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ラトビアの見学を終え、バルト三国の最後の見学地、リトアニアの首都、ヴュリニュスに向かいました。その途中、リトアニアの聖地と呼ばれる、十字架の丘に立ち寄りました。一度目にしたら、忘れることはできない光景でした。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

2012秋、バルト三国旅行記(21/40):10月11日(10):ラトビアからリトアニアへ、十字架の丘へ、聖母子像

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2012/10/09 - 2012/10/14

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旅人のくまさん

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ラトビアの見学を終え、バルト三国の最後の見学地、リトアニアの首都、ヴュリニュスに向かいました。その途中、リトアニアの聖地と呼ばれる、十字架の丘に立ち寄りました。一度目にしたら、忘れることはできない光景でした。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

  • バルト三国のうち、2番目に見学したラトビアから、最後の国になるになる3番目のリトアニに向かう途中、小休止に立ち寄ったガソリンスタンドです。リトアニアでは、首都のヴュリニュスに2泊の予定です。リトアニアで最初に向かったのは、聖地とも呼ばれる『十字架の丘』です。リトアニアの北部に位置します。(同上)

    バルト三国のうち、2番目に見学したラトビアから、最後の国になるになる3番目のリトアニに向かう途中、小休止に立ち寄ったガソリンスタンドです。リトアニアでは、首都のヴュリニュスに2泊の予定です。リトアニアで最初に向かったのは、聖地とも呼ばれる『十字架の丘』です。リトアニアの北部に位置します。(同上)

  • リトアニアの聖地とも呼ばれる『十字架の丘』は、大小取り混ぜて、5万本とも言われる十字架が立ち並ぶとされ、その数は今も増え続けているようです。『十字架の丘』の見学の拠点となる都市は『シャウレイ』とされ、十字架の丘からは、12キロほどに位置します。その『シャウレイ』の街には立ち寄らず、直接に十字架の丘に向かいました。(同上)

    リトアニアの聖地とも呼ばれる『十字架の丘』は、大小取り混ぜて、5万本とも言われる十字架が立ち並ぶとされ、その数は今も増え続けているようです。『十字架の丘』の見学の拠点となる都市は『シャウレイ』とされ、十字架の丘からは、12キロほどに位置します。その『シャウレイ』の街には立ち寄らず、直接に十字架の丘に向かいました。(同上)

  • 小休止に立ち寄ったガソリンスタンドの光景が続きます。『シャウレイ』には立ち寄りませんでしたから、その町の簡単な紹介をしておきます。シャウレイは、リトアニア公国時代の1236年、サモディキアの人々が帯剣騎士団を破った、『サウレの戦い(独:シャウレイの戦い)』で名を残しました。この戦いは、バルト地域でキリスト教騎士団が被った最初の大規模な敗北とされます。(同上)

    小休止に立ち寄ったガソリンスタンドの光景が続きます。『シャウレイ』には立ち寄りませんでしたから、その町の簡単な紹介をしておきます。シャウレイは、リトアニア公国時代の1236年、サモディキアの人々が帯剣騎士団を破った、『サウレの戦い(独:シャウレイの戦い)』で名を残しました。この戦いは、バルト地域でキリスト教騎士団が被った最初の大規模な敗北とされます。(同上)

  • バルト人に対するカトリック北方十字軍の先鋒だったリヴォニア帯剣騎士団は、この敗北から立ち直れず、翌1237年にドイツ騎士団に吸収されることになりました。簡単ですが、『シャウレイ』の紹介はここまでです。少し離れた場所で観光バスを降り、歩いて十字架の丘に向かいました。リトア聖地とされる『十字架の丘』ですから、極めて自然なことと感じました。(同上)

    バルト人に対するカトリック北方十字軍の先鋒だったリヴォニア帯剣騎士団は、この敗北から立ち直れず、翌1237年にドイツ騎士団に吸収されることになりました。簡単ですが、『シャウレイ』の紹介はここまでです。少し離れた場所で観光バスを降り、歩いて十字架の丘に向かいました。リトア聖地とされる『十字架の丘』ですから、極めて自然なことと感じました。(同上)

  • 前方に、『十字架の丘』が見えてきました。『十字架の丘(リトアニア語: Kryžių kalnas IPA:クリージュ・カァルナス)』は、リトアニア北部に位置する巡礼地で、リトアニアの観光名所ともなっています。2001年に『リトアニアの十字架の手工芸とその象徴』の一つとして、ユネスコの無形文化遺産の『代表一覧表』に記載されています。(同上)

