「1940年6月18日広場」は、モンパルナス・タワーやギャラリー・ラファイエット(モンパルナス店)の北側、レンヌ通りの南の...
続きを読む突き当たりにあります。 メトロ4号線、12号線の ”モンパルナス・ビアンヴニュ駅” の出入口あり、バスの停留所あり、賑やかなところです。 旧称レンヌ広場。
「1940年6月18日広場(Place du 18 juin 1940)」とは、シャルル・ド・ゴール将軍が亡命先のロンドンからラジオを通じてフランス国民に向けてナチス・ドイツへの徹底抗戦の必要性を呼びかけた日。(Appel du 18 juin)
また、パリ市の環状道路の南、ポルト・ドルレアン(Porte d'Orleans)には、「1944年8月25日広場(Place du 25 Aout 1944)」があり、こちらは、パリ解放(Liberation de Paris)を記念する日付。
※これら二つの日付が対独レジスタンスからパリ解放にいたる歴史的な四年間の始まりと終わりをしるしづけていること、そしてそれらいずれも、ドゴール将軍という個人の英雄的な功績に密接に結びついていることがわかる。 それほどにも、この軍人大統領の存在はフランス国民にとって巨大なものであった。 (中略) パリの玄関口である国際空港が、やはり将軍の名前を冠して「シャルル・ド・ゴール空港」と呼ばれていることを見ても、ほとんど個人崇拝にも近いその顕揚ぶりがいかに例外的なものであるかがうかがえる。 その意味で、現代のパリには十九世紀のナポレオン神話になぞらえられる「ドゴール神話」が刻み込まれていると言っても過言ではあるまい。 (『パリ−都市の記憶を探る』 石井洋二郎著 ちくま新書 より)
※ヴィシーの四年間は、「救世主」ペタンの崇拝、ドイツの占領と略奪、爆弾騒ぎ、廃墟と化した国土、日常的な銃殺やら強制収容所送り、経済のマヒ、レジスタンスの高まりと解放、そして暴力的復讐の四年間と要約できる。 多くのフランス人はこの四年間を生きのびた。 フランスの存続は「沈黙」した多数のおかげであったとしても、フランスの進路の選択は行動する少数者によって決定された。 このようにドイツ占領期には、レジスタンスとコラボラシオンの道に積極的に関与した少数の人びとの生活と、受動的に日常を生きた人びとの生活とがあった。 受動的な抵抗と受動的な協力の境はあいまいであった。 「あいまい性」こそヴィシー時代の本質であった。 (『ナチ占領下のフランス』 渡辺和行著 講談社選書メチエ より)
※(wikipedia:ヴィシー政権) http://bit.ly/1n4iAVy
※1944年のパリの解放では、モンパルナス駅が重要な舞台となった。 8月25日、南側からパリに入城した自由フランス軍第2機甲師団のフィリップ・ルクレールはモンパルナス駅に司令部を置き、ドイツ軍との市街戦の指揮をとった。 同日16時頃、ドイツ軍のパリ駐留部隊司令官フォン・コルティッツが駅に出頭し、ルクレールとの会談の後降伏した。 (wikipedia:モンパルナス駅 より)
※ルクレール元帥とパリ解放記念館 - ジャン・ムーラン博物館 (Musee du ggneral Leclerc de Hauteclocque et de la Liberation de Paris - Musee Jean Moulin) 23 Allee de la 2eme Division Blindee - sur le Jardin Atlantique , 75015 Paris, France
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投稿日:2014/03/02