シャウレイ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
ラトビアのリガからリトアニアのヴィリニュスに向かう途中に立ち寄った、『十字架の丘』の紹介です。お墓ではありませんが、圧倒的な数の十字架に驚かされました。ユネスコの世界文化遺産ではありませんが、世界無形文化財に登録されています。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

2012秋、バルト三国旅行記(22/40):10月11日(11):リトアニア、シャウレイ、リトアニアの聖地、十字架の丘

8いいね!

2012/10/09 - 2012/10/14

71位(同エリア86件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

ラトビアのリガからリトアニアのヴィリニュスに向かう途中に立ち寄った、『十字架の丘』の紹介です。お墓ではありませんが、圧倒的な数の十字架に驚かされました。ユネスコの世界文化遺産ではありませんが、世界無形文化財に登録されています。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

  • リトアニアの歴史は、『十字架の丘』の初めのところでも少し述べましたが、改めて、リトアニアの歴史とリトアニア人の歴史も紹介しておきます。『リトアニア』という語は、1009年に『Lituae』(ラテン語の属格、主格は:Litua』と記載されたのが最も古いものとされます。13世紀にはリトアニア大公国が建てられ、その後、リトアニアは周辺諸国を征服、15世紀には、リトアニア大公国はヨーロッパで最大の領土をもつ国となりました。(同上)<br />*写真は、『十字架の丘』の光景が続きます。

    リトアニアの歴史は、『十字架の丘』の初めのところでも少し述べましたが、改めて、リトアニアの歴史とリトアニア人の歴史も紹介しておきます。『リトアニア』という語は、1009年に『Lituae』(ラテン語の属格、主格は:Litua』と記載されたのが最も古いものとされます。13世紀にはリトアニア大公国が建てられ、その後、リトアニアは周辺諸国を征服、15世紀には、リトアニア大公国はヨーロッパで最大の領土をもつ国となりました。(同上)
    *写真は、『十字架の丘』の光景が続きます。

  • 16世紀にはルブリン合同によりポーランド王国と合同、ポーランド・リトアニア共和国となりました。その後、18世紀末のポーランド分割によりリトアニアは『ロシア帝国(1721~1917年)』の支配下におかれることとなります。第一次世界大戦後の1918年、リトアニアは共和国として独立しました。(同上)

    16世紀にはルブリン合同によりポーランド王国と合同、ポーランド・リトアニア共和国となりました。その後、18世紀末のポーランド分割によりリトアニアは『ロシア帝国(1721~1917年)』の支配下におかれることとなります。第一次世界大戦後の1918年、リトアニアは共和国として独立しました。(同上)

  • しかし、第二次世界大戦中にソビエト連邦やナチス・ドイツからの侵攻を受け、リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入されました。1990年代に入るとリトアニアは独立を回復し、2004年には欧州連合(EU)に加盟しました。(同上)<br />

    しかし、第二次世界大戦中にソビエト連邦やナチス・ドイツからの侵攻を受け、リトアニア・ソビエト社会主義共和国としてソ連に編入されました。1990年代に入るとリトアニアは独立を回復し、2004年には欧州連合(EU)に加盟しました。(同上)

  • 『リトアニア大公国』時代の歴史紹介です。リトアニア人は、バルト人(バルト語派)の子孫で、ドイツ騎士団を初めとする北方十字軍との抗争の中で団結していきました。13世紀にキリスト教化を目論むドイツ騎士団に一時征服されましたが、1236年の戦いで彼らの進出を食い止め、『ミンダウガス(生年不詳~1263年)』のもと最初の統一を成し遂げ、『リトアニア大公国』を成立させました。(同上)

    『リトアニア大公国』時代の歴史紹介です。リトアニア人は、バルト人(バルト語派)の子孫で、ドイツ騎士団を初めとする北方十字軍との抗争の中で団結していきました。13世紀にキリスト教化を目論むドイツ騎士団に一時征服されましたが、1236年の戦いで彼らの進出を食い止め、『ミンダウガス(生年不詳~1263年)』のもと最初の統一を成し遂げ、『リトアニア大公国』を成立させました。(同上)

