wiz さんのクチコミ(8ページ)全448件
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直径7mのツツジと 春バラと 鎌倉文学館 (旧前田侯爵家別邸洋館)
投稿日 2014年05月12日
総合評価:4.0
鎌倉文学館は、加賀百万石の藩主、旧前田侯爵家の別荘だった洋館。 平成12年(2000)に国の登録有形文化財に指定された建物。 鎌倉に多く建てられた別荘建築の中でも、規模が大きい。 鎌倉文学館の敷地は鎌倉の特徴的な地形である谷戸(やと)のひとつを占めていて、その背後と左右の三方を山に囲まれ、前方には海を望んでいるため、鎌倉の地系のミニチュアのようだといわれている。
訪問時は、ちょうどバラ園前の直径7メートルのツツジ、オオムラサキが満開となっていました。 (194種234株という)バラの方はぼちぼちと咲きはじめていました。
『 鎌倉文学館バラまつり2014 』 は、5月14日(水)~6月8日(日)。
特別展は 『 愛とブンガク 』 開催中です。- 旅行時期
- 2014年05月
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投稿日 2014年05月12日
総合評価:4.5
葛西臨海公園のシャレーポピーが見頃だと言うので、夏のような天気となった週末に行ってきました。 シャレーポピー(赤、紺、桃、白など)、ヤグルマギク(青、赤紫・桃・白)も混色で植えられていて見頃でした。 久々に海辺や芝生の上で裸足になって歩いてみたり潮風にあたりながら気持ちよかったです。
- 旅行時期
- 2014年05月
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シャヴァンヌやルノワールのモデルをつとめたユトリロの母(自らも画家)の名を冠した広場 ナチ占領下のパリ・モンマルトルの記憶も
投稿日 2014年03月04日
総合評価:4.0
画家シャヴァンヌ、ルノワール、ロートレックらのモデルをつとめ、作曲家エリック・サティとの恋あり、そしてユトリロの母(自らも画家)であるシュザンヌ・ヴァラドン(マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン)の名を冠した広場。
サクレ・クール寺院の建つモンマルトルの丘のふもと、モンマルトルのケーブルカー(フニクレール)乗り場の脇の小さな広場です。
モンマルトルにゆかりの深いヴァラドンやユトリロの名前を冠する場所がモンマルトルにあるのは納得ですね。 ※ユトリロ通り( Rue Maurice-Utrillo : http://bit.ly/12bUFrw )はサクレ・クール寺院を背にして左に下る階段にあります。 ヴァラドン広場から見上げるフォワイヤティエ通り Rue Foyatier (の階段)もモンマルトルらしいですが、ユトリロ通り Rue Maurice-Utrillo (の階段)もモンマルトルらしい風情があります。
「Place Suzanne-Valadon(シュザンヌ・ヴァラドン広場)」の表示板の脇には、ナチ占領下のパリ・モンマルトルの苦い記憶を残す碑もありました。
最近(2010年)の映画で、ジャン・レノが出ていたフランス映画『黄色い星の子供たち』(原題: La Rafle. 英: The Round Up)というのがありましたが、あの映画の中でもナチ占領下のパリやモンマルトルが描かれ、記憶に新しいところです。
※ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件(Rafle du Velodrome d'Hiver、1942年7月16日~17日)、略称ヴェル・ディヴ事件(Rafle du Vel' d'Hiv)(wikipedia) → http://bit.ly/Pbj4dT ※Place des Martyrs Juifs du Velodrome d'Hiver, 75015 Paris → http://bit.ly/1ijjgQA- 旅行時期
- 2008年12月
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シャルル・ド・ゴール将軍がナチス・ドイツへの徹底抗戦の必要性を呼びかけた日 Appel du 18 juin
投稿日 2014年03月02日
総合評価:4.0
「1940年6月18日広場」は、モンパルナス・タワーやギャラリー・ラファイエット(モンパルナス店)の北側、レンヌ通りの南の突き当たりにあります。 メトロ4号線、12号線の ”モンパルナス・ビアンヴニュ駅” の出入口あり、バスの停留所あり、賑やかなところです。 旧称レンヌ広場。
