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アレクサンドル・ネフスキー大聖堂から始まった、世界遺産の古都・タリンの旧市街見学の続きです。聖母マリア教会などを横目に、バルト海や旧市街が見渡せるパットクリ展望台とコフトウッツァ展望台に向かいました。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

2012秋、バルト三国旅行記(4/40):10月10日(2):エストニア、タリン、聖母マリア大聖堂、展望台

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2012/10/09 - 2012/10/14

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旅人のくまさん

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アレクサンドル・ネフスキー大聖堂から始まった、世界遺産の古都・タリンの旧市街見学の続きです。聖母マリア教会などを横目に、バルト海や旧市街が見渡せるパットクリ展望台とコフトウッツァ展望台に向かいました。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

  • 最後にもう一度紹介する、『トームペア城』の正面玄関付近の光景です。城塞のイメージよりも、宮殿風の造りと色彩の建物でした。『トームペア』とは、石灰岩でできた崖のような小高いところを指すようです。遅くとも11世紀には城砦が築かれていたようですが、現在の正面光景は、1767年から1773年にかけて、ロシア帝国の女帝エカテリーナ2世の命令によって造られたものです。(同上))

    最後にもう一度紹介する、『トームペア城』の正面玄関付近の光景です。城塞のイメージよりも、宮殿風の造りと色彩の建物でした。『トームペア』とは、石灰岩でできた崖のような小高いところを指すようです。遅くとも11世紀には城砦が築かれていたようですが、現在の正面光景は、1767年から1773年にかけて、ロシア帝国の女帝エカテリーナ2世の命令によって造られたものです。(同上))

  • 『トームペア区域』の街路光景です。振り返って撮影した時に気が付きましたが、壁面に人物像のようなものがありました。支配者と貴族たちの家があった地域が『アッパー・タウン(山の手)』と呼ばれていたようです。これに対して、商業の中心地だったラエコヤ広場が『ダウンタウン(下町)』の中心地だったようです。(同上)

    『トームペア区域』の街路光景です。振り返って撮影した時に気が付きましたが、壁面に人物像のようなものがありました。支配者と貴族たちの家があった地域が『アッパー・タウン(山の手)』と呼ばれていたようです。これに対して、商業の中心地だったラエコヤ広場が『ダウンタウン(下町)』の中心地だったようです。(同上)

  • 中央奥に見える尖塔は、その特徴から判断して、『聖母マリア大聖堂』のようでした。山の手になる『トームペア地区』に位置している、タリンで最も歴史の古い大聖堂です。バロック様式の建物とされます。外観は、白と黒と灰色のモノトーンの無彩色のシックな装いです。(同上)

    中央奥に見える尖塔は、その特徴から判断して、『聖母マリア大聖堂』のようでした。山の手になる『トームペア地区』に位置している、タリンで最も歴史の古い大聖堂です。バロック様式の建物とされます。外観は、白と黒と灰色のモノトーンの無彩色のシックな装いです。(同上)

  • 左手に見えるのが、無彩色の『聖母マリア大聖堂』の壁面になるようです。『聖母マリア大聖堂』は、地元では『トームキリク』と呼ばれているようです。『ルター派の教会』とされますが、『ルター派』は日本では『ルター』のドイツ語読みとされる『ルーテル』と呼ばれています。(同上)

    左手に見えるのが、無彩色の『聖母マリア大聖堂』の壁面になるようです。『聖母マリア大聖堂』は、地元では『トームキリク』と呼ばれているようです。『ルター派の教会』とされますが、『ルター派』は日本では『ルター』のドイツ語読みとされる『ルーテル』と呼ばれています。(同上)

  • 『聖母マリア大聖堂』の褐手口のような扉の光景です。宗教改革によって生まれた『プロテスタント』の中でも、最大教派とされる『ルター派』は、宗教改革の3原則 である「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」に基づく信仰の立場とされます。源流になったルターは、聖歌隊を経験し、賛美歌を作詞作曲した音楽家でした。パッヘルベル、J.S.バッハ、テレマン、メンデルスゾーンなど著名な音楽家が所属していたことでも知られます。(同上)