  • ミンダウガスの勢力圏は、1240年代半ばには西はジェマイティヤ、東はミンスク、南は黒ルーシまで達していました。ミンダウガスは1253年、リトアニアの王となりました。しかし、ミンダウガスが権力を拡大したことは、親族間の争いを招いてしまいました。ミンダウガスについて書かれた同時代の資料は非常に乏しいとされます。その統治に関する大部分は、『リヴォニア押韻年代記』と『イパチエフ年代記』によるものです。両者ともリトアニアの敵対者によって作成されたことからリトアニアへの偏見に満ちており、特に後者はそれが顕著なようです。(同上)

    ミンダウガスの勢力圏は、1240年代半ばには西はジェマイティヤ、東はミンスク、南は黒ルーシまで達していました。ミンダウガスは1253年、リトアニアの王となりました。しかし、ミンダウガスが権力を拡大したことは、親族間の争いを招いてしまいました。ミンダウガスについて書かれた同時代の資料は非常に乏しいとされます。その統治に関する大部分は、『リヴォニア押韻年代記』と『イパチエフ年代記』によるものです。両者ともリトアニアの敵対者によって作成されたことからリトアニアへの偏見に満ちており、特に後者はそれが顕著なようです。(同上)

  • 14世紀、ゲディミナスは東欧に勢力を伸ばし、現在のベラルーシ、ウクライナまで拡大していきました。また、ヴィリニュスを建設し、首都としました。その後ドイツ騎士団との抗争は続き、リトアニア大公国が異教徒の国でありながら、伝統的にリトアニア大公国と関係が良かったのは、キリスト教国家とされます。ポメラニア平定の際にドイツ騎士団が起こした金銭トラブルで、ドイツ騎士団と揉めていたポーランド王国に接近して行きました。(同上)

    14世紀、ゲディミナスは東欧に勢力を伸ばし、現在のベラルーシ、ウクライナまで拡大していきました。また、ヴィリニュスを建設し、首都としました。その後ドイツ騎士団との抗争は続き、リトアニア大公国が異教徒の国でありながら、伝統的にリトアニア大公国と関係が良かったのは、キリスト教国家とされます。ポメラニア平定の際にドイツ騎士団が起こした金銭トラブルで、ドイツ騎士団と揉めていたポーランド王国に接近して行きました。(同上)

  • 1386年にリトアニア大公『ヨガイラ(1352/1362~1434年)』は、ポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚、ローマ・カトリックに改宗すると同時にポーランド王に迎えられました(ポーランド・リトアニア連合)。リトアニア大公国は、初期はポーランド王国と連合国家(同君連合)として対等な地位を築いたようです。1410年、リトアニア大公国はポーランドと連合してドイツ騎士団をグルンヴァルトの戦いで破り、司令官のヴィータウタスは名声を得ました。(同上)

    1386年にリトアニア大公『ヨガイラ(1352/1362~1434年)』は、ポーランド王国の女王ヤドヴィガと結婚、ローマ・カトリックに改宗すると同時にポーランド王に迎えられました(ポーランド・リトアニア連合)。リトアニア大公国は、初期はポーランド王国と連合国家(同君連合)として対等な地位を築いたようです。1410年、リトアニア大公国はポーランドと連合してドイツ騎士団をグルンヴァルトの戦いで破り、司令官のヴィータウタスは名声を得ました。(同上)

  • ポーランド・リトアニア連合の両国は、東欧の大国として君臨しました。しかし、リトアニア人貴族は次々と母語をリトアニア語やベラルーシ語から自発的にポーランド語に変えて、ポーランド社会へと同化していきました。16世紀半ばに開始されたモスクワ大公国・ロシア・ツァーリ国とのリヴォニア戦争において、リトアニアはポーランドとのルブリン合同を成立させました。しかし、これは対等な合同とされたものの、実際はポーランドが支配的で、リトアニアはポーランドの一つの州とされました。(同上)

