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地方の県立美術館巡りをしていますが、今回ツアーで岩手へ行き、盛岡宿泊だったのですが、時間があったので岩手県立美術館へ訪問しました。目的は萬鐵五郎展示室、岩手県出身の画家萬鐵五郎のコレクションが常設展示されています。写真撮影もOkでした。<br />萬鐵五郎は、日本近代の明治末─大正期を代表する画家です。当時のヨーロッパ絵画のめまぐるしい動向を日本に居ながら静かに見据え、それを東北人、ひいては日本人としての土着の感覚で独自の芸術にまで昇華した偉大な画家であることがよく知られています。

2026.6 岩手県立美術館 コレクション展(2)萬鐵五郎

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2026/06/06 - 2026/06/06

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地方の県立美術館巡りをしていますが、今回ツアーで岩手へ行き、盛岡宿泊だったのですが、時間があったので岩手県立美術館へ訪問しました。目的は萬鐵五郎展示室、岩手県出身の画家萬鐵五郎のコレクションが常設展示されています。写真撮影もOkでした。
萬鐵五郎は、日本近代の明治末─大正期を代表する画家です。当時のヨーロッパ絵画のめまぐるしい動向を日本に居ながら静かに見据え、それを東北人、ひいては日本人としての土着の感覚で独自の芸術にまで昇華した偉大な画家であることがよく知られています。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
タクシー
  • 萬鐵五郎展示室です。

    萬鐵五郎展示室です。

    岩手県立美術館 美術館・博物館

  • 萬鐵五郎の作品は何点か東京国立近代美術館(MOMAT)で見ていますが、纏まって見たのは初めてです。

    萬鐵五郎の作品は何点か東京国立近代美術館(MOMAT)で見ていますが、纏まって見たのは初めてです。

  • 萬 鐵五郎「石膏習作」1906(明治39)年

    萬 鐵五郎「石膏習作」1906(明治39)年

  • 萬 鐵五郎「裸体習作」1908(明治41)年

    萬 鐵五郎「裸体習作」1908(明治41)年

  • 萬 鐵五郎「裸婦」1909(明治42)年

    萬 鐵五郎「裸婦」1909(明治42)年

  • 萬 鐵五郎「子供を背おう女」1910(明治43)年頃

    萬 鐵五郎「子供を背おう女」1910(明治43)年頃

  • 萬 鐵五郎「林から見た家」1910(明治43)年頃

    萬 鐵五郎「林から見た家」1910(明治43)年頃

  • 萬 鐵五郎「友人の顔」1910(明治43)年

    萬 鐵五郎「友人の顔」1910(明治43)年

  • 萬 鐵五郎「娘」1910(明治43)年頃

    萬 鐵五郎「娘」1910(明治43)年頃

  • 萬 鐵五郎「仁丹とガス灯」1912(大正元)年頃<br />萬 鐵五郎「仁丹」1912(大正元)年頃

    萬 鐵五郎「仁丹とガス灯」1912(大正元)年頃
    萬 鐵五郎「仁丹」1912(大正元)年頃

  • 萬 鐵五郎「点描風の自画像」1912(明治45)年頃<br />フランス新印象派の画家スーラの考案した点描法を自画像に試みています。逆光の中に浮び上がる上半身を純度の高い絵の具の点の集積で描いています。点描法の試みは、スーラのように徹底されてはいませんが、部分的にはかなり成功しているといえるでしょう。

    萬 鐵五郎「点描風の自画像」1912(明治45)年頃
    フランス新印象派の画家スーラの考案した点描法を自画像に試みています。逆光の中に浮び上がる上半身を純度の高い絵の具の点の集積で描いています。点描法の試みは、スーラのように徹底されてはいませんが、部分的にはかなり成功しているといえるでしょう。

  • 萬鐵五郎 「赤い目の自画像」1912-13(明治45~大正2)年<br />この絵は、日本最初の前衛美術家集団であるフュウザン会の展覧会に萬が出品していた頃の作と考えられています。頭部や衣服の部分の鋭角的な面の分割や、それらが激しく交錯する表現に、少し前にイタリアに興った未来派の絵画の影響が指摘されていますが、大正元年の夏、萬の友人でフュウザン会同人であった木村荘八、瓜生養次郎のもとにイタリアの詩人マリネッティから未来派の資料が届けられたと伝えられており、それらを見て萬が刺激を受けた可能性が高い作品です。