    『聖母マリア大聖堂』の褐手口のような扉の光景です。宗教改革によって生まれた『プロテスタント』の中でも、最大教派とされる『ルター派』は、宗教改革の3原則 である「聖書のみ」、「信仰のみ」、「恵みのみ」に基づく信仰の立場とされます。源流になったルターは、聖歌隊を経験し、賛美歌を作詞作曲した音楽家でした。パッヘルベル、J.S.バッハ、テレマン、メンデルスゾーンなど著名な音楽家が所属していたことでも知られます。(同上)

  • 『トームペア区域』の街路光景が続きます。建物の個々の名称は特定できませんでした。『ルター派』について、もう少し紹介しておきます。『宗教改革の旗手の中には、スイスの改革派教会の創始者の「ツヴィングリ(1484~1531年)」のように典礼音楽を否定したり、重視しなかった人もいましたが、「ルター(1483~1546年)」は音楽を神の賜物として高く評価しました』(同上)

    『トームペア区域』の街路光景が続きます。建物の個々の名称は特定できませんでした。『ルター派』について、もう少し紹介しておきます。『宗教改革の旗手の中には、スイスの改革派教会の創始者の「ツヴィングリ(1484~1531年)」のように典礼音楽を否定したり、重視しなかった人もいましたが、「ルター(1483~1546年)」は音楽を神の賜物として高く評価しました』(同上)

  • 『ルターは、聖歌隊を主な歌い手とするラテン語聖歌に代わって、会衆が礼拝音楽に直接参加することを唱え、一般信徒も歌うことができるドイツ語の讃美歌を書きました。とりわけ詩篇46を翻案して作詞作曲した「神はわがやぐら」は有名です。以後、ドイツ語の讃美歌(コラール)が多数創作されて教会堂で歌われるようになり、ルター派教会音楽はバッハが活躍した18世紀前半まで隆盛を誇りました』(同上)

    『ルターは、聖歌隊を主な歌い手とするラテン語聖歌に代わって、会衆が礼拝音楽に直接参加することを唱え、一般信徒も歌うことができるドイツ語の讃美歌を書きました。とりわけ詩篇46を翻案して作詞作曲した「神はわがやぐら」は有名です。以後、ドイツ語の讃美歌(コラール)が多数創作されて教会堂で歌われるようになり、ルター派教会音楽はバッハが活躍した18世紀前半まで隆盛を誇りました』(同上)

  • 『ルター派は、その後一時衰退しましたが、19世紀から20世紀にかけて徐々に復興しました。次は、絵画分野へ影響です。アルブレヒト・デューラー、ルーカス・クラナッハ、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、エゴン・シーレらの著名な画家たちもルター派に属していました。例えば、『デューラー(1471~1528年)』には『東方三博士の礼拝(1504年)』や『聖三位一体(1511年)』等の作品が、早世したオーストリアの『エゴン・シーレ(1890~1918年)』には、『自画像(1912年、1914年)』や『死と乙女(1915年)』等の代表作があります。『カール・グリュンヴァルトの肖像(1917年)』は、地元近くの豊田市美術館で何度か鑑賞しました。(同上)

    『ルター派は、その後一時衰退しましたが、19世紀から20世紀にかけて徐々に復興しました。次は、絵画分野へ影響です。アルブレヒト・デューラー、ルーカス・クラナッハ、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、エゴン・シーレらの著名な画家たちもルター派に属していました。例えば、『デューラー(1471~1528年)』には『東方三博士の礼拝(1504年)』や『聖三位一体(1511年)』等の作品が、早世したオーストリアの『エゴン・シーレ(1890~1918年)』には、『自画像(1912年、1914年)』や『死と乙女(1915年)』等の代表作があります。『カール・グリュンヴァルトの肖像(1917年)』は、地元近くの豊田市美術館で何度か鑑賞しました。(同上)