    イチオシ

    ポーランド・リトアニア連合の両国は、東欧の大国として君臨しました。しかし、リトアニア人貴族は次々と母語をリトアニア語やベラルーシ語から自発的にポーランド語に変えて、ポーランド社会へと同化していきました。16世紀半ばに開始されたモスクワ大公国・ロシア・ツァーリ国とのリヴォニア戦争において、リトアニアはポーランドとのルブリン合同を成立させました。しかし、これは対等な合同とされたものの、実際はポーランドが支配的で、リトアニアはポーランドの一つの州とされました。(同上)

  • 当時のポーランドは、ポズナンを首都とする大ポーランドと、クラクフを首都とする小ポーランドの二つの州があり、リトアニアは共同議会(セイム)において3分の1の議席を占めることとなりました。しかし、リトアニアは大公国は名称と領域を維持し、大法官、財務官、軍司令官(ヘトマン)などの執行機関も有していて、君主と議会という最高国家機関だけを共通とする連邦国家体制でした。リトアニア・ポーランド共和国(ポーランド貴族共和国)は、その勢力の最盛期を迎え、当時のヨーロッパ最強の国家となりました。(同上)

    当時のポーランドは、ポズナンを首都とする大ポーランドと、クラクフを首都とする小ポーランドの二つの州があり、リトアニアは共同議会(セイム)において3分の1の議席を占めることとなりました。しかし、リトアニアは大公国は名称と領域を維持し、大法官、財務官、軍司令官(ヘトマン)などの執行機関も有していて、君主と議会という最高国家機関だけを共通とする連邦国家体制でした。リトアニア・ポーランド共和国(ポーランド貴族共和国)は、その勢力の最盛期を迎え、当時のヨーロッパ最強の国家となりました。(同上)

  • その後「共和国」の強大化に危機感を抱いた周辺国により「共和国」は弱体化しました。リトアニアは18世紀初頭の大北方戦争により、一時スウェーデンの支配下に置かれましたが、スウェーデンの敗北により、再び「共和国」の支配下に戻りました。しかし、「共和国」の衰弱は、近隣諸国の介入を招き、ロシア帝国やプロイセン王国の影響力が高まり、1772年の第一次ポーランド分割の後、リトアニアもその分割の脅威にさらされる事態となりました。(同上)

    その後「共和国」の強大化に危機感を抱いた周辺国により「共和国」は弱体化しました。リトアニアは18世紀初頭の大北方戦争により、一時スウェーデンの支配下に置かれましたが、スウェーデンの敗北により、再び「共和国」の支配下に戻りました。しかし、「共和国」の衰弱は、近隣諸国の介入を招き、ロシア帝国やプロイセン王国の影響力が高まり、1772年の第一次ポーランド分割の後、リトアニアもその分割の脅威にさらされる事態となりました。(同上)

  • 『ロシア帝国時代』の1772年、第一次ポーランド分割により、ポーランド・リトアニアは領土の3分の1を失いました。国家の危機に直面した改革派の貴族は、中央集権化ならびに近代化を進めて統治システムを強化しようとしました。この改革の一環として、国民教育委員会の創設も行われましたが、これは世界で最初の教育省(文部省)とも言えるものでした。しかし1793年、第二次ポーランド分割が実行されます。これによりリトアニアは、ミンスク県の全域とヴィリニュス県、ノヴォグルドク県ならびにブレスト県の東部地域を失いました。(同上)

    『ロシア帝国時代』の1772年、第一次ポーランド分割により、ポーランド・リトアニアは領土の3分の1を失いました。国家の危機に直面した改革派の貴族は、中央集権化ならびに近代化を進めて統治システムを強化しようとしました。この改革の一環として、国民教育委員会の創設も行われましたが、これは世界で最初の教育省(文部省)とも言えるものでした。しかし1793年、第二次ポーランド分割が実行されます。これによりリトアニアは、ミンスク県の全域とヴィリニュス県、ノヴォグルドク県ならびにブレスト県の東部地域を失いました。(同上)

