヤ人が公職から追放される。
〇1933年(同上):6月にドイツ社会民主党が禁止される。 -
〇1934年(昭和9年):2月に 司法権の政府への委譲が定められる。
〇1935年(昭和10年):3月にヒトラーが再軍備開始を宣言。
〇1935年(同上):ハーケンクロイツ旗が新国旗となる。
*内容は読み取れませんでしたが、三列の写真には、左から1924年(大正13年)、1933年(昭和8年)、1934年(昭和9年)の年代表示がありました。(同上) -
昭和15年(1940年)7月31日にリガから大鷹公使名で松岡外務大臣宛に発信され、8月2日に外務省本省で受信された外務省公電の写し文のようです。文中に関係者として『杉原副領事』の名前がありました。電文の件名は『貴大臣宛在カウナス領事代理発電報第40号ニ関シ』でした。(同上)
(追記)外務省こうでんの詳細は、http://www.sugihara-museum.jp/about/ -
昭和15年(1940年)8月1日にカウナスの『杉原領事代理』から『松岡外務大臣』宛に打電され、8月2日に受電された電文の写しです。『第67号・貴殿22号ニ関シ(避難民ノ取扱ニ関スル件)』のタイトルがありました。『当国避難民中ニハ近クニ中南米代表ナキト当館ノ引揚切迫ヲ見越シ先ヅ以テ唯一ノ通過国タル我査証方願出ル者アリ』の書き出しから始まっていました。(同上)
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昭和15年(1940年)8月16日に打電された『在カウナス・杉原領事代理』宛の『松岡大臣』名の返信の写しのようです。『避難民取扱方ニ関スル件』のタイトルがありました。外務省内で、アメリカ局長・第3課長に回議されていました。大意は、『最近、本邦(日本)経由のアメリカ入国の避難民が増えているので、厳格に取り扱うように』との指令のようでした。松岡大臣のサインがあるようでした。(同上)
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先ほどの文中の『松岡洋右(まつおか・ようすけ:1880~1946年)』は、第二次近衛内閣の外務大臣として、日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進した人として知られています。国際連盟総会での脱退演説は、原稿なしで1時間20分に亘りました。絶賛の拍手が湧いたようですが、欧米諸国には逆効果だったようです。A級戦犯となり、裁判には1回出廷しただけで入院し、結核で亡くなりました。(同上)
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宮内庁長官だった富田朝彦による『富田メモ』の紹介です。メモ全体の公刊や一般への公開はされていませんが、昭和天皇の靖国神社参拝に関する発言を記述したと報道され、話題を呼びました。メモによると、昭和天皇はA級戦犯が靖国に合祀されたこと、特に『松岡外相と白鳥大使』に強い不快感を持ち、靖国に参拝しなくなったことなどが書かれているようです。(同上)
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松岡は、国際連盟脱退後、凱旋帰国をしました。しかし本人は「日本の立場を理解させることが叶わなかったのだから自分は敗北者だ。国民に陳謝する」とのコメントを出しています。1935年に再び満州に戻り、総裁に着任します。1938年のオトポール事件では、樋口季一郎(中将)と協力して、2万人とも言われるユダヤ人難民を保護しました。(同上)、写真は、この展示館を訪問した人の県が印された地図です。
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