    萬鐵五郎 「赤い目の自画像」1912-13(明治45~大正2)年
    この絵は、日本最初の前衛美術家集団であるフュウザン会の展覧会に萬が出品していた頃の作と考えられています。頭部や衣服の部分の鋭角的な面の分割や、それらが激しく交錯する表現に、少し前にイタリアに興った未来派の絵画の影響が指摘されていますが、大正元年の夏、萬の友人でフュウザン会同人であった木村荘八、瓜生養次郎のもとにイタリアの詩人マリネッティから未来派の資料が届けられたと伝えられており、それらを見て萬が刺激を受けた可能性が高い作品です。

  • 萬 鐵五郎「雲のある自画像」1912-13(明治45-大正2)年<br />明治18年いまの東和町に生まれた萬鐵五郎は日本の前衛絵画のパイオニアです。明治末期から続々と紹介されるようになった西洋の新しい絵画思潮に迅速に反応した彼は、それらとの格闘を通して、超然と屹立する独立峰のような作品世界を築き上げました。

    萬 鐵五郎「雲のある自画像」1912-13(明治45-大正2)年
    明治18年いまの東和町に生まれた萬鐵五郎は日本の前衛絵画のパイオニアです。明治末期から続々と紹介されるようになった西洋の新しい絵画思潮に迅速に反応した彼は、それらとの格闘を通して、超然と屹立する独立峰のような作品世界を築き上げました。

  • 萬 鐵五郎「風船をもつ女」1913(大正2)年頃

    萬 鐵五郎「風船をもつ女」1913(大正2)年頃

  • 萬 鐵五郎「静物(噴霧器)」1912(大正元)年<br />香水などを霧吹きする化粧用具が、ピンクの色調の中に平面的に描かれています。鮮やかな色彩表現による、フォービスム絵画の実験として描かれた小品です。この静物画は同じく大正元年に描かれた《ボアの女》の背景の壁に描き込まれているため、さらにその存在の重要性を増すのです。明治41年朝日新聞に連載された夏目漱石の小説『三四郎』の中で、ハイカラ女性として描かれるヒロイン美ね子は、三四郎との別れが決定的となる重要なシーンで、香水を滲み込ませたハンカチを男の鼻先に突きつけます。都会的な女性の技巧のまさった行為として大変印象深く、新時代の女性の登場を彷彿とさせます。

    萬 鐵五郎「静物(噴霧器)」1912(大正元)年
    香水などを霧吹きする化粧用具が、ピンクの色調の中に平面的に描かれています。鮮やかな色彩表現による、フォービスム絵画の実験として描かれた小品です。この静物画は同じく大正元年に描かれた《ボアの女》の背景の壁に描き込まれているため、さらにその存在の重要性を増すのです。明治41年朝日新聞に連載された夏目漱石の小説『三四郎』の中で、ハイカラ女性として描かれるヒロイン美ね子は、三四郎との別れが決定的となる重要なシーンで、香水を滲み込ませたハンカチを男の鼻先に突きつけます。都会的な女性の技巧のまさった行為として大変印象深く、新時代の女性の登場を彷彿とさせます。

  • 萬 鐵五郎「女の顔」1912(大正元)年<br />《ボアの女》の習作として描かれた女の顔です。ボアの女よりかなり小さいサイズの画面に描かれています。ほぼ同じ構図ですが、胸から下はカットされています。両者にはボアという長い襟巻がないということのほかにもいくつかの違いがみられます。一番大きな違いは、この作の方が顔にわずかに陰影表現の跡が見え、モデルの固有の表情が写し取られているということです。着ている着物の柄も違っています。目が赤く縁取られている点は同じです

    萬 鐵五郎「女の顔」1912(大正元)年
    《ボアの女》の習作として描かれた女の顔です。ボアの女よりかなり小さいサイズの画面に描かれています。ほぼ同じ構図ですが、胸から下はカットされています。両者にはボアという長い襟巻がないということのほかにもいくつかの違いがみられます。一番大きな違いは、この作の方が顔にわずかに陰影表現の跡が見え、モデルの固有の表情が写し取られているということです。着ている着物の柄も違っています。目が赤く縁取られている点は同じです

