元カニ族さんのクチコミ(11ページ)全479件
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本堂前の参道の左右に一対の猿の像があり、境内には猿塚があります。
投稿日 2015年10月22日
総合評価:4.0
この寺が猿寺と言われるようになった謂れは諸説あるようです。
「昔、寺にやって来た猿回しが、住職の好意で寺に滞在することになった。この猿回しは、仏を熱心に祈ると共に境内で猿の芸を披露したりしたので「猿寺」と呼ばれるようになった。」という説。
「寺に逃げ込んできた猿回し師の泥棒を、住職が説教をし改心させて、諸国行脚の巡礼に旅立たせた。 その後、寺で預かった猿が、人々の前で芸を見せるようになり人気者になり、評判が評判を呼び、「猿寺」と呼ばれるようになった」という説。
真相はわかりませんが、参道の左右に一対の猿の像があります。
境内には猿塚の他に、水子地蔵、猿塚、福禄寿などもあります。
またこの寺には江戸時代の蘭学者「杉田玄白」の墓もあります。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
江戸時代には眼病に霊験あらたかとされ、願いが成就した際にこんにゃくを供える風習がありました。
投稿日 2015年10月21日
総合評価:4.0
石造閻魔王像は興昭院境内の小さな堂に安置されています。
この閻魔王像はかなり風化していますが、江戸時代には眼病に霊験あらたかな「こんにゃく閻魔」と呼ばれて信仰を集めました。願いが成就した際にこんにゃくを供える風習があったとされ、当時の民間信仰を知ることができる貴重な像として港区の有形民俗文化財に指定されています。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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都心には稀少な木造寄棟瓦葺の本堂が現存し、境内の小さな堂には石造閻魔王像が安置されています
投稿日 2015年10月21日
総合評価:4.0
昭和3年(1928)智相院と随教院とを合併して智相山随教寺興昭院となり、昭和18年(1943)本堂上棟式を行い、以来都心には稀少な木造寄棟瓦葺の本堂が現存しています。
境内の小さな堂には石造閻魔王像が安置されています。この閻魔はかなり風化していますが、江戸時代には眼病に霊験あらたかな「こんにゃく閻魔」と呼ばれて信仰を集めました。願いが成就した際にこんにゃくを供える風習があったとされ、当時の民間信仰を知ることができる貴重な像として港区の有形民俗文化財に指定されています。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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石垣や水堀はなく、自然を利用して作った「空堀」「郭」「土塁」などが良好な形で残る貴重な中世城郭遺跡です。
投稿日 2015年10月21日
総合評価:4.0
「茅ヶ崎城址公園」は、横浜市都筑区の地下鉄「センター南駅」付近にあります。石垣や水堀はなく、自然を利用して作った「空堀」「郭」「土塁」が良好な形で残る貴重な中世城郭遺跡です。
茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなりました。16世紀中ごろには二重土塁とその間に空堀が設けられました。築城には、それぞれの時期に相模・南武蔵を支配した上杉氏(室町時代)や後北条氏(戦国時代)が関与していたと推定されています。
16世紀末までには、城としての役割は終わります。江戸時代には、徳川氏の領地となり、村の入会地(共有地)などとして利用され、「城山(じょうやま)」という地名で、今日まで保存されてきました。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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愛宕神社参道の男坂は、正面の急な石段で「出世の石段」と呼ばれています。
投稿日 2015年10月20日
総合評価:4.0
愛宕神社の参道には「男坂」と「女坂」がありますが、男坂は正面の急な石段で「出世の石段」と呼ばれています。
時は寛永11年、徳川家光が将軍家菩提寺の増上寺参詣の帰途、愛宕神社の下を通りました。その時愛宕山の源平の梅が満開で、家光は馬にてその梅を取ってくるように命じました。近習が尻込みするなか、四国丸亀藩の家臣「曲垣平九郎」が馬にて石段を登り降りし、家光に梅を献上いたしました。平九郎は家光より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名を全国にとどろかせました。この故事に因み正面の石段を「出世の石段」と呼ぶようになりました。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
愛宕神社のある愛宕山は、春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木と蝉時雨、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季折々楽しませてくれます。
投稿日 2015年10月20日
総合評価:4.0
愛宕神社は、1603(慶長8)年、徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。
