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リガの旧市街紹介の続きです。市庁舎広場に面して建つブラックヘッド会館や、再建された市庁舎等を見学しました。タイトルの写真は、ブラックヘッド会館のファサード最上部の装飾です。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

2012秋、バルト三国旅行記(16/40):10月11日(5):ラトビア、リガ、旧市街、ブラックヘッド会館、市庁舎

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2012/10/09 - 2012/10/14

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旅人のくまさん

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リガの旧市街紹介の続きです。市庁舎広場に面して建つブラックヘッド会館や、再建された市庁舎等を見学しました。タイトルの写真は、ブラックヘッド会館のファサード最上部の装飾です。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)

  • 木々の間から眺めた、『市庁舎広場』方面の光景です。中央左手に見えるのは『リガ・ブルス美術館(ラトビア語: Mākslas muzejs Rīgas Birža)』です。1920年に設立され、紀元前5000年から現在まで遡る古代エジプトから中東の芸術を含む、ラトビアで最も広範な世界美術のコレクションを持つ美術館のようです。(同上)

    木々の間から眺めた、『市庁舎広場』方面の光景です。中央左手に見えるのは『リガ・ブルス美術館(ラトビア語: Mākslas muzejs Rīgas Birža)』です。1920年に設立され、紀元前5000年から現在まで遡る古代エジプトから中東の芸術を含む、ラトビアで最も広範な世界美術のコレクションを持つ美術館のようです。(同上)

  • 『市庁舎広場』とその周りの建物光景です。中央の明るい茶色の建物が、先ほど紹介した館』です。その背後に見えるのが、『聖ヨハネ教会』の尖塔になるようです。ドミニコ修道会が、1234年に修道院礼拝所として設立したのが始まりとされます。市庁舎広場からは、東側方面になります。(同上)<br />

    『市庁舎広場』とその周りの建物光景です。中央の明るい茶色の建物が、先ほど紹介した館』です。その背後に見えるのが、『聖ヨハネ教会』の尖塔になるようです。ドミニコ修道会が、1234年に修道院礼拝所として設立したのが始まりとされます。市庁舎広場からは、東側方面になります。(同上)

  • リガの国立オペラ座の建物を見学中に目にした、渡り鳥の光景ですが、市庁舎広場でもV字の編隊飛行を目にしました。白鳥や雁や鶴、ツバメなどは代表的な渡り鳥ですが、『V字型の編隊』は、その中の大型の鳥が長距離を楽に飛ぶために生まれたフォーメーションとされます。(同上)

    リガの国立オペラ座の建物を見学中に目にした、渡り鳥の光景ですが、市庁舎広場でもV字の編隊飛行を目にしました。白鳥や雁や鶴、ツバメなどは代表的な渡り鳥ですが、『V字型の編隊』は、その中の大型の鳥が長距離を楽に飛ぶために生まれたフォーメーションとされます。(同上)

  • 何やらいわくありげな赤レンガ造りの壁面に設けられた白い壁面の光景です。写真紹介はしましたが、内容は判断付きませんでした。代わりに『V字型の編隊』の説明の続きです。鳥は羽ばたくことで、飛行機と同じように、翼の下を高い気圧、下を低い気圧にして飛んでいます。その時翼の先端では高い気圧から低い気圧に向かって空気が移動し上向きの渦状の気流が形成されます。この出来上がった渦は、後方に向かって残って行きますので、後ろを飛ぶ鳥たちは、この上向きの気流に上手く乗ることで体が自然と押し上げられ楽に飛ぶことが可能となります。(同上)

    何やらいわくありげな赤レンガ造りの壁面に設けられた白い壁面の光景です。写真紹介はしましたが、内容は判断付きませんでした。代わりに『V字型の編隊』の説明の続きです。鳥は羽ばたくことで、飛行機と同じように、翼の下を高い気圧、下を低い気圧にして飛んでいます。その時翼の先端では高い気圧から低い気圧に向かって空気が移動し上向きの渦状の気流が形成されます。この出来上がった渦は、後方に向かって残って行きますので、後ろを飛ぶ鳥たちは、この上向きの気流に上手く乗ることで体が自然と押し上げられ楽に飛ぶことが可能となります。(同上)

