乙女峠マリア聖堂
寺・神社・教会
3.34
乙女峠マリア聖堂 クチコミ・アクセス・周辺情報
津和野 観光 満足度ランキング 8位
乙女山の光琳寺には、多くのキリシタン教徒が流人として送り込まれ、殉教した信者は36人にも及びました。 マリア聖堂は、この殉教者追悼のため、昭和26年に当時の津和野カトリック教会神父岡崎裕次郎(パウロ・ネーベル)氏の努力によって建立されました。 毎年5月3日に開催される乙女峠祭は、岡山、広島、山口、長崎その他各地から大勢の信者による行列ではじまり、聖堂前で野外ミサが行われます。 ●料金無料
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クチコミ・評判
3.34
(19件のクチコミ)- アクセス:
- 2.31
- 看板を頼りに山手の方に乙女峠を目指して行けば行き着きます。 by 風待人さん
- 人混みの少なさ:
- 4.13
- 平日は然程人混みも有りません。 by 風待人さん
- バリアフリー:
- 1.43
- 見ごたえ:
- 3.75
- この地で殉教した方々が沢山おられることを考えると悲しみが込み上げてきました。 by 風待人さん
1~18件(全19件中)
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小さな教会内のステンドグラスに乙女峠での殉教の様子が刻まれている:乙女峠マリア聖堂
- 4.0
- 旅行時期:2023/05(約3年前)
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歩きやすい靴が必須
- 4.0
- 旅行時期:2022/04(約4年前)
- 0
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乙女峠マリア聖堂(島根県津和野):背筋の凍る、隠れキリシタンの殉職地
- 5.0
- 旅行時期:2021/11(約4年前)
- 0
津和野の町中から離れた山中にあり、麓の聖堂入口からは人道の山道のみ、10分程歩く。
乙女峠はキリシタン殉教の地。19... 続きを読む51年(昭和26年)に聖堂は建てられる。
キリスト教がまだ厳禁だった1868年(明治元年)長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンは、津和野藩の改宗のすすめに応じず、拷問によって37人が殉教の道を選えんだ場所。
ひっそりとした静かな場所での夕暮れの1人の世界は、可愛らしい呼び名とは裏腹に、何かに見つめられているようない背筋が凍る場所だった。
なぜかぽっんと「電話ボックス」が一台。恋人の聖地の「電話ボックス」らしいが、更に怖さを引き立てる。「電話ボックス」は怖くて写真が撮れなかった。 閉じる投稿日:2022/01/21
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静かな佇まいでした。
- 4.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
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瓦葺きで和風の感じがしました。
- 3.0
- 旅行時期:2021/05(約5年前)
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隠れキリシタン弾圧の地は急坂の上
- 4.0
- 旅行時期:2019/06(約7年前)
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さまざまな記念碑や像がありました
- 4.0
- 旅行時期:2019/05(約7年前)
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明治初期の惨劇の地はひっそりと山奥に有りました
- 4.0
- 旅行時期:2016/06(約10年前)
- 1
知人のブログで乙女峠の存在を知り、今回初めて行きました。
殆どの方が、キリシタン迫害と言えば江戸時代と思っておられると感... 続きを読むじますが裏紙四番崩れは江戸時代末期から明治維新後も続いたキリシタン迫害及び弾圧です。
津和野で生まれた子供10名を合わせて総員163名が乙女峠で改宗を迫られ日夜残酷苛烈な拷問にさらされました。
その内、殉教者36名、信仰を捨てずに生還した者68名、拷問に耐えかねて信仰を捨てた者59名となっています。
信仰を捨てたとされる方々も津和野の地に残り、乙女峠に幽閉された仲間に夜な夜な差し入れを持ち込んだりしながらサポートをしていたそうです。
乙女峠マリア聖堂はマリア像と当時を語るステンドグラスを備えた小さな祈りの場ですが、哀しい歴史を伝える貴重な施設だと思いました。 閉じる投稿日:2016/06/05
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悲しい歴史があります
- 4.0
- 旅行時期:2015/08(約10年前)
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明治初期の虐殺を伝えますーー
- 4.0
- 旅行時期:2014/09(約11年前)
- 10
乙女峠マリア聖堂はキリスト教が厳禁だった明治元年に長崎から送られてきた153人の隠れキリシタンは、津和野藩の改宗のすすめに... 続きを読む応じず、拷問によって36人が殉教の道を選ばざるを得なかった悲劇の地に建てられた聖堂です。
ここは日本で唯一、聖母マリアが降臨された地といわれています。
明治政府も野蛮なことをしたものですーー。
一体なぜそうも執拗にキリシタンを弾圧したのか?
江戸時代の弾圧はキリシタンが反体制勢力と結びつき、あるいはその恐れありとして弾圧されたのですが、明治維新直後はそのような動きもなかったものと思われます。
弾圧のドライビングフォースは恐らく廃仏毀釈に通ずるものではなかったかと推測されます。
即ち天皇を中心とした政治体制では神国日本として異教、即ち仏教を軽んじ、キリスト教を排除するという動きが強まったのではと推測されます。
とはいえ長崎のキリスト教徒をはるばる津和野まで連行して改宗を迫り、従わなかった者は拷問の末に殺害するというのは現代から見ると尋常ではありません。
まあ、世界各地、異教徒に対する殺戮はこの津和野の数万倍、数十万倍以上でしたから明治政府のみを非難できませんんがーーー。
しかし、こういったキリシタン弾圧は西欧列強諸国の知るところとなります。
彼らは日本政府の野蛮さを非難します。
急速な西欧化を進めていた明治政府もこれには大いに驚き、委縮します。
西欧からつまはじきにされることだけは避けなくてはなりません。
そこで,急遽信教の自由を認めました。
(いつの時代でも日本を動かすのは外圧ということですね、情けないような納得するようなーーー)
ここは急な階段が百段くらいありますので足の悪い方にはオススメできません。
しかし一見の価値がある聖なる空間でもあります。 閉じる投稿日:2014/11/26
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マリア様が出現した地
- 4.0
- 旅行時期:2014/07(約11年前)
- 0
津和野駅の裏手の山の中腹にあります。徒歩15分程でしょうか。
ところどころに小さな案内板がありますので、注意すれば迷うこ... 続きを読むとはないかと思います。麓に駐車場もありますが、聖堂までは小川沿いの山道を100m程登ります。
明治初期、長崎浦上からキリスト教の改宗のために流罪された人々が捕らえられていた地です。改宗のために壮絶な迫害を受け、流罪された人のうち37名が、この地で殉教されたそうです。
聖堂は昭和26年に建立され、こじんまりとしていますが、ステンドグラスには殉教者の精神をしのぶ様子が描かれています。
また、敷地内には、殉教された37名の姿を刻んだ石碑や、三尺牢に閉じ込められた安太郎と、その安太郎の前に現れたマリア様の像があります。
なお、直接、乙女峠に訪れるよりは、津和野市街にある津和野カトリック教会をまず訪れることをお勧めします。ここには資料館があり、乙女峠に関する様々なことを知ることができます。
閉じる投稿日:2015/07/11
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長崎県浦上のキリスト信徒153名の殉難地
- 4.0
- 旅行時期:2014/05(約12年前)
- 0
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可愛らしい聖堂
- 3.5
- 旅行時期:2013/05(約13年前)
- 0
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乙女峠 マリア聖堂
- 3.0
- 旅行時期:2012/10(約13年前)
- 0
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隠れキリシタン殉教の地
- 4.0
- 旅行時期:2012/09(約13年前)
- 0
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乙女峠まで徒歩5分
- 3.5
- 旅行時期:2012/08(約13年前)
- 0
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美しい風景とは裏腹に、悲しい歴史のある乙女坂マリア聖堂
- 4.0
- 旅行時期:2010/11(約15年前)
- 2
JR津和野駅より、市街地とは反対側の山側へ。
乙女峠マリア聖堂があります。
*乙女峠マリア聖堂*
http:/... 続きを読む/www.tsuwano.ne.jp/kanko/modules/gmap/index.php?lid=238&cid=45
ちょうど紅葉の時期で、聖堂ともに美しい風景でした。
津和野カトリック教会の乙女峠資料室でも一部展示されていましたが、
この乙女峠には悲惨な歴史がありました。
元々、この地(乙女峠)に建っていたのは光淋寺というお寺。
1868年、長崎の浦上で生活する戦国時代からのキリシタンの子孫153名を、
キリスト教から改宗させる為にこの地へ連行し、
日夜、残酷な拷問をかけ改宗を迫ったそうです。
拷問は叩いたり蹴ったりはもちろんのこと、
火であぶっても改宗しようとしない者は、
この「氷責めの池」に浸けられます。
無論、津和野の冬は厳寒の状態。
次々と犠牲者がでたそうです。
なお、この乙女峠マリア聖堂は、殉教者慰霊の為に
津和野カトリック教会の岡崎祐次郎神父によって
昭和26年(1951年)に建てられたそうです。
聖堂内にはこの悲惨な歴史がステンドグラスに描かれているほか、
殉教者のパネルや資料等も展示されていました。
閉じる投稿日:2011/02/18
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乙女峠マリア聖堂 キリシタン殉教の地
- 4.0
- 旅行時期:2008/10(約17年前)
- 0
1件目~18件目を表示(全19件中)
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