  • 萬 鐵五郎「風景」1912(大正元)年頃

    萬 鐵五郎「風景」1912(大正元)年頃

  • 萬 鐵五郎「風景」1913(大正2)年頃

    萬 鐵五郎「風景」1913(大正2)年頃

  • 萬 鐵五郎「風景・丁字路」1913(大正2)年<br />東京美術学校在学中の明治42年に、よ志夫人と結婚した萬は、小石川区宮下町(現在の文京区千石)に新居を構えてここから学校へ通ったが、彼の通学路であった上野の西北の方向に広がる地域は、幾つかの大地が舌状に張り出し、現在でも起伏に富んでいる。牧歌的な情景にガス灯や高い塀が描きこまれた本作は、彼にとってごく親しい、この東京の風景を題材とするものであり、画面右下に配された荷車引きの姿によって、坂道の存在が強調されるとともに、ユーモラスな味わいが醸し出されている。萬は、フォーヴィスムやキュビスムなどの西洋の新しい絵画思潮の日本への導入者として語られることが多いが、東京美術学校西洋画科にトップの成績で入学した彼は、画家としての本来的才能にも恵まれていた。本作の精緻な筆触は、油彩を自在に駆使することのできた彼の傑出した技量を存分に示すものであり、とりわけ様々な色彩が重ね合わされた空の部分のマチエールが絶妙である。

    萬 鐵五郎「風景・丁字路」1913(大正2)年
    東京美術学校在学中の明治42年に、よ志夫人と結婚した萬は、小石川区宮下町(現在の文京区千石)に新居を構えてここから学校へ通ったが、彼の通学路であった上野の西北の方向に広がる地域は、幾つかの大地が舌状に張り出し、現在でも起伏に富んでいる。牧歌的な情景にガス灯や高い塀が描きこまれた本作は、彼にとってごく親しい、この東京の風景を題材とするものであり、画面右下に配された荷車引きの姿によって、坂道の存在が強調されるとともに、ユーモラスな味わいが醸し出されている。萬は、フォーヴィスムやキュビスムなどの西洋の新しい絵画思潮の日本への導入者として語られることが多いが、東京美術学校西洋画科にトップの成績で入学した彼は、画家としての本来的才能にも恵まれていた。本作の精緻な筆触は、油彩を自在に駆使することのできた彼の傑出した技量を存分に示すものであり、とりわけ様々な色彩が重ね合わされた空の部分のマチエールが絶妙である。

  • 萬 鐵五郎「土沢風景」1915(大正4)年頃

    萬 鐵五郎「土沢風景」1915(大正4)年頃

  • 萬 鐵五郎「パイプのある静物」1914-15(大正3-4)年頃

    萬 鐵五郎「パイプのある静物」1914-15(大正3-4)年頃

  • 萬 鐵五郎「自画像」1915(大正4)年頃

    萬 鐵五郎「自画像」1915(大正4)年頃

  • 萬 鐵五郎「絵を描く自画像」1915(大正4)年頃<br />萬鐵五郎は、近代の画家の中でも最も数多くの自画像を描いた作家に数えられます。しかも彼の画業における探求の節目節目に集中的に自画像を手がけています。最初は東京美術学校卒業の頃です。後期印象派風の《点描風の自画像》や、未来派に学んだと思われる《赤い目の自画像》、ドイツ表現主義の影響が指摘できる《雲のある自画像》など、西洋から紹介された新しいスタイルを仮の器として、揺れ動く自己の内面を流し込もうとするかのような、実験的な自画像群があります。第二の節目は、郷里土沢での滞在期間です。とりわけ本図が制作されたと考えられる1915年には、油彩、素描ともに数多くの自画像を試みました。茶褐色を基調としたモノクロームの画面の中で、自分の顔を手がかりにキュビスムの造形方法を追求する苦闘のさまが見てとれます。鏡に映る自分の顔を凝視し描くという孤独な作業に徹し、ひたすらに自己という存在と向き合い模索する画家の姿。