    前方に、『十字架の丘』が見えてきました。『十字架の丘(リトアニア語: Kryžių kalnas IPA:クリージュ・カァルナス)』は、リトアニア北部に位置する巡礼地で、リトアニアの観光名所ともなっています。2001年に『リトアニアの十字架の手工芸とその象徴』の一つとして、ユネスコの無形文化遺産の『代表一覧表』に記載されています。(同上)

  • 『十字架の丘』の発祥は分かっていませんが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシア帝国に対する11月蜂起の後であると考えられています。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなども、カトリック教会の巡礼者等によって置かれるようになりました。(同上)

    『十字架の丘』の発祥は分かっていませんが、初めてここに十字架が建てられたのは1831年のロシア帝国に対する11月蜂起の後であると考えられています。数世紀を経て、十字架だけでなくイエスの受難像やリトアニアの英雄の彫刻、聖母マリア像、肖像画、ロザリオなども、カトリック教会の巡礼者等によって置かれるようになりました。(同上)

  • かつてリトアニアのカトリック信仰は、脅威に曝されたこともありましたが、数世紀を経て、この丘はカトリック信仰の長い歴史を物語るようになっていきました。1795年の第3次ポーランド分割で、リトアニアはロシア帝国の領土下に置かれることとなりました。ポーランド人とリトアニア人は、ロシアに対抗して蜂起を起こしました。写真は『十字架の丘』と、その周りの光景です。(同上)

    かつてリトアニアのカトリック信仰は、脅威に曝されたこともありましたが、数世紀を経て、この丘はカトリック信仰の長い歴史を物語るようになっていきました。1795年の第3次ポーランド分割で、リトアニアはロシア帝国の領土下に置かれることとなりました。ポーランド人とリトアニア人は、ロシアに対抗して蜂起を起こしました。写真は『十字架の丘』と、その周りの光景です。(同上)

  • ポーランド人とリトアニア人の反抗は、『ロシア帝国時代(1721~1917年)』の『1831年の11月蜂起』、および『1863年の1月蜂起』でしたが、いずれも失敗に終わりました。これら二つの蜂起は、この十字架の丘の始まりに関係しているようです。反乱兵の家族が、彼らの遺体のかわりに十字架を丘に建てたからです。(同上)

    ポーランド人とリトアニア人の反抗は、『ロシア帝国時代(1721~1917年)』の『1831年の11月蜂起』、および『1863年の1月蜂起』でしたが、いずれも失敗に終わりました。これら二つの蜂起は、この十字架の丘の始まりに関係しているようです。反乱兵の家族が、彼らの遺体のかわりに十字架を丘に建てたからです。(同上)

  • 1918年、リトアニアは独立を回復しました。独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために祈る場所となりました。リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を持っていました。丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や遺産への忠誠心を示しました。(同上)

    1918年、リトアニアは独立を回復しました。独立期、この丘はリトアニア人が平和や独立戦争での死者たちのために祈る場所となりました。リトアニアがソ連の統治下にあった1944年から1990年、十字架の丘は特別な意味を持っていました。丘へ行き十字架を捧げることで、リトアニア人たちは彼らの宗教や遺産への忠誠心を示しました。(同上)

  • リトアニア人の行動は、非暴力による抵抗を表していました。それにも関わらず、ソ連は3度にわたり、ブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとしました。ムーシャ川の支流、クルヴェ川の近くにダムを建設するために、この丘が水の中に沈んでしまう、という噂もありました。(同上)

    イチオシ

    リトアニア人の行動は、非暴力による抵抗を表していました。それにも関わらず、ソ連は3度にわたり、ブルドーザーでこの丘にある十字架を撤去しようとしました。ムーシャ川の支流、クルヴェ川の近くにダムを建設するために、この丘が水の中に沈んでしまう、という噂もありました。(同上)

  • 1993年9月7日、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、そして犠牲者のための場所であると述べました。そのことに関する短い演説の紹介です。『994年4月1日の聖金曜日のコロッセオでの十字架の道の終わりに、聖父教皇ヨハネ・パウロ二世は、(中略)短い自発的なスピーチをしました。(ジョセフ・L・マジ:新しい殉教者のエキュメニズム)』、(同上)