  • 『V字型の編隊』の説明を続けます。『V字型の編隊』では、風の抵抗をモロに受ける先頭の鳥がかなり体力的にキツくなります。このため、体力のある成鳥が優先的に先頭を飛び、順次先頭交代をしながら、ローテーションで長旅を飛び続けるようです。これは、人間の世界でも自転車ロードレースやスケート競技などにも取り入れられている原理です。日本にやってくる渡り鳥では、『冬鳥』と呼ばれる、白鳥、雁、鶴などの大型の鳥が編隊飛行をします。シベリア辺りからの飛行距離は、数千キロに及ぶようです。(以上)

    『V字型の編隊』の説明を続けます。『V字型の編隊』では、風の抵抗をモロに受ける先頭の鳥がかなり体力的にキツくなります。このため、体力のある成鳥が優先的に先頭を飛び、順次先頭交代をしながら、ローテーションで長旅を飛び続けるようです。これは、人間の世界でも自転車ロードレースやスケート競技などにも取り入れられている原理です。日本にやってくる渡り鳥では、『冬鳥』と呼ばれる、白鳥、雁、鶴などの大型の鳥が編隊飛行をします。シベリア辺りからの飛行距離は、数千キロに及ぶようです。(以上)

  • リガ旧市街の『ユーゲント・シュティール建築群』と呼ばれる様式の建物の紹介です。フランスの『アール・ヌーボー』に相当します。リガの街は、その素晴らしさから、かつては『バルトのパリ』とも呼ばれていたようです。狭い石畳の通りが印象的なリガ旧市街には、中世時代の豪華な建物だけではなく、様々な時代のユニークな建築スタイルを見ることができます。(同上)

    リガ旧市街の『ユーゲント・シュティール建築群』と呼ばれる様式の建物の紹介です。フランスの『アール・ヌーボー』に相当します。リガの街は、その素晴らしさから、かつては『バルトのパリ』とも呼ばれていたようです。狭い石畳の通りが印象的なリガ旧市街には、中世時代の豪華な建物だけではなく、様々な時代のユニークな建築スタイルを見ることができます。(同上)

  • 名前:『キダチチョウセンアサガオ(木立朝鮮朝顔)』<br />分類:ナス科キダチチョウセンアサガオ属<br />分布:中南米、インド地方原産。<br />その他:アルカロイドなどを含む有毒植物です。ダチュラの別名や、エンジェルス・トランペットの呼び名もあります。(同上)

    名前:『キダチチョウセンアサガオ(木立朝鮮朝顔)』
    分類:ナス科キダチチョウセンアサガオ属
    分布:中南米、インド地方原産。
    その他:アルカロイドなどを含む有毒植物です。ダチュラの別名や、エンジェルス・トランペットの呼び名もあります。(同上)

  • 世界文化資産に登録されている、リガの旧市街の裏町光景です。『リガの旧市街』は、ラトビア語で、『ヴェツリガ(Vecrīga)』と呼ばれています。19世紀後半に市域が拡大されるまでは、『ヴェツリガ』はリガ市そのものだった、とされます。1980年代、ヴェツリガの通りは車両通行禁止区域に指定され、住人用の乗り物や配達用乗り物の乗り入れだけが市の特別許可で可能となりました。ヴェツリガは国際連合教育科学文化機関(通称UNESCO)の世界遺産リストにリガ歴史地区として登録されました。(同上)

