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日本でもファンが多い画家、グスタフ・クリムト。オーストリアの世紀末美術の画家オーストリア、ウィーン生まれの19世紀末画家。官能的で写実的でありながら装飾性に満ちた独自のスタイルで新しい芸術世界を生み出しました。2019年には、東京都美術館「クリムト展 ウィーンと日本 1900」国立新美術館「日本・オーストリア外交樹立150周年記念 ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 」が開催され大盛況でしたが、国内でクリムトの作品を所蔵する美術館は、ほとんどありません。その貴重なクリムトの日本国内所蔵作品を見に豊田市美術館へ行ってきました。その他のコレクションも楽しく見れました。4年ぶりに旅行記にまとめました。作品解説はHPを参照しています。

2021.11 豊田市美術館でクリムトを見る

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2021/11/03 - 2021/11/03

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旅行記グループ 国内美術館めぐり

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日本でもファンが多い画家、グスタフ・クリムト。オーストリアの世紀末美術の画家オーストリア、ウィーン生まれの19世紀末画家。官能的で写実的でありながら装飾性に満ちた独自のスタイルで新しい芸術世界を生み出しました。2019年には、東京都美術館「クリムト展 ウィーンと日本 1900」国立新美術館「日本・オーストリア外交樹立150周年記念 ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道 」が開催され大盛況でしたが、国内でクリムトの作品を所蔵する美術館は、ほとんどありません。その貴重なクリムトの日本国内所蔵作品を見に豊田市美術館へ行ってきました。その他のコレクションも楽しく見れました。4年ぶりに旅行記にまとめました。作品解説はHPを参照しています。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.5
同行者
一人旅
交通手段
自家用車
  • 美術館のある場所は、豊田の中心市街地を見下ろす小高い丘の上。ここは、「七州城」と呼ばれた旧・挙母藩(現在の豊田市)の城があった場所で、現在も美術館の入り口近くに復元された七州城の隅櫓が残されており、当時の城の面影を忍ばせます。

    美術館のある場所は、豊田の中心市街地を見下ろす小高い丘の上。ここは、「七州城」と呼ばれた旧・挙母藩(現在の豊田市)の城があった場所で、現在も美術館の入り口近くに復元された七州城の隅櫓が残されており、当時の城の面影を忍ばせます。

  • 豊田市美術館は、愛知県豊田市の挙母城のあった高台の一角に建っています。 20世紀美術とデザインの収蔵、現代美術の意欲的な企画展が頻繁に開催されることで全国的に知られています。

    豊田市美術館は、愛知県豊田市の挙母城のあった高台の一角に建っています。 20世紀美術とデザインの収蔵、現代美術の意欲的な企画展が頻繁に開催されることで全国的に知られています。

  • 企画展は「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」でした。<br />映像、インスタレーション 、サウンド、演劇といった多領域を横断しつつ、時に妖艶に、時にダイナミックに観る者を魅了しなか?ら、出身地のシンガポールを軸にアジアを舞台にした作品を展開となっていました。<br />

    企画展は「ホー・ツーニェン 百鬼夜行」でした。
    映像、インスタレーション 、サウンド、演劇といった多領域を横断しつつ、時に妖艶に、時にダイナミックに観る者を魅了しなか?ら、出身地のシンガポールを軸にアジアを舞台にした作品を展開となっていました。

  • 常設展です。<br />ジョゼフ・コスース「分類学 (応用)#3 」1995年<br />吹き抜けの壁面にひろがっているのは、古代ギリシャから21世紀までの哲学者、思想家の 名前です。合わせて225人。 1960年代から一貫して言葉を用いた作品を手掛けてきたジョゼフ・コスースは、あたかも 夜空に広がる星々のようにこれらの名前を並べました。いくつかの名前の下に線が引かれ ていますが、それらは作者がランダムに選んだようです。そうすることによって、コ スースは私たちにもそれぞれに名前の星座を見つけ出すように促しているのです。 哲学や思想は、言葉を用いてこの世界の真理に迫ろうとする営みです。一つひとつの名前 の向こう側には膨大な言葉の積み重ねがあります。大切なのは、表に現れているものだけ でなく、見えないものにまで想像を広げていくことなのです。

