2012/10/09 - 2012/10/14
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命のビザの発給で有名な杉原記念館の見学の後、ネムナス川とネリス川の合流点に建つカナウス城方面に向かいました。一時は廃墟となったとされますが、修復作業が進んでいました。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国、杉原記念館公式サイト)
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かつてのリトアニアの首都だった、カナウスにある『杉原記念館』の紹介の続きです。カウナスの領事代理だった、杉原千畝さんの執務室です。手元のガイドブックの『るるぶ・バルト三国・2011年版』には、『復元された執務室・館内には地元大学の日本学センターも併設』、と紹介されていました。(同上)
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各種の援助もあるかもしれませんが、杉原記念館の維持・運営は金銭的な苦労もあるようです。その一助とするためでしょうか、記念品が展示販売されていました。記念館の冊子や記念ブローチなどです。左側の記念ブローチには、日本円で150円、1ユーロと、地元通貨で4Ltの値段表示がありました。(同上)
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卓上に広げられた、2冊の本です。上側の小さな本には、バルト地区の特産の『琥珀(コハク)』のようでした。下側の本は石造の歴史的建造物の窓の光景のようです。類似の窓は、いくつもありそうでしたから、建物を特定するのは諦めました。(同上)
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イチオシ
日本語説明文をそのまま紹介します。『1935年、杉原千畝は菊池幸子と出会い結婚した。1986年に杉原千畝が亡くなるまで結婚生活は51年間続き、4人の子供を儲けた』と紹介されていました。左上が結婚当初のお二人、右中が奥様の幸子(ゆきこ)さんと二人のお子さん、右下が、幸子さんの学生時代の颯爽とした水兵姿のようです。後年は、歌人としても、地域の指導者として活躍されたようです。(同上)
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日本語説明文をそのまま紹介します。『1939年、杉原千畝は在カウナス日本領事館を開設、三男・晴生は、ここで誕生する』と紹介されていました。三男の晴生さん(1940~1947年)は、7歳の時に病気で他界されました。その年の1947年は、千畝さんが日本に帰国された年になります。(同上)
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イチオシ
日本語説明文をそのまま紹介します。『ソ連が在カウナス領事館を閉鎖した。その後杉原千畝は、最初はケーニヒスベルグ(現在のカリニングラード)へ赴任し、他国でも外交官活動を続けた。最終の赴任地はルーマニアであった』、お子さん三人を連れて、公式の場に向かわれた式服姿の写真のようです。千畝さんは、山高帽に燕尾服姿です。(同上)
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こちらも、写真説明の日本語説明文をそのまま紹介します。『杉原一家は、カウナスの閑静な地域のザリアカウニス地区にある領事館建物の二階部分を住居としていた。カウナス滞在中には、リトアニア全国を頻繁に旅行していた。三枚の写真とも、お子さん達が主役のようでした。(同上)
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杉原千畝さんの出身地、岐阜県の八百津町にある、『杉原千畝記念館』の紹介です。最初に紹介するのは、八百津町のことです。『千畝(ちうね)』の名前の由来です。『「耕して天に至る」と形容される段々畑。幅・高さとも1メートルほどの石垣がはるか山頂まで続いています。急な山の斜面を人々が苦労してきり拓いてきた歴史の重み、壮観な造形の美に圧倒されます。千畝の「畝(うね)」とは、畑の細長く土を盛り上げた部分。また「畝(せ)」は、畑の広さの単位。千畝とは、八百津町の段々畑から命名されたと言われています。』(杉原千畝記念館(八百津町公式サイト)
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『八百津で生まれた千畝(1900~1922年):1900年、千畝はごく一般の環境と家庭の中で生まれ育ちました。英語教師となる夢を目指し勉学に励みますが生活が苦しくなり、公費で勉強ができる外交官留学生試験に、猛勉強の末合格しました。そしてロシア語研修生として、人生の方向転換をしたのです』(同上)
*写真は、カウナスの杉原千畝記念館の建物(裏側)光景です。 -
