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バルト三国の最大の都市、ラトビアの首都のリガの紹介です。『バルトの貴婦人』と讃えられる古都です。13世紀に加盟したハンザ同盟時代からの建築群は、その姿を現代に留めています。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

2012秋、バルト三国旅行記(13/40):10月11日(2):ラトビア、リガ、ラトビア国立オペラ座、自由記念碑

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2012/10/09 - 2012/10/14

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旅人のくまさん

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バルト三国の最大の都市、ラトビアの首都のリガの紹介です。『バルトの貴婦人』と讃えられる古都です。13世紀に加盟したハンザ同盟時代からの建築群は、その姿を現代に留めています。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

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  • 建設工事中の国立図書館の光景です。デザインを巡って賛否両論が対立していると、現地ガイドさんが説明されていました。斬新なデザインの建物では、時々起きているようです。フランスのルーブル美術館のガラス製の三角ピラミッドの入口、ポンピドー美術館でも起きたような記憶があります。(同上)

    建設工事中の国立図書館の光景です。デザインを巡って賛否両論が対立していると、現地ガイドさんが説明されていました。斬新なデザインの建物では、時々起きているようです。フランスのルーブル美術館のガラス製の三角ピラミッドの入口、ポンピドー美術館でも起きたような記憶があります。(同上)

  • 同じく、建設工事中の国立図書館の光景です。先ほどとは90度角度が異なる方向の光景です。議論が巻き起こっている理由は、建設計画などの公表が遅れたことも影響しているようでした。(同上)<br />(追記):2013年12月20日に建物が完成し、2014年1月18日に、旧図書館からの移転が行われたようです。

    同じく、建設工事中の国立図書館の光景です。先ほどとは90度角度が異なる方向の光景です。議論が巻き起こっている理由は、建設計画などの公表が遅れたことも影響しているようでした。(同上)
    (追記):2013年12月20日に建物が完成し、2014年1月18日に、旧図書館からの移転が行われたようです。

  • ラトビア国立オペラ座の建物光景です。リガにある国立歌劇場で、ラトビア国立バレエ団(LNB)、ラトビア国立歌劇場合唱団、ラトビア国立歌劇場交響楽団を有します。サンクトペテルブルクの建築家『ルートヴィヒ・ボーンシュテット』によって、当時のドイツ語公演を行う都市劇場として1863年に建てられました。(同上)

    イチオシ

    ラトビア国立オペラ座の建物光景です。リガにある国立歌劇場で、ラトビア国立バレエ団(LNB)、ラトビア国立歌劇場合唱団、ラトビア国立歌劇場交響楽団を有します。サンクトペテルブルクの建築家『ルートヴィヒ・ボーンシュテット』によって、当時のドイツ語公演を行う都市劇場として1863年に建てられました。(同上)

  • 国立オペラ座の建物のアップ光景です。破風や石柱など、ローま・ギリシャ建築風の外観でした。石柱はイオニア式です。1882年から1887年(1882年の火事後の改修)、1957年から1958年、1991年から1995年(国家再独立後の改修)など数度にわたり修繕をされました。300席の新たなホールを持つ現代風の別館が、2001年に増築されました。(同上)

    国立オペラ座の建物のアップ光景です。破風や石柱など、ローま・ギリシャ建築風の外観でした。石柱はイオニア式です。1882年から1887年(1882年の火事後の改修)、1957年から1958年、1991年から1995年(国家再独立後の改修)など数度にわたり修繕をされました。300席の新たなホールを持つ現代風の別館が、2001年に増築されました。(同上)

  • 緑の芝生を囲んだ紅白の草花のコントラストが綺麗な花壇の光景です。赤色はベゴニアですが、白い方は、シロタエギク(白妙菊)の葉でした。所々に見えるオレンジの花は、盛りを過ぎたマリーゴールドです。ラトビア国立歌劇場は、この建物が建つ前ですが、大作曲家の『リヒャルト・ワーグナー(1813~1883年)』が、1837年から1839年の間、リガで音楽監督をしていました。(同上)