    世界文化資産に登録されている、リガの旧市街の裏町光景です。『リガの旧市街』は、ラトビア語で、『ヴェツリガ(Vecrīga)』と呼ばれています。19世紀後半に市域が拡大されるまでは、『ヴェツリガ』はリガ市そのものだった、とされます。1980年代、ヴェツリガの通りは車両通行禁止区域に指定され、住人用の乗り物や配達用乗り物の乗り入れだけが市の特別許可で可能となりました。ヴェツリガは国際連合教育科学文化機関(通称UNESCO)の世界遺産リストにリガ歴史地区として登録されました。(同上)

  • 先ほどの写真の左上に打見えていた、尖塔の最上部と、風見鶏の屋根飾りのズームアップ光景です。この見覚えのある尖塔は、先に紹介した『リガ大聖堂』になります。1211年に創建された、ルーテル教会の大聖堂です。尖塔の上にはリガのシンボルの一つとされる、雄鶏の風見鶏が設置されています。初代の風見鶏の雄鶏は、今でも大聖堂内部に展示されているようです。1211年の創建以来、1561年に『リヴォニア(Livonia)』が崩壊するまではリヴォニア司教座が置かれていました。リヴォニアは、現在のラトビアの東北部(ヴィドゼメ地方)からエストニアの南部にかけての地域です。(同上)

    先ほどの写真の左上に打見えていた、尖塔の最上部と、風見鶏の屋根飾りのズームアップ光景です。この見覚えのある尖塔は、先に紹介した『リガ大聖堂』になります。1211年に創建された、ルーテル教会の大聖堂です。尖塔の上にはリガのシンボルの一つとされる、雄鶏の風見鶏が設置されています。初代の風見鶏の雄鶏は、今でも大聖堂内部に展示されているようです。1211年の創建以来、1561年に『リヴォニア(Livonia)』が崩壊するまではリヴォニア司教座が置かれていました。リヴォニアは、現在のラトビアの東北部(ヴィドゼメ地方)からエストニアの南部にかけての地域です。(同上)

  • 別の場所から眺めた、リガ大聖堂の尖塔光景です。かつては修道院や学校も併設していました。14世紀末から15世紀初頭にかけて、会衆席の西側部分と礼拝堂を増築し、さらに身廊の側壁を高くして、バシリカ様式の聖堂へと改築されました。現在の建物は、ロシア帝国時代の1775年に再建されたもので高さは90メートルほどです。かつては、140メートルの高さがあったとも伝わる尖塔です。この後、1558年から1583年にかけて起きた『リヴォニア戦争』について説明します。(同上)

    イチオシ

    別の場所から眺めた、リガ大聖堂の尖塔光景です。かつては修道院や学校も併設していました。14世紀末から15世紀初頭にかけて、会衆席の西側部分と礼拝堂を増築し、さらに身廊の側壁を高くして、バシリカ様式の聖堂へと改築されました。現在の建物は、ロシア帝国時代の1775年に再建されたもので高さは90メートルほどです。かつては、140メートルの高さがあったとも伝わる尖塔です。この後、1558年から1583年にかけて起きた『リヴォニア戦争』について説明します。(同上)

  • 『リヴォニア戦争』は、『テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニア、リヴォニア)』の支配を巡り、『モスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)』と、『ポーランド・リトアニア連合』、『スウェーデン王国』などが、リヴォニアを主戦場に戦った戦争です。ロシアのツァーリの『イヴァン4世』が、リヴォニア騎士団領に侵攻して開戦しました。(同上)

    『リヴォニア戦争』は、『テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニア、リヴォニア)』の支配を巡り、『モスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)』と、『ポーランド・リトアニア連合』、『スウェーデン王国』などが、リヴォニアを主戦場に戦った戦争です。ロシアのツァーリの『イヴァン4世』が、リヴォニア騎士団領に侵攻して開戦しました。(同上)

  • 『リヴォニア戦争』は、リヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合(後のポーランド・リトアニア共和国)が相互安全保障条約を結び、ロシアの『イヴァン4世』は、リヴォニアによるロシアへの敵対行為とみなしたことがきっかけです。ロシアの『イヴァン4世』は、『イヴァン雷帝』とも呼ばれた、モスクワ・ロシアの『初代ツァーリ(在位:1547~1574年、1576~1584年)』です。(同上)