    1993年9月7日、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの丘を訪れ、ここが希望と平和、愛、そして犠牲者のための場所であると述べました。そのことに関する短い演説の紹介です。『994年4月1日の聖金曜日のコロッセオでの十字架の道の終わりに、聖父教皇ヨハネ・パウロ二世は、(中略)短い自発的なスピーチをしました。(ジョセフ・L・マジ:新しい殉教者のエキュメニズム)』、(同上)

  • 『信仰の祖先が、死の殉教によってさえも、キリストが私たちを愛してくださった愛を目撃したことで。ここ地球のこの場所、古代ローマで、私は特に昨年9月に牧歌的な訪問をしたリトアニアの「十字架の丘」について考えています。私はローマ時代のコロッセオではなく、私たちの時代、この前世紀のコロッセオに感動しました。』、2000年、フランシスコ会の修道院がこの丘の近くに完成しました。内部の装飾は、フランシスコの身体に聖痕が現れたとされるトスカーナのラ・ヴェルナのものと関連しているようです。この丘は、未だいずれの管轄にも属していません。このため、自由に出入りし十字架を建てることができるようです。(同上)

    『信仰の祖先が、死の殉教によってさえも、キリストが私たちを愛してくださった愛を目撃したことで。ここ地球のこの場所、古代ローマで、私は特に昨年9月に牧歌的な訪問をしたリトアニアの「十字架の丘」について考えています。私はローマ時代のコロッセオではなく、私たちの時代、この前世紀のコロッセオに感動しました。』、2000年、フランシスコ会の修道院がこの丘の近くに完成しました。内部の装飾は、フランシスコの身体に聖痕が現れたとされるトスカーナのラ・ヴェルナのものと関連しているようです。この丘は、未だいずれの管轄にも属していません。このため、自由に出入りし十字架を建てることができるようです。(同上)

  • 『そして、ちょうど終わったばかりの十字架通りのための瞑想を準備してくれた総主教バーソロミュー1世に感謝して、聖父は付け加えました:「私は、反対側、ヨーロッパロシア全体、シベリア全土、現代の非常に多くの十字架の丘にある他の「十字架の丘」の、非常に多くの他のコロッセウムについて考えました。今日、私はコンスタンティノープルの私の兄弟と私たちのすべての東洋の兄弟姉妹に言いたいです。』(同上)

    『そして、ちょうど終わったばかりの十字架通りのための瞑想を準備してくれた総主教バーソロミュー1世に感謝して、聖父は付け加えました:「私は、反対側、ヨーロッパロシア全体、シベリア全土、現代の非常に多くの十字架の丘にある他の「十字架の丘」の、非常に多くの他のコロッセウムについて考えました。今日、私はコンスタンティノープルの私の兄弟と私たちのすべての東洋の兄弟姉妹に言いたいです。』(同上)

  • 『親愛なる最愛の人よ、私たちはローマからのこれらの殉教者、「十字架の丘」、ソロヴィエツキー諸島、そして他の多くの絶滅収容所で団結しています。私たちはこれらの殉教者の背景に対して団結しており、団結することに失敗することはできません」:(Oss.ロム。英語版1994年4月14-6日)。聖父は、使徒の手紙Tertio Millennio advenienteでさらに深い主張でこの主題に戻りました。37番で彼は、「殉教者によって蒔かれた種と、最初のクリスチャン世代を特徴づけた神聖さの遺産」のおかげで教会が成長した最初の千年紀を回想しています。:以下略』(同上)

    『親愛なる最愛の人よ、私たちはローマからのこれらの殉教者、「十字架の丘」、ソロヴィエツキー諸島、そして他の多くの絶滅収容所で団結しています。私たちはこれらの殉教者の背景に対して団結しており、団結することに失敗することはできません」:(Oss.ロム。英語版1994年4月14-6日)。聖父は、使徒の手紙Tertio Millennio advenienteでさらに深い主張でこの主題に戻りました。37番で彼は、「殉教者によって蒔かれた種と、最初のクリスチャン世代を特徴づけた神聖さの遺産」のおかげで教会が成長した最初の千年紀を回想しています。:以下略』(同上)

  • 十字架の数についての紹介です。<br />○1900年:100<br />○1902年:155<br />○1922年:52<br />○1938年:400以上<br />○1961年:5000以上が破壊される。<br />○1975年:1200が破壊される。<br />○1990年:約5万5千<br />(以上:Lithuanian Millennium of Cultural Heritage Virtual Tour. 2007年5月6日閲覧)、(同上)