    常設展です。
    ジョゼフ・コスース「分類学 (応用)#3 」1995年
    吹き抜けの壁面にひろがっているのは、古代ギリシャから21世紀までの哲学者、思想家の 名前です。合わせて225人。 1960年代から一貫して言葉を用いた作品を手掛けてきたジョゼフ・コスースは、あたかも 夜空に広がる星々のようにこれらの名前を並べました。いくつかの名前の下に線が引かれ ていますが、それらは作者がランダムに選んだようです。そうすることによって、コ スースは私たちにもそれぞれに名前の星座を見つけ出すように促しているのです。 哲学や思想は、言葉を用いてこの世界の真理に迫ろうとする営みです。一つひとつの名前 の向こう側には膨大な言葉の積み重ねがあります。大切なのは、表に現れているものだけ でなく、見えないものにまで想像を広げていくことなのです。

  • 藤田 嗣治「キヤンボシヤ平原」1943年<br />「キヤンボシヤ」とはカンボジアのことです。しかしこの作品では熱帯地方らしい陽気は感じられません。木々の間を轍の残る道が通り抜けるほかは人も動物もいない、大地と空ばかりの光景が薄暗く描かれています。 藤田嗣治は1920年代からパリの美術界で活躍した画家です。第二次世界大戦がはじまると陥落寸前のパリを脱出し日本に帰国しました。帰国後もその言動は常に注目され、1941年にはカンボジアを含む仏領インドシナを訪れるなど文化使節の役目を担いました。 仏領インドシナには1943年にも再び訪れる予定でしたが、戦況が悪化したためかなわなかったといいます。藤田の当時の心境が投影されているのか、寂寥感の漂う作品です。<br />

    藤田 嗣治「キヤンボシヤ平原」1943年
    「キヤンボシヤ」とはカンボジアのことです。しかしこの作品では熱帯地方らしい陽気は感じられません。木々の間を轍の残る道が通り抜けるほかは人も動物もいない、大地と空ばかりの光景が薄暗く描かれています。 藤田嗣治は1920年代からパリの美術界で活躍した画家です。第二次世界大戦がはじまると陥落寸前のパリを脱出し日本に帰国しました。帰国後もその言動は常に注目され、1941年にはカンボジアを含む仏領インドシナを訪れるなど文化使節の役目を担いました。 仏領インドシナには1943年にも再び訪れる予定でしたが、戦況が悪化したためかなわなかったといいます。藤田の当時の心境が投影されているのか、寂寥感の漂う作品です。

  • 藤田 嗣治「美しいスペイン女 」1949年<br />黒いドレスとベールを身にまとった、物憂げな表情の女性が目を伏せ気味に静かに佇んでいます。透け感のある布地の肩が大きく開いたドレスは、女性の白く滑らかな肌を美しく際立たせています。乳白色の下地と面相筆による細く鋭い墨線は、1920年代から藤田が独自に編み出した彼の代名詞といえる技法です。 この作品は、第二次世界大戦が終わり、藤田が自らの人生で最も活躍したフランスに戻ろうと、ビザを取得するため滞在したニューヨークで描かれました。ニューヨークにはない南欧風の建物や石畳みを、画家はどんな思いでこの絵に描き込んだのでしょうか。 この絵で見るべきところがもうひとつ。額も藤田が自分で作ったものです。そこに彫られたモティーフの素朴な風合いは、端正な画面と不思議に調和しています。