    萬 鐵五郎「絵を描く自画像」1915(大正4)年頃
    萬鐵五郎は、近代の画家の中でも最も数多くの自画像を描いた作家に数えられます。しかも彼の画業における探求の節目節目に集中的に自画像を手がけています。最初は東京美術学校卒業の頃です。後期印象派風の《点描風の自画像》や、未来派に学んだと思われる《赤い目の自画像》、ドイツ表現主義の影響が指摘できる《雲のある自画像》など、西洋から紹介された新しいスタイルを仮の器として、揺れ動く自己の内面を流し込もうとするかのような、実験的な自画像群があります。第二の節目は、郷里土沢での滞在期間です。とりわけ本図が制作されたと考えられる1915年には、油彩、素描ともに数多くの自画像を試みました。茶褐色を基調としたモノクロームの画面の中で、自分の顔を手がかりにキュビスムの造形方法を追求する苦闘のさまが見てとれます。鏡に映る自分の顔を凝視し描くという孤独な作業に徹し、ひたすらに自己という存在と向き合い模索する画家の姿。

  • 萬 鐵五郎「自画像」	1916(大正5)年<br />向かって右の目や眉が極端に上方へずらして描かれています。ピカソなどが考案したキュビスム的な手法を用い、別々の角度から眺めた顔を同一画面で合成して描いているのです。見るものの視線を撹乱し画面に活気を与える効果が生まれています。萬は、明治末年に東京美術学校を出たあと、大正3年秋から4年の末まで郷里土沢に引き篭りました。その約1年半の土沢時代、当時日本人画家ではほとんど誰も試みなかったキュビスムという、ヨーロッパの前衛的な表現スタイルを独力で研究しました。大正5年1月に再度上京した萬は、これまでの研究成果を世に問うため、新設された二科展や院展に出品を行いました。

    萬 鐵五郎「自画像」 1916(大正5)年
    向かって右の目や眉が極端に上方へずらして描かれています。ピカソなどが考案したキュビスム的な手法を用い、別々の角度から眺めた顔を同一画面で合成して描いているのです。見るものの視線を撹乱し画面に活気を与える効果が生まれています。萬は、明治末年に東京美術学校を出たあと、大正3年秋から4年の末まで郷里土沢に引き篭りました。その約1年半の土沢時代、当時日本人画家ではほとんど誰も試みなかったキュビスムという、ヨーロッパの前衛的な表現スタイルを独力で研究しました。大正5年1月に再度上京した萬は、これまでの研究成果を世に問うため、新設された二科展や院展に出品を行いました。

  • 萬 鐵五郎「もたれて立つ人習作」1917(大正6)年

    萬 鐵五郎「もたれて立つ人習作」1917(大正6)年

  • 萬 鐵五郎「薬罐と茶道具のある静物」1918(大正7)年<br />身近な品々によって演じられる机上のドラマともいえる萬の静物画は、土沢時代に打ち込んだ主題の一つでした。本作品はその研究のもっとも豊かな成果を得たものといえます。 第5回院展に出品されたこの絵について、同世代の画家である山脇信徳は次のような評を寄せました。「・・・又正面図の薬缶に平面な蓋がのっかって今にも辷り落ち相なのも頗る真面目なおかしみである。(中略)こゝに新しき静物画の一種が生れた事をよろこぶ。」山脇のいう「真面目なおかしみ」は、萬の多くの作品に当てはまる要素といえるでしょう。本図においてもキュビスムを消化した多視点からの俯瞰構図や色遣いのなかに、ゆがみを強調した形態やユーモラスな運動感が組み入れられ、これまでの理知的な静物画とは一線を画した「新しき静物画」として異彩を放っています。

    萬 鐵五郎「薬罐と茶道具のある静物」1918(大正7)年
    身近な品々によって演じられる机上のドラマともいえる萬の静物画は、土沢時代に打ち込んだ主題の一つでした。本作品はその研究のもっとも豊かな成果を得たものといえます。 第5回院展に出品されたこの絵について、同世代の画家である山脇信徳は次のような評を寄せました。「・・・又正面図の薬缶に平面な蓋がのっかって今にも辷り落ち相なのも頗る真面目なおかしみである。(中略)こゝに新しき静物画の一種が生れた事をよろこぶ。」山脇のいう「真面目なおかしみ」は、萬の多くの作品に当てはまる要素といえるでしょう。本図においてもキュビスムを消化した多視点からの俯瞰構図や色遣いのなかに、ゆがみを強調した形態やユーモラスな運動感が組み入れられ、これまでの理知的な静物画とは一線を画した「新しき静物画」として異彩を放っています。

  • 萬 鐵五郎「木の間から見下した町」1918(大正7)年<br />郷里土沢で制作に没頭する日々を過ごし大正5年1月に再上京した萬が、大正8年3月に神奈川県茅ケ崎に転居するまでの間に東京で描いた風景画の多くは、郷里の風景をモチーフとするものでした。彼は土沢でのスケッチをもとにこれらの風景画を制作しましたが、現在彼の記念碑や記念美術館がある町の北側の山の中腹から街並みを見下ろして描いたこの絵は代表的な作例であり、土沢滞在中に使用したスケッチブックの中に、制作の参考にしたと考えられる同じ構図の素描が残っています。灰褐色の深みのある色調で統一された画面では、両側から覆い被さる樹木の幹や枝葉が中央の風景を枠取り、俯瞰された家々から屋根の稜線だけが幻想的に浮かび上がります。作者の郷里への思いが凝縮された凄絶な心象風景であり、没後の遺作展観の際、親友の画家小林徳三郎は「描いてあるものも木なら木、家なら家の精霊のように見えるものだ。然し斯うなっては萬君も苦しい事であったろう」と評しています。

    萬 鐵五郎「木の間から見下した町」1918(大正7)年
    郷里土沢で制作に没頭する日々を過ごし大正5年1月に再上京した萬が、大正8年3月に神奈川県茅ケ崎に転居するまでの間に東京で描いた風景画の多くは、郷里の風景をモチーフとするものでした。彼は土沢でのスケッチをもとにこれらの風景画を制作しましたが、現在彼の記念碑や記念美術館がある町の北側の山の中腹から街並みを見下ろして描いたこの絵は代表的な作例であり、土沢滞在中に使用したスケッチブックの中に、制作の参考にしたと考えられる同じ構図の素描が残っています。灰褐色の深みのある色調で統一された画面では、両側から覆い被さる樹木の幹や枝葉が中央の風景を枠取り、俯瞰された家々から屋根の稜線だけが幻想的に浮かび上がります。作者の郷里への思いが凝縮された凄絶な心象風景であり、没後の遺作展観の際、親友の画家小林徳三郎は「描いてあるものも木なら木、家なら家の精霊のように見えるものだ。然し斯うなっては萬君も苦しい事であったろう」と評しています。

  • 萬 鐵五郎「少女」1919-20(大正8-9)年頃

    萬 鐵五郎「少女」1919-20(大正8-9)年頃

  • 萬 鐵五郎「水浴する三人の女〔部分〕」1921(大正10)年<br />大正10年の帝展に出品したが落選し、後に萬自身が破棄した150号の大作「水浴する三人の女」の一部と思われます。中央人物の左脇の部分と思われます。1921年、周到に準備した上で制作した「水浴する三人の女」を第3回帝展に出品したが、どのようないきさつからか落選となり、その後萬自身の手で裁断され、一部しか残されていません。同展には萬のライバル岸田劉生も「童女像(麗子花をもてる)」を出品しこれは入選となり、しかも随一の評判を得たということで、画壇においてひとしきり話題となりました。「自分の手練に或る欠かんがあり…あとでよく見ると〈男〉と同じ様の理由で明らかに失敗の作であった」と萬自身により書き残されていますが、どのような欠陥かは明らかにされていません。

    萬 鐵五郎「水浴する三人の女〔部分〕」1921(大正10)年
    大正10年の帝展に出品したが落選し、後に萬自身が破棄した150号の大作「水浴する三人の女」の一部と思われます。中央人物の左脇の部分と思われます。1921年、周到に準備した上で制作した「水浴する三人の女」を第3回帝展に出品したが、どのようないきさつからか落選となり、その後萬自身の手で裁断され、一部しか残されていません。同展には萬のライバル岸田劉生も「童女像(麗子花をもてる)」を出品しこれは入選となり、しかも随一の評判を得たということで、画壇においてひとしきり話題となりました。「自分の手練に或る欠かんがあり…あとでよく見ると〈男〉と同じ様の理由で明らかに失敗の作であった」と萬自身により書き残されていますが、どのような欠陥かは明らかにされていません。