『外交官時代・ハルビン(1939~1940年):ハルビンにてその能力を見込まれ、千畝は外交官としての希望ある一歩を踏出します。一方、ヨーロッパではヒトラーによるナチの独裁が始まり、ユダヤ人の命が脅威に晒され始めていました』(同上)
*写真は、カウナスの杉原千畝記念館の周りの光景です。記念館敷地内からの撮影です。 -
『リトアニア・カウナスへ(1939~1940年):リトアニア・カウナスに、日本領事館開設を命じられた千畝は、同時にソ連からの情報を集めることを命ぜられます。戦争の激しくなったこの頃、ヒトラーによるユダヤ人迫害も激しさを増し、彼らの受け入れ先はほとんど無くなってしまいました』(同上)
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『ヴィザ発給後(1947~1986年):1947年、帰国した杉原を待っていたのは独断でビザを発行したことの責任による外務省からの解職。 1968年、杉原の許へ一人のユダヤ人が訪れてきます。彼はボロボロになった当時のビザを手にして涙をこぼして杉原に礼の言葉をのべたのです』(同上)
*写真は、杉原記念館の2階部分の側面光景です。 -
『千畝の決断(1940年):1940年、千畝にある決断を迫られる出来事が起こります。ナチスの目を盗んで逃げてきたユダヤ人たちが、ヨーロッパから逃れるために、日本への通過ビザを求め、領事館前におしかけたのです。「ビザを出してもいいですか。」日本の外務省へあてた電報の帰ってくる答えは、(続く)』
*写真は、『希望の門』と記された、杉原記念館の出入り口門の光景です。 -
『千畝の決断(1940年):「正規の手続きができない者に、ヴィザを出してはいけない。」というものでした。ヴィザを発給しユダヤ人の命を救うべきか、命令に従って外交官としての輝かしい道を守るべきか。千畝は悩み、そして一つの答えを出したのでした。(続く)』(同上)
(付記)ヴィザ交付を巡っては、やり取りされた公電として記録が残されました。 -
『千畝の決断(1940年):千畝が、後日語った言葉です。私も何をかくそう一晩中考えた。苦慮、煩悶の挙句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は何も恐れることなく、ヴィザ発給を決意した』(同上)
(付記)決断の時の千畝さんは、奥さんの幸子(ゆきこ)さんにも話されましたが、幸子さんはキリスト教的・人道的な立場から、千畝さんに従うことを決意されました。 -
『千畝の決断(1940年):一人でも多くの命を救うために、入国ヴィザを必要としない南米キュラソー行きの『命のヴィザ』を少しの時間も惜しんで書き続けた千畝は、領事館を退去した後もホテルで渡航許可証を書きました。いよいよ出国という最後の日、駅にまで押し掛けてきたユダヤ人たちにも発車間際まで渡航許可証を書き続けた千畝。最後の渡航許可証は車窓から手渡したのでした』(同上)
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『千畝の発給したヴィザ(1941年):昭和16年2月5日、本省からのカウナス在勤時に発給したヴィザの総数の報告を求める電報第10号に対し、在プラハ総領事代理杉原千畝氏から松岡外務大臣宛返信されました。貴電10号に関し(ユダヤ避難民査証の件)において「「リスアニア」人並びにポーランド人に与えたる通過査証2,132 内ユダヤ系約1,500と推定す」と報告されました(続く)』(同上)
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『千畝の発給したヴィザ(1941年16年2月28日付公信普通第28号に別添としてカウナス在勤時のヴィザ発給表が添付されました。この発給表には、通し番号、国籍、名前、入国ヴィザないしは通過ヴィザの種別、ヴィザ発給の日付、査証料、そして備考欄があり、32ページにわたって、2,139名の名前が記されています』(同上)
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『正義の外交官たち(その1):世界には、千畝以外にもユダヤ人ではないのに、危険を冒してまで見返りを受けずにユダヤ人を救った人々がいました。彼らは国籍を超え、同じ人間として、勇気と正義を貫きました。イスラエル政府は、ユダヤ人に救いの手を差し伸べた各国の人々に「諸国民の正義の人」賞を贈りました』(同上)
(補記)「諸国民の正義の人」賞は、日本人では杉原千畝一人です。 -
『正義の外交官たち(その2):ヤン・ズヴァルテンディク(リトアニアでのオランダ領事代理):フィリップス社の代表だった彼は1940年6月から7月の間、リトアニア・カウナスでのオランダの領事代理を引き受けました。その間ユダヤ避難民に多くの準ビザを発給しました。その準ビザと千畝のビザのおかげで避難民たちはリトアニアから脱出し、命が救われました』(続く) (同上)