    十字架の数についての紹介です。
    ○1900年:100
    ○1902年:155
    ○1922年:52
    ○1938年:400以上
    ○1961年:5000以上が破壊される。
    ○1975年:1200が破壊される。
    ○1990年:約5万5千
    (以上:Lithuanian Millennium of Cultural Heritage Virtual Tour. 2007年5月6日閲覧)、(同上)

  • 十字架の丘がこれほどまでに世界中の人々を惹きつけるのは、5万本を超える十字架が並ぶ、一度見たら忘れられないインパクトのある風景のためです。さらに、1993年にローマ教皇の『ヨハネ・パウロ二世』がこの地を訪れたことで、リトアニア人の聖地から、世界中のカトリック教徒にとっての聖地となりました。(同上)

    イチオシ

    十字架の丘がこれほどまでに世界中の人々を惹きつけるのは、5万本を超える十字架が並ぶ、一度見たら忘れられないインパクトのある風景のためです。さらに、1993年にローマ教皇の『ヨハネ・パウロ二世』がこの地を訪れたことで、リトアニア人の聖地から、世界中のカトリック教徒にとっての聖地となりました。(同上)

  • カトリックの世界だけでなく、広く世界で知られた、第264代ローマ教皇の『ヨハネ・パウロ二世(1920~2005年)』についての紹介です。ポーランド出身で、本名は『カロル・ユゼフ・ヴォイティワ』です。オランダ出身の第218代のハドリアヌス6世以来、455年ぶりの非イタリア人教皇で、史上初のポーランド人教皇でした。同時に20世紀中、最年少で着座した教皇でした。(同上)

    カトリックの世界だけでなく、広く世界で知られた、第264代ローマ教皇の『ヨハネ・パウロ二世(1920~2005年)』についての紹介です。ポーランド出身で、本名は『カロル・ユゼフ・ヴォイティワ』です。オランダ出身の第218代のハドリアヌス6世以来、455年ぶりの非イタリア人教皇で、史上初のポーランド人教皇でした。同時に20世紀中、最年少で着座した教皇でした。(同上)

  • 『ヨハネ・パウロ二世』の紹介が続きます。東西陣営の冷戦末期において、世界平和と戦争反対を呼びかけ、数々の平和行動を実践しました。母国ポーランドを初めとする各国の民主化活動の精神的支柱としての役割を果たし、世界129か国を訪問し『空飛ぶ聖座』と呼ばれました。ミレニアムの2000年にイタリア・バチカン旅行をしましたが、その時はご健在でした。キリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めています。(同上)

    『ヨハネ・パウロ二世』の紹介が続きます。東西陣営の冷戦末期において、世界平和と戦争反対を呼びかけ、数々の平和行動を実践しました。母国ポーランドを初めとする各国の民主化活動の精神的支柱としての役割を果たし、世界129か国を訪問し『空飛ぶ聖座』と呼ばれました。ミレニアムの2000年にイタリア・バチカン旅行をしましたが、その時はご健在でした。キリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めています。(同上)

  • ヨハネ・パウロ2世は、他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、プロテスタント諸派との会合や東方正教会や英国国教会との和解への努力を行いました。カトリックの教皇としては初めてのモスク、シナゴーグ、ルーテル教会への訪問、東西教会の分裂以来のギリシャ訪問、イギリス訪問を成し遂げ、天台宗の酒井雄哉大阿闍梨とも会見しています。(同上)

    ヨハネ・パウロ2世は、他宗教や他文化との交流にも非常に積極的で、プロテスタント諸派との会合や東方正教会や英国国教会との和解への努力を行いました。カトリックの教皇としては初めてのモスク、シナゴーグ、ルーテル教会への訪問、東西教会の分裂以来のギリシャ訪問、イギリス訪問を成し遂げ、天台宗の酒井雄哉大阿闍梨とも会見しています。(同上)

  • ヨハネ・パウロ2世は、キリスト教がなした過去の罪について、歴史的謝罪を活発に行いました。キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応や十字軍の正教会やムスリムへの行為への反省と謝罪、異端として火あぶりにされたヤン・フスやガリレオ・ガリレイの地動説裁判における名誉回復などを公式に発表し、日本のマスコミでも報道されました。(以上)

    ヨハネ・パウロ2世は、キリスト教がなした過去の罪について、歴史的謝罪を活発に行いました。キリスト教の歴史におけるユダヤ人への対応や十字軍の正教会やムスリムへの行為への反省と謝罪、異端として火あぶりにされたヤン・フスやガリレオ・ガリレイの地動説裁判における名誉回復などを公式に発表し、日本のマスコミでも報道されました。(以上)