  • 『エゴン・シーレ』について、もう少し説明しておきます。『エゴン・シーレは、ウィーン近郊にあるトゥルン・アン・デア・ドナウで生まれました。父アドルフ・シーレは帝国鉄道の鉄道員として働き、後には駅長を務めました。エゴン・シーレは、当時盛んだった『グスタフ・クリムト』らのウィーン分離派を初めとして象徴派、表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求しました』(同上)

    『エゴン・シーレ』について、もう少し説明しておきます。『エゴン・シーレは、ウィーン近郊にあるトゥルン・アン・デア・ドナウで生まれました。父アドルフ・シーレは帝国鉄道の鉄道員として働き、後には駅長を務めました。エゴン・シーレは、当時盛んだった『グスタフ・クリムト』らのウィーン分離派を初めとして象徴派、表現主義に影響を受けつつも、独自の絵画を追求しました』(同上)

  • 『シーレ家は、北ドイツ出身でルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出した中産階級の家系です。鉄道技師だった祖父ルートヴィヒ・シーレ(1817~1862年)がオーストリア北西部鉄道の敷設に関わり、初代監督官に就任したことにより、オーストリア=ハンガリー帝国に住むことになりました。16歳の時に『グスタフ・クリムト(1862~1918年)』と同じウィーン工芸学校で学びました』(以上)

    『シーレ家は、北ドイツ出身でルター派教会牧師、官吏、軍人、医者を輩出した中産階級の家系です。鉄道技師だった祖父ルートヴィヒ・シーレ(1817~1862年)がオーストリア北西部鉄道の敷設に関わり、初代監督官に就任したことにより、オーストリア=ハンガリー帝国に住むことになりました。16歳の時に『グスタフ・クリムト(1862~1918年)』と同じウィーン工芸学校で学びました』(以上)

  • 屋根の上から顔を覗かせた、『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』のドーム屋根群の光景です。修復工事中らしい、青色の足場のようなものが目印になりました。2009年夏のロシア旅行で目にした、モスクワやサンクトペテルブルグのロシア正教会の建物を想い出させる光景でした。(以上)

    イチオシ

    屋根の上から顔を覗かせた、『アレクサンドル・ネフスキー大聖堂』のドーム屋根群の光景です。修復工事中らしい、青色の足場のようなものが目印になりました。2009年夏のロシア旅行で目にした、モスクワやサンクトペテルブルグのロシア正教会の建物を想い出させる光景でした。(以上)

  • 木々が生い茂る、これから紹介する『聖母マリア大聖堂』の周りの光景です。大聖堂(トームキリク)の特徴は、教会でありながらも『墓所』としての役割もあることとされます。残内部見学をする見学をすることは出来ませんでしたが、ネット情報・写真で、その様子を知ることが出来ます(トリップ・アドバイザー)。(以上)

    木々が生い茂る、これから紹介する『聖母マリア大聖堂』の周りの光景です。大聖堂(トームキリク)の特徴は、教会でありながらも『墓所』としての役割もあることとされます。残内部見学をする見学をすることは出来ませんでしたが、ネット情報・写真で、その様子を知ることが出来ます(トリップ・アドバイザー)。(以上)

  • 同じく、『聖母マリア大聖堂』の白壁の建物側面光景です。教会の壁には無数の墓碑銘や紋章、墓標や石棺があり、教会の床には墓石(最古の最古のものは13世紀から)が横たわっています。動物が描かれた肉屋のギルドや靴屋のギルドやs、地元貴族の墓石などがあります。(同上)

    同じく、『聖母マリア大聖堂』の白壁の建物側面光景です。教会の壁には無数の墓碑銘や紋章、墓標や石棺があり、教会の床には墓石(最古の最古のものは13世紀から)が横たわっています。動物が描かれた肉屋のギルドや靴屋のギルドやs、地元貴族の墓石などがあります。(同上)

  • 手前の樹木で、半ば隠れてしまいましたが、『聖母マリア大聖堂』の尖塔と建物の光景です。エストニアの世界遺産『タリン歴史地区』の『山の手』に位置する教会で、『トームペア(タリンの山の手地区)』の語源にもなった教会です。(同上)