  • 萬 鐵五郎「水浴する三人の女」1921(大正10)年頃

    萬 鐵五郎「水浴する三人の女」1921(大正10)年頃

  • 萬 鐵五郎「少女(校服のとみ子)」1923(大正12)年<br />白い布を掛けた椅子に黒い制服を着た少女が、膝の上に緑の表紙の本を抱えて腰掛けています。黒のツバ広のおしゃれな帽子が幾分少女を大人っぽく見せています。背景は花模様などがはいった、明るい赤の布地が広げて掛けてあるようです。その赤と、椅子の白、制服や帽子の黒がコントラストを見せて心地好く響きあう大胆な配色の画面です。マチス風のしゃれた味わいの肖像画に仕上がっています。つぶらな瞳の愛らしい少女は萬の長女とみ子で、当時14才、平塚高等女学校に通っていました。この肖像画は大正13年11月に開かれた円鳥会第3回展に出品されました。

    萬 鐵五郎「少女(校服のとみ子)」1923(大正12)年
    白い布を掛けた椅子に黒い制服を着た少女が、膝の上に緑の表紙の本を抱えて腰掛けています。黒のツバ広のおしゃれな帽子が幾分少女を大人っぽく見せています。背景は花模様などがはいった、明るい赤の布地が広げて掛けてあるようです。その赤と、椅子の白、制服や帽子の黒がコントラストを見せて心地好く響きあう大胆な配色の画面です。マチス風のしゃれた味わいの肖像画に仕上がっています。つぶらな瞳の愛らしい少女は萬の長女とみ子で、当時14才、平塚高等女学校に通っていました。この肖像画は大正13年11月に開かれた円鳥会第3回展に出品されました。

  • 萬 鐵五郎「男」1925(大正14)年<br />筋骨たくましい男の裸体像は、萬鐵五郎が生涯温め続けたモチーフの一つです。作品の原型像は大正3年に描かれ、この「男」というモチーフは早くから彼の中に芽生えていたものでした。本作品の生成には次のような経緯があります。萬は《もたれて立つ人》(東京国立近代美術館蔵)に続くキュビスムの大作として、大正9年にこの作品に着手しましたが、彼の言葉によると「その時自分の手練に或る欠かんがあり、且つ体力にも充実を欠いて居たので」一旦制作を放棄しました。ところが14年になって「今度或る充実を感じて来た」ので一気に仕上げたといいます。一つの主題と向かい合い、固有の造形に昇華させようとする画家の姿が浮かんきます。全体を支配するリズミカルな筆のストロークは男の肉体の呼吸するリズムであり、同時に萬自身の肉体と精神の統一されたリズムを表します。キュビスムの造形言語と南画の精神に裏付けられた萬独自の肉体表現が結びつき、ここに未開の堂々たるモニュメントが現出しました。

    萬 鐵五郎「男」1925(大正14)年
    筋骨たくましい男の裸体像は、萬鐵五郎が生涯温め続けたモチーフの一つです。作品の原型像は大正3年に描かれ、この「男」というモチーフは早くから彼の中に芽生えていたものでした。本作品の生成には次のような経緯があります。萬は《もたれて立つ人》(東京国立近代美術館蔵)に続くキュビスムの大作として、大正9年にこの作品に着手しましたが、彼の言葉によると「その時自分の手練に或る欠かんがあり、且つ体力にも充実を欠いて居たので」一旦制作を放棄しました。ところが14年になって「今度或る充実を感じて来た」ので一気に仕上げたといいます。一つの主題と向かい合い、固有の造形に昇華させようとする画家の姿が浮かんきます。全体を支配するリズミカルな筆のストロークは男の肉体の呼吸するリズムであり、同時に萬自身の肉体と精神の統一されたリズムを表します。キュビスムの造形言語と南画の精神に裏付けられた萬独自の肉体表現が結びつき、ここに未開の堂々たるモニュメントが現出しました。

  • 萬 鐵五郎「枯れた花の静物」1926(大正15)年

    萬 鐵五郎「枯れた花の静物」1926(大正15)年

  • 萬 鐵五郎「静物(果物)」1926(大正15)年

    萬 鐵五郎「静物(果物)」1926(大正15)年

  • 萬 鐵五郎「水着姿」1926(大正15)年<br />萬が生涯を通じて赤と緑の色彩対比を好んで用いたことは良く知られています。ここで少女が着ている水着も、緑と朱の取り合わせが鮮やかな、彼好みのものです。萬自身が東京や横浜まで出かけて、この水着を探し求めたといわれます。

    萬 鐵五郎「水着姿」1926(大正15)年
    萬が生涯を通じて赤と緑の色彩対比を好んで用いたことは良く知られています。ここで少女が着ている水着も、緑と朱の取り合わせが鮮やかな、彼好みのものです。萬自身が東京や横浜まで出かけて、この水着を探し求めたといわれます。