    緑の芝生を囲んだ紅白の草花のコントラストが綺麗な花壇の光景です。赤色はベゴニアですが、白い方は、シロタエギク(白妙菊)の葉でした。所々に見えるオレンジの花は、盛りを過ぎたマリーゴールドです。ラトビア国立歌劇場は、この建物が建つ前ですが、大作曲家の『リヒャルト・ワーグナー(1813~1883年)』が、1837年から1839年の間、リガで音楽監督をしていました。(同上)

  • ワーグナーは、19世紀のドイツの作曲家、指揮者で思想家でした。ロマン派歌劇の頂点であり、また『楽劇王』の別名で知られます。ほとんどの自作歌劇で、台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られます。音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもありました。1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の運動に参加、当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流しています。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、フランツ・リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間の亡命生活をおくりました。『さまよえるオランダ人』、『タンホイザー』、『ローエングリン』 、『トリスタンとイゾルデ』をはじめ数々の作品があります。(同上)

    ワーグナーは、19世紀のドイツの作曲家、指揮者で思想家でした。ロマン派歌劇の頂点であり、また『楽劇王』の別名で知られます。ほとんどの自作歌劇で、台本を単独執筆し、理論家、文筆家としても知られます。音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人でもありました。1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の運動に参加、当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流しています。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、フランツ・リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間の亡命生活をおくりました。『さまよえるオランダ人』、『タンホイザー』、『ローエングリン』 、『トリスタンとイゾルデ』をはじめ数々の作品があります。(同上)

  • 名前:『ゼラニュウム』<br />分類:フウロソウ科テンジクアオイ属<br />分布:南アフリカ原産。<br />その他:花壇で咲いていた、真っ赤な花のズームアップ光景です。(同上)

    名前:『ゼラニュウム』
    分類:フウロソウ科テンジクアオイ属
    分布:南アフリカ原産。
    その他:花壇で咲いていた、真っ赤な花のズームアップ光景です。(同上)

  • 国立オペラ座の建物の撮影をしている時に気が付きました。隊列を組んで上空を過った渡り鳥です。雁でしょうか、あるいは鴨でしょうか、どちらか、あるいは別の渡り鳥か判断が付きませんでした。(同上)

    国立オペラ座の建物の撮影をしている時に気が付きました。隊列を組んで上空を過った渡り鳥です。雁でしょうか、あるいは鴨でしょうか、どちらか、あるいは別の渡り鳥か判断が付きませんでした。(同上)

  • 数分の間でしたが、複数の渡り鳥の群れが上空を通過するのを見ることができました。右手の先頭が群れのリーダーのようです。初めての渡りを経験する若鳥にとっては、生死を賭けた大冒険かも知れません。(同上)

    数分の間でしたが、複数の渡り鳥の群れが上空を通過するのを見ることができました。右手の先頭が群れのリーダーのようです。初めての渡りを経験する若鳥にとっては、生死を賭けた大冒険かも知れません。(同上)

  • 背後に控えるラトビア国立劇場の建物と建物と、一体化した泉水の光景です。1860~1863年、ドイツの詩人の『フリードリッヒ・シラー(1759~1805年)』の『ヴァレンシュタインのキャンプ』とベートーヴェンの『フィデリオ』のプロダクションで開かれた約2000の観客席を持つ新しいリガシティシアタービルが建設されました。(同上)

    背後に控えるラトビア国立劇場の建物と建物と、一体化した泉水の光景です。1860~1863年、ドイツの詩人の『フリードリッヒ・シラー(1759~1805年)』の『ヴァレンシュタインのキャンプ』とベートーヴェンの『フィデリオ』のプロダクションで開かれた約2000の観客席を持つ新しいリガシティシアタービルが建設されました。(同上)

  • ラトビアの音楽に関する情報の紹介です。『ラトビアは音楽の国です。ラトビア国民の約半数が、音楽学校に通ったことがあったり、合唱団で歌っていたり、楽器を弾くことができます。そのため、ラトビアでは常に国中で、オペラ、音楽祭、歌謡祭、ジャズやワールドミュージック、そして現代音楽のコンサートに至るまで、あらゆるジャンルの音楽関係のイベントが開催されています。(ラトビア基本情報)』、と紹介されていました。(同上)<br />*写真は、正面から眺めた劇場正面の泉水の像の光景です。