その後、江戸の大火災、 関東大震災、東京大空襲により焼失を繰り返しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至っています。
愛宕神社のある愛宕山は、東京23区の最高峰ですが、標高25.7mしかありません。しかし春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木と蝉時雨、秋は紅葉、冬は雪景色と、四季折々楽しませてくれます。
またこの愛宕山は鐵道唱歌で、次のように歌われています。
汽笛一聲新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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寺家ふるさと村や四季の家を訪れた人々の食事でいつも混んでいます。
投稿日 2015年10月19日
総合評価:4.0
「寺家乃鰻寮」は寺家ふるさと村の「四季の家」の中にあるレストランです。
「四季の家」は寺家ふるさと村の農業、自然、人文関係の展示紹介や研修、諸施設の案内などを行っています。このため、寺家ふるさと村や四季の家を訪れた人々の食事でいつも混んでいます。
その名前から、「うなぎ」が本流ですが、一般的なメニューも豊富にあります。
昼食時には、1000円のその日のサービスメニューもあります。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- その他
- 一人当たり予算
- 1,500円未満
- アクセス:
- 4.0
- コストパフォーマンス:
- 4.5
- サービス:
- 4.0
- 雰囲気:
- 4.0
- 料理・味:
- 5.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 観光客向け度:
- 4.0
-
鶴見川から谷本川に沿う全長11.8kmのサイクリングコース、自動車が通らないので、安心して歩けます。
投稿日 2015年10月16日
総合評価:4.0
鶴見川サイクリングコースは、横浜市都筑区川向町の第三京浜高速道路橋の下から横浜市青葉区鉄町の常磐橋までの鶴見川から谷本川に沿う全長11.8kmのサイクリングコースです。厳密にいうと、起点から都筑区佐江戸町では鶴見川、そこから終点まで鶴見川の支流の谷本川沿いのコースとなります。
散歩・ジョギング・サイクリングなどで使用されるほか、日常の通勤・通学の経路としても利用されています。自動車が通らないので、安心して歩けるコースです。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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投稿日 2015年10月16日
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板碑(寛元銘)は、横浜市青葉区鴨志田町の住宅地の墓地のなかにあります。
投稿日 2015年09月24日
総合評価:4.0
板碑(寛元銘)は、横浜市青葉区鴨志田町の住宅地にある墓地のなかにあります。平成4年横浜市指定の文化財です。
板碑(いたび)は、主に供養塔として使われる墓石の一種で、板石卒塔婆、板石塔婆とも呼ばれています。鎌倉時代に出現し、江戸時代には消滅した石造物です。
この板碑は寛元2年(1244年)に建てられたもので、神奈川県内で確認されている最古のものです。上部中央には、阿弥陀如来を表す文字が掘られていると説明されていますが、よく見えません。
材質は秩父産と考えられる緑泥片岩で高さ133cm、暑さ8cm。当時この地にこの石材を購入できる財力を有した人物がんでいたことがうかがわれます。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- その他
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
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もえぎ野公園には大きな池があり、ふれあい樹林は自然林が残る憩いの場所です。
投稿日 2015年09月24日
総合評価:4.0
東急田園都市線「藤が丘駅」から、国道246号線を横切って、ケヤキ並木の大通りをしばらく行くと「もえぎ野」公園があります。中央に池がある緑豊かな公園です。訪れた時、池には蓮の花が咲いていました。
この公園を通り過ぎて、道路を横切ると「もえぎのふれあい樹林」があります。
「ふれあいの樹林」は市街地の中に残る小規模の緑地を横浜市が借り受け、市民の憩いの場として整備し一般開放しているものです。
「もえぎ野ふれあいの樹林」は面積1.4haの小山で、大きくはありませんが、自然林が残る憩いの場所です。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
今、寺家ふるさと村では、昔ながらの手法でおこなわれている稲作の刈り入れの季節です。
投稿日 2015年09月25日
総合評価:5.0
2015年9月22日、私の所属するウオーキングクラブの次回催しの下調べのため、藤が丘から出発し途中歴史遺跡を巡りながら、ここ「寺家ふるさと村」を訪れました。
寺家ふるさと村の谷戸では、寺家ふるさと村体験農業振興組合員による稲の栽培が、昔ながらの手法で行われています。私が訪れた時は、稲刈りや、稲干しの作業が行われていました。私のような歳とった地方生まれ人間にとっては懐かしい風景であり、都会育ちの人々にとっては珍しい風景だと思います。