  • 十字架の丘の起源についてははっきりしていませんが、初めてここに大きな十字架が立てられたのは、1831年のロシアに対する蜂起の後であったと考えられています。当時のリトアニアはロシアの支配下にあり、ロシアはリトアニアの人々が信仰するカトリックではなく、ロシア正教のもとでリトアニア人のロシア化を進めていました。「リトアニア」という国名は使われなくなり、リトアニア文字も禁止されていました。(同上)<br />*写真は、十字架の丘の中でも一際目立っていた、真っ白な聖母子像です。

    十字架の丘の起源についてははっきりしていませんが、初めてここに大きな十字架が立てられたのは、1831年のロシアに対する蜂起の後であったと考えられています。当時のリトアニアはロシアの支配下にあり、ロシアはリトアニアの人々が信仰するカトリックではなく、ロシア正教のもとでリトアニア人のロシア化を進めていました。「リトアニア」という国名は使われなくなり、リトアニア文字も禁止されていました。(同上)
    *写真は、十字架の丘の中でも一際目立っていた、真っ白な聖母子像です。

  • 2001年に『欧州連合 (EU) 』が行った宗教調査結果の紹介です。<br />○「神の存在を信じる」:エストニア49%(52%)<br />○「ある種の霊魂や生命力の存在を信じる」:エストニア36%(27%)<br />○「いかなる霊魂、神、生命力も存在を信じない」:エストニア12%(13%)<br />○「分からない」:エストニア3%(3%)<br />*括弧の数字は、当時のEU25カ国の値です。(同上)<br />*写真は、台の上に並べられていた、小さな十字架等の光景です。

    2001年に『欧州連合 (EU) 』が行った宗教調査結果の紹介です。
    ○「神の存在を信じる」:エストニア49%(52%)
    ○「ある種の霊魂や生命力の存在を信じる」:エストニア36%(27%)
    ○「いかなる霊魂、神、生命力も存在を信じない」:エストニア12%(13%)
    ○「分からない」:エストニア3%(3%)
    *括弧の数字は、当時のEU25カ国の値です。(同上)
    *写真は、台の上に並べられていた、小さな十字架等の光景です。

  • 2001年に行われた、リトアニア統計局調査による各宗派別の人口統計です。<br />○ローマ・カトリック教会:2,752,447名(79.00%)<br />○正教会:141,821名(4.07%)<br />○正教古儀式派:27,073名(0.78%)<br />○ルーテル教会:19,637名(0.56%)<br />○改革派教会:7,082名(0.20%)<br />○エホバの証人:3,512名(0.10%)<br />○イスラム教スンナ派:2,860名(0.08%):(同上)<br />*以下記載略(小数宗派、無宗教、記載なし等)

    2001年に行われた、リトアニア統計局調査による各宗派別の人口統計です。
    ○ローマ・カトリック教会:2,752,447名(79.00%)
    ○正教会:141,821名(4.07%)
    ○正教古儀式派:27,073名(0.78%)
    ○ルーテル教会:19,637名(0.56%)
    ○改革派教会:7,082名(0.20%)
    ○エホバの証人:3,512名(0.10%)
    ○イスラム教スンナ派:2,860名(0.08%):(同上)
    *以下記載略(小数宗派、無宗教、記載なし等)

  • ○リトアニアの宗教性向と歴史(その1)<br />先に紹介したリトアニア統計局による宗教人口統計からも明らかなように、現代のリトアニアでは宗教を信じる者の大多数がキリスト教徒です。その中でもカトリック教徒が最も多く、次いで正教徒、プロテスタントの順となっています。少数ながらイスラム教徒もいますが、仏教徒はいないようです。(同上)

    イチオシ

    ○リトアニアの宗教性向と歴史(その1)
    先に紹介したリトアニア統計局による宗教人口統計からも明らかなように、現代のリトアニアでは宗教を信じる者の大多数がキリスト教徒です。その中でもカトリック教徒が最も多く、次いで正教徒、プロテスタントの順となっています。少数ながらイスラム教徒もいますが、仏教徒はいないようです。(同上)

  • ○リトアニアの宗教性向と歴史(その2)<br />リトアニアは、歴史的に見ますと、中世のリトアニア大公国は『ヨーロッパ最後の異教国』とも呼ばれるような、キリスト教国でした。しかし、現在はヨーロッパでも有数のカトリックの国です。先に紹介した統計局の調査では、国民の 79.0 % (約275万人)が自らの宗教がカトリックであると自認しています。(同上)

