哈桑湖さんへのコメント一覧(10ページ)全127件
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勉強になりました
浦潮斯徳さん、こんにちは。
私はゾロチフ城を含むリヴィブ近郊の城めぐりは現地の英語ガイドさんに説明してもらったのですが、全く初めて聞く話ばかりで、ガイドさんの話についていくのにやっとでした。覚えきれなかったし、ぴんとこなかった話もたくさんあります。
ゾロチフ城の写真の解説はとても勉強になりました。ガイドさんからここまで詳しく話を聞きませんでしたから。いや、聞き取れませんでしたから。。RE: 勉強になりました
まみ様
お便り有り難うございます。
私のガイドさんが、反露感情の強い人でした。
露語の先生で、オデッサ出身の方がいました。西と東のウクライナは、違うと聞いていました。
また、キエフのガイドさんも、東と西のウクライナは、違うと聞いていたので、私は興味を持って、ガイドさんに質問していたので、色々教えてくれました。
リヴィウと日本では紹介されていますが、リヴィフが正しい読み方のようです。
私の友人(日本人)の奥様が、ウクライナ国籍のロシア人ですが、リヴィウの町で、露語を使ったら、物を売ってくれなかったのです。日本人が露語を使う分には、ノン・プロブレムですが。
あちこちに警察がいるロシアと違い、ウクライナへ来ると、気分がハイになります。もう一度ウクライナに行きたいです。
お城の詳しいご説明、有り難うございました。2011年10月11日21時19分 返信する -
一連の物語を読むようでした。
浦潮斯徳 さま こんにちは。
旅行記読ませていただきました。
いつも早くから浦潮斯徳さまの旅行記投稿を楽しみにしているのに、この旅行記はどうしてかまだ読んでいませんでした。
息もつかずに読ませていただきました。
西ウクライナの歴史、ポーランド人との関わり…、よく判りました。
特に後半の、ソ連の西ウクライナ侵攻では多くの兵士を捕虜とし、ドイツのバルバロッサ作戦の開始によりあわてて、捕虜を虐殺するソ連軍。
そして、西ウクライナがドイツ・ナチスと手を組むしかなかった事実にいたっては、悲しいものがありますね。
ナチスに迎合してユダヤ人を迫害するようになる経緯、アインザッツ・グルッペの西ウクライナでの非道な行為…、など等。
並び立てればキリがありませんが、一連の物語を読んでいるようで、背景を考えながら一気に読ませていただきました。
またお写真がとてもきれいですね。とてもいい旅行記ありがとうございました。
himmelRE: 一連の物語を読むようでした。
お便り有り難うございます。
私の友人(日本人)の奥様が、ウクライナのクリミア(クリム)出身です。
クリミアは、アジア系のタタール人とロシア人が居住しており、ウクライナ人は、殆どいません。
このクリミアを、フルシチョフが、ウクライナとロシアの友情の証として、ウクライナ・ソビエト共和国に、プレゼントしました。勿論、ソ連という一つの国でしたし、ソ連が崩壊するとは、考えられなかったからです。
ソ連が崩壊したときに、クリミアはウクライナ領になりました。クリミアに住むロシア人は、クリミアはロシアになるべきだと、運動しました。現在このクリミアでは、露語が主流です。
この奥様と日本人ご主人が、リヴィウの町に旅行したのです。奥様はウクライナ語が喋れず、露語を使いました。すると売店で物を売ってくれなかったようです。「もう西ウクライナには、二度といきたくない」と。日本人が露語を使う分には、問題ないのですが。
ウクライナは、パイプラインの関係上、ロシアと仲良くやっていった方が、うまく行くのですが、西ウクライナの人たちは、スターリンのしたことを忘れず、ロシアそのものに、拒絶感を抱いています。西ウクライナの人のロシア人への怨念は、韓国人の日本人にたいするものと、似ています。
あとドイツ側に立ってソ連軍と戦うために、ラトビア、エストニアでは武装親衛隊が組織されます。ドイツの敗戦が明白になり、ドイツとの同盟を破棄する国が出てくる中で、スターリンの復讐を恐れ、最後までドイツ側に立って戦いました。戦争末期には、リトアニアの青年も、ドイツ側に組み込まれて、ソ連軍と戦わされます。