    藤田 嗣治「美しいスペイン女 」1949年
    黒いドレスとベールを身にまとった、物憂げな表情の女性が目を伏せ気味に静かに佇んでいます。透け感のある布地の肩が大きく開いたドレスは、女性の白く滑らかな肌を美しく際立たせています。乳白色の下地と面相筆による細く鋭い墨線は、1920年代から藤田が独自に編み出した彼の代名詞といえる技法です。 この作品は、第二次世界大戦が終わり、藤田が自らの人生で最も活躍したフランスに戻ろうと、ビザを取得するため滞在したニューヨークで描かれました。ニューヨークにはない南欧風の建物や石畳みを、画家はどんな思いでこの絵に描き込んだのでしょうか。 この絵で見るべきところがもうひとつ。額も藤田が自分で作ったものです。そこに彫られたモティーフの素朴な風合いは、端正な画面と不思議に調和しています。

  • ボリス・ミハイロフ「イエスタデイズ・サンドイッチ 12 」1965-81年<br />2枚のフィルムを重ねると、新たな絵画的構図と色彩、そして深淵かつユーモラスな意味が生まれます。このシリーズは、写真家ボリス・ミハイロフが1960年代後半から70年代にかけて社会主義体制下のウクライナでひそかに撮りためていたフィルムを、後に西側に移ってから2枚重ねて現像したものです。世界に2つの対立する構造があった時代を郷愁とともに振り返った写真は、「イエスタデイズ・サンドイッチ」と名付けられています。

    ボリス・ミハイロフ「イエスタデイズ・サンドイッチ 12 」1965-81年
    2枚のフィルムを重ねると、新たな絵画的構図と色彩、そして深淵かつユーモラスな意味が生まれます。このシリーズは、写真家ボリス・ミハイロフが1960年代後半から70年代にかけて社会主義体制下のウクライナでひそかに撮りためていたフィルムを、後に西側に移ってから2枚重ねて現像したものです。世界に2つの対立する構造があった時代を郷愁とともに振り返った写真は、「イエスタデイズ・サンドイッチ」と名付けられています。

  • ボリス・ミハイロフ「イエスタデイズ・サンドイッチ 5 」1965-81年<br />この写真は、昔の恋人からもらった手紙に年配の女性の水着姿を重ねたものです。そこには、独特のユーモアとともに時の経過の儚さが浮かび上がってきます。「構成的な美しさよりも人間を優先させる」と語るミハイロフの写真には、いつも現実を捉える客観性と人間観察に基づいた温かいまなざしが窺えます。

    ボリス・ミハイロフ「イエスタデイズ・サンドイッチ 5 」1965-81年
    この写真は、昔の恋人からもらった手紙に年配の女性の水着姿を重ねたものです。そこには、独特のユーモアとともに時の経過の儚さが浮かび上がってきます。「構成的な美しさよりも人間を優先させる」と語るミハイロフの写真には、いつも現実を捉える客観性と人間観察に基づいた温かいまなざしが窺えます。

  • ボリス・ミハイロフ「イエスタデイズ・サンドイッチ 7 」1965-81年

    ボリス・ミハイロフ「イエスタデイズ・サンドイッチ 7 」1965-81年

  • 下道 基行「torii 」2006-12年<br /> 第二次世界大戦期、太平洋地域には千を超える鳥居が建てられたが、その多くは取り壊された。下道基行は、2006年から2012年にかけて、世界中にわずかに残る鳥居を撮影している。サハリンでは海に面して広がる草原の斜面にぽつりと、サイパンでは十字架の墓が居並ぶ墓地の向こうに不釣り合いに、台湾では公園で人々の憩いの場になって残っている。国家共同体と宗教のシンボルであった鳥居は、かつての意味を失い、風景や人々の生に溶け込んで時の流れを伝える。<br />

    下道 基行「torii 」2006-12年
     第二次世界大戦期、太平洋地域には千を超える鳥居が建てられたが、その多くは取り壊された。下道基行は、2006年から2012年にかけて、世界中にわずかに残る鳥居を撮影している。サハリンでは海に面して広がる草原の斜面にぽつりと、サイパンでは十字架の墓が居並ぶ墓地の向こうに不釣り合いに、台湾では公園で人々の憩いの場になって残っている。国家共同体と宗教のシンボルであった鳥居は、かつての意味を失い、風景や人々の生に溶け込んで時の流れを伝える。