    ラトビアの音楽に関する情報の紹介です。『ラトビアは音楽の国です。ラトビア国民の約半数が、音楽学校に通ったことがあったり、合唱団で歌っていたり、楽器を弾くことができます。そのため、ラトビアでは常に国中で、オペラ、音楽祭、歌謡祭、ジャズやワールドミュージック、そして現代音楽のコンサートに至るまで、あらゆるジャンルの音楽関係のイベントが開催されています。(ラトビア基本情報)』、と紹介されていました。(同上)
    *写真は、正面から眺めた劇場正面の泉水の像の光景です。

  • ラトビアの音楽に関する情報紹介の続きです。『あまりにたくさんのイベントが開催されているので、いろいろと目移りしてしまうかもしれません。毎週末コンサートや音楽祭やミュージカルが国中で行われている夏だけではなく、その他の季節も音楽と共に移りゆく季節を感じさせてくれます。6月初旬にラトビア国立オペラはシーズンを終えますが、次シーズンに公演される予定の新作や、オペラ界のクラシックを観ることができます。7月にはリエパーヤ交響楽団がリエパーヤで、音楽ファンの皆様のために「リエパーヤス・ヴァサラ・フェスティバル(リエパーヤ・サマー・フェスティバル)」を開催します。』(同上)<br />*写真は、側面から眺めた劇場正面の泉水の像の光景です。

    ラトビアの音楽に関する情報紹介の続きです。『あまりにたくさんのイベントが開催されているので、いろいろと目移りしてしまうかもしれません。毎週末コンサートや音楽祭やミュージカルが国中で行われている夏だけではなく、その他の季節も音楽と共に移りゆく季節を感じさせてくれます。6月初旬にラトビア国立オペラはシーズンを終えますが、次シーズンに公演される予定の新作や、オペラ界のクラシックを観ることができます。7月にはリエパーヤ交響楽団がリエパーヤで、音楽ファンの皆様のために「リエパーヤス・ヴァサラ・フェスティバル(リエパーヤ・サマー・フェスティバル)」を開催します。』(同上)
    *写真は、側面から眺めた劇場正面の泉水の像の光景です。

  • 『また、夏の間にはリガとリエパーヤにある大聖堂では国際オルガン祭が開催されます。オルガンは大変歴史のある楽器です。また、「ダバス・コンチェルツァーレ(野外コンサートホール)」では、毎年行われる珍しいイベントがあります。このイベントは音楽と科学が融合したもので、五感を自然に近づけようという試みのもと始まりました。(同上)

    『また、夏の間にはリガとリエパーヤにある大聖堂では国際オルガン祭が開催されます。オルガンは大変歴史のある楽器です。また、「ダバス・コンチェルツァーレ(野外コンサートホール)」では、毎年行われる珍しいイベントがあります。このイベントは音楽と科学が融合したもので、五感を自然に近づけようという試みのもと始まりました。(同上)

  • 『6月初旬には、リガとルンダーレ城で恒例の古楽祭が行われます。ラトビア国内外のプロ演奏家たちが集結し、グレゴリオ聖歌、ルネッサンス、そしてバロック音楽の饗宴を楽しむことができます。さらに7月中旬には東欧の現代音楽ファンが集まる音楽フェスが、海岸の町サラツグリーヴァで開催されます。この音楽フェス「ポシティヴス」はバルト三国一の規模です。』(同上)

    『6月初旬には、リガとルンダーレ城で恒例の古楽祭が行われます。ラトビア国内外のプロ演奏家たちが集結し、グレゴリオ聖歌、ルネッサンス、そしてバロック音楽の饗宴を楽しむことができます。さらに7月中旬には東欧の現代音楽ファンが集まる音楽フェスが、海岸の町サラツグリーヴァで開催されます。この音楽フェス「ポシティヴス」はバルト三国一の規模です。』(同上)

  • 『数々の音楽イベントの他にも、ラトビアの成熟した音楽文化を身近に感じることができる、様々なコンサートやコンサートシリーズが各地で企画されています。その中でも注目されているのが、バロック音楽からアコースティックな現代音楽まで幅広く演奏する、まだ結成して間もない「シンフォニエッタ・リガ・オーケストラ」です。』(同上)

