2026/06/06 - 2026/06/06
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+mo2さん
地方の県立美術館巡りをしていますが、今回ツアーで岩手へ行き、盛岡宿泊だったのですが、時間があったので岩手県立美術館へ訪問しました。コレクション展の松本竣介・舟越保武展示室です。
松本 竣介は、日本の洋画家。太平洋戦争が始まる8ヶ月前の1941年(昭和16年)4月、軍部による美術への干渉に抗議して、美術雑誌『みづゑ』437号に「生きてゐる画家」という文章を発表したことはよく知られています。子供のときに聴覚を失うも画家となり、36歳の若さで亡くなっています。竣介は多感な少年時代の大半を岩手ですごしています。父は宮沢賢治と交流があり、青年・賢治は時々竣介の家を訪れることがあったといいます。 松本竣介の絵には宮沢賢治 の世界と相通ずる感性が感じられると指摘されています。
舟越保武は、戦後の日本を代表する彫刻家。県立盛岡中学校(現・県立盛岡第一高等学校)では、のちの洋画家松本竣介と同期でした。昭和9年東京美術学校彫刻科塑造部に入学。14年新制作派協会彫刻部創立に参加し、会員となります。16年郷里盛岡で松本竣介と二人展を開催。二人の交友は、23年の竣介の死まで続きました。
※解説はHPを参照しました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- タクシー 徒歩
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松本竣介・舟越保武展示室です。
岩手県立美術館 美術館・博物館
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松本 竣介「春のスケッチ」1929(昭和4)年
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松本 竣介「丘の風景」1931(昭和6)年頃
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松本 竣介「南昌山」1934(昭和9)年
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松本 竣介「風景」1934(昭和9)年
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松本 竣介「自画像」1941(昭和16)年
日本が太平洋戦争に突入する直前、緊迫した空気が流れていた時代、竣介はアトリエで孤独に自画像を描き続けました。自画像を描く時、竣介は鏡に顔を映して描く代わりにガラス板の裏に墨を塗ったものを使ったことがあったといいます。こうすることで暗い背景にぼんやりと顔が映り、深みのあるトーンを把握できたらしい。レンブラントの自画像を模写してその表現を研究していたこともあり、この作品によって、線による表現から脱し、古典的な写実の表現を体得しようとしていたようです。美術さえも国家の臨戦体制へ組み込まれようとしたこの時期に、軍部と美術批評家による座談会記事が美術雑誌に掲載されました。物質的に抑圧してでも画家の表現を規制しようとするその発言に対し、竣介は「生きてゐる画家」という文章で反論を試みます。新たな画風の模索、画家としての自己を見つめ直す行為がこの作品からうかがえるでしょう。 -
松本 竣介「赤い建物」1936(昭和11)年
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松本 竣介「有楽町駅附近」1936(昭和11)年
「歩いてゐて好ましい建物に打ちあたることは日常の習慣になつてゐる。その時僕は荒々しい数本の線でその建物を失敬してくるだらう。」松本竣介は短い生涯で数多くの都会風景を描き残しました。その中でも建物は重要なモチーフとして繰り返し登場します。東京の有楽町を描いたものといわれています。建物が林立し当時から繁華街であった有楽町。そんな風景に惹かれ、ここで竣介は建物や線路の線を「失敬」してきて、太い線でぐいぐいと描いています。「竝んでゐる建物は僕にとつて余り立派なものである必要はない。安つぽい建物でも幾本かの立派な線を必ず持つてゐるものである。……何よりも建物の立つてゐるといふことが僕にとつて最も大きな魅惑なのだ。」 -
松本 竣介「少年像」1936(昭和11)年
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松本 竣介「枯木のある風景」1938(昭和13)年
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イチオシ
松本 竣介「序説」1939(昭和14)年
100号という迫力のある画面に、夜空か海の底のような深い青の世界が広がっている作品。前景には絵筆を握る竣介と妻禎子の姿、二人の間には生まれたばかりの息子を象徴する白い花。竣介の手元にはサインと作品名である「序説」の文字がしっかりと書き込まれ、画家として父親としての新たな出発の意気込みを伝えます。中央に走る暗い列車は、煙を上げ、そんな彼の希望をのせてどこまでも走っていく。この不思議な深い青の世界は、白の下地を板に施した後、透明性の高い絵の具を薄く何回も重ねるグラッシという古典的な絵画技法によって創り出されました。竣介は独自の詩的な感性のもと、美しい色彩と深いマチエールを追い求め、見事成功したのです。「たとえば空襲でやられて断片だけが残ったとしても、その断片から美しい全体を想像してもらいたいのだ」と彼は後に語っています。 -
松本 竣介「建物と人」1939(昭和14)年
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松本 竣介「人々」1940(昭和15)年
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松本 竣介「郊外風景」1940(昭和15)年
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松本 竣介「青の風景」1940(昭和15)年