  • 浜田知明「群盲」1960年

    浜田知明「群盲」1960年

  • 川原温≪印刷絵画 No.2「いれずみ」》1958年

    川原温≪印刷絵画 No.2「いれずみ」》1958年

  • 川原温「June 30 1978」

    川原温「June 30 1978」

  • 川原温「OCT. 21.1981」

    川原温「OCT. 21.1981」

  • 河井寛次郎「碧釉扁壺」1964年

    河井寛次郎「碧釉扁壺」1964年

  • 横山 大観「焚火 」1914年<br />折りたためる2枚の画面からなる?風が、二つで1組になったものを「二曲一双屏風」といいます。この大きな画面で、大きな岩と煙をはさみ気心が知れた様子で談笑する二人は、向かって左の巻物を持つのが寒山、右のほうきを持つのが拾得という中国の唐時代の隠者です。衣に用いられたたっぷりとした墨づかいが、画面の中で二人の存在感を高めています。 画面から地面や焚火のような場を説明するものは省き、鑑賞者が想像で補うことで寒山と拾得の人物像に集中できるように仕掛けられています。また、屏風のジグザグな形状によって、寒山と拾得の精神的な距離感まで堪能できる作品です。

    横山 大観「焚火 」1914年
    折りたためる2枚の画面からなる?風が、二つで1組になったものを「二曲一双屏風」といいます。この大きな画面で、大きな岩と煙をはさみ気心が知れた様子で談笑する二人は、向かって左の巻物を持つのが寒山、右のほうきを持つのが拾得という中国の唐時代の隠者です。衣に用いられたたっぷりとした墨づかいが、画面の中で二人の存在感を高めています。 画面から地面や焚火のような場を説明するものは省き、鑑賞者が想像で補うことで寒山と拾得の人物像に集中できるように仕掛けられています。また、屏風のジグザグな形状によって、寒山と拾得の精神的な距離感まで堪能できる作品です。

  • 豊田市美術館は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築計画の設計者としても知られる建築家・谷口吉生が手掛けた建築です。

    豊田市美術館は、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の増改築計画の設計者としても知られる建築家・谷口吉生が手掛けた建築です。

    豊田市美術館 美術館・博物館

  • 一歩一歩アプローチを登っていくと少しづつ、且つ大胆にも空を背景に美しく浮かび上がるモスグリーンのスレートがモダンな外観。水平に伸びるファサードの巨大な構えが突如として我々を出迎え、連なったグリッド構造が幾何学的で美しく圧倒されます。

    一歩一歩アプローチを登っていくと少しづつ、且つ大胆にも空を背景に美しく浮かび上がるモスグリーンのスレートがモダンな外観。水平に伸びるファサードの巨大な構えが突如として我々を出迎え、連なったグリッド構造が幾何学的で美しく圧倒されます。

  • 東京国立博物館 法隆寺宝物館も谷口吉生が手掛けた建築なんですよね。

    東京国立博物館 法隆寺宝物館も谷口吉生が手掛けた建築なんですよね。

  • 彫刻テラスにはダニエル・ビュレンの「色の浮遊/3つの破裂した小屋」。鏡張りの小屋があり、内部が赤、黄、青の原色の色彩となっています。

    彫刻テラスにはダニエル・ビュレンの「色の浮遊/3つの破裂した小屋」。鏡張りの小屋があり、内部が赤、黄、青の原色の色彩となっています。

  • 彫刻テラスに隣接して、豊田市に寄贈された漆芸家・?橋節郎の作品を展示する記念館があります。

    彫刻テラスに隣接して、豊田市に寄贈された漆芸家・?橋節郎の作品を展示する記念館があります。

  • 漆芸家・高橋節郎の芸術を紹介する豊田市美術館高橋節郎館<br />1984年に豊田市で開催された個展がきっかけとなり、高橋節郎本人から多数の作品が豊田市に寄贈されました。「高橋節郎館」は、同じく谷口吉生による建築の豊田市美術館とともに1995年に開館しました。ひとりの漆芸家の作品を常設展示する国内でも数少ない美術館です。