  • 1795年の第三次ポーランド分割により、ポーランド・リトアニア共和国は消滅し、現在のリトアニア領にあたる地域の大部分はロシア帝国に組み込まれました。一時、ナポレオン1世率いるフランス帝国軍に占領されます。ナポレオンの敗退後、再びロシアに編入され、ロシア同化政策を受けます。19世紀になると民族主義が高まり、『ポーランド共和国』の復活を目指してポーランド人とともに2回蜂起しますが、鎮圧されました。(同上)

    1795年の第三次ポーランド分割により、ポーランド・リトアニア共和国は消滅し、現在のリトアニア領にあたる地域の大部分はロシア帝国に組み込まれました。一時、ナポレオン1世率いるフランス帝国軍に占領されます。ナポレオンの敗退後、再びロシアに編入され、ロシア同化政策を受けます。19世紀になると民族主義が高まり、『ポーランド共和国』の復活を目指してポーランド人とともに2回蜂起しますが、鎮圧されました。(同上)

  • 蜂起に対して、ロシア・ツァーリは、リトアニア人はロシア人であると宣言し、リトアニアにおけるポーランド文化の根絶政策を実施し、ポーランド語は禁止され、ロシア語が強制されました。日露戦争によって引き起こされた1905年のロシア第一革命の際には、リトアニアは自治権を要求しました。(同上)

    蜂起に対して、ロシア・ツァーリは、リトアニア人はロシア人であると宣言し、リトアニアにおけるポーランド文化の根絶政策を実施し、ポーランド語は禁止され、ロシア語が強制されました。日露戦争によって引き起こされた1905年のロシア第一革命の際には、リトアニアは自治権を要求しました。(同上)

  • 『第一次世界大戦(1914~1918年)』が始まり、リトアニア人が住む地域は1915年にドイツ帝国に占領されました。この頃、『マルティーナスス・イーチャス(1885~?)』らを中心に、リトアニア人難民を救済する『リトアニア人戦争被害者支援協会』が設立されました。1917年9月、アンタナス・スメトナを議長とするリトアニア評議会の議員20名が選出されました。(同上)

    『第一次世界大戦(1914~1918年)』が始まり、リトアニア人が住む地域は1915年にドイツ帝国に占領されました。この頃、『マルティーナスス・イーチャス(1885~?)』らを中心に、リトアニア人難民を救済する『リトアニア人戦争被害者支援協会』が設立されました。1917年9月、アンタナス・スメトナを議長とするリトアニア評議会の議員20名が選出されました。(同上)

  • 1917年11月7日にロシア革命が起こりソビエト連邦が成立すると、事態はより複雑化しました。リトアニア人住民とドイツ軍、赤軍、白軍や、さらにはポーランド・リトアニア共和国の復活を望んだ住民が入り乱れ、戦いが繰り広げられました。リトアニア評議会は12月11日、ドイツとの緊密な関係下でのリトアニア人国家建設に関する宣言を採択しました。(同上)

    1917年11月7日にロシア革命が起こりソビエト連邦が成立すると、事態はより複雑化しました。リトアニア人住民とドイツ軍、赤軍、白軍や、さらにはポーランド・リトアニア共和国の復活を望んだ住民が入り乱れ、戦いが繰り広げられました。リトアニア評議会は12月11日、ドイツとの緊密な関係下でのリトアニア人国家建設に関する宣言を採択しました。(同上)

  • 1918年2月16日、リトアニアは完全独立を宣言しました。現在、リトアニアの独立記念日はこの2月16日とされています。しかし、リトアニアはその後も戦いを余儀なくされました。1918年11月11日にアウグスティナス・ヴォルデマラス内閣が成立し、『リトアニアはいかなる者とも戦争しない、そのため軍を創設しない』、と発表しました。(同上)

    イチオシ

    1918年2月16日、リトアニアは完全独立を宣言しました。現在、リトアニアの独立記念日はこの2月16日とされています。しかし、リトアニアはその後も戦いを余儀なくされました。1918年11月11日にアウグスティナス・ヴォルデマラス内閣が成立し、『リトアニアはいかなる者とも戦争しない、そのため軍を創設しない』、と発表しました。(同上)