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『正義の外交官たち(その3):アリスティーデス・デ・ソウサ・メンデス(1885~1954年):フランス・ボルドー駐在 ポルトガル総領事):1940年5月10日、ドイツがベルギーとオランダに侵攻すると同時に、ポルトガル政府が難民、特にユダヤ人の入国を禁止しました。メンデスが独断で3万人の難民のうち、1万のユダヤ人にビザを発給し、多くのユダヤ避難民にスペイン国境の検問所を通過させました。(続く)』(同上)
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『正義の外交官たち(その4):セラハティン・ウルクーメン (1914~2003年):ロードス島駐在トルコ領事:1944年7月、ロードス島の1,700人のユダヤ人がナチス・ドイツによるアウシュヴィッツ収容所へ送られた時に、ウルクーメンは中にいた42人のトルコ国籍のユダヤ人とその家族を救出しました』(続く)
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『正義の外交官たち(その5):何鳳山 (1901~1997年):ウィーン駐在中国総領事:1938年、ナチスドイツによるオーストリア併合後、同国から逃れようとするユダヤ人に独断でビザを1,900通発給。難民たちはシベリア経由で中国に入国した人も、ビザを使ってオーストリアから違う国へ逃れた人もいます』(続く)
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『正義の外交官たち(その6):チャールズ・カール・ルッツ (1895~1975年):ブタペスト駐在スイス領事:ユダヤ人のために保護状を考案し、中立国の外交官として初めてユダヤ人を救いました。その数は、数千人にものぼります』(以上、同上)
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『避難民の脱出経路:1940年、日本通過ヴィザを受け取った避難民は、シベリア鉄道を使いシベリアを横断し、ウラジオストクより敦賀に上陸。その後日本国内を通過し、神戸や横浜を経て世界各国に避難していきました。行き先は、北米のアメリカ合衆国、カリブ海のキュラソー島、南米のリオデジャネイロやバンクーバー、オーストラリアのシドニーや、インドネシアのジャカルタなどです』(同上)
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『千畝が外交官を解かれるまで(その1):出国間際の列車の車中で最後のビザを書き終えた千畝と幸子夫人、子供たちは、カウナスから国際列車でベルリンへと向かいます。千畝は数日ベルリンで次の任務命令を待ち、1940年9月にプラハ総領事館に赴任。9月27日には、日独伊三国同盟の調印が行われました』(同上)
*写真は、トラカイ城見学に向かう途中で目にしたモニュメントです。 -
『千畝が外交官を解かれるまで(その2):その半年後の1941年3月、独ソ国境に近いケーニベルクに総領事館が開設され、千畝はそこから日本に向けてソ連に関する情報を送ります。この年の12月、日本はハワイと東南アジアを攻め、世界は第二次世界大戦に突入。千畝はルーマニアのブカレスト公使館に移った後、1945年5月のドイツ降伏、8月の日本敗戦の知らせを聞くこととなります』(同上)
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『千畝が外交官を解かれるまで(その3):1945年8月15日、第二次世界大戦は終わりました。帰国の日を待ち望む千畝とその一家はブカレスト郊外で収容所生活を送った後、1946年11月にようやく日本への帰路につきます。しかしその旅は、長く辛い旅となります。千畝とその一家が日本にたどり着いたのは、出発から約5か月後の1947年4月のことでした』(同上)
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『千畝が外交官を解かれるまで(その4):帰国後の1947年6月、外務省から呼び出しがあり、新しいポストがないことを理由に、千畝は外交官をやめてほしいと告げられます。その後、千畝は生活に追われ職を転々とし、長い間その善意に満ちた行為に日が射すことはありませんでした』(同上)
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イチオシ
『千畝の名誉回復:千畝生誕百周年にあたる2000年、「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」と、顕彰プレートが外交史料館に設置。除幕式で当時の河野洋平外相は、戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪しました。これにより、千畝の名誉は回復したのです』(同上)
*写真は、お二人揃って記念撮影に応じてくれたカップルです。
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