    『数々の音楽イベントの他にも、ラトビアの成熟した音楽文化を身近に感じることができる、様々なコンサートやコンサートシリーズが各地で企画されています。その中でも注目されているのが、バロック音楽からアコースティックな現代音楽まで幅広く演奏する、まだ結成して間もない「シンフォニエッタ・リガ・オーケストラ」です。』(同上)

  • 『秋には大きな映画祭と、ヘルマン・ブラウン財団とヨーロピアン・クリスマス・フェスティバルの主催による秋の室内音楽祭が、リガで同時開催されます。隔年2月に開催される「ウィーン・クラシック・フェスティバル」ではハイドン、ベートーベン、そしてモーツァルトの名作が演奏されます。』(以上)

    『秋には大きな映画祭と、ヘルマン・ブラウン財団とヨーロピアン・クリスマス・フェスティバルの主催による秋の室内音楽祭が、リガで同時開催されます。隔年2月に開催される「ウィーン・クラシック・フェスティバル」ではハイドン、ベートーベン、そしてモーツァルトの名作が演奏されます。』(以上)

  • 褐葉の木々の上から頭を覗かせた、『自由の記念碑 (リガ)』の光景です。ラトビアのリガにあるモニュメントで、ラトビア独立戦争(1918~1920年亡くなった兵士に捧げられています。 ラトビアの自由、独立、主権のシンボルとして大切にされ、リガで行われる公開集会や公式式典などでは中心場所になることが多いとされます。(同上)

    イチオシ

    褐葉の木々の上から頭を覗かせた、『自由の記念碑 (リガ)』の光景です。ラトビアのリガにあるモニュメントで、ラトビア独立戦争(1918~1920年亡くなった兵士に捧げられています。 ラトビアの自由、独立、主権のシンボルとして大切にされ、リガで行われる公開集会や公式式典などでは中心場所になることが多いとされます。(同上)

  • 同じく、『自由の記念碑 (リガ)』の光景です。完成は1935年11月18日、高さ42メートル、石灰岩、石灰華、銅で作られています。 記念碑の周囲の彫刻やレリーフは、13のグループに分かれていて、それぞれラトビアの文化や歴史を表しています。 記念碑の中心部分は上へ行くに従って細くなる四角柱型で、その上の銅像『自由の女神』の手には、金色の星が三つ掲げられています。(同上)

    イチオシ

    同じく、『自由の記念碑 (リガ)』の光景です。完成は1935年11月18日、高さ42メートル、石灰岩、石灰華、銅で作られています。 記念碑の周囲の彫刻やレリーフは、13のグループに分かれていて、それぞれラトビアの文化や歴史を表しています。 記念碑の中心部分は上へ行くに従って細くなる四角柱型で、その上の銅像『自由の女神』の手には、金色の星が三つ掲げられています。(同上)

  • 『自由の記念碑 (リガ)』の最上部のズームアップ光景です。記念碑の建設構想が生まれたのは1920年代初期とされ、ラトビアの首相ジクフリーツ・メイエロヴィッツが『記念柱』のデザインコンペに関する法律を制定しました。 幾度かのコンペを経て、最終的に1930年代の初め、記念碑はラトビアの彫刻家カーリス・ザールの案『星のごとく輝け(ラトビア語: Mirdzi kā zvaigzne! )』に従って建設されました。 建設費用は個人献金によって賄われました。(同上)

    『自由の記念碑 (リガ)』の最上部のズームアップ光景です。記念碑の建設構想が生まれたのは1920年代初期とされ、ラトビアの首相ジクフリーツ・メイエロヴィッツが『記念柱』のデザインコンペに関する法律を制定しました。 幾度かのコンペを経て、最終的に1930年代の初め、記念碑はラトビアの彫刻家カーリス・ザールの案『星のごとく輝け(ラトビア語: Mirdzi kā zvaigzne! )』に従って建設されました。 建設費用は個人献金によって賄われました。(同上)

  • 『自由の記念碑 (リガ)』の台座とその上部の人物群像です。1940年のソビエトによるラトビア侵攻以降、ラトビアはソビエト連邦に併合され、自由の記念碑は解体が検討されましたが、実行に移されることはなく、国家独立の象徴であり続けました。リガ生まれでカーリス・ザールの教え子だった、ソビエトの彫刻家ヴェラ・ムーヒナが、記念碑の芸術的価値を惜しんで破壊回避に尽力したという説があります。塔の周囲を、労働、祖国のための戦い、家族や文化を象徴するレリーフと像が取り囲みます。(同上)