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松本 竣介「青の風景(少年)」1940(昭和15)年
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松本 竣介「煙突のある風景」1941(昭和16)年
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松本 竣介「風景」1941-44(昭和16-19)年
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松本 竣介「S少女」1946(昭和21)年
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松本 竣介「少年」1946(昭和21)年
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松本 竣介「顔」1947(昭和22)年頃
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松本 竣介「女」1947(昭和22)年頃
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松本 竣介「男の顔(帽子)」1947(昭和22)年
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松本 竣介「顔」1938(昭和13)年頃
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松本 竣介「九段風景」1936-37(昭和11-12)年
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松本 竣介「風景(街・女)」1938-39(昭和13-14)年頃
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松本 竣介「パイプ」1947(昭和22)年
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松本 竣介「女」1947(昭和22)年
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松本 竣介「街」1947(昭和22)年頃
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舟越 保武「隕石」1940(昭和15)年
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舟越 保武「小北嬢」1943(昭和18)年
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舟越 保武「婦人胸像」1941(昭和16)年
高さ50センチメートルほどの舟越保武の初期の女性像。正面を向き、遠くを見つめるかのような穏やかな表情を見せます。特定のモデルの肖像というよりも、整った若い女性の顔立ちのなかに瑞々しいいのちを孕みます。それは同時にこの胸像の作者のいのちでもあり、若い彫刻家は自らの尺度にそって石を彫りすすめました。しかしながら、粗い結晶と脆い性質をもつ「紅霰」という褐色の大理石はなめらかでしっとりとした石の肌合いを生み出すのには不向でした。表現のすべてが作者の意のままになるのではなく、そこには石の性質が消されることなく残る。高村光太郎の訳による『ロダンの言葉』に導かれて彫刻家への道を歩み始めた舟越保武でした。ここでは、自己を燃焼し尽くすかのようなロダンの官能的ではげしい動きを見せる饒舌な表現ではなく、すでに、後の舟越保武の彫刻の特徴である清楚で静かな面持ちが、うかがえます。 -
舟越 保武「女の顔」 1947(昭和22)年
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舟越 保武「夢の女」 1949(昭和24)年
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舟越 保武「R嬢」1956(昭和31)年頃
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舟越 保武「若い女」1967(昭和42)年頃
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イチオシ
舟越 保武「LOLA」1972(昭和47)年
この女性像のモデルはスペインを訪れた際親しくなった経済学者の娘ローラです。作者・舟越は彼女を前にし石を彫るのではなく、あらかじめ用意したスケッチや写真によりながら制作を進めました。その後毎年送られてくる彼女の写真をもとに《LOLA》は何体も作られました。少女から大人へと変化成長していくローラの姿とともに、この彫刻家の作風の変化も追うことができます。1987年に脳梗塞で倒れた後、ある作品集のために寄せた舟越保武の短いエッセーには、自分の彫刻が存在するということへの省察が記されています。自らの考えの尺度に沿って制作を進めることの愚かさ、種々の煩悶や苦痛を仕事に影響させてはいけない、彫刻を作る職人としてすべての煩わしさから自分を解放して仕事をしようと。そこからさらに、人は自らでは計り知れないものによって支えられるものであるならば、風に吹かれて流れ去る野の花ように自身も同じ運命をたどり、なすべき特別なことは何もない、という思いに達します。《LOLA》が作られるようになってから、彼の作る女性像の眼差しは現実から人の心へ向けられ始めているようです。 -
舟越 保武「青い魚」1958(昭和33)年