    『リヴォニア戦争』は、リヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合(後のポーランド・リトアニア共和国)が相互安全保障条約を結び、ロシアの『イヴァン4世』は、リヴォニアによるロシアへの敵対行為とみなしたことがきっかけです。ロシアの『イヴァン4世』は、『イヴァン雷帝』とも呼ばれた、モスクワ・ロシアの『初代ツァーリ(在位:1547~1574年、1576~1584年)』です。(同上)

  • 1561年、リヴォニア騎士団は解散しました。『テッラ・マリアナ』は、リヴォニア公国とスウェーデン・エストニアとなり、デンマーク王はBishopric of Ösel?Wiekを買いました。1558年から1578年まで、タルトゥやナルヴァでの軍事的成功と共にロシアの支配が主流となりました。1582年のヤム・ザポルスキの和約のもと、ロシアとポーランド・リトアニア共和国との戦いは終戦しました。(以上)

    1561年、リヴォニア騎士団は解散しました。『テッラ・マリアナ』は、リヴォニア公国とスウェーデン・エストニアとなり、デンマーク王はBishopric of Ösel?Wiekを買いました。1558年から1578年まで、タルトゥやナルヴァでの軍事的成功と共にロシアの支配が主流となりました。1582年のヤム・ザポルスキの和約のもと、ロシアとポーランド・リトアニア共和国との戦いは終戦しました。(以上)

  • 名前:『ゼラニウム』:推定<br />分類:フウロソウ科ペラルゴニウム属<br />分布:南アフリカ原産。<br />その他:純白の花のゼラニウムのようでした。『天竺葵(てんじくあおい)』の和名を持ちます。主に葉の形からの推定でした。(同上)

    名前:『ゼラニウム』:推定
    分類:フウロソウ科ペラルゴニウム属
    分布:南アフリカ原産。
    その他:純白の花のゼラニウムのようでした。『天竺葵(てんじくあおい)』の和名を持ちます。主に葉の形からの推定でした。(同上)

  • 『リヴォニア戦争』の説明の補足です。西欧との通商を求めてバルト海への進出を試みたモスクワのツァーリ・イヴァン4世が、『リヴォニア騎士団」へ宣戦布告し、リヴォニア戦争は開戦しました。『リヴォニア騎士団」は、ドイツ騎士団のリヴォニア地域にあった自治的な分団です。1237年から1290年までに、リヴォニア騎士団はクールラント、リヴォニア、セミガリアの全域を征服しましたが、ロシア北辺への侵入の際は、『ラコボルの戦い(1268年)』で撃退されました。1346年、騎士団はデンマーク王ヴァルデマー4世からエストニア公国を買い取りました。また、1435年から1561年までリヴォニア連盟に参加していました。(同上)

    『リヴォニア戦争』の説明の補足です。西欧との通商を求めてバルト海への進出を試みたモスクワのツァーリ・イヴァン4世が、『リヴォニア騎士団」へ宣戦布告し、リヴォニア戦争は開戦しました。『リヴォニア騎士団」は、ドイツ騎士団のリヴォニア地域にあった自治的な分団です。1237年から1290年までに、リヴォニア騎士団はクールラント、リヴォニア、セミガリアの全域を征服しましたが、ロシア北辺への侵入の際は、『ラコボルの戦い(1268年)』で撃退されました。1346年、騎士団はデンマーク王ヴァルデマー4世からエストニア公国を買い取りました。また、1435年から1561年までリヴォニア連盟に参加していました。(同上)

  • 『リヴォニア戦争』の説明の補足が続きます。1410年、タンネンベルクの戦いにおいて、ドイツ騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に敗北しました。この戦いは、ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争中の1410年7月15日、ポーランド王国軍とリトアニア大公国軍の連合軍が、ドイツ騎士団を破った戦いです。騎士団は、フォン・ユンギンゲンをはじめ幹部のほとんどが、戦死するか捕虜となる大敗北を喫しました。(同上)<br />*写真は、遊園地のような広場に置かれたブロンズ製の飾り物の光景です。