  • 萬 鐵五郎「裸婦(宝珠をもつ人)」1927(昭和2)年

    萬 鐵五郎「裸婦(宝珠をもつ人)」1927(昭和2)年

  • 萬 鐵五郎「太陽のある蓬莱山」1919-27(大正8-昭和2)年

    萬 鐵五郎「太陽のある蓬莱山」1919-27(大正8-昭和2)年

  • 萬 鐵五郎「朝瞰」1919-27(大正8-昭和2)年

    萬 鐵五郎「朝瞰」1919-27(大正8-昭和2)年

  • 萬 鐵五郎「自転車走行」1919-27(大正8-昭和2)年

    萬 鐵五郎「自転車走行」1919-27(大正8-昭和2)年

  • 萬 鐵五郎「網をつくろう漁夫」1919-27(大正8-昭和2)年

    萬 鐵五郎「網をつくろう漁夫」1919-27(大正8-昭和2)年

  • ここからは参考に東京国立近代美術館の所蔵作品をアップします。<br />萬鉄五郎「太陽の麦畑」1913年頃 東京国立近代美術館

    ここからは参考に東京国立近代美術館の所蔵作品をアップします。
    萬鉄五郎「太陽の麦畑」1913年頃 東京国立近代美術館

  • 萬鉄五郎「もたれて立つ人」1917年 東京国立近代美術館<br />郷里へもどった萬は、孤絶した状況にあって自画像の連作を描きます。それらはかつての原色による色彩表現から褐色を主調にしたモノクロームに近い色調へと一変し、また鋭い筆致による形態の解体が試みられ、キュビスムに対する模索へと発展します。この作品は、そうした試みの結果の一つであり、キュビスムの論理的な絵画思潮が根づくことのなかった日本の近代絵画のなかで、最も早い作例の一つといえます。ただし、その背後には表現主義的な原初的カオスが秘められており、この作品でも、独自のキュビスム理解が見られる一方で、頭部のみに緑色を加え、朱色と褐色を基調にした暗鬱な色調と、上半身が誇張され肩や腰を急激に屈曲させた主観性の強い形態の分割に、まぎれもない萬の姿を見ることができます。

    萬鉄五郎「もたれて立つ人」1917年 東京国立近代美術館
    郷里へもどった萬は、孤絶した状況にあって自画像の連作を描きます。それらはかつての原色による色彩表現から褐色を主調にしたモノクロームに近い色調へと一変し、また鋭い筆致による形態の解体が試みられ、キュビスムに対する模索へと発展します。この作品は、そうした試みの結果の一つであり、キュビスムの論理的な絵画思潮が根づくことのなかった日本の近代絵画のなかで、最も早い作例の一つといえます。ただし、その背後には表現主義的な原初的カオスが秘められており、この作品でも、独自のキュビスム理解が見られる一方で、頭部のみに緑色を加え、朱色と褐色を基調にした暗鬱な色調と、上半身が誇張され肩や腰を急激に屈曲させた主観性の強い形態の分割に、まぎれもない萬の姿を見ることができます。

  • 萬鉄五郎「裸体美人」1912年 東京国立近代美術館<br />この作品は東京美術学校の卒業制作として描かれました。激しい色彩と造形とによる並外れた表現は当時、黒田清輝ら穏健な教官を当惑させました。萬は当時雑誌などで紹介されるようになったゴッホやマティスの感化を受けたと言っており、わが国ではじめてのフォーヴィスム(野獣派)的な作品と位置付けられます。しかし、単に新しい西洋思潮を取り込んだだけではなく、ここには土着性や諧謔味といった萬の独特な感性や内面性までもがはっきりと示されています。

    萬鉄五郎「裸体美人」1912年 東京国立近代美術館
    この作品は東京美術学校の卒業制作として描かれました。激しい色彩と造形とによる並外れた表現は当時、黒田清輝ら穏健な教官を当惑させました。萬は当時雑誌などで紹介されるようになったゴッホやマティスの感化を受けたと言っており、わが国ではじめてのフォーヴィスム(野獣派)的な作品と位置付けられます。しかし、単に新しい西洋思潮を取り込んだだけではなく、ここには土着性や諧謔味といった萬の独特な感性や内面性までもがはっきりと示されています。

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