    『自由の記念碑 (リガ)』の台座とその上部の人物群像です。1940年のソビエトによるラトビア侵攻以降、ラトビアはソビエト連邦に併合され、自由の記念碑は解体が検討されましたが、実行に移されることはなく、国家独立の象徴であり続けました。リガ生まれでカーリス・ザールの教え子だった、ソビエトの彫刻家ヴェラ・ムーヒナが、記念碑の芸術的価値を惜しんで破壊回避に尽力したという説があります。塔の周囲を、労働、祖国のための戦い、家族や文化を象徴するレリーフと像が取り囲みます。(同上)

  • 拾い集めて、芝生の上に置かれていた落ち葉の光景です。国立オペラ座前の噴水から、『自由の記念碑 (リガ)』に向かう途中で目にしました。記念碑に捧げられたものとして紹介しておきます。黄色と、赤みを帯びた『フー(楓)』らしい綺麗な落ち葉でした。(同上)

    拾い集めて、芝生の上に置かれていた落ち葉の光景です。国立オペラ座前の噴水から、『自由の記念碑 (リガ)』に向かう途中で目にしました。記念碑に捧げられたものとして紹介しておきます。黄色と、赤みを帯びた『フー(楓)』らしい綺麗な落ち葉でした。(同上)

  • 新市街と旧市街との境界に建つ『自由の記念碑 (リガ)』の高さは42メートルとされます。その塔の前に飾られた沢山の花の光景です。日本ですと菊の花でしょうが、ダリアの花が多く供えられていました。ダリアもキク科ダリア属の花で、バラやチューリップと並び、最も花色のバラエティーに富んだ植物とされます。『テンジクアオイ(天竺葵)』の和名を持ちます。(同上)

    新市街と旧市街との境界に建つ『自由の記念碑 (リガ)』の高さは42メートルとされます。その塔の前に飾られた沢山の花の光景です。日本ですと菊の花でしょうが、ダリアの花が多く供えられていました。ダリアもキク科ダリア属の花で、バラやチューリップと並び、最も花色のバラエティーに富んだ植物とされます。『テンジクアオイ(天竺葵)』の和名を持ちます。(同上)

  • こちらもお供え物の花の光景です。ダリアのほかには、右手前がバラの花、その奥が菊のように見えました。左奥には、カサブランカらしい大型の白いユリの姿もありました。この『自由の記念碑』が、ラトビアとリガにとって特別に大切にされていることがよく理解できました。(同上)

    こちらもお供え物の花の光景です。ダリアのほかには、右手前がバラの花、その奥が菊のように見えました。左奥には、カサブランカらしい大型の白いユリの姿もありました。この『自由の記念碑』が、ラトビアとリガにとって特別に大切にされていることがよく理解できました。(同上)

  • ダウガワ川から分岐し、リガ旧市街の周りを流れた後で、またダウガワ川に合流する『ピルセータス運河』になるようです。旧市街と新市街の区域境にもなっています。1時間ほどの周遊の遊覧船も運行されているようでした。(同上)

    ダウガワ川から分岐し、リガ旧市街の周りを流れた後で、またダウガワ川に合流する『ピルセータス運河』になるようです。旧市街と新市街の区域境にもなっています。1時間ほどの周遊の遊覧船も運行されているようでした。(同上)

  • 同じく、『ピルセータス運河』の光景です。旧市街の東側にある長さ3キロほどの運河です。元々、ここには城壁がありましたが、1857年にロシア皇帝の『アレクサンドル2世(在位:1855~1881年)』の命令で、時代遅れになった城壁を取り壊し、幅90メートルのお堀りを掘削したとされます。(同上)

    同じく、『ピルセータス運河』の光景です。旧市街の東側にある長さ3キロほどの運河です。元々、ここには城壁がありましたが、1857年にロシア皇帝の『アレクサンドル2世(在位:1855~1881年)』の命令で、時代遅れになった城壁を取り壊し、幅90メートルのお堀りを掘削したとされます。(同上)