  • しかし、1918年11月3日、ロシアのボルシェビキはブレスト=リトフスク条約を放棄し、ドイツに割譲していたバルト三国、ベラルーシ、ウクライナをドイツから解放するための軍事闘争を開始しました。リトアニアの共産党は、赤軍の支援を受けて同年12月16日にリトアニア・ソビエト社会主義共和国樹立を宣言し、『レーニン(1870~1924年)』がこれを承認しました。(同上)

    しかし、1918年11月3日、ロシアのボルシェビキはブレスト=リトフスク条約を放棄し、ドイツに割譲していたバルト三国、ベラルーシ、ウクライナをドイツから解放するための軍事闘争を開始しました。リトアニアの共産党は、赤軍の支援を受けて同年12月16日にリトアニア・ソビエト社会主義共和国樹立を宣言し、『レーニン(1870~1924年)』がこれを承認しました。(同上)

  • 一方でドイツは、リトアニア軍に武器を支援しました。また、連合国の要求で、ドイツはロシアの進撃を阻止するためドイツ軍をリトアニアに派遣しました。リトアニア軍は赤軍の前進を阻止しました。ロシア内戦により、ソビエトは1919年9月にバルト三国との和平交渉を開始し、事実上の国家承認となりました。ロシア内戦は、1918年5月に始まり、1922年11月に集結しました。(同上)

    一方でドイツは、リトアニア軍に武器を支援しました。また、連合国の要求で、ドイツはロシアの進撃を阻止するためドイツ軍をリトアニアに派遣しました。リトアニア軍は赤軍の前進を阻止しました。ロシア内戦により、ソビエトは1919年9月にバルト三国との和平交渉を開始し、事実上の国家承認となりました。ロシア内戦は、1918年5月に始まり、1922年11月に集結しました。(同上)

  • リトアニアの独立宣言後も諸外国との戦いが続けられましたが、1920年、リトアニア共和国として民族自決による独立が諸外国から承認されます。1920年には制憲議会が招集されました。ポーランド・ソビエト戦争において、ソビエトは、1920年5月にリトアニアに対する権利を永久に放棄し、リトアニアの独立と主権を承認しました。1920年7月12日にリトアニアはロシアと講和条約を結びましたが、第二条付録でロシアとポーランドの戦争中に赤軍がリトアニア領を通過することを敵対行為とはみなされないとされました。これにより、赤軍は1920年7月14日、ヴィリニュスを占領しました。(同上)

    リトアニアの独立宣言後も諸外国との戦いが続けられましたが、1920年、リトアニア共和国として民族自決による独立が諸外国から承認されます。1920年には制憲議会が招集されました。ポーランド・ソビエト戦争において、ソビエトは、1920年5月にリトアニアに対する権利を永久に放棄し、リトアニアの独立と主権を承認しました。1920年7月12日にリトアニアはロシアと講和条約を結びましたが、第二条付録でロシアとポーランドの戦争中に赤軍がリトアニア領を通過することを敵対行為とはみなされないとされました。これにより、赤軍は1920年7月14日、ヴィリニュスを占領しました。(同上)

  • 1920年10月7日に合意文書が調印され、ヴィリニュス地域はリトアニア領であるとされたものの、その翌日にはポーランド軍によって侵攻され、そのままポーランドに占領されました。その後、この地域には緩衝国家の『中部リトアニア共和国』が建国されましたが、1922年にポーランドに編入されました。そのためリトアニア共和国の首都は憲法上はヴィリニュスと明記しつつも、カウナスが臨時首都とされました。この状況はその後1939年まで続きました。(同上)

    1920年10月7日に合意文書が調印され、ヴィリニュス地域はリトアニア領であるとされたものの、その翌日にはポーランド軍によって侵攻され、そのままポーランドに占領されました。その後、この地域には緩衝国家の『中部リトアニア共和国』が建国されましたが、1922年にポーランドに編入されました。そのためリトアニア共和国の首都は憲法上はヴィリニュスと明記しつつも、カウナスが臨時首都とされました。この状況はその後1939年まで続きました。(同上)