    手前の樹木で、半ば隠れてしまいましたが、『聖母マリア大聖堂』の尖塔と建物の光景です。エストニアの世界遺産『タリン歴史地区』の『山の手』に位置する教会で、『トームペア(タリンの山の手地区)』の語源にもなった教会です。(同上)

  • 『聖母マリア大聖堂』の光景です。エストニア語では『トームキリク(Toomkirik)』と呼ばれているようでした。『トームキリク』は、元々は13世紀にデンマーク人によって設立されたカトリックの大聖堂でしたが、1561年にはルター派の教会になりました。現在は、この白いゴシック様式の大聖堂は、エストニア福音ルター派教会(エストニア教会)のタリン司教座聖堂です(アメージング・トラベル)。(以上)

    『聖母マリア大聖堂』の光景です。エストニア語では『トームキリク(Toomkirik)』と呼ばれているようでした。『トームキリク』は、元々は13世紀にデンマーク人によって設立されたカトリックの大聖堂でしたが、1561年にはルター派の教会になりました。現在は、この白いゴシック様式の大聖堂は、エストニア福音ルター派教会(エストニア教会)のタリン司教座聖堂です(アメージング・トラベル)。(以上)

  • 『聖母マリア大聖堂』の尖塔のズームアップ光景です。内部見学の時間はありませんでしたが、トームキリクの内部は、バロック様式で装飾されています。トームキリクには、美しい主祭壇や、多くの17~20世紀の碑文が刻まれた紋章などがあります。また、多くの13~18世紀の墓石があちらこちらに置かれています。(同上)

    イチオシ

    『聖母マリア大聖堂』の尖塔のズームアップ光景です。内部見学の時間はありませんでしたが、トームキリクの内部は、バロック様式で装飾されています。トームキリクには、美しい主祭壇や、多くの17~20世紀の碑文が刻まれた紋章などがあります。また、多くの13~18世紀の墓石があちらこちらに置かれています。(同上)

  • 別の方角からズームアップした、『聖母マリア大聖堂』の尖塔の光景です。創建から何度も修復が繰り返されたため、大聖堂(トームキリク)は、さまざまな建築様式が混在する教会となりました。1684年には、トームペアを襲った大火災によって大部分を消失しましたが、約100年の年月をかけて再建されました。有料ですが、内部見学も尖塔に登ることもできるようです。(同上)

    別の方角からズームアップした、『聖母マリア大聖堂』の尖塔の光景です。創建から何度も修復が繰り返されたため、大聖堂(トームキリク)は、さまざまな建築様式が混在する教会となりました。1684年には、トームペアを襲った大火災によって大部分を消失しましたが、約100年の年月をかけて再建されました。有料ですが、内部見学も尖塔に登ることもできるようです。(同上)

  • 『エゴン・シーレ』と『グスタフ・クリムト』の紹介が、少し中途半端でしたから、説明を追加しておきます。エゴン・シーレは1890年生まれ、クリムトは1862年の生まれですから、クリムトの方が28歳年上になります。シーレは、クリムトの弟子だった時代があり、彼の才能を認めていたクリムトは、非常に彼を可愛がっていたようです。(同上)

    『エゴン・シーレ』と『グスタフ・クリムト』の紹介が、少し中途半端でしたから、説明を追加しておきます。エゴン・シーレは1890年生まれ、クリムトは1862年の生まれですから、クリムトの方が28歳年上になります。シーレは、クリムトの弟子だった時代があり、彼の才能を認めていたクリムトは、非常に彼を可愛がっていたようです。(同上)

  • 幼少期のシーレは、初等教育を受けるためにクロスターノイブルク市(オーストリア)へ移住、そこで美術担当の教員から早熟な才能を認められています。教師からの推薦を受けたことはシーレにとって大きな後押しとなりました。15歳の時に父が病没し、叔父レオポルドに引き取られました。叔父はシーレが学業に励まないことに悩んだようです。(同上)