    漆芸家・高橋節郎の芸術を紹介する豊田市美術館高橋節郎館
    1984年に豊田市で開催された個展がきっかけとなり、高橋節郎本人から多数の作品が豊田市に寄贈されました。「高橋節郎館」は、同じく谷口吉生による建築の豊田市美術館とともに1995年に開館しました。ひとりの漆芸家の作品を常設展示する国内でも数少ない美術館です。

  • 高橋節郎は1914年に長野県に生まれました。東京美術学校(現在の東京藝術大学)で漆芸を学び、以来約70年に及ぶ制作活動において新たな表現を追究したことで知られています。

    高橋節郎は1914年に長野県に生まれました。東京美術学校(現在の東京藝術大学)で漆芸を学び、以来約70年に及ぶ制作活動において新たな表現を追究したことで知られています。

  • 当初、高橋は鮮やかな色漆を用いた作品で頭角を現します。様々な表現技法を試みた後、艶やかな漆の黒と高橋独特の技法である「鎗金」が織りなす、幻想的な作品世界に到達しました。晩年になっても屏風やパネルの大作を、さらには独自の立体作品を手がけています。墨彩画や書も数多く残すなど、2007年に亡くなるまで多様な作品を生みだしました。伝統的な漆芸の表現に、自由で現代的な作風を取り入れた高橋の作品は国内外で高い評価を受けています。その功績により1997年には文化勲章を授与されました。

    当初、高橋は鮮やかな色漆を用いた作品で頭角を現します。様々な表現技法を試みた後、艶やかな漆の黒と高橋独特の技法である「鎗金」が織りなす、幻想的な作品世界に到達しました。晩年になっても屏風やパネルの大作を、さらには独自の立体作品を手がけています。墨彩画や書も数多く残すなど、2007年に亡くなるまで多様な作品を生みだしました。伝統的な漆芸の表現に、自由で現代的な作風を取り入れた高橋の作品は国内外で高い評価を受けています。その功績により1997年には文化勲章を授与されました。

  • 高橋節郎「紋 」1972年

    高橋節郎「紋 」1972年

  • 高橋節郎「街角」1955-64年

    高橋節郎「街角」1955-64年

  • 高橋節郎「夫人像A」1955-64年

    高橋節郎「夫人像A」1955-64年

  • 高橋節郎「都会の朝」制作年不詳

    高橋節郎「都会の朝」制作年不詳

  • 館内のレストラン ル・ミュゼ(味遊是)でランチ<br />

    館内のレストラン ル・ミュゼ(味遊是)でランチ

  • メイン料理<br />

    メイン料理

  • デザート<br />

    デザート

  • ジェームズ・リー・バイヤーズ「球形の本 (“Q Is Point”) 」1990年<br />「Q」は問いかけの「クエスチョン」を、「・」は「論点」、そして穴としての「無」を示している。作家は「『Q』の尻尾を取って『○』に、そして『○』を単なる『・』に略して、『Question』の象徴たる『・』をしっかり刻印した」と語っている。この白い球体は、なかなか答えの出ない問い、無、そして‘今ここ’に向き合うための、ひとつの標である。

    ジェームズ・リー・バイヤーズ「球形の本 (“Q Is Point”) 」1990年
    「Q」は問いかけの「クエスチョン」を、「・」は「論点」、そして穴としての「無」を示している。作家は「『Q』の尻尾を取って『○』に、そして『○』を単なる『・』に略して、『Question』の象徴たる『・』をしっかり刻印した」と語っている。この白い球体は、なかなか答えの出ない問い、無、そして‘今ここ’に向き合うための、ひとつの標である。