  • リトアニア共和国では、リトアニア・キリスト教民主党、リトアニア農民人民連合、リトアニア社会民主党の3党が主要政党時代の議会制民主主義体制は長くは続かず、1926年12月16日に軍部によるクーデターが勃発し、初代大統領アンターナス・スメトナによる権威主義体制となりました。1927年には政府に対する蜂起がタウラゲで起きましたが、鎮圧されました。1928年、スメトナは憲法を改正して自らの権力を強化しました。(同上)

    リトアニア共和国では、リトアニア・キリスト教民主党、リトアニア農民人民連合、リトアニア社会民主党の3党が主要政党時代の議会制民主主義体制は長くは続かず、1926年12月16日に軍部によるクーデターが勃発し、初代大統領アンターナス・スメトナによる権威主義体制となりました。1927年には政府に対する蜂起がタウラゲで起きましたが、鎮圧されました。1928年、スメトナは憲法を改正して自らの権力を強化しました。(同上)

  • 1938年までリトアニアとポーランドの国交は断絶状態にありましたが、1938年3月、ポーランド政府はリトアニアに外交関係の樹立を求める最後通牒を突きつけ、リトアニア政府は、これを受諾しました。1939年3月、リトアニアはナチス・ドイツの干渉により、バルト海の港湾都市メーメルを失いました。(同上)

    1938年までリトアニアとポーランドの国交は断絶状態にありましたが、1938年3月、ポーランド政府はリトアニアに外交関係の樹立を求める最後通牒を突きつけ、リトアニア政府は、これを受諾しました。1939年3月、リトアニアはナチス・ドイツの干渉により、バルト海の港湾都市メーメルを失いました。(同上)

  • 更に1939年委は、アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書で、ソ連がバルト三国やフィンランドを勢力圏に入れることが合意されました。1939年9月1日にドイツ、スロヴァキア、ソ連の3ヶ国がポーランドを侵略し、リトアニアはこれに乗じてヴィリニュス地方をポーランドから奪い取り占領しました。(同上)

    更に1939年委は、アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンの間で結ばれた独ソ不可侵条約の付属秘密議定書で、ソ連がバルト三国やフィンランドを勢力圏に入れることが合意されました。1939年9月1日にドイツ、スロヴァキア、ソ連の3ヶ国がポーランドを侵略し、リトアニアはこれに乗じてヴィリニュス地方をポーランドから奪い取り占領しました。(同上)

  • 『第二次世界大戦(1939~1945年)』は、ドイツ軍のポーランド侵入によって始まりました。1940年夏、世界がドイツのパリ侵攻に注目しているあいだに、ソ連はバルト三国を占領し、強制的にソ連に編入しました。人民議会が開かれ、リトアニアの国名を『リトアニア・ソビエト社会主義共和国』とすることを決定し、ソビエト連邦への加盟を満場一致で宣言しました。(同上)

    『第二次世界大戦(1939~1945年)』は、ドイツ軍のポーランド侵入によって始まりました。1940年夏、世界がドイツのパリ侵攻に注目しているあいだに、ソ連はバルト三国を占領し、強制的にソ連に編入しました。人民議会が開かれ、リトアニアの国名を『リトアニア・ソビエト社会主義共和国』とすることを決定し、ソビエト連邦への加盟を満場一致で宣言しました。(同上)

  • 駐カウナス日本領事だった『杉原千畝(1900~1986年)』が、ユダヤ人に大量のビザを発給したのは1940年7月のことでした。このことは、この後のカナウス見学の時に詳しく紹介します。同年8月26日には人民委員会議が最高執行機関であると発表され、ソビエト憲法(スターリン憲法)が採択されました。リトアニアの内務人民委員部(NKVD)には、ソ連から派遣された職員が就任しました。(同上)

    駐カウナス日本領事だった『杉原千畝(1900~1986年)』が、ユダヤ人に大量のビザを発給したのは1940年7月のことでした。このことは、この後のカナウス見学の時に詳しく紹介します。同年8月26日には人民委員会議が最高執行機関であると発表され、ソビエト憲法(スターリン憲法)が採択されました。リトアニアの内務人民委員部(NKVD)には、ソ連から派遣された職員が就任しました。(同上)