透明で速い流れのなかを泳ぐ川魚の一瞬の姿がとどめられています。釣り好きの舟越保武は、渓流とそこに棲む生き物との関係、自然の大きさ厳しさに思いを馳せます。年期の入った釣り師でもあるこの彫刻家は渓谷に分け入り流れに糸を投げ入れますが、どうも気の散ることが多く釣りに集中できません。自分が立つ渓流の環境の恐ろしいほどの力と底知れぬ逞ましさに圧倒され、釣りどころではなくなってしまいます。傍に咲く山百合の花や蝶はそこを訪れる人のために在る訳ではないのに、その当たり前のことに感動します。流れによって削られ彫刻された岩に気の遠くなるような時間と自然の姿を実感してしまいます。この川魚の側面には、渓流の流れとそのなかを泳ぐ魚との関係を示すかのような複数の強い線が刻まれています。円い目の輪郭線は流れにそってずれたようにさえ見えます。川の柳であろうかその一枝が流れに引っ張られるように描かれ、枝の先には「やがて浮子見えずふりむけば月見草」とあります。 -
舟越 保武「高山右近像」1964(昭和39)年
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舟越 保武「聖セシリア」1980(昭和55)年
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舟越 保武「聖クララ」 1981(昭和56)年
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イチオシ
舟越 保武「聖ベロニカ」1986(昭和61)年
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舟越 保武「頭部Ⅲ」1998(平成10)年
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舟越 保武「その人」1995(平成7)年
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舟越 保武「原の城のためのデッサン」 1971(昭和46)年
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舟越 保武「原の城(頭像)」1963(昭和38)年
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舟越 保武「原の城」1971(昭和46)年
島原の乱は、島原や天草の領民が1637(寛永14)年に領主の苛政やキリシタン的動きの取り締まりに耐えかね起こした農民一揆。当時すでに廃城になっていた原の城に2万7千の一揆軍は立てこもり応戦。凄惨を極めた戦いの末、10数万の幕府軍に敗れ去り全員殺害されました。その原の城址を舟越保武が訪れた時は、静かな海を背に花々が咲き雲雀鳴く明るい長閑な丘でした。かつて凄惨な戦いがあったとは。かえってそこが明るく静かであっただけに、彼には地の底から数万のキリシタンや農民たちの絶望的な鬨の声が聞こえるようで悲惨な結末が不気味に迫ります。以来、現実と幻想、実像と虚像という相反する世界を彫刻家は行き来することになります。本丸で討ち死にした兵士が雨上がりの夜に月光を浴び亡霊のように立ち上がる姿を心に描きます。現実と幻想の間を浮遊する像、ときに現れときに消えます。彫刻という実体のあるものによって幻覚のようなものを作りだそうとしました。これができ彫刻家は原の城の幻影から解放されました。 -
舟越 保武「ダミアン神父」1975(昭和50)年
ベルギー人のダミアン神父はホノルルで司祭となりますが、1873年、志願してハンセン病患者が収容されているハワイのモロカイ島に宣教師として赴きます。この病を治療する薬のなかった当時、ここに来ることは死を意味していました。神父がどれだけ患者達にいたわりと同情の言葉をかけ熱心に布教活動をしても、この病に罹った者達にとって神父の説教など空々しい。同情と哀れみによって彼らとともに涙を流したとしても、患者でない神父とは限りない隔たりがあろます。これに悩んでいた神父も1885年に同じ病者となり、改めて患者に神の言葉を伝えたといいます。数年の後ダミアン神父はこの島で死にました。舟越保武はこの作品を作るより10年ほど前、病に冒された一枚のダミアン神父の写真に出会います。彼はダミアン神父の人間愛に気品と崇高なる美しさを感じとり、それが彼の中に10年以上も鮮明に焼き付けられていました。できあがったダミアン神父の左眼は病に冒されながらも、右の眼ともども患者の心のなかに深く向けられています。 -
舟越 保武「聖ヨアキム・サカキバラ(長崎26殉教者記念像のうち)」1962(昭和37)年
舟越 保武「聖フランシスコ・デ・サン・ミゲル(長崎26殉教者記念像のうち)」1962(昭和37)年
舟越 保武「聖フェリッペ・デ・ヘスス(長崎26殉教者記念像のうち)」1962(昭和37)年
舟越 保武「聖フランシスコ・ブランコ(長崎26殉教者記念像のうち)」1962(昭和37)年 -
舟越 保武「聖マリア・マグダレナ」1984(昭和59)年
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イチオシ
舟越 保武「聖セシリア」1979(昭和54)年
聖女カエキリア(セシリア)は教会音楽とオルガン保護聖人とされ、一般にはその特性を象徴する持物としてオルガンを携えていますが、ここで彼女が左手に抱えているのはオルガンの前身である「シリンクス」、あるいは「パンの笛」と呼ばれる楽器です。肩から足元までつづく丈の長い簡素な衣をまとい、胸元には、カエキリアが良人のウァレリアヌスとともに天使から授かった清らかさと純潔を守る者にしか見えないとされる薔薇を象ったブローチが一つ。額から自然に流した長い髪。少し、ほんのわずかに下を向くその静かな面持は、いま人々の上に差し出そうとするかのような右手とともに見る者に何かを語りかけます。聖女像を作ることについて舟越保武はある雑誌の中で語っています。自身の作る聖女像と母の面影とを無理に結びつけるつもりはないと断りながらも、幼いときに亡くしてその顔すら覚えていない母の面影を意識の奥に求め、自らの生命の終わりの時に母のもとに帰ろうとする本能的な願望でしょうか、「夢の中で見る母は、いつも優しく、若く、美しい」、それが仕事に現れるのかも知れない、と。
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