リトアニアでは、戦争終結後にも、ドイツ側で戦っていた青年たちは、森の中に逃げ込み、ソ連軍にパルチザン攻撃を行なっていました。彼らは「森の兄弟」と呼ばれています。
バルト三国もロシア人に対する怨念が、今でもあります。ラトビア、エストニアは、ソ連時代に移住したロシア人が、沢山居住しています。現在、このロシア人たちは、マイノリティに転落し、地元民から差別や苛めを受けています。少し前でしたが、エストニアに住む、ロシア人の若者が暴動を起こしました。
西ウクライナでもバルト三国でも、スターリン時代の悪事を、次の世代の若者たちの心に刻ませています。日本と韓国もそうですが。
2011年10月10日14時58分 返信する -
モンゴルの遺民
浦潮斯徳さん、おはようございます。
近鉄バッファローズです。
カルムイク人は、モンゴル系のオイラト人が17世紀に西へ
移住してきた人達だそうねすね。Wikipediaで調べました。
だから、小乗仏教系なんですね。人々の顔立ちもモンゴル系ですよね。
カスピ海沿岸、あれだけたくさんの仏教施設があるとは
なかなか想像できないです。周りは、正教やイスラムばかりで。
ロシア連邦の「連邦」たる由縁を見た気がします。
キルサン・イリュムジーノフ大統領は、昨年退任したのですね。
これもWikipediaで見ました。
カルムイクの平和な様子は、仏教徒もあるのかも知れませんが、
やはりその前大統領が金持ちだったこともあるような気がします。
旅行記でもおっしゃっていたように、隣国は殺伐としているのに。
他の旅行記も拝見させて頂きます。
RE: モンゴルの遺民
> 近鉄バッファローズ様
お便り有り難うございます。カルムイクもカスピ海沿岸から、石油が出るようです。周りのロシアの地域よりは、貧しい人は少ないです。独裁者ですが、ものごしが柔らかいので、驚きました。治安もよくイルムジノフ大統領の身辺警護も、他のロシアの地方の首長より、ゆるやかです。
チェチェンでは、石油利権を巡って、平野部と山間部のチェチェン人同士の、内ゲバが発端です。ドゥダーエフ大統領は、統治能力なしと、山間部のチェチェン人からも思われていました。このとき、ドゥダーエフ大統領は、ロシアを挑発して、戦争に持ち込むことで、地盤固めを。
現在のラムザン・カディロフ大統領の父親である、アフマド・カディロフは、イスラム教の聖職者で、第一次チェチェン戦争では、ドゥダーエフ将軍とともに、ロシアを敵として戦ったのです。
このあと、チェチェンでは、イスラム原理主義が台頭してきて、手に負えなくなったので、ロシア側に寝返ったのです。アフマド・カディロフは、何者かに暗殺されました。
チェチェン人は、ガリャーチイ(熱い)と言われています。熱くなると、何をしでかすか分からないと。カルムイク共和国にも、チェチェン人は沢山います。カルムイク人のガイドさんが言うには、チェチェン人がときどき危険だと、おっしゃっていました。
少し前ですが、スイスの航空管制官のミスで、飛行機が空中で衝突して、ロシアのウファ発マドリード行きの、子どもたちと母親を乗せた、チャーター機の乗員全てが死亡しました。
この中に、チェチェン人男性と結婚しているロシア人女性と子どももいました。父親のチェチェン人は、スイスに乗り込み、夜中にこのスイス人管制官一家の首をナイフで掻き切って殺害しました。
ロシアでもカザフスタンでも、チェチェン人は、クレイジーという人は、結構います。今はどうか知りませんが、かつてはモスクワのホテルの3分の1は、チェチェン・マフィアの所有でした。
あとカルムイク人男性は、カルムイク女性よりも、ロシア女性の方が美しいといいます。イルムジノフ大統領自身も、ロシア正教会を建てたりして、ロシア人とは、仲良くしていこうとしています。
カルムイク人は、純粋のモンゴル系の人と、コサックの血の混じった人がいるようです。イルムジノフ大統領は、顔が整っています。コサックの血が混じったカルムイク人だそうです。姓で分かるようですが。2011年09月28日21時28分 返信する平穏な暮らしはいつ‥‥
浦潮斯徳さん、こんばんは。
近鉄バッファローズです。
なるほど、石油が出るんですね。だから豊かなんですね。
全然その辺りに明るくなく、無知をさらけ出しております。
独裁でも豊かであれば、人民もそれほど不幸ではない、
と言うことなのでしょうか。民族性もあろうと思いますが。
カルムイクの人々は、あまり独裁に文句を言わないんですね。
独裁だから、その点については言えない状態でもあるんでしょうが。
チェチェンの内紛にはそんな発端があったんですね。
私はすっかりロシアからの独立を求める民族紛争かと思っていました。
その前段階に、内輪もめがあったんですね。勉強になります。
内輪がうまくいかないときに、外へ戦いを仕掛けることで
乗り切ろうとするのは、古今東西よくあることですね。
でも、そこでチェチェン人のガリャーチイに火がついたんですね。
モスクワでのテロなど、相当なことをしてますよね。
そういう意味ではアフマド・カディロフ氏は
あまりチェチェ人らしくないから、暗殺されたのでしょうか。
やはり、混住しているとは言え、民族が違うと文化の違いが大きいんですね。
そこには簡単に越えられない壁のようなものがあるように思います。
長い歴史に基づくものだから、なかなか超えられないのも仕方がないですが。
個人的には、カルムイクの人々には独自の文化を守って欲しいので、
あまり混血にはいい印象がないですが、それも彼らの選択ですからね。
カフカスがもっと平和になればいいですね。
そうすれば、浦潮斯徳さんも旅行がしやすくなるでしょうから。
2011年09月28日22時17分 返信する -
浦潮斯徳さん。初めまして。
浦潮斯徳さん。あなたの旅行記興味深く拝読させていただいております、またわたくしの旅行記にも時々来ていただきありがとうございます。
どの旅行記にもコメントをしたくなるものばかりですが、ここトルクメンバシュの写真懐かしく拝見いたしました。昨年(2010.11.27)トルクメンバシュに滞在してました。2泊しましたが、泊まったところは駅から700m位離れた新しいホテル、チヤイカでした。
駅前の例のホテル、ハザムに行ってみたのですが、料金10$で安いのは良かったのですが、大変汚れていて泊まるのはやめました。チャイカは高く50$もしましたが2食付きで、部屋も広く豪華で日本では2万円程度は取るられそうなホテルでした。
わたくしはトランジットビザでトルクメニスタンは5日間の滞在でしたが、あまり良い印象は受けませんでした。警官、兵隊の、ゼンギ、ゼンギ攻勢にうんざりしました。
滞在日5日間を32分間超過して、不法滞在で国外退去処分を受けました。
後刻此処にもトルクメニスタンの旅行記を上げるつもりです。入国、出国は、緊張しました。
Hidechan様
お便り有り難うございます。
トルクメニスタンの入国は、緊張しました。
出国もです。ともかく時間がかかります。
税関で奥に進むたびに、パスポート提示、スーツケースの点検です。モタモタして凄く時間がかかるんです。
あとベクダーシュからアクタウに向かう旅行者は、年に一人か二人しかいないと言って、わざわざ首都まで電話をかけて、ここの国境を通過させていいかどうか、相談しているのです。この時間が2時間です。すごく心配になりました。係官は、険しい顔つきでした。
カザフスタンに入国できたときには、ほっとしました。カザフの係官や国境警備隊の人たちは、人懐っこくやっと生きた心地が。
ロシアでは、かなりの貧富の差があります。トルクメニスタンでは、食べていけないほどの人は、いません。クラスノヴォーツクは、警官も殆どいなくて、町も綺麗でした。
ただ首都に行った人と帰りの飛行機で一緒でしたが、警官があちこちにいて、町は掃除しつくされており、まさに北朝鮮みたいだったと。
ガイドさんが、2回ともいい方だったので、トルクメニスタンの印象が悪くなかったように思うのです。
お金、お金はびっくりしました。ウズベキスタンの官憲の腐敗は中央アジア一酷く、トルクメニスタンでは、ないと聞いていただけに、びっくりです。2011年09月18日16時03分 返信する -
話題になった島
浦潮斯徳さん こんにちは
いつもご訪問いただき且つ、投票までしていただいて、ありがとうございます!!
「鹿野島」
頭の隅っこの方に覚えていた名に目がとまりました。
2、30年前のこと、私がまだ現役時代のころ、鹿野島のことを話で聞いたことがあります。
島の駐在まで抱きこんで、島中がいかがわしいことをしていたとか。
私たちの会社でも。そこを忘年会の会場にした職場もあったとかなかったとか。
(実際、私の職場の親睦会も滋賀県の「雄琴温泉」へ行きました。係長と私ともう一人の3人以外は全員行きましたよ(>_<))
いま、鹿野島が人影も目立たない姿になっているなんて・・(*_*)
島の人々がどれほどのことをしていたかは私にも分かりませんが、社会に広く知れ渡るほどにいかがわしいことをした結果なのか?たまたま何かがあったのか?
そこは分かりませんが、お写真を拝見するほどに
「あの話は本当だったのだな〜」
と思いますね。
特別立派なことをせずとも、普通のありふれた努力をしておれば、こんなことにはならなかった?と思いますね。
今となっては、可哀想な姿に思えてしまいました。
ありがとうございました。
これからもよろしくお願いしますね。
カメちゃんバブルがはじけ、ここで家族の島にイメージ転換を、これも失敗のようでした。
カメちゃんさま
お便りありがとうございます。
私たちが行ったときには、木曜日だったので、人はいなかっただけのようです。このころはもう、傾きかけていたようですが、金、土曜は宿泊客も、そこそこはいたようです。
この島は週末だけのお客の入る島で、日頃はがらんとしていました。その代わり、週末の宿泊料金は、かなり高かったようです。バブルがはじけ、お客の入りも悪くなり、家族連れの島にしようとしました。
ビーチも整え、名前もパール・ビーチと。清潔な脱衣所も作りました。でもイメージが悪いため、こちらも失敗したようです。廃墟となったホテルや飲み屋が、心霊スポットみたいだそうです。
三重の海は、鳥羽より北は汚くて、泳ぐ気はしません。
鳥羽より南は綺麗ですが、太平洋に面した外海なので、子ども連れには、危険です。
この島は、的矢湾の中にあり、とても波が静かです。子どもが泳ぐには、もってこいです。いかがわしい飲み屋の廃墟を取り壊し、島から対岸まで泳ぐイベントなどをやれば、この島のイメージが変わるのではと、勝手に思うのですが。
またここの的矢牡蠣は、紫外線殺菌なので、生牡蠣を食べても、大丈夫(?)のようですが。スペイン村もそばにあります。この島が今度は、家族連れの島として、発展する要素はあるとは思うのですが。
2011年09月18日15時37分 返信する -
再訪嬉しゅうございます!
浦潮斯徳さま
度々の投票ありがとうございます。
お礼が遅れて恐縮です。
ホントはロシア方面へ行きたいのですが、そうもいかないのでロシアらしさが感じられるハルビンへ行って以来、中国東北部にはまっております。
長春はハルビン程のロシアらしさは感じられませんでしたが、ラスト・エンペラーで有名な溥儀の時代を楽しむことが出来ました。
巷では戦国時代に夢中な歴女なんてものが流行っているようですが、私は1930年代ぐらいの暴走気味の荒れた日本時代に惹かれます。
誕生日が満州事変と同じということもあり、幼い頃から関東軍とか○○部隊とかいう単語を聞いただけでメラメラと燃え上がるものを感じてしまいます。
好きな割には、オツムが弱いせいか時代背景やからみが理解できていない節もありますが・・・(苦笑)
追伸:イシク湖の美しさにやられました!
それでは。。。ムヒカ2011年09月15日12時02分返信する日本のボルシチとロシアのボールシィとは、違うんです。
お便り有り難うございます。
日本で食べるロシア料理店のボルシチは、こってりとしたスープで、角切りのジャガイモとお肉が入っています。
ロシアのボールシィは、お味噌汁みたいに、しゃびしゃびで、お肉らしいものは、小さいかけらが入っているだけで、ジャガイモも、本当に小さいです。
メインディナーの前の薄いスープです。はじめは、びっくりしました。日本のボルシチは、準メインディナーで通用するくらいですから。
日本人には、日本で食べるボルシチの方が美味しいのでは。
なおボールシィは、発祥はウクライナです。ロシアにはまだ行かれたことがないみたいですが、ハバロフスクは手頃だと思います。ウラジオストクは、暗い街ですが、ハバロフスクは、明るい街です。アムール川が流れていて、シベリア独特のおおらかさがあります。
モスクワでの入国ですが、ともかく時間がかかります。やはりテロがあるからです。それにくらべて、ウクライナは、ビザもなし。入国は簡単です。
ロシアには、大勢の警官が街にいます。重っ苦しい感じです。ウクライナへくると、警察が殆どいないので、すごく開放的な気分になります。
ロシアと東ウクライナは、顔は同じです。町並みもよく似ています。でもウクライナに来ると、自由が満喫できる気がします。
あと中国や韓国では、日本政府の歴史問題への対応や、領土問題で一般市民が熱くなります。でも、ロシア人は、政府は政府、国民は国民と割り切っています。ロシア人自体が、政治には無関心です。
ハバロフスクのロシア人は、けっこう小柄な人も多いです。モスクワのロシア人とは、違う感じです。恐らく、アジア人の血が混じっているのではと。
シベリア出兵の際に、日本軍がたてたグレゴリー・セミョーノフの母親は,アジア系のブリヤート人でしたし。
あと白倉峡のお写真、有り難うございました。いつかは行きたいと思っていたのです。まったく地元では知られていないのですが、水窪ダムから、戸中川にそって行く渓谷は、本当に素晴らしいです。2011年09月15日20時59分 返信する -
アラル海
浦潮斯徳さま
marinkaです。掲示板への書き込み、ありがとうございました。
アラル海の写真、懐かしく拝見いたしました。
なんとなく、ですが、私が行ったときよりも、きれいになっているような気がしました。
少なくとも、ジープは、私が乗ったものより丈夫そうです(笑
私が乗ったやつは、足元が透けて地面が見えてました。
また行きたいです。2011年09月08日13時41分返信するRE: アラル海
marinka様
アラルスクを出て2時間ほどで、シップセメタリー、「船の墓場」に着いた。
→私のときは、1時間くらいでした。舗装はしていませんが、しっかりした道でした。
水が引いた後には塩だけが残り、それが強い風で巻き上げられ、アラルスクの街にも飛んでくる
→塩はありませんでした。
さらに30分ほど走ったところに水が!
これが現在のアラル海の海岸線。
→私のときよりも、海岸線が近いのでは。
この写真の後、道はなくなり、ひたすら轍の中を行く。
人の気配はまったくなく、いるのはラクダやワシばかり
→私のときには、新しいジャラナシ村、タスツベク村が、ありました。
marinka様のときの方が、海岸線がもっと、アラリスクに近かったのでは
と思います。私のときは、アラル海は黒かったです。
ジープに穴は怖いですね。
私は、クズィルオルダ空港から、8時間半かけて車で、アラリスクに来ました。
気をつけて、アルバニア、マケドニアに行ってきてください2011年09月09日21時26分 返信する -
ディープな島に行かれましたね。
浦潮斯徳さま
こんばんは。
渡鹿野島に行かれたんですね。
なかなかディープな場所で、
写真を撮るのも難しいと聞いていましたが、
そうでもないようですね。
私もいずれ「ディープシリーズ」に
加えたいと思っています。
たぬき2号
2011年09月04日23時14分返信するRE: ディープな島に行かれましたね。
たぬき2号様
初めて上陸したときには、人の気配がないので、不思議な島だと。
島の反対側に行こうとしたときに、怖い体験を。
立ち入り禁止となっていたのですが、近道なので、そこを通りました。
白い1階建ての建物の前に来ると沢山の子犬が、突然啼き出しました。
ご年配の女性が飛び出して来ました。
私に怒鳴りつけてきましたが、叔母が、「入っちゃいけなかったんですか。すいません。」というと、向こうも大人しくなりました。
叔母も親戚の女の子も一緒だったので、安心したようです。
男一人なら、危なかったでしょうね。
叔母さんも、お子さんも、落ち込んでいたので、ぼっーとしていました。
後日、あの島が、あのような島だと知りました。
以前、大阪のジャンジャン横丁から飛田新地に入ってしまいました。
年配のオバチャンが「お兄さん、カメラはケースにしまってな」と言われ、また人相の悪い3人組の男性が近づいてきたので、逃げたことがあります。
今、渡鹿野島は、パール・ビーチが出来て、少しイメージが違うようです。
またお店も、沢山つぶれたとか。
あと、この島に上陸したのは、木曜日。
金・土曜日以外は、閑散としているみたいです。
2011年09月05日00時12分 返信する -
きれいなトルコブルーの湖
浦潮斯徳さま こんにちは。
先日は私の旅行記にコメントをありがとうございました。
あの時書き込んでくださったヴォルガ・ドイツ人のことを調べるには、
私の未知の地である中央アジアのことを少し勉強しなければ…。
そう思って、浦潮斯徳さまを訪ねたら、イシク湖紀行編に出会いました。
湖のブルー、なんて綺麗なんでしょう!
実際に目にしたら、もっと感激するでしょうね。
それに岩に描かれたレーニン像、今でもあんなのがあるんですね。
それから、スメタナってサワークリームのことですか?
私には、ロシアの作曲家の名前が思い浮かんで、対比に笑ってしまいました。
中央アジア、少しずつ勉強します。
himmelRE: きれいなトルコブルーの湖
お便り有り難うございます。
ヴォルガ・ドイツ人についてですが、
http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/47/hanya/hanya1.html
が、わかりやすいかと思います。
ロシア貴族にも、ドイツ系は、沢山いました。
日露戦争で乃木大将と会見した、ステッセル将軍もドイツ系です。
http://chechennews.org/dl/20050703distri_yakov.pdf
が、強制移住させられた朝鮮人の証言です。
http://chechennews.org/chn/0519b.htm
が、強制移住させられたチェチェン人です。
ウシトベには、今でも朝鮮人が多いです。サハリンでもカザフスタンでも、朝鮮人の親は教育熱心で、子どもに高等教育を受けさせます。それゆえビジネスで成功している人が多いです。
マイノリティで成功する民族は、地元民族からねたみを買うこともあります。ユダヤ人やタタール人は、ヒットルイ(ずる賢い)と言われています。朝鮮人の長老は、強制移住を知らない朝鮮人の若者に、「着の身着るのまま、カザフの地に放り出された朝鮮人を助けてくれた、カザフ人への恩を忘れてはいけない」と、おっしゃっています。朝鮮人は、一歩引いています。それで朝鮮人は、勤勉、優秀で通っています。
勿論、朝鮮系マフィアもいます。ロシア南部のロストフ・ナ・ダヌーにいる朝鮮マフィアは、組織力があります。
朝鮮マフィアの経営する農場で、チェチェンを追われた人が働いて生計をたてています。
ロシア当局の中には、チェチェン人を働かせないように、圧力をかける人もいるようです。しかし、この朝鮮マフィアの経営する農場には、ロシアの当局も手が出せないようです。
朝鮮マフィアの人は、「頭がよくても力がなければ、何もないに等しい」と言っていましたが。
アルマティ近郊には、ギリシャ人の集落もあります。
私の最初の露語の先生が、カザフ人でした。
アメリカは、人種によって住む地域が違う、でもカザフスタンは、同じアパートの中でも色々な民族の人がいるし、家庭の中でも、パパとママの民族が違うなんて、よくあることだと。
カザフ人の露語は、とても綺麗です。
帝政ロシアの時代から政治犯は、よくカザフの地に流されてきました。
彼らは知識人で、カザフ人の学校で露語を教えていました。
あのソルジェニーツィンもカザフに流されて、学校の先生をしていました。
あと、スメタナは、サワークリームみたいなものです。
ペリメニ(水ギョウザ)なんかには、たっぷりかけます。
あと旧社会主義国では、自家製のジャムに防腐剤の目的で、鎮痛剤のアスピリンを入れます。アスピリン喘息の人がいたら、注意ですね。
勿論、自家製ですから、ともかく美味しいです。
バターなんかは、あまりの美味しさに驚きます。あと殺菌もせずに、牛のお乳からその場で採った牛乳を飲みました。この美味しさは、わすれられません。もちろん、人にはすすめられませんが。2011年09月01日08時01分 返信するRE: RE: きれいなトルコブルーの湖
浦潮斯徳 さま おはようございます。
またまたの興味あるお話、有り難うございます。
貼り付けてくださったサイトは、今ざっと見せていただきましたが面白そう…。
プリントしてゆっくり見せていただきたいと思います。
それから、中央アジアに居住している朝鮮人って優秀な人が多いって言ってらっしゃいますね。
その人たちは北民族ですか?南の人?
私も朝鮮人というだけで色眼鏡で見てしまう日本人の一人なので、とても興味を持ちました。
それから、チェチェン人と朝鮮人マフィア、カザフ人のロシア語の先生のこと、バターの話、ジャムとアスピリンのこと、盛りだくさんの話題ありがとうございます。
私の中では、今までいただいた浦潮斯徳さまのコメントで1冊の貴重な本が出来るのではないかと…、そんな感じです。
時々、プリントして読ませていただいています。
himmel2011年09月01日11時08分 返信するRE: きれいなトルコブルーの湖
李朝朝鮮の時代に、朝鮮半島で大飢饉が起きました。
ロシアに近い朝鮮人は、豆満江を渡り、極東ロシアに。
中国の満州に近い朝鮮人は、豆満江を渡り、中国の延辺に、移住しました。
極東ロシアに移住した朝鮮人は、ロシア正教に改宗して、ハサンやポシェット、ザルビノ近郊で、見事な畑を作りました。ロシア人には、とてもできないような。
一方李朝朝鮮の農民たちは、両班階級の地主に、生かさず殺さずで、搾取されていました。
朝鮮を旅行したイサベラ・バードというイギリス女性は、極東ロシアの朝鮮人は、朝鮮人たちは、自らの土地を持ち、生き生きと暮らしていると。
一方、李朝支配下の朝鮮半島では、農民たちは、地主の圧制で、無気力に生きていると。
結論として、朝鮮半島は、他国の支配によって、変えなければならないと。
こうした国際的背景もあって日韓併合は、世界から承認されます。
日本の保守系の論客は、このイサベラ・バードの説をとりあげ、日韓併合を正当化します。
極東ロシアに移住した朝鮮人は、北の豆満江に近い人たちです。
あとサハリンにも、朝鮮人はいます。
日本が朝鮮を併合した後、日本政府は、朝鮮の土地の測量を行いました。このときに、大勢の朝鮮人農民は、土地を失いました。
日本政府は、日露戦争でロシアから割譲させたサハリン(樺太)の炭鉱に、朝鮮人の応募をかけます。
土地を失った朝鮮人が、沢山やってきました。南の朝鮮人が多かったようです。この朝鮮人たちは、家族をもサハリンに呼び寄せます。
日中戦争の激化にともない、日本人の労働力が不足してきたので、朝鮮人の若者を、徴用という形で、サハリンの炭鉱に連れてきました。
この徴用で来た人たちは、タコ部屋に押し込めて、食べ物も満足にもらえなかったようです。
さらに戦争が激化してくると、サハリンの石炭を稚内に運ぶことが困難になり、サハリンの炭鉱夫を、九州の炭田に送りました。
これを「二重徴用」といいますが、家族のいる朝鮮人は、父親と生き別れになりました。
あと、極東ロシアにいた朝鮮人は、主にカザフスタンに移住させられました。この朝鮮人にとっての故郷は、極東ロシアです。
自らの意思で、豆満江を渡った人たちです。
一方、サハリンにいる朝鮮人の故郷は、朝鮮半島です。第二次大戦終了後、日本人は稚内に引き上げましたが、朝鮮人は、この船には乗船できなかったのです。自らの意思で、サハリンに行ったのではないのです。
それゆえ、カザフスタンの朝鮮人たちと、サハリンの朝鮮人たちは、心の中は違うのです。
ソ連が崩壊するころ、ウズベキスタンのフェルガナ盆地で、農業で成功をして、ウズベク人よりも豊かだったメスヘチア・トルコ人が、ウズベク人から襲撃を受けました。発端は、市場での些細な喧嘩でした。
しかし、メスヘチア・トルコ人が、ウズベク人女性を暴行したという流言飛語が出回り、大勢のメスヘチア・トルコ人は命を落としました。
このフェルガナ盆地にいた朝鮮人たちは、今度襲われるのは、自分たちだと思い、ロシアの極東やカザフスタンに逃げ込みました。
ゴルバチョフさんの末期の時代は、会社は倒産し、若者は失業し、排他的な民族主義が芽生えたようです。、
キルギスでもオシュで、ウズベク人とキルギス人の衝突がありました。
タジキスタンでは内戦が。
カザフスタンでは、大変な時代だったようですが、ナザルバエフ大統領が、なんとか国民が食べていけるように、舵取りをしました。
ソルジェニーツィンは、カザフスタンの北部は、ロシアのものだと言ってゆさぶりをかけてもきましたが。カザフ人は、ソルジェニーツィンを、「良い作家だけど、良い人間じゃない」と。
カザフスタン政府は、「ロシアとカザフスタンは、一つの運命」と言って、ロシアとの友好、そして諸民族の融和を呼びかけました。
カザフスタンには120の民族がいて、カザフ人は全体の50パーセントを切っています。オスケメン、ペトロパグロフスク、ウラリスクは、ロシア人の方が多いようです。
南部のシムケントには、ウズベク人が沢山住んでいます。
余談ですが、ソルジェニーツィンは、ソ連時代は、カーゲーベーに苛め抜かれていました。しかしソルジェニーツィンは、カーゲーベー出身のプーチンさんを「ロシアを偉大にした」と、変節をしています。
ソ連が崩壊して豊かさを享受している人は、プーチンさんを支持しています。プーチンさんに、また大統領になって欲しいと請願に行く文化人は、大勢います。
かつてのソ連時代の栄光が忘れられず、今現在、貧しい生活を余儀なくされている元共産党員のお年寄りの方は、プーチンさんを支持していないです。勿論、ゴルバチョフさんを、こき下ろします。今でも、ブレジネフ書記長の写真を、部屋に飾っているのです。2011年09月01日13時32分 返信する