今がその時です。是非ご覧ください。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 見ごたえ:
- 5.0
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佐藤春夫の小説『田園の憂鬱』に登場した金子美代子氏が私費で建てた文学碑です。
投稿日 2015年09月25日
総合評価:4.0
佐藤春夫の小説『田園の憂鬱』は、1919年(大正8年)刊行されました。都会を逃れた田園生活での、自らの憂鬱で病的な心情や心象風景が描かれています。
この小説の舞台になったのが、神奈川県都筑郡中里村鉄で、現在の横浜市青葉区鉄町です。武蔵野台地の南端にあり、鶴見川が流れている素朴な田園地帯です。佐藤春夫は1916年(大正5年)、内縁の妻と2匹の犬や1匹のネコとともにこの地へ移住し、1920年(大正9年)までを過ごしました。
現在この付近に、この小説に登場した「村で唯一の女学生」金子美代子氏(故人)が私費で建てた文学碑「佐藤春夫 田園の憂鬱由縁の地」が残っています。この碑はバス通り沿いの三差路にあり、かなり交通の激しいところですから、注意して見つけてください。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 3.0
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祥泉院の万葉の歌碑は、都筑郡の防人とその妻の互いを思う歌が彫られています。
投稿日 2015年09月25日
総合評価:4.0
祥泉院は、曹洞宗のお寺で「長谷山祥泉院」といいます。
新しい木造の観音堂(本堂)や道場、古い開山堂(太子堂)などがあります。広い境内には、この寺の経営する幼稚園や老人ホーム、剣道場もあります。
また、祥泉院には、万葉集におさめられた、都筑郡の防人とその妻の互いを思う歌が彫られた「万葉の歌碑」があります。昭和33年に郷土史家戸倉英太郎氏が昔をしのんで建てたものです。- 旅行時期
- 2015年10月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
商店のシャッターに昔の姿が描かれていて、大山街道の往時をしのぶことが出来るユニークな商店街です。
投稿日 2015年10月11日
-
お銀さまに会いに行く渡辺崋山が、お銀さまの子供に出会った場所です。
投稿日 2015年10月11日
総合評価:4.0
渡辺崋山は、「渡辺崋山ゆかりの道案内板」のあった所から、お銀さまのいる小園村をめざして古東海道と呼ばれる道に入りました。「游相日記」では、
「(崋山は)里の子供達に銭を与え、案内してもらった。道の傍の地蔵堂があった。そこを過ぎた時髪の毛が栗のいがのような子供が大変驚いた顔をしてたたずんでいた。道案内の子供が「ここれこそ清蔵(お銀さまの夫)の子です」というから、しげしげと顔をみると、疑いなく私がこれから尋ねようとしている人(お銀さま)にそっくりであった。」
とかかれています。その時の地蔵堂がこれだと思います。
説明板によると、地蔵堂はもとは東光山延命寺といい、本尊の木造の地蔵菩薩坐像と、木造涅槃釈迦如来像が安置されています。- 旅行時期
- 2015年04月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
-
不道明王座像は、赤坂バス停の手前の大きな銀杏の古木の根元にあります。
投稿日 2015年10月10日
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富士塚は、新興住宅地の道路の片隅に、富士山の火山灰を積み上げて作った小さな塚です。
投稿日 2015年10月10日
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あたりの立派な農家や民家に目を奪われ、うっかりすると見落としてしまいそうなお地蔵さんです。
投稿日 2015年10月10日
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渡辺崋山が泊まった宿屋で、饅頭も売っており、江戸の火消「く組」の定宿にもなっていました。
投稿日 2015年10月10日
総合評価:4.0
渡辺崋山の「游相日記」には、下鶴間宿では「河原兎来が紹介状を書いてくれた長谷川彦八という豪農の家を訪問した。門も塀も巨大な農家で、紹介状をさしだしたところが、折から大勢の客がつめかけており、座敷には多くの食膳の用意がしてあった。(何か宴会の予定があるらしく受取れたので)宿泊することを諦めて、角屋伊兵衛、俗に「まんじゅうや」という宿屋に泊ることにした。宿賃は四百三十二文であった。」と書かれています。
その「まんじゅうや跡」には、説明板と道標があり、道路の向かい側には地蔵堂があります。説明板によるとこの宿は、饅頭も売っており、江戸の火消「く組」の定宿にもなっていたと書かれています。- 旅行時期
- 2015年03月
- 利用した際の同行者
- 一人旅
- アクセス:
- 4.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0




























































































