  • リガの新市街の建物光景になるようです。1階には、喫茶店らしいお店がありました。ラトビア語での喫茶店は、機械翻訳で『Kafejnīca』でしたが、英語表示の『Coffee』がありました。(同上)

    リガの新市街の建物光景になるようです。1階には、喫茶店らしいお店がありました。ラトビア語での喫茶店は、機械翻訳で『Kafejnīca』でしたが、英語表示の『Coffee』がありました。(同上)

  • 『ピルセータス運河』に沿った散策路の光景です。散策路の東側には、ラトビア大学が位置します。その起源は、1862年に設立されたリガ理工科学校まで遡ります。 1869年に同校は建築専門学校となりました。 リガ理工科学校はラトビアにおける『アール・ヌーヴォー(ドイツ語のユーゲント・シュティール)』の発展に、際立って重要な役割を果たしました。 現在でもリガ市内の建造物の約40%はこのスタイルによるものとされます。ラトビア最古かつ最大の大学であり、13の学部に約23000名の学生が学んでいます。(同上)

    『ピルセータス運河』に沿った散策路の光景です。散策路の東側には、ラトビア大学が位置します。その起源は、1862年に設立されたリガ理工科学校まで遡ります。 1869年に同校は建築専門学校となりました。 リガ理工科学校はラトビアにおける『アール・ヌーヴォー(ドイツ語のユーゲント・シュティール)』の発展に、際立って重要な役割を果たしました。 現在でもリガ市内の建造物の約40%はこのスタイルによるものとされます。ラトビア最古かつ最大の大学であり、13の学部に約23000名の学生が学んでいます。(同上)

  • リガ市街の光景です。リガ旧市街は歴史的また地理的にリガの中心にあり、ダウガヴァ川の右岸(東)側に位置します。旧市街は13世紀から18世紀に繁栄した堀に囲まれた比較的狭い地域に、中世の建物が数多くあります。幸いなことに第二次世界大戦でも壊されずに残り、『リガの歴史地区』として、1997年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。写真は、リガの新市街のようです。(同上)

    リガ市街の光景です。リガ旧市街は歴史的また地理的にリガの中心にあり、ダウガヴァ川の右岸(東)側に位置します。旧市街は13世紀から18世紀に繁栄した堀に囲まれた比較的狭い地域に、中世の建物が数多くあります。幸いなことに第二次世界大戦でも壊されずに残り、『リガの歴史地区』として、1997年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。写真は、リガの新市街のようです。(同上)

  • 同じく、リガ市街の光景になるようです。リガ新市街は、『ユーゲントシュティール』と呼ばれる、フランスの『アールヌーボー』に相当する建築群が数多く建設されたことで有名です。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパの都市部で流行した世紀末芸術の一つとされます。絵画、彫刻、建築、室内装飾、家具デザイン、織物、文学、音楽などあらゆる文化芸術活動に影響を及ぼしました。(同上)

    同じく、リガ市街の光景になるようです。リガ新市街は、『ユーゲントシュティール』と呼ばれる、フランスの『アールヌーボー』に相当する建築群が数多く建設されたことで有名です。19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパの都市部で流行した世紀末芸術の一つとされます。絵画、彫刻、建築、室内装飾、家具デザイン、織物、文学、音楽などあらゆる文化芸術活動に影響を及ぼしました。(同上)

  • 大きな球形のランプが五つ取り付けられた街灯の先端部の光景です。この街路灯も、リガの新市街区域に位置するかも知れません。ラトビアは、首都のリガが位置するヴィゼメ州、西部のクルゼメ州、南部のゼムガレ州と東部のラトガレ州の四州からなります。推測になりますが、四つの州を象徴するランプの中央が、その統一を象徴するランプかも知れません。(同上)

    大きな球形のランプが五つ取り付けられた街灯の先端部の光景です。この街路灯も、リガの新市街区域に位置するかも知れません。ラトビアは、首都のリガが位置するヴィゼメ州、西部のクルゼメ州、南部のゼムガレ州と東部のラトガレ州の四州からなります。推測になりますが、四つの州を象徴するランプの中央が、その統一を象徴するランプかも知れません。(同上)

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