    ○リトアニアの宗教性向と歴史(その2)
    リトアニアは、歴史的に見ますと、中世のリトアニア大公国は『ヨーロッパ最後の異教国』とも呼ばれるような、キリスト教国でした。しかし、現在はヨーロッパでも有数のカトリックの国です。先に紹介した統計局の調査では、国民の 79.0 % (約275万人)が自らの宗教がカトリックであると自認しています。(同上)

  • ○リトアニアの宗教性向と歴史(その3)<br />しかし13世紀、リトアニアが周囲のリヴォニア帯剣騎士団などから攻撃を受けるようになると、当時リトアニアを統一していた『ミンダウガス(1203~1263年)』は、その脅威を和らげるため、1251年、カトリックに改宗しました。しかしミンダウガスの死後は再び『異教国』となりました。(同上)

    ○リトアニアの宗教性向と歴史(その3)
    しかし13世紀、リトアニアが周囲のリヴォニア帯剣騎士団などから攻撃を受けるようになると、当時リトアニアを統一していた『ミンダウガス(1203~1263年)』は、その脅威を和らげるため、1251年、カトリックに改宗しました。しかしミンダウガスの死後は再び『異教国』となりました。(同上)

  • ○リトアニアの宗教性向と歴史(その4)<br />1397年、リトアニア大公の『ヨガイラ(1362~1434年)』は、ポーランド王に就任する条件としてカトリックに改宗、さらにリトアニア大公国の国教としました。それを機にローマ・カトリックがリトアニアに広まっていきました。また、ヨガイラの従兄弟のヴィータウタス大公は、キリスト教聖堂跡に教会を建てました。(同上)

    ○リトアニアの宗教性向と歴史(その4)
    1397年、リトアニア大公の『ヨガイラ(1362~1434年)』は、ポーランド王に就任する条件としてカトリックに改宗、さらにリトアニア大公国の国教としました。それを機にローマ・カトリックがリトアニアに広まっていきました。また、ヨガイラの従兄弟のヴィータウタス大公は、キリスト教聖堂跡に教会を建てました。(同上)

  • ○リトアニアの宗教性向と歴史(その5)<br />ヴィータウタス大公が建てた教会が、現在のヴィリニュス大聖堂です。ただし、その後焼失と再建が繰り返され、現在の大聖堂の外観はヴィータウタスの時代とは全く異なっています。現在の大聖堂は、1783年から1801年にかけて行われた大改築によって建てられた古典様式の大聖堂が原型となっています。(同上)

    ○リトアニアの宗教性向と歴史(その5)
    ヴィータウタス大公が建てた教会が、現在のヴィリニュス大聖堂です。ただし、その後焼失と再建が繰り返され、現在の大聖堂の外観はヴィータウタスの時代とは全く異なっています。現在の大聖堂は、1783年から1801年にかけて行われた大改築によって建てられた古典様式の大聖堂が原型となっています。(同上)

  • ○リトアニアの宗教性向と歴史(その6)<br />16世紀になりますとカトリックが貴族社会のみにとどまらず、リトアニア人の農民社会にまで浸透していきました。ただし、当時の聖職者はポーランド人が中心で、また教会でのミサも当時の公用語だったポーランド語で行われました。その後、カトリックはロシア帝国やソ連の支配下で弾圧を受けるようになりました。(同上)

    ○リトアニアの宗教性向と歴史(その6)
    16世紀になりますとカトリックが貴族社会のみにとどまらず、リトアニア人の農民社会にまで浸透していきました。ただし、当時の聖職者はポーランド人が中心で、また教会でのミサも当時の公用語だったポーランド語で行われました。その後、カトリックはロシア帝国やソ連の支配下で弾圧を受けるようになりました。(同上)

  • ○リトアニアの宗教性向と歴史(その7)<br />1831年、多くのリトアニア人がポーランド人とともに11月蜂起に参加し帝政ロシアの体制に反対しましたが、ツァーリ(ロシア皇帝)はこれを鎮圧し、その後、蜂起に対する報復として、カトリック教会を弾圧しました。(以上)

    ○リトアニアの宗教性向と歴史(その7)
    1831年、多くのリトアニア人がポーランド人とともに11月蜂起に参加し帝政ロシアの体制に反対しましたが、ツァーリ(ロシア皇帝)はこれを鎮圧し、その後、蜂起に対する報復として、カトリック教会を弾圧しました。(以上)

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