2012/10/09 - 2012/10/14
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旅人のくまさんさん
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世界文化遺産の古都、リガの旧市街紹介の続きです。始めは木造教会だった聖ペテロ教会や、姉妹都市のブレーメンから寄贈された、ブレーメンの音楽隊の像などを見学しました。(ウィキペディア、るるぶ・バルト三国)
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『市庁舎広場』の中心的な建物、バロック様式の『市庁舎』の光景です。市庁舎は1334年からこの場所にあり、いまだ現役の市庁舎です。以前の建物は帝政ロシア時代の1750年に建てられ、第二次世界大戦中にドイツ軍の爆撃で破壊されました。現在の建物は1960年代に建てられ、2003年に大改修されましたので、非常に新しい印象を受けます。3階建ての瀟洒な建物で、夜はライトアップされているようです。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国のうち、中央に位置するラトビア共和の首都リガは、1201年にドイツ・ブレーメンのアルベルト司教により築かれたダウガワ川沿いの街で、13世紀にハンザ同盟都市として発展を遂げました。(同上)
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リガの『市庁舎広場』を取り囲む建物群の光景です。エストニアの首都タリンやリトアニアの首都ビリニュスと同様に、旧市街は歴史地区として世界遺産に登録されています。市庁舎広場の周りには、再建されたものを含め、ラトビアの歴史的建造物が立ち並びます。その中でも重要な施設が、市庁舎、ブラックヘッド会館、近接するのが聖ペテロ教会です。(同上)
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名前:『シロタエギク(白妙菊)』
分類:キク科セネシオ属(キオン属)
分布:原産地は南ヨーロッパ(地中海)海岸地帯。
その他:白い葉の光景です。黄色の花が咲きます。(同上) -
ネットで検索してみましたが、この木馬のようなオブジェの解説は見つかりませんでした。古代ギリシャのトロイの木馬に倣って、『リガの木馬』と紹介しておきます。トルコにあるトロイの木馬も見学しましたが、中に人が入ることが出来る大きさのオブジェでした。現代では、パソコンの強敵の『トロイの木馬』が悪さをしていますが、本家の『トロイの木馬』にとっては大迷惑です。(同上)
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中央よりやや左寄りに三角屋根のファサードだがあったビルの光景です。このファサードを境に、建物の色が塗分けられていました。広場に面した1階は商店ではなく、駐車場化、車寄せのような造りに見えました。その上の階が住宅のようでした。それに知っても、ユニークな色分けの建物です。(同上)
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同じく、『市庁舎広場』に面した建物光景になるようです。先ほど紹介したに職に塗り分けられたビルが左側になります。右手に見えるビルが、この後紹介するコーヒー専門店が入ったビルです。(同上)
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『Golden Coffee』の表示があったビルの光景です。『ゴールデン・コーヒー』でネット検索しましたら、今から千年以上前の10世紀頃から、エチオピアからコーヒーを輸入しているセネガル珈琲が見付かりました。日本にも入っているらしく、『謎のスパイシーさでクセになるセネガルコーヒー』の宣伝がありました。(同上)
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『Double Coffee』の表示があったビルの光景です。『ダブル・コーヒー』は、ラトビアに拠点を置くコーヒーハウス会社です。2002年に設立され、その歴史の中でエストニア、リトアニア、ベラルーシ、中国にも支店を構えてきました。
(追記):2014年初頭の時点で、同社はロシアの7つの拠点に加えて、ラトビアのリガに合計15の拠点を持ち、キエフ、ウクライナ、カイロ、エジプト、アゼルバイジャンのバクーにそれぞれ1つの拠点を構えています。(同上) -
イチオシ
『聖ヨハネ教会』の尖塔光景です。この後紹介します『聖ペテロ教会』のすぐ東に位置しています。聖ヨハネ教会は、13世紀に創建され、16世紀に再建されたゴシック様式の教会です。聖ヨハネ教会には、有名な伝説があります。それは、15世紀に聖人として祀られることを願って、二人の修道士が壁の中に入ることを志願したそうです。そして通りかかる人々から小さな窓を通じて食料や水の施しを受けたのですが、彼らの命は長く続かなかったようです。しかし、時の法王は彼らの行為を利己的として聖人とは認めませんでした。悲しいことに、壁の穴は塞がれ、人々の記憶から消えてしまいました。この話は伝えられていたのか、19世紀半ばに壁の空間が見つかり、彼らの屍も見つかりました。(同上)
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中央に見えるのが、聖ヨハネ教会と、先ほど紹介した、その尖塔です。世界遺産の街のリガで最も歴史の古い教会とされます。聖ヨハネ教会は、リーガ司教アルベルトの宮殿に建てられ、1234年に洗礼者ヨハネに献堂されました。『リガのアルバート(独:アルブレヒト):1165年頃~1229年』は、リヴォニアのリガの第3代司教でした。(同上)
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『聖ヨハネ教会』の建設の犠牲として、壁の中に塗り込められた15世紀の二人の修道士の内の一人の像になるようです。彼らは、生きている間は壁の穴を通して水や食料を与えられていたことから、聖人に聖別されませんでした。(同上)
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『聖ヨハネ教会』は、15世紀には戦乱によって荒廃してしまい、ゴシック様式の教会は再建によるものです。現在は福音ルーテル派の教会として重要な位置付けの教会になるようです。(同上)
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『聖ヨハネ教会』の建物側面のアーチ窓の上部のズームアップ光景です。ネット情報で見ることができましたが、室内から眺めるとステンドグラスでした。三つの円窓の内、一番大きな窓はバラ窓と呼ばれますが、内側からの光景はベツレヘムの星が描かれていました。植物のハナニラの6枚の花弁の花などがベツレヘムの星に例えられます。(同上)
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『聖ヨハネ教会』の建物側面ですが、背後の尖塔は、『聖ペテロ教会』になるようです。建物側面には、大きなステンドグラスの姿がありました。聖ヨハネ教会の歴史は古く、ドミニコ修道会がここに修道院礼拝堂を建てたのが1234年とされます。聖ヨハネ教会は、1330年頃および1587年頃に拡張されました。聖ヨハネ教会は、1677年に火事により大きな損害を受けましたが、1683年までに修復されました。最初の写真で紹介したバロック様式の尖塔は、この修復工事の際に追加されました。(同上)
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聖ヨハネ教会の紹介が続きます。内部紹介はできませんでしたが、その様子をネット情報から紹介しておきます。『白く美しい壁、天井の模様、パイプオルガン。ステンドグラスを通して差し込む光が礼拝堂を照らします。波乱の歴史を過ごしてきた割に、とても端正な内装です』、と写真とともに紹介されていました。(同上)
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アーチ窓が三つ並んだ教会の外壁光景です。ここまでは、『聖ヨハネ教会』の建物光景になりますが、『聖ペテロ教会』の写真と一緒に撮影しましたので、入違った写真があるかもしれません。この後紹介する『『ブレーメンの音楽隊』の像は、この二つの教会の中間付近にありました。(同上)
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出入口が三つ並んだ、『聖ペテロ教会』の1階部分の光景です。ロストックから招かれた建築家により、ロストックの聖マリア教会をモデルにしたサンクチュアリが1409年にほぼ完成しました。しかし、ポーランドとリトアニアとドイツ騎士団との戦争により、奉納は1419年に行われました。また、ペストの流行により他の工事は1420年代から約10年間中断しました。(同上)
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次は、リガのランドマークともなっている『聖ペテロ教会』の尖塔光景の紹介です。聖ペテロ教会の歴史は古く、1297年にはすでにこの場所に教会があったことが記録に残されているようです。現在見られるバシリカ様式の教会は、ドイツのロストックの建築家の設計により15世紀に建設されたものがもととなっていますが、身廊の壁や柱の一部に13世紀当時の建築もわずかに残っています。(同上)
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13世紀の建築は、1456年から1466年にかけて新しいサンクチュアリに合うように改築されました。1491年には教会のファサードに八角形の断面をした高さ136メートルの尖塔は完成しました。しかし、この尖塔は1666年3月11日に崩壊し、周囲の建築物を巻き込み、8名ががれきに生き埋めとなり犠牲となりました。(同上)
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崩壊した西側部分のファサードと新しい尖塔は1667年から1690年にかけて再建され、同時に屋根と天井部分、内部の天井や装飾部分が改修されました。1677年に尖塔は完成したものの、同年の5月21日に市街を襲った大火により内部が焼失しました。その後、1679年にそれまでの木造の天井に代わり、かつての石造の天井に置き換えられました。(同上)
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『聖ペテロ教会』の尖塔は、1690年に再建されましたが、この塔も何度も落雷による火災などで焼け落ち、その度に修復、改築が行なわれました。ロシアの支配下にあった1721年には、ピョートル大帝自らが消火活動にあたったと言われています。『ピョートル1世(1672~1725年)』は、『モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682~1725年)で、『初代ロシア皇帝(インペラートル:在位:1721~1725年)』でした。(同上)
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『ピョートル1世』が、ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく、『ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す』とも評されます。ピョートルは武勇や戦術の才に恵まれていたことに加え、立法の天才でもありました。『大北方戦争(1720~1721年)』での勝利により、『ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ)』と称されるようになりました。(同上)
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『玉座の革命家』と評されることも多いピョートルの業績の評価は、賛否が分かれています。ロシア史研究者の間では重要な論点の一つとなっているようです。19世紀においては、革新主義者や西欧主義者たちからは英雄とみなされてきましたが、スラヴ主義者からは悪人のように扱われてきました。スラブ主義は、19世紀中葉のロシアに興った民族主義的社会思想です。大雑把に言って、ピョートルを評価する人は、プーシキン、スターリン、プーチンなどです。一方、否定的な人には、ソルジェニーツィンがいます。(同上)
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イチオシ
カトリックの教会として創建された『聖ペテロ教会』は、16世紀の宗教改革の際には、教会内部の大部分が破壊されてしまい、宗教的機能が薄れ、代わりに政治や経済における支配者階級の権力を象徴する建物へと変わっていきました。その後も火災や落雷で破壊と再建を何度か繰り返しましが、時代の流れとともに支配者階級の象徴としての役割は失われ、19世紀後半には祭壇や説教壇など教会内部のインテリアが再び整えられました。(同上)
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姉妹都市のドイツ北部の『ブレーメン』から寄贈された、『ブレーメンの音楽隊』の像の光景です。グリム童話に基づく、これとよく似た像がブレーメンにあります。そのグリム童話のあらすじの紹介です。『かつて働き者だったロバは年を取ってしまい、仕事が出来なくなってしまったので、飼い主から虐待されるようになりました。これはかなわんと脱走し、ブレーメンに行って音楽隊に入ろうと考えます。その旅の途中で同じような境遇のイヌ、ネコ、ニワトリに次々に出会い、彼らはロバの提案に賛成し、ブレーメンへと足を進めました。ブレーメンへの道のりは遠く、日も暮れてしまい、動物たちは森の中で休憩をする事にしました』(同上)
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イチオシ
『すると、明かりが灯る家に気づいたので、その家に近づいてみると、中では泥棒たちがごちそうを食べながら金貨を分けています。ごちそうを食べたい動物たちは、泥棒を追い出すために一計を案じました。窓の所でロバの上にイヌが乗り、イヌの上にネコが乗り、ネコの上にニワトリが乗り、一斉に大声で鳴いたのです。泥棒たちはその声に驚き、窓に映った動物たちの影を見て、お化けが出たと叫んで逃げ出しました。動物たちは家の中に入ってごちそうをたらふく食べる事ができ、腹一杯になると明かりを落として眠りにつきました』(同上)
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『森に逃げた泥棒たちは、落ち着きを取り戻すと家に戻ろうとしました。そして一人が偵察のために真っ暗な家の中に恐る恐る踏み込みます。動物たちは家に入ってくる泥棒に襲い掛かります。ネコは引っかき、イヌが噛みつき、ロバが蹴とばし、ニワトリは突っつきました。闇の中で散々な目にあって逃げ出した泥棒は、本当にお化けに襲われたと思って仲間に報告しましたので、泥棒たちは家を取り戻す事を諦めて退散してしまいました。動物たちはその家がすっかり気に入り、音楽を奏でながら仲良く暮らした。とさ』(同上)
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『ヤーニスの中庭(Jana Seta)』と呼ばれる場所のようです。修道院があった場所とされます。『ヤーニス』はヨハネに由来し、ここは聖ヨハネ教会の一部だったようです。そのまま放置されていましたが、20世紀に入り城壁の復元が進められ、1960年に20メートルほどの城壁が、ヤーニスの中庭として公開されました。(同上)
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大小さまざまな自然石を使った石垣の光景です。遺跡の石垣ではなく、新しく積まれた石垣のようでした。日本の城郭の石垣で例えれば、転用石らしいものも混じっていました。日本の転用石は、素材が集まらなかった時の急場凌ぎに、墓石や石臼などまで利用されました。(同上)
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ホテルの出入口にもなっていたアーチ門の光景です。入口の上に『Konventa Seta(コンヴェンタ・セータ)』の文字がありました。『コンヴェンタ・セータ』は、ホテルの名前にもなっていましたが、『修道院の中庭』の意味を持つようです。(同上)
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