    幼少期のシーレは、初等教育を受けるためにクロスターノイブルク市(オーストリア)へ移住、そこで美術担当の教員から早熟な才能を認められています。教師からの推薦を受けたことはシーレにとって大きな後押しとなりました。15歳の時に父が病没し、叔父レオポルドに引き取られました。叔父はシーレが学業に励まないことに悩んだようです。(同上)

  • 叔父は、シーレが芸術への強い興味を示したことに、愛情を持って接しました。シーレは、ギムナジウム(中等教育)ではなく、職人としての訓練を受ける許可を得て、16歳の時にグスタフ・クリムトと同じウィーン工芸学校に学びました。因みにシーレがアカデミーに入学した、1906年の翌年と翌々年にはアドルフ・ヒトラーが同アカデミーを受験して不合格となっています。(同上)

    叔父は、シーレが芸術への強い興味を示したことに、愛情を持って接しました。シーレは、ギムナジウム(中等教育)ではなく、職人としての訓練を受ける許可を得て、16歳の時にグスタフ・クリムトと同じウィーン工芸学校に学びました。因みにシーレがアカデミーに入学した、1906年の翌年と翌々年にはアドルフ・ヒトラーが同アカデミーを受験して不合格となっています。(同上)

  • 保守的で時代錯誤な古典主義を継承するアカデミーに価値を感じなかったシーレは、アカデミーの授業から離れ、代わりに工芸学校時代の先輩であるグスタフ・クリムトに弟子入りを志願しました。クリムトとシーレの作風は、必ずしも同じ路線ではありませんでしたが、クリムトは熱意ある後輩を大いに可愛がったようです。(以上)

    保守的で時代錯誤な古典主義を継承するアカデミーに価値を感じなかったシーレは、アカデミーの授業から離れ、代わりに工芸学校時代の先輩であるグスタフ・クリムトに弟子入りを志願しました。クリムトとシーレの作風は、必ずしも同じ路線ではありませんでしたが、クリムトは熱意ある後輩を大いに可愛がったようです。(以上)

  • オランダの国章です。下部に『Je Maintiendrai』の表示がありましたが、強い意味での『私は維持するだろう』と解説されていました。大紋章は、オランダ国王の個人的な紋章で、国は中紋章を利用しています。紋章の構成は、第4代オランダ国王)の『ウィルヘルミナ(在位:1890~1948年)』と、第5代の『ユリアナ(在位:1948~1980年)』の両女王によって定められました。13世紀中盤に成立したナッサウ家の『金のビレットを散らした青地に、赤色の爪と舌を持つ金色のライオン』という紋章に、オランダ共和国由来の王冠、剣及び7本の矢が組み合わされて、1815年に今のものとほぼ同じ紋章が採択されました。(以上)

    オランダの国章です。下部に『Je Maintiendrai』の表示がありましたが、強い意味での『私は維持するだろう』と解説されていました。大紋章は、オランダ国王の個人的な紋章で、国は中紋章を利用しています。紋章の構成は、第4代オランダ国王)の『ウィルヘルミナ(在位:1890~1948年)』と、第5代の『ユリアナ(在位:1948~1980年)』の両女王によって定められました。13世紀中盤に成立したナッサウ家の『金のビレットを散らした青地に、赤色の爪と舌を持つ金色のライオン』という紋章に、オランダ共和国由来の王冠、剣及び7本の矢が組み合わされて、1815年に今のものとほぼ同じ紋章が採択されました。(以上)

  • オランダの国章が表示されていた、三角屋根の建物光景です。守衛室のような造りで、主要な建物は、鉄柵で囲われた中にあるようでした。推測ですが、在エストニアのオランダ大使館、もしくは領事館当たりのようでした。(同上)

    オランダの国章が表示されていた、三角屋根の建物光景です。守衛室のような造りで、主要な建物は、鉄柵で囲われた中にあるようでした。推測ですが、在エストニアのオランダ大使館、もしくは領事館当たりのようでした。(同上)

  • 石畳の歩道に散り敷いた、黄葉や褐葉の光景です。参考までに、日本とエストニアの関係では、1991年9月6日、日本がエストニアの独立を承認。1991年10月10日に両国間の外交関係が樹立され、1993年1月に大使館が開設されました。ただし、大使がタリンに常駐するようになったのは、2010年1月からです。(同上)

    石畳の歩道に散り敷いた、黄葉や褐葉の光景です。参考までに、日本とエストニアの関係では、1991年9月6日、日本がエストニアの独立を承認。1991年10月10日に両国間の外交関係が樹立され、1993年1月に大使館が開設されました。ただし、大使がタリンに常駐するようになったのは、2010年1月からです。(同上)

  • 大きな建物の裏口光景になるようでした。頑丈な門柱が建ち、観音開きの扉が付いて、鉄製の柵で囲われた一画です。その裏門を潜った先の広場が、駐車場として使われているようでした。(同上)

    大きな建物の裏口光景になるようでした。頑丈な門柱が建ち、観音開きの扉が付いて、鉄製の柵で囲われた一画です。その裏門を潜った先の広場が、駐車場として使われているようでした。(同上)

  • 『パットクリ展望台』に向かう途中で目にした光景です。既存の建物の改修工事が行われていました。世界遺産に指定された区域での改修工事ですから、許認可工事の届け出や、工事上でも制約などが多いことが想像され、つい、同情してしまいました。(同上)

    『パットクリ展望台』に向かう途中で目にした光景です。既存の建物の改修工事が行われていました。世界遺産に指定された区域での改修工事ですから、許認可工事の届け出や、工事上でも制約などが多いことが想像され、つい、同情してしまいました。(同上)

  • この辺りは、改修工事が済んだ区域のようでしたが、2階辺りに張り出した足場は、改修工事のための一時的な仮足場のように見えました。仮足場ですと、改修工事はこれからになるようです。石造の家屋から張り出した、真新しい仮足場のようでしたから、周りの景観とは疾駆しない部分がありました。(同上)

    この辺りは、改修工事が済んだ区域のようでしたが、2階辺りに張り出した足場は、改修工事のための一時的な仮足場のように見えました。仮足場ですと、改修工事はこれからになるようです。石造の家屋から張り出した、真新しい仮足場のようでしたから、周りの景観とは疾駆しない部分がありました。(同上)

  • 表通りから覗き込んだ、泰地区中らしい建物の内部光景です。左下に作業中の人の姿が見えました。床に天井、それに壁も剥がされていました。建物外壁は、石造のようでした。この辺りは、いわゆる「山の手」と呼ばれルエリアです。(同上)

    表通りから覗き込んだ、泰地区中らしい建物の内部光景です。左下に作業中の人の姿が見えました。床に天井、それに壁も剥がされていました。建物外壁は、石造のようでした。この辺りは、いわゆる「山の手」と呼ばれルエリアです。(同上)

  • 見晴らし台に到着したようです。『パットクリ展望台』からの眺望になるようです。パットクリ展望台は、タリン旧市街のトームペアの丘の北側にあります。また、ここから100メートル北東には、『コフトゥ展望台』があるようです。中央、やや左寄りに見える尖塔は、『聖オレフ教会』になるようです。(同上)

    見晴らし台に到着したようです。『パットクリ展望台』からの眺望になるようです。パットクリ展望台は、タリン旧市街のトームペアの丘の北側にあります。また、ここから100メートル北東には、『コフトゥ展望台』があるようです。中央、やや左寄りに見える尖塔は、『聖オレフ教会』になるようです。(同上)

  • 『パットクリ展望台』からの眺望が続きまカメラを少し少し左に振った光景です。先ほどの『聖オレフ教会』の尖塔が、中央よりやや右手に替わりました。眼下、やや右手に見えているのはトーンペア城になるようです。(同上)

    イチオシ

    『パットクリ展望台』からの眺望が続きまカメラを少し少し左に振った光景です。先ほどの『聖オレフ教会』の尖塔が、中央よりやや右手に替わりました。眼下、やや右手に見えているのはトーンペア城になるようです。(同上)

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