    『リヴォニア戦争』の説明の補足が続きます。1410年、タンネンベルクの戦いにおいて、ドイツ騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に敗北しました。この戦いは、ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争中の1410年7月15日、ポーランド王国軍とリトアニア大公国軍の連合軍が、ドイツ騎士団を破った戦いです。騎士団は、フォン・ユンギンゲンをはじめ幹部のほとんどが、戦死するか捕虜となる大敗北を喫しました。(同上)
    *写真は、遊園地のような広場に置かれたブロンズ製の飾り物の光景です。

  • ポーランド・リトアニア連合軍は、さらにドイツ騎士団国の首都マリーエンブルク(現在のマルボルク)まで攻め込みましたが、ドイツ騎士団はこのマリーエンブルク包囲戦を耐え抜き、翌年の第一次トルンの和約で領土喪失を最小限に抑えました。両陣営の領土をめぐる戦争は、1422年のメルノの和約まで続きました。騎士団はタンネンベルクで受けた打撃から立ち直り切ることができず、また重い賠償金のために内部抗争が起こりました。(同上)

    ポーランド・リトアニア連合軍は、さらにドイツ騎士団国の首都マリーエンブルク(現在のマルボルク)まで攻め込みましたが、ドイツ騎士団はこのマリーエンブルク包囲戦を耐え抜き、翌年の第一次トルンの和約で領土喪失を最小限に抑えました。両陣営の領土をめぐる戦争は、1422年のメルノの和約まで続きました。騎士団はタンネンベルクで受けた打撃から立ち直り切ることができず、また重い賠償金のために内部抗争が起こりました。(同上)

  • 『タンネンベルクの戦い』は中世ヨーロッパ全体で見ても最大級の戦闘であり、ポーランド史上、リトアニア史上においては特に重要な勝利の一つと考えられています。20世紀には、ナチスのプロパガンダやソビエト連邦のプロパガンダの中でもタンネンベルクの戦いが利用されました。各国に残る大きく食い違った史料を冷静に比較し、歴史学的に評価されるようになったのは、1960年代以降とされます。(以上)

    『タンネンベルクの戦い』は中世ヨーロッパ全体で見ても最大級の戦闘であり、ポーランド史上、リトアニア史上においては特に重要な勝利の一つと考えられています。20世紀には、ナチスのプロパガンダやソビエト連邦のプロパガンダの中でもタンネンベルクの戦いが利用されました。各国に残る大きく食い違った史料を冷静に比較し、歴史学的に評価されるようになったのは、1960年代以降とされます。(以上)

  • 市庁舎広場に面した『ブラックヘッド会館(右側)』と、再建された『シュワブ会館(左)』の光景です。『ブラックヘッド』とは、当時の貿易商人のうち独身男性の集まりのことを意味します。現在は『ブラックヘッドハウスの会館』として公開されていて、盛大にパーティーが行われていた当時の様子を偲ぶことが出来ます。(同上)

    市庁舎広場に面した『ブラックヘッド会館(右側)』と、再建された『シュワブ会館(左)』の光景です。『ブラックヘッド』とは、当時の貿易商人のうち独身男性の集まりのことを意味します。現在は『ブラックヘッドハウスの会館』として公開されていて、盛大にパーティーが行われていた当時の様子を偲ぶことが出来ます。(同上)

  • 『ブラックヘッド会館(右側)』と、『シュワブ会館(左)』のズームアップ光景です。その個性的な外観で観光客を魅了するブラックヘッドハウスは、かつてギルドメンバーのパーティーホールとして使用されていた建物です。建物上部に見える金細工の大時計が美しく、時計の下にはハンザ都市同盟メンバーのリガ、リューベック、ブレーメン、ハンブルクの紋章も記されています。(同上)

    イチオシ

    『ブラックヘッド会館(右側)』と、『シュワブ会館(左)』のズームアップ光景です。その個性的な外観で観光客を魅了するブラックヘッドハウスは、かつてギルドメンバーのパーティーホールとして使用されていた建物です。建物上部に見える金細工の大時計が美しく、時計の下にはハンザ都市同盟メンバーのリガ、リューベック、ブレーメン、ハンブルクの紋章も記されています。(同上)

  • 『ブラックヘッド会館』は、15世紀に建造されたものの、第二次世界大戦中の1941年にドイツ軍の空襲により破壊されました。しかし、1999年にかつての姿を完璧に再現して再建されました。その建物光景です。先に紹介した『シュワブ会館』は、ネット情報によれば、『再建されている建物なので、新しく見えますが、長い歴史を持っています。オランダの建物をモデルにしているようですが、屋根が個性的でとても見ごたえがありました』、と紹介されていましたが、詳しいことは確認できませんでした。このブラックヘッド会館と一体のようにもみえる、大きさとデザインの建物です。(同上)

    イチオシ

    『ブラックヘッド会館』は、15世紀に建造されたものの、第二次世界大戦中の1941年にドイツ軍の空襲により破壊されました。しかし、1999年にかつての姿を完璧に再現して再建されました。その建物光景です。先に紹介した『シュワブ会館』は、ネット情報によれば、『再建されている建物なので、新しく見えますが、長い歴史を持っています。オランダの建物をモデルにしているようですが、屋根が個性的でとても見ごたえがありました』、と紹介されていましたが、詳しいことは確認できませんでした。このブラックヘッド会館と一体のようにもみえる、大きさとデザインの建物です。(同上)

  • 『ブラックヘッド会館』の正面出入口付近のズームアップ光景です。オリジナルは1344年に建てられた、『ブラックヘッド・ブラザーフッド』と呼ばれる地元の独身の商人協会の集会所とされます。この商人協会は、エストニアとラトビアで14世紀から1940年まで活動していたようです。お祭り騒ぎが好きな連中の集まる協会だったらしく、最盛期には王家のメンバーもお忍びで、彼らのパーティーに加わっていたようです。そんな雰囲気が残る建物です。(同上)<br />(追記):2012年から2016年までリガ城(大統領官邸)の改修工事が行われていた4年間は、この建物がラトビア大統領の仮の官邸として利用されていました。

    『ブラックヘッド会館』の正面出入口付近のズームアップ光景です。オリジナルは1344年に建てられた、『ブラックヘッド・ブラザーフッド』と呼ばれる地元の独身の商人協会の集会所とされます。この商人協会は、エストニアとラトビアで14世紀から1940年まで活動していたようです。お祭り騒ぎが好きな連中の集まる協会だったらしく、最盛期には王家のメンバーもお忍びで、彼らのパーティーに加わっていたようです。そんな雰囲気が残る建物です。(同上)
    (追記):2012年から2016年までリガ城(大統領官邸)の改修工事が行われていた4年間は、この建物がラトビア大統領の仮の官邸として利用されていました。

  • 『ブラックヘッド会館』の正面出入口の右手に飾られた人物像の光景です。白地に赤十字の旗を右手に、赤地に白十字の旗を左手に持っていました。赤地に白の十字架の国旗は、現在はデンマーク国旗に使われています。『ダンネブロ』と呼ばれ、オーストリア国旗やスコットランド国旗と並んで、現在使用されている国旗の中で世界最古の国旗といわれています。白地に赤色の旗は、現在は国際赤十字の旗として有名です。1864年に締結された『ジュネーブ条約(赤十字条約)』は、戦時における傷病者と捕虜に関する国際条約です。ただし、白十字、赤十字の説明と、この像との関係は分かりません。(同上)