  • 1941年6月22日、独ソ戦がはじまるとドイツがリトアニアを占領しました。ドイツ占領によって、反ソ連蜂起が全土で広がりました。リトアニア行動主義戦線(LAF)などがリトアニア臨時政府を宣言しましたが、ドイツはこれを認めませんでした。このリトアニア臨時政府は、1941年8月に解体されました。1944年、ソ連はドイツを破り、リトアニアを再占領しました。(同上)

    イチオシ

    1941年6月22日、独ソ戦がはじまるとドイツがリトアニアを占領しました。ドイツ占領によって、反ソ連蜂起が全土で広がりました。リトアニア行動主義戦線(LAF)などがリトアニア臨時政府を宣言しましたが、ドイツはこれを認めませんでした。このリトアニア臨時政府は、1941年8月に解体されました。1944年、ソ連はドイツを破り、リトアニアを再占領しました。(同上)

  • 1945年のヤルタ会談とポツダム会談で、リトアニアがソビエト連邦に加盟する共和国であることを英米に認めさせました。スターリン死後、50年代から60年代にかけて6万人の追放者と2万人の政治犯がリトアニアに帰国しましたが、リトアニアの苦悩はその後も続きました。(同上)

    1945年のヤルタ会談とポツダム会談で、リトアニアがソビエト連邦に加盟する共和国であることを英米に認めさせました。スターリン死後、50年代から60年代にかけて6万人の追放者と2万人の政治犯がリトアニアに帰国しましたが、リトアニアの苦悩はその後も続きました。(同上)

  • 1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党第一書記になり、いわゆるペレストロイカが始まりました。1989年8月23日にはヴィリニュス~リガ~タリンを結んで600キロに亘る『人間の鎖(バルトの道)』が形成され、世界に独立を訴えた。1990年3月、最高会議選挙に『サユディス(運動)』が圧勝し、組閣後にいち早く独立を宣言、ソビエト連邦は、1991年の末日に崩壊しました。(同上)

    1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党第一書記になり、いわゆるペレストロイカが始まりました。1989年8月23日にはヴィリニュス~リガ~タリンを結んで600キロに亘る『人間の鎖(バルトの道)』が形成され、世界に独立を訴えた。1990年3月、最高会議選挙に『サユディス(運動)』が圧勝し、組閣後にいち早く独立を宣言、ソビエト連邦は、1991年の末日に崩壊しました。(同上)

  • 名前:『ムラサキツメクサ(紫詰草)』<br />分類:マメ科シャジクソウ(車軸草)属<br />分布:ヨーロッパ、西アジアおよび北西アフリカ原産。<br />その他:『アカツメクサ(赤詰草)』やクローバーとも呼ばれます。日本にはシロツメクサと共に牧草として移入されたようです。(同上)

    名前:『ムラサキツメクサ(紫詰草)』
    分類:マメ科シャジクソウ(車軸草)属
    分布:ヨーロッパ、西アジアおよび北西アフリカ原産。
    その他:『アカツメクサ(赤詰草)』やクローバーとも呼ばれます。日本にはシロツメクサと共に牧草として移入されたようです。(同上)

  • 名前:『シロツメクサ(白詰草)』<br />分類:マメ科シャジクソウ(属<br />分布:ヨーロッパ、西アジアおよび北西アフリカ原産。<br />その他:クローバーとも呼ばれます。『詰草』の呼び名は、乾燥したクローバーを緩衝材として使用していたことによります。(同上)

    名前:『シロツメクサ(白詰草)』
    分類:マメ科シャジクソウ(属
    分布:ヨーロッパ、西アジアおよび北西アフリカ原産。
    その他:クローバーとも呼ばれます。『詰草』の呼び名は、乾燥したクローバーを緩衝材として使用していたことによります。(同上)

この旅行記のタグ

8いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

リトアニアで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
リトアニア最安 421円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

リトアニアの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから海外旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP