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 城壁に囲まれた、世界文化遺産のドブロブニク旧市街の見学です。採取は外観、次が中の散策、裏山からの眺望のほか、締めくくりは城壁歩きでした。

2012初夏、クロアチア等の東欧旅行(37/50):6月25日(2):ドブロブニク、城壁に囲まれた旧市街、ミンチェタ要塞、ボカール要塞

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2012/06/20 - 2012/06/27

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旅人のくまさん

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 城壁に囲まれた、世界文化遺産のドブロブニク旧市街の見学です。採取は外観、次が中の散策、裏山からの眺望のほか、締めくくりは城壁歩きでした。

  • 最初は西側を中心として、ドブロブニク旧市街の外側からの見学です。旧市街の中では、最も規模が大きく防御の中心となる要塞、ミンチェタ要塞の光景です。

    最初は西側を中心として、ドブロブニク旧市街の外側からの見学です。旧市街の中では、最も規模が大きく防御の中心となる要塞、ミンチェタ要塞の光景です。

  • ドブロブニク旧市街の西南側を固める要塞です。ボカール要塞と呼ばれています。基礎部分は、自然石が利用されていました。

    イチオシ

    ドブロブニク旧市街の西南側を固める要塞です。ボカール要塞と呼ばれています。基礎部分は、自然石が利用されていました。

  • ボカール要塞のアップ光景です。この要塞のすぐ北側にある、西の門であるピレ門を守る役割もあるようです。

    ボカール要塞のアップ光景です。この要塞のすぐ北側にある、西の門であるピレ門を守る役割もあるようです。

  • ドブロブニクの旧市街の西側に位置する要塞の光景です。ボカール要塞と向かい合う、城壁外にあるロヴリイェナツ要塞です。

    イチオシ

    ドブロブニクの旧市街の西側に位置する要塞の光景です。ボカール要塞と向かい合う、城壁外にあるロヴリイェナツ要塞です。

  • ドブロブニク旧市街を外から守るロヴリイェナツ要塞のアップ光景です。旧市街は、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争で、セルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲され、砲撃により多大な損害を受けました。中世の時代とは、戦争時の火力が違っていたようです。

    ドブロブニク旧市街を外から守るロヴリイェナツ要塞のアップ光景です。旧市街は、1991年のユーゴスラビア崩壊に伴う紛争で、セルビア・モンテネグロ勢力によって7ヶ月間包囲され、砲撃により多大な損害を受けました。中世の時代とは、戦争時の火力が違っていたようです。

  • ドブロブニク旧市街の光景に戻ります。旧市街を守る城壁の外側からの光景です。完璧なまでに堅固に見える石造の城壁です。ただし、中まで砲弾が飛んで来れば建物被害は甚大になります。

    ドブロブニク旧市街の光景に戻ります。旧市街を守る城壁の外側からの光景です。完璧なまでに堅固に見える石造の城壁です。ただし、中まで砲弾が飛んで来れば建物被害は甚大になります。

  • ドブロブニク旧市街の北側の街道光景です。旧市街だけでなく、この辺り一帯もクロアチアの飛び地となっています。

    ドブロブニク旧市街の北側の街道光景です。旧市街だけでなく、この辺り一帯もクロアチアの飛び地となっています。

  • ドブロブニク旧市街の西側の入口付近から見上げた、スルジ山の光景です。後ほど、ロープウェイで上まで登りました。

    ドブロブニク旧市街の西側の入口付近から見上げた、スルジ山の光景です。後ほど、ロープウェイで上まで登りました。

  • ここからは、ドブロブニク旧市街に入城しての見学です。正確な人口は分かりませんでしたが、城壁内の旧市街には4千人ほどが暮らしているようです。

    ここからは、ドブロブニク旧市街に入城しての見学です。正確な人口は分かりませんでしたが、城壁内の旧市街には4千人ほどが暮らしているようです。

  • 西の門である『ピレ門』の光景です。門の上の像は、ドブロブニクの守護神、『聖ヴラホ』の像です。城壁の中には『聖ヴラホ教会』があります。

    西の門である『ピレ門』の光景です。門の上の像は、ドブロブニクの守護神、『聖ヴラホ』の像です。城壁の中には『聖ヴラホ教会』があります。

  • 振り返って眺めた入口門付近の光景です。文字が記されている場所が分かりませんでしたが、『自由はお金では購えない』との言葉は、欧州では広く知れ渡っているようです。

    振り返って眺めた入口門付近の光景です。文字が記されている場所が分かりませんでしたが、『自由はお金では購えない』との言葉は、欧州では広く知れ渡っているようです。

  • 『ピレ門』の光景です。昔は警備兵がいて、日没になると跳ね橋が上がり、門扉は閉じられました。夜が明けるまでは誰も入れなかった門です。

    『ピレ門』の光景です。昔は警備兵がいて、日没になると跳ね橋が上がり、門扉は閉じられました。夜が明けるまでは誰も入れなかった門です。

  • 『オノフリオの大噴水』の光景です。水を噴き出す16の顔の彫刻がある多角形の噴水です。1438年に12キロ離れたリエカ・ドゥブロヴァチュカから水を引いて出来た、街の水道建設の象徴とされる施設です。

    『オノフリオの大噴水』の光景です。水を噴き出す16の顔の彫刻がある多角形の噴水です。1438年に12キロ離れたリエカ・ドゥブロヴァチュカから水を引いて出来た、街の水道建設の象徴とされる施設です。

  • 世界文化遺産の旧市街の中のメインストリート、『プラツァ通り』の光景です。大理石で出来た広い通りの両側に歴史的な石造りの街並みが続きます。

    世界文化遺産の旧市街の中のメインストリート、『プラツァ通り』の光景です。大理石で出来た広い通りの両側に歴史的な石造りの街並みが続きます。

  • 『プラツァ通り』から左右に分かれた小路の光景です。出入口がない右側の壁は、城壁の内側になるのかも知れません。

    『プラツァ通り』から左右に分かれた小路の光景です。出入口がない右側の壁は、城壁の内側になるのかも知れません。

  • 同じく、『プラツァ通り』から左右に分かれた小路の光景です。こちらでは、道半分にカフェーやレストランの準備がされていました。

    同じく、『プラツァ通り』から左右に分かれた小路の光景です。こちらでは、道半分にカフェーやレストランの準備がされていました。

  • 『プラツァ通り』の光景に戻ります。中央付近に見える高い尖塔は、フランシスコ修道院の建物です。ドブロブニクのフランシスコ会修道士のことが初めて文書に登場するのは、1235年のこととされます。1667年4月6日の地震被害に遭い、現在の建物はバロック様式で建替えられたものです。

    『プラツァ通り』の光景に戻ります。中央付近に見える高い尖塔は、フランシスコ修道院の建物です。ドブロブニクのフランシスコ会修道士のことが初めて文書に登場するのは、1235年のこととされます。1667年4月6日の地震被害に遭い、現在の建物はバロック様式で建替えられたものです。

  • 旧市街の中心を東西に貫く大通り、『プラツァ通り』の光景です。ピレ門の入口から中心部ルジャ広場まで約200メートルの目抜き通りです。

    旧市街の中心を東西に貫く大通り、『プラツァ通り』の光景です。ピレ門の入口から中心部ルジャ広場まで約200メートルの目抜き通りです。

  • 『プラツァ通り』に面した商店の光景です。少し入り難そうな変わった造りの出入口ですが、お店のセールスポイントの一つかも知れません。

    『プラツァ通り』に面した商店の光景です。少し入り難そうな変わった造りの出入口ですが、お店のセールスポイントの一つかも知れません。

  • 同じく、『プラツァ通り』に面した商店の光景です。同じようなアーチ形の出入口ですがこちらは広く使われていました。ブティックの看板がお店の中にありました。

    同じく、『プラツァ通り』に面した商店の光景です。同じようなアーチ形の出入口ですがこちらは広く使われていました。ブティックの看板がお店の中にありました。

  • 『TISAK』の大きな文字の看板があったお店です。ネット情報では、『キヨスクのようなお店』などの紹介がありました。市電の切符や、駐車券なども入手できるようです。

    『TISAK』の大きな文字の看板があったお店です。ネット情報では、『キヨスクのようなお店』などの紹介がありました。市電の切符や、駐車券なども入手できるようです。

  • 『プラツァ通り』の脇道の光景です。道半分にテーブルが並べられていました。昼にはレストランが開店しそうな雰囲気です。

    『プラツァ通り』の脇道の光景です。道半分にテーブルが並べられていました。昼にはレストランが開店しそうな雰囲気です。

  • 『プラツァ通り』の突き当りの位置にあるのが時計塔です。1806年には、周辺部をナポレオンの軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によって当時のラグーサ共和国は、1ヶ月の包囲に降伏した経験を持ちます。この時はフランス支配下に置かれました。

    『プラツァ通り』の突き当りの位置にあるのが時計塔です。1806年には、周辺部をナポレオンの軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によって当時のラグーサ共和国は、1ヶ月の包囲に降伏した経験を持ちます。この時はフランス支配下に置かれました。

  • 『プラツァ通り』に面した建物の光景です。デザインや高さなども揃えられているようでした。1991年10月1日、ドブロブニクにユーゴスラビア人民軍(JNA)が攻撃を開始し、その後ドブロブニク包囲が7ヶ月間続きました。多くの死傷者と建物被害が出ましたが、紛争終了後、建物の修復はユネスコのガイドラインに忠実に従い、元来の姿に戻されました。

    『プラツァ通り』に面した建物の光景です。デザインや高さなども揃えられているようでした。1991年10月1日、ドブロブニクにユーゴスラビア人民軍(JNA)が攻撃を開始し、その後ドブロブニク包囲が7ヶ月間続きました。多くの死傷者と建物被害が出ましたが、紛争終了後、建物の修復はユネスコのガイドラインに忠実に従い、元来の姿に戻されました。

  • 『レストラン&バー』の看板が懸った建物の入口光景です。歴史的な建造物の外観がそのまま保たれていました。

    『レストラン&バー』の看板が懸った建物の入口光景です。歴史的な建造物の外観がそのまま保たれていました。

  • 自由を愛したドブロブニクの人々は、独裁を極端に嫌いました。このため首長たる総督の在任期間は、たったの4週間です。スポンザ宮殿に籠もり、旗に掲げられた誓いの通り、『私事を忘れ、つねに公共に心を配るべし』を実践したとされます。自由の象徴ともされる、『オルランドの柱』です。1418年に建てられました。フランク王国のカール大帝(742〜814年)に仕えた騎士とされます。

    自由を愛したドブロブニクの人々は、独裁を極端に嫌いました。このため首長たる総督の在任期間は、たったの4週間です。スポンザ宮殿に籠もり、旗に掲げられた誓いの通り、『私事を忘れ、つねに公共に心を配るべし』を実践したとされます。自由の象徴ともされる、『オルランドの柱』です。1418年に建てられました。フランク王国のカール大帝(742〜814年)に仕えた騎士とされます。

  • 『オルランドの柱』の像の肘の長さの51.2センチが、取引の際の物を計る単位となっていたとされます。謎めいた笑みを浮かべるこの像は、ヨーロッパで最も美しい英雄像の一つともされます。1418年の建設の際、ミラノのボニーノが、ドブロブニクの職人たちの協力を得て造ったとされます。

    イチオシ

    『オルランドの柱』の像の肘の長さの51.2センチが、取引の際の物を計る単位となっていたとされます。謎めいた笑みを浮かべるこの像は、ヨーロッパで最も美しい英雄像の一つともされます。1418年の建設の際、ミラノのボニーノが、ドブロブニクの職人たちの協力を得て造ったとされます。

  • ドブロブニクの旧市街の中から見上げたスルジ山の光景です。標高は412メートル、旧市街からロープウェイが運行しています。

    ドブロブニクの旧市街の中から見上げたスルジ山の光景です。標高は412メートル、旧市街からロープウェイが運行しています。

  • 真下から見上げた時計塔の光景です。文字盤の針は、9時少し前の位置にありますが、分針は付いていないようです。この時計塔の並びにスポンザ宮殿があります。

    真下から見上げた時計塔の光景です。文字盤の針は、9時少し前の位置にありますが、分針は付いていないようです。この時計塔の並びにスポンザ宮殿があります。

  • 時計塔のアップ光景です。アナログではなく、ディジタル表示の時計でした。朝の8時45分の表示でした。

    時計塔のアップ光景です。アナログではなく、ディジタル表示の時計でした。朝の8時45分の表示でした。

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