    『ブラックヘッド会館』の正面出入口の右手に飾られた人物像の光景です。白地に赤十字の旗を右手に、赤地に白十字の旗を左手に持っていました。赤地に白の十字架の国旗は、現在はデンマーク国旗に使われています。『ダンネブロ』と呼ばれ、オーストリア国旗やスコットランド国旗と並んで、現在使用されている国旗の中で世界最古の国旗といわれています。白地に赤色の旗は、現在は国際赤十字の旗として有名です。1864年に締結された『ジュネーブ条約(赤十字条約)』は、戦時における傷病者と捕虜に関する国際条約です。ただし、白十字、赤十字の説明と、この像との関係は分かりません。(同上)

  • 『ブラックヘッド会館』のファサード最先端の飾りのズームアップ光景です。リガの街の光景では、ブラックヘッド会館に夕日が当たる時が一番が美しいとの書き込みがありましたが、残念ながら、夕日が当たった光景ではありませんでした。夕日のことはさて措いて、リガで最も美しい建物との評価がある『ブラックヘッド会館』です。(同上)

    『ブラックヘッド会館』のファサード最先端の飾りのズームアップ光景です。リガの街の光景では、ブラックヘッド会館に夕日が当たる時が一番が美しいとの書き込みがありましたが、残念ながら、夕日が当たった光景ではありませんでした。夕日のことはさて措いて、リガで最も美しい建物との評価がある『ブラックヘッド会館』です。(同上)

  • 『四体のギリシャ神話の神々蔵』の壁面装飾の光景です。その上部に、4都市の紋章がありましたが、その際株が少しだけ写っているだけです。因みに4体並んでいる像の上の紋章は、ハンザ同盟を組んでいた4都市です。リガ、ハンブルク、ブレーメン、とリューベックの四都市です。推定ですが、その四都市の守護聖人像かも知れません。リガですと、ローランドになります。(同上)

    『四体のギリシャ神話の神々蔵』の壁面装飾の光景です。その上部に、4都市の紋章がありましたが、その際株が少しだけ写っているだけです。因みに4体並んでいる像の上の紋章は、ハンザ同盟を組んでいた4都市です。リガ、ハンブルク、ブレーメン、とリューベックの四都市です。推定ですが、その四都市の守護聖人像かも知れません。リガですと、ローランドになります。(同上)

  • 左上に1334年を示すらしい表示があった大時計の光景です。月日や時間、月齢までも刻む大時計を手掛けた職人は、同じものを他で造ることができないようにと、目がくり抜かれたと言う伝説が残るようこの種の日本にもたくさんあり、たくさんあり、石垣から突き落とされたり、井戸に投げ落とされたりと様々です。ところで、1334年は、『ブラックヘッド会館』の創建年になります。戦争被災による再建はされましたが、創建以来の歴史を刻み続けているようです。(同上)

    左上に1334年を示すらしい表示があった大時計の光景です。月日や時間、月齢までも刻む大時計を手掛けた職人は、同じものを他で造ることができないようにと、目がくり抜かれたと言う伝説が残るようこの種の日本にもたくさんあり、たくさんあり、石垣から突き落とされたり、井戸に投げ落とされたりと様々です。ところで、1334年は、『ブラックヘッド会館』の創建年になります。戦争被災による再建はされましたが、創建以来の歴史を刻み続けているようです。(同上)

  • 市庁舎広場に建つ、リガの守護聖人のローランド像の光景です。ローランドは、11世紀の『ローランの歌』に登場する人物で、フランク王国の『シャルルマーニュ(カール大帝:在位762~814年)』の甥で、軍人とされています。市民の自由、都市の独立などの象徴として、ヨーロッパの自治体の建物の前などによく設置されているようです。1897年の像は、第二次世界大戦で破壊され、その複製品です。市庁舎広場は、リガの旧市街でも最も賑わっている場所の一つとされます。ローランド像の右手に持つ剣の先の真下はラトビアの地理的中心とされ、ラトビアの距離計算の支点となっています。(同上)