「1940年6月18日広場(Place du 18 juin 1940)」とは、シャルル・ド・ゴール将軍が亡命先のロンドンからラジオを通じてフランス国民に向けてナチス・ドイツへの徹底抗戦の必要性を呼びかけた日。(Appel du 18 juin)
また、パリ市の環状道路の南、ポルト・ドルレアン(Porte d'Orleans)には、「1944年8月25日広場(Place du 25 Aout 1944)」があり、こちらは、パリ解放(Liberation de Paris)を記念する日付。
※これら二つの日付が対独レジスタンスからパリ解放にいたる歴史的な四年間の始まりと終わりをしるしづけていること、そしてそれらいずれも、ドゴール将軍という個人の英雄的な功績に密接に結びついていることがわかる。 それほどにも、この軍人大統領の存在はフランス国民にとって巨大なものであった。 (中略) パリの玄関口である国際空港が、やはり将軍の名前を冠して「シャルル・ド・ゴール空港」と呼ばれていることを見ても、ほとんど個人崇拝にも近いその顕揚ぶりがいかに例外的なものであるかがうかがえる。 その意味で、現代のパリには十九世紀のナポレオン神話になぞらえられる「ドゴール神話」が刻み込まれていると言っても過言ではあるまい。 (『パリ−都市の記憶を探る』 石井洋二郎著 ちくま新書 より)
※ヴィシーの四年間は、「救世主」ペタンの崇拝、ドイツの占領と略奪、爆弾騒ぎ、廃墟と化した国土、日常的な銃殺やら強制収容所送り、経済のマヒ、レジスタンスの高まりと解放、そして暴力的復讐の四年間と要約できる。 多くのフランス人はこの四年間を生きのびた。 フランスの存続は「沈黙」した多数のおかげであったとしても、フランスの進路の選択は行動する少数者によって決定された。 このようにドイツ占領期には、レジスタンスとコラボラシオンの道に積極的に関与した少数の人びとの生活と、受動的に日常を生きた人びとの生活とがあった。 受動的な抵抗と受動的な協力の境はあいまいであった。 「あいまい性」こそヴィシー時代の本質であった。 (『ナチ占領下のフランス』 渡辺和行著 講談社選書メチエ より)
※(wikipedia:ヴィシー政権) http://bit.ly/1n4iAVy
※1944年のパリの解放では、モンパルナス駅が重要な舞台となった。 8月25日、南側からパリに入城した自由フランス軍第2機甲師団のフィリップ・ルクレールはモンパルナス駅に司令部を置き、ドイツ軍との市街戦の指揮をとった。 同日16時頃、ドイツ軍のパリ駐留部隊司令官フォン・コルティッツが駅に出頭し、ルクレールとの会談の後降伏した。 (wikipedia:モンパルナス駅 より)
※ルクレール元帥とパリ解放記念館 - ジャン・ムーラン博物館 (Musee du ggneral Leclerc de Hauteclocque et de la Liberation de Paris - Musee Jean Moulin) 23 Allee de la 2eme Division Blindee - sur le Jardin Atlantique , 75015 Paris, France- 旅行時期
- 2012年10月
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オルセー美とオランジュリー美の最短コース! セーヌ河岸と地上を昇り降りできる二重構造の歩行者専用の橋
投稿日 2014年02月28日
レオポール セダール サンゴール橋 (ソルフェリーノ橋) パリ
総合評価:4.5
この橋は以前は、ソルフェリーノ橋と呼ばれていた橋で、オルセー美術館 Musee d'Orsay と オランジュリー美術館 Musee de l'Orangerie を最短コースで繋ぐ橋。
歩行者専用の二重構造の橋で、セーヌ河岸と地上を昇り降りできる橋でなかなかおもしろい橋です。 チュイルリー公園側の橋の下でしばしば路上ミミュージシャンを見かけます。 オルセー美術館が対岸に見える河岸で、雨除けもできて、ミュージシャンも心地よいのではないでしょうか^ ^;
2006年10月9日、セネガル大統領レオポルド・セダール・サンゴールにちなんでレオポール・セダール・サンゴール橋と改名されたそうです。- 旅行時期
- 2008年12月
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モネやビゼーが洗礼を受けた9区の教会 サクレクールと重なり合う景観は一見の価値あり!
投稿日 2014年02月28日
総合評価:4.0
メトロ12号線ノートル・ダム・ド・ロレット駅(Notre-Dame-de-Lorette)のすぐ上にあるノートル・ダム・ド・ロレット教会は、パリ9区にあり、オペラ地区からも歩いて行ける距離にあります。
ノートル・ダム・ド・ロレット教会は、モンマルトルの丘のふもとにあり、教会前のラフィット街(Rue Laffitte)から見るサクレクール寺院とノートルダム・ド・ロレット教会が重なり合う眺望は一見の価値があります!
また、この教会は、近くで生まれた クロード・モネ Oscar-Claude Monet(1840-1926)や ジョルジュ・ビゼー Georges Bizet (1838-1875)が洗礼を受けた教会でもあります。
ノートル・ダム・ド・ロレット教会内部の天井などを見ていたら、ローマのテルミニ駅近くにあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(ローマの四大バシリカ)を思い出しました。
教会の裏手の通りは、人気の“マルティール通り(Rue des Martyrs)”。 マルティールとは殉教者の意味。 マルティール通りという通りの名のとおり、殉教者の丘(モン マルトル)まで続く通りです。 殉教者とは、もちろん、フランスの守護聖人、聖ドニ(サン・ドニ)のことです。- 旅行時期
- 2008年12月
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フランス国鉄 Voyages-sncf.com インターネット予約 (フランス語版)
投稿日 2014年02月20日
総合評価:4.5
フランス国鉄 Voyages-SNCF のHPで TGV のインターネット予約(TGV PREM'S)をした際、画面コピーを保存しておいたので参考に載せておきます。
※ 予約の際は、フランス語版で予約するのが、一番安定性があると思いますので、フランス語版で予約した際の画面コピーを載せておきました。
※ 往復で予約した際の予約画面例なので、片道のみの場合は往路部分のみ参考にしてみてください!
写真01 Voyages-SNCF ホームページTOP画面
写真02 往路選択画面
写真03 復路選択画面
写真04 (往/復路)確認画面
写真05 確定画面1
写真06 確定画面2
写真07 確定画面3
写真08 支払い画面1
写真09 支払い画面2
写真10 支払い画面3
早割切符 TGV PREM'S(自宅プリントアウトチケット)他窓口発券の切符等々の写真は以下のクチコミに載せています!
→ http://4travel.jp/overseas/area/europe/france-ile_de_france/paris/transport/10006790/tips/10621622/
このクチコミの写真が見にくい場合は、こちらにもアップしています!
→ http://bit.ly/1mqnyfb- 旅行時期
- 2012年10月
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ロシュフーコー街14番地 幻想の世界を堪能できる生前の画家の住宅兼アトリエ
投稿日 2014年02月16日
総合評価:4.5
ギュスターヴ・モロー美術館 Musee national Gustave-Moreau は、パリ9区静かな住宅街の中にあります。
この美術館は、世紀末の象徴画家ギュスターヴ・モロー(Gustave-Moreau 1826.4.6-1898.4.18)が青年の頃から住んだパリ9区の家(ラ・ロシュフーコー街14番地 14, rue de La Rochefoucauld)を、中にある一切と共に国家に寄贈したもの。
この住宅兼アトリエの建物を、美術館にしようという考えは、モローが美術学校で教授をしている時に浮かんだのだそうです。
優雅なスタイルの螺旋階段をのぼった上階のアトリエ部分では、すさまじい生産性をもったモローの数多い作品の中で、幻想的世界を存分に堪能できます。 また、両親とともに住んだ居住部分なども見ることができるので、当時のモローの生活を感じることができる美術館になっています。
私邸部分の奥まった小部屋に飾られている作品は、生涯独身だったモローが唯一愛した女性(魂の妹) アレクサンドリン・デュルー Alexandrine Dureux に送った作品の数々。 25年の間断固たる親愛の情で結ばれていたという2人。 現在2人は、ともにモンマルトル墓地に眠っています。 モロー家のお墓に刻まれたG(ギュスターヴ・モローのG)は反転しているのですが、自分の墓の文字は彼女の墓から見えるようにと反転させて刻んだのだそうです。 ”永遠に見つめあえるように”と。 (※添付写真参照)- 旅行時期
- 2006年12月
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投稿日 2014年02月15日
総合評価:4.0
パリ9区、メトロ12号線の「トリニテ=デスティエンヌ・ドルヴ 駅 Trinite-d'Estienne d'Orves」すぐのところにあるサントトリニテ教会(聖三位一体教会)。 オペラ地区の百貨店ギャラリー・ラファイエット脇の通りから見えますし、サン・ラザール駅あたりからも歩いて行けます。 建物は、歴史主義の復興が盛んに行われた19世紀パリの代表例。
この教会は、象徴主義の画家ギュスターヴ・モロー Gustave Moreau (1898)や、ロマン派音楽の作曲家 エクトル・ベルリオーズ Louis Hector Berlioz の葬儀(1869)が行われた教会です。
モロー美術館も近いので、モローファンなら美術館の帰りにここに寄ってみるのもいいかもしれません。
また、印象派の画家ルノワールは、サントトリニテ教会を背景に(教会前の)サントトリニテ広場( Pierre-Auguste Renoir, Place de la Trinte )を描いています。- 旅行時期
- 2006年12月
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ユトリロが描いたパリ18区の教会 Eglise Notre-Dame de Clignancourt
投稿日 2013年08月14日
総合評価:4.0
ノートルダム・ド・クリニャンクール教会も
ユトリロが描いた18区の教会です。
(オランジュリー美術館に行くと見られます。)
ノートルダム・ド・クリニャンクール教会は、
サクレ・クール寺院のある
モンマルトルの丘 La Butte Monmartre
を 北へ下った場所 にあり、
18区役所と向かい合って立っています。
モンマルトルの丘から比較的近いのですが、
ノートルダム・ド・クリニャンクール教会
まで見に行かれる方はそれほどはいないですよね。
メトロ12号線ジュール・ジョフラン駅 Jules Joffrin
を上がってすぐ、モンマルトロビュス Monmartrebus も
ここまで走っていますので、興味があればいかがでしょうか。
(参考) モンマルトロビュス Monmartrebus 路線図
http://www.ratp.fr/informer/pdf/orienter/f_plan.php?loc=reseaux&nompdf=montmartrobus&fm=gif- 旅行時期
- 2006年12月
- アクセス:
- 5.0
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ダリダ広場 から見る サクレ・クール寺院 の眺めはなかなか素敵 ◎
投稿日 2013年08月16日
総合評価:4.0
モンマルトルにあるダリダ広場 Place Dalida は、
シャンソン歌手ダリダに捧げられ名付けられた広場。
彼女はモンマルトル地区を愛し住んでいたそうで、
このダリダ広場(やムーラン・ドラ・ギャレットに近い)
オルシャン通り Rue d'Orchampt に住んでいたそうです。
ダリダの没後10年を記念し、
1997年4月下旬に、彼女のブロンズの胸像が
ここ ダリダ広場 に置かれたそうです。
なにより、ダリダ広場あたりから見える
サクレ・クール寺院の姿もなかなか素敵なのです◎
ダリダ広場は、アブルヴォワール通り Rue de l'Abreuvoir と
ジラルドン通り Rue Girardon の交わる場所にあり、角地には
謎めいたブルイヤール城 Chateau des Brouillards が。
画家のルノワールの次男、映画監督のジャン・ルノワールは
ジラルドン通り Rue Girardon 13番地で生まれたそうです。
ジラルドン通りとノルヴァン通り Rue Norvin の角には
有名な 壁抜け男 Le Passe Muraille もいます。
ダリダが住んでいたオルシャン通りを進めば
アトリエ洗濯船 Le Bateau-Lavoir のある
エミール・グードー広場 Place Emile-Goudeau です。
テルトル広場の喧騒から抜け出せるお散歩コースです。- 旅行時期
- 2006年12月
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ユトリロが描いたことで有名な小路 Passage Cottin, Monmartre, Paris
投稿日 2013年08月14日
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アクセス情報が分かりやすい ヴェズレー観光局 sur internet
投稿日 2013年06月04日
総合評価:5.0
旅行前に情報収集、特に、ヴェズレーまでの公共交通機関でのアクセス情報、
に関して、ヴェズレー観光局のホームページ情報が一番分かりやすかったです。
列車/バスでのアクセスは、
いくつかの駅からの(ヴェズレーへの)アクセス方法があるので、
是非、観光局のホームページをご覧になってみてください!
http://www.vezelaytourisme.com/
http://www.vezelaytourisme.com/art265-en-train
観光局自体は、世界遺産であるサント・マドレーヌ聖堂への参道沿いにあるので、
ヴェズレーの観光地図や周辺のブルゴーニュ地方の情報の冊子など様々ありました。- 旅行時期
- 2012年10月
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川瀬巴水作品でも有名 芝増上寺 江戸初期の面影を残す 三解脱門
投稿日 2013年12月30日
総合評価:4.5
欧米でも葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気がある、日本の大正・昭和期の浮世絵師、版画家、川瀬 巴水(かわせ はすい、1883-1957)の作品「雪の増上寺」でも有名な、芝増上寺、三解脱門(三門)。
三解脱門(さんげだつもん)とは、三つの煩悩(ぼんのう) 「 むさぼり、いかり、おろかさ 」 を解脱する門のこと。
徳川幕府の助成により、幕府大工頭・中井正清とその配下により建立。 元和八年(1622年)に再建。 増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されている。
○増上寺
http://www.zojoji.or.jp/- 旅行時期
- 2013年12月
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残り紅葉を探し 皇居東御苑~北の丸公園~靖国神社をウォーキング
投稿日 2013年12月23日
総合評価:4.0
東京駅から、(大手門から入り)皇居東御苑(北桔橋門から出て) ~ 北の丸公園 ~ 靖国神社 へと 残り紅葉 を探して晴天の中のウォーキング(12月15日)。
紅葉(黄葉)の方はといえば・・、皇居東御苑はまだ紅葉が見られる感じ。 北の丸公園のモミジの紅葉は終わり、イチョウの黄葉は残っていた感じ。 靖国神社のイチョウや神社奥の神池庭園の紅葉は少し残っていた感じ、という結果でした。
※北の丸公園は、もともと太田道灌らが 江戸城 を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧田安明神)の旧地であり、のち、徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、 代官町 と呼ばれた場所である。 名前のとおり 江戸城 の ” 北の丸 ” であった場所で、現在は環境省の管理する国民公園の一つである。 多くの文化施設を公園内に持ち、旧江戸城の遺構(田安門、清水門はいずれも重要文化財に指定)も多い。 (wikipediaより)- 旅行時期
- 2013年12月
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フランス政府公認のレプリカ ローマ神話の自由の女神リベルタスをかたどった立像
投稿日 2013年12月22日
総合評価:4.0
『自由の女神像』は、ローマ神話の自由の女神リベルタスをかたどった立像で、フランス政府公認のレプリカ だそうです。
開通20周年レインボーブリッジ虹色ライトアップ と お台場レインボー花火2013 を見に、お台場海浜公園に行ったので、『自由の女神像』もレインボーブリッジとともに数枚撮影しました。
『自由の女神像』のあるあたりは、ボードデッキのスカイウォーク(空中遊歩道)になっていて景観が良く、花火の際もたくさん人がいましたが、人が歩いて行くとけっこう揺れるので、花火撮影の際にカメラを(柵に)固定してもちょっと撮影がぶれそうな感じでした。
スカイウォークを下り、水際に近付くにつれ、体に風もあたり寒いので、特に冬の夜景撮影時はホッカイロなどを持って防寒対策していくと良いと思います。
※『自由の女神像』 東京お台場には、パリの自由の女神像が、日本におけるフランス年事業の一環として1998年4月29日から1999年5月9日まで設置されていた。 この事業に関しては、1998年4月28日に点火式が行われ、フランスのジャック・シラク大統領、橋本龍太郎首相(当時)などが参加した。 この事業が好評を博したため、その後、フランス政府からレプリカの制作が認められフランスのクーベルタン鋳造所にて複製されたブロンズ製のレプリカが2000年に設置された。 (wikipediaより)- 旅行時期
- 2013年12月
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自然の丘陵と小川跡を利用してつくられた 八芳園 (はっぽうえん) 庭園
投稿日 2013年12月22日
総合評価:4.0
同じ白金台にある、国立科学博物館附属自然教育園の紅葉を見に行った後に、こちらの庭園の方にも寄ってみました。
※八芳園(はっぽうえん)は、東京都港区白金台に所在する、1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場。 庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。 江戸時代前期には譜代の江戸幕府旗本・大久保忠教(彦左衛門)の屋敷(但し、現在の園全域ではなく一部が彦左衛門の屋敷地)であったが、その後薩摩藩の抱屋敷、島津氏(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡る。 1915年(大正4年)、実業家・久原房之助邸宅時に現在の建物と庭園が整備された。 戦後久原(当時公職追放中)は、銀座や築地で料亭などの経営を手がけていた長谷敏司に、海外からの旅行者(賓客)向けに、日本庭園を生かした本格的な料亭の共同経営を持ちかけ、自ら「八芳園」と命名し1950年(昭和25年)に創業した。 (wikipediaより)- 旅行時期
- 2013年12月
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投稿日 2013年12月22日
総合評価:3.5
都営地下鉄大江戸線 清澄白河駅 から、『小津安二郎誕生の地(江東区深川1)』を目指して清澄通りを南方に歩いていたら、この仙台堀川を渡ったところに、芭蕉が ”奥の細道” へ出発した『地採茶庵跡(江東区深川1)』がありました。
採茶庵跡の脇の仙台堀川沿いは、『芭蕉俳句の散歩道』になっていました。
仙台堀川の名称は、北岸にあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来するのだそうです。
※江戸時代(寛永以後)に開削し、運河として利用されてきた。さらに横十間川より上流を明治以降に延長した。昭和になり工業地帯として発達すると地下水の汲み上げによる激しい地盤沈下がおこり、水害が頻発するようになった。この治水のため1982年に既に運河としての利用のなかった小名木川から大横川に交差するまでの区間を埋め立て仙台堀川親水公園として整備した。 (wikipediaより)- 旅行時期
- 2013年12月
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芭蕉が 『 おくのほそ道 』 へ出発した地 採荼庵跡(さいとあんあと)
投稿日 2013年12月22日
総合評価:3.5
都営地下鉄大江戸線 清澄白河駅 から、『小津安二郎誕生の地(江東区深川1)』を目指して清澄通りを南方に歩いていたら、この仙台堀川を渡ったところに、芭蕉が ”奥の細道” へ出発した『地採茶庵跡(江東区深川1)』がありました。
芭蕉の門人、杉山杉風の別邸で芭蕉がたびたび訪れたのが『採茶庵』。 芭蕉は ” おくのほそ道 ” に立つ前、しばらく杉山杉風の別墅採茶庵に住み、元禄2年(1689)に旅立ったといわれているそうです。 現在、この『採荼庵跡』には、碑と芭蕉座像がありました。
○採荼庵(さいとあん)跡 (深川1-9付近)
元禄2年(1689)に芭蕉は、ここ採荼庵(さいとあん)から「奥の細道」に旅立ちました。 採荼庵は、芭蕉の門人鯉屋杉山杉風(さんぷう)の別荘であります。 その地点は明らかではありませんが、仙台堀川にかかる海辺橋付近であるといわれています。 杉山家の記録には、元木場平野町北角で、間口27m、奥行36mの屋敷でありました。 (江東区HPより)
http://www.city.koto.lg.jp/profile/kanko/5442/5445.html- 旅行時期
- 2013年12月
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投稿日 2013年12月22日
総合評価:4.0
江戸時代末(天保年間)の 深川佐賀町(赤穂浪士引揚げの道として有名な永代橋のあたり) の町並みを実物大で再現した常設展示室がある 『 深川江戸資料館 』。
地下1階から地上2階、三層にわたる高い吹抜けの大空間には、火の見櫓がそびえ、通りに面してお店が並び、白壁の土蔵が建つその奥には裏長屋の人情味溢れる暮らしが広がっています。 当時の町並みを等身大で体感できる(長屋や船宿などの実物大の建物には、実際に入ることができる)ので、けっこう楽しいです。
また、一日の移り変わりを音と光で演出し、季節ごとに展示内容を替えているそうです。 はじめに通った時、八百屋さんの前は暗かったですが、1周し終わって戻ってきたら、今度は明るかったり。 ちなみに、今回の訪問は12月だったので、船宿の前は雪が降ってくるような照明効果になっていました。 突然、屋根の上の猫が鳴いたりするので、ちょっとビックリしました。
○深川江戸資料館 館内図
http://www.kcf.or.jp/fukagawa/edo/index.html- 旅行時期
- 2013年12月