    市庁舎広場に建つ、リガの守護聖人のローランド像の光景です。ローランドは、11世紀の『ローランの歌』に登場する人物で、フランク王国の『シャルルマーニュ(カール大帝:在位762~814年)』の甥で、軍人とされています。市民の自由、都市の独立などの象徴として、ヨーロッパの自治体の建物の前などによく設置されているようです。1897年の像は、第二次世界大戦で破壊され、その複製品です。市庁舎広場は、リガの旧市街でも最も賑わっている場所の一つとされます。ローランド像の右手に持つ剣の先の真下はラトビアの地理的中心とされ、ラトビアの距離計算の支点となっています。(同上)

  • 広場の中心施設の『リガ市庁舎』の建物正面光景です。リガ市庁舎もブラックヘッドハウスと同様、第二次世界大戦時に破壊されました。しかし、2003年に再建され、バロック様式の美しい建物として生まれ変わりました。中に入ることはできませんが、外から美しい建物を見学するができます。庁舎の入り口には、リガの810周年を祝い作られた『リガの鍵』というモニュメントが設置されています。この鍵はリガ市民が寄付した52,763本の鍵から作られ、リガのシンボルの一つとなりました。(同上)

    広場の中心施設の『リガ市庁舎』の建物正面光景です。リガ市庁舎もブラックヘッドハウスと同様、第二次世界大戦時に破壊されました。しかし、2003年に再建され、バロック様式の美しい建物として生まれ変わりました。中に入ることはできませんが、外から美しい建物を見学するができます。庁舎の入り口には、リガの810周年を祝い作られた『リガの鍵』というモニュメントが設置されています。この鍵はリガ市民が寄付した52,763本の鍵から作られ、リガのシンボルの一つとなりました。(同上)

  • 中央奥に見えるのは、『聖ペテロ教会(リガ)』の尖塔です。1209年、石造りだったためにリガ市街に発生した火災での被害を免れたことがこの教会についての最も古い記録とされます。その後、主に三期に渡り大幅な増改築が行われ、一期から二期はゴシック建築、ロマネスク建築、三期は初期バロック建築といった建築様式で建設されました。初期の建築は中間部の身廊の外壁と一部の柱にのみ残っています。ドイツのロストックから招かれた建築家により、ロストックの聖マリア教会をモデルにしたサンクチュアリが1409年にほぼ完成しました。しかし、ポーランドとリトアニアとドイツ騎士団との戦争により、奉納は1419年に行われました。(同上)

    中央奥に見えるのは、『聖ペテロ教会(リガ)』の尖塔です。1209年、石造りだったためにリガ市街に発生した火災での被害を免れたことがこの教会についての最も古い記録とされます。その後、主に三期に渡り大幅な増改築が行われ、一期から二期はゴシック建築、ロマネスク建築、三期は初期バロック建築といった建築様式で建設されました。初期の建築は中間部の身廊の外壁と一部の柱にのみ残っています。ドイツのロストックから招かれた建築家により、ロストックの聖マリア教会をモデルにしたサンクチュアリが1409年にほぼ完成しました。しかし、ポーランドとリトアニアとドイツ騎士団との戦争により、奉納は1419年に行われました。(同上)

  • 『ラトビア占領博物館』の建物光景です。『ラトビア占領博物館はアクメンス橋の反対側にあるストレールニエク広場にあります。この博物館は1940年から1991年までソビエト連邦に占領された歴史と、ナチスドイツによって行われた迫害の記憶を伝えるために創立されました』(ラトビア政府観光局)、と紹介されていました。(同上)

    『ラトビア占領博物館』の建物光景です。『ラトビア占領博物館はアクメンス橋の反対側にあるストレールニエク広場にあります。この博物館は1940年から1991年までソビエト連邦に占領された歴史と、ナチスドイツによって行われた迫害の記憶を伝えるために創立されました』(ラトビア政府観光局)、と紹介されていました。(同上)

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