  • ソフィ・カル「盲目の人々」1986年<br />1986年、カルは、生まれつき目の見えない人たち23人にインタビューしました。 「あなたにとって美しいものは何か」と問いかけたのです。 彼女は、そこで聞き出した回答をテキストと写真のかたちで示し、回答者のポートレイト写真と並べて展示したのです。 彼らが語った言葉をじっくり読んでみましょう。 ここで私たちは、「美しいもの」とは、必ずしも視覚的なものに限らないことを知ります。 さらに「美」とは、人と人、人と対象との間に生じるものであるということも認識するでしょう。 カルは、彼らが答えた美のイメージを忠実に表した写真を棚の上に置いています。 しかし、生まれつき目の見えない人たちにとっての美のイメージを、どうすれば写真に収めることができるのでしょうか。 この作品は、「美とは何か」「見るとは何か」を問い直し、他者とのコミュニケーションの可能性と困難さについて、大きな気づきを与えてくれるのです。

    ソフィ・カル「盲目の人々」1986年
    1986年、カルは、生まれつき目の見えない人たち23人にインタビューしました。 「あなたにとって美しいものは何か」と問いかけたのです。 彼女は、そこで聞き出した回答をテキストと写真のかたちで示し、回答者のポートレイト写真と並べて展示したのです。 彼らが語った言葉をじっくり読んでみましょう。 ここで私たちは、「美しいもの」とは、必ずしも視覚的なものに限らないことを知ります。 さらに「美」とは、人と人、人と対象との間に生じるものであるということも認識するでしょう。 カルは、彼らが答えた美のイメージを忠実に表した写真を棚の上に置いています。 しかし、生まれつき目の見えない人たちにとっての美のイメージを、どうすれば写真に収めることができるのでしょうか。 この作品は、「美とは何か」「見るとは何か」を問い直し、他者とのコミュニケーションの可能性と困難さについて、大きな気づきを与えてくれるのです。

  • 杉本博司の作品

    杉本博司の作品

  • ダニエル・スペーリ「レストラン・シティ・ギャラリー 」1965年<br />バレエ・ダンサーにして詩人、そして造形作家。スぺーリはさまざまな分野で鬼才を発揮 しました。この作品はチューリヒのギャラリーで催された晩餐から生まれたもので、「罠 絵」と名づけられたシリーズのひとつです。スペーリは料理の腕も確かで、友人知人を招 いてもてなしますが、宴半ば、突如飲食の中止と離席を客人に求めます。パン、ナイフ、 ボトルなどが乱雑に残されたテーブル。スペーリはすべてをそのまま接着剤で固定して、 板絵のように壁にかけてしまいます。この宙吊りの状況、機能を失った剥き出しのモノの ありさまを、私たちはどう呼ぶべきでしょうか。スペーリはこう語ります。「 罠絵を芸 術として見ないでください。それは情報であり挑発です。普段まったく見ていなかった領 域に目を向ける方法なのです」。

    ダニエル・スペーリ「レストラン・シティ・ギャラリー 」1965年
    バレエ・ダンサーにして詩人、そして造形作家。スぺーリはさまざまな分野で鬼才を発揮 しました。この作品はチューリヒのギャラリーで催された晩餐から生まれたもので、「罠 絵」と名づけられたシリーズのひとつです。スペーリは料理の腕も確かで、友人知人を招 いてもてなしますが、宴半ば、突如飲食の中止と離席を客人に求めます。パン、ナイフ、 ボトルなどが乱雑に残されたテーブル。スペーリはすべてをそのまま接着剤で固定して、 板絵のように壁にかけてしまいます。この宙吊りの状況、機能を失った剥き出しのモノの ありさまを、私たちはどう呼ぶべきでしょうか。スペーリはこう語ります。「 罠絵を芸 術として見ないでください。それは情報であり挑発です。普段まったく見ていなかった領 域に目を向ける方法なのです」。

  • 高松 次郎「赤ん坊の影 No. 122 」1965年<br />作品の前に立つと画面に子どもの影が大きく映っているように見えます。しかし当然ですが、振り返ってもそこに影の主はいません。この〈影〉シリーズは、モデルと物理的な結びつきをもつはずの影を描くことで、あるはずのものが「ない」感覚を生み出しています。 この作品が描かれた1965年といえば、人類が初めて宇宙遊泳をした年です。空間や時間の概念が更新され、宇宙開発や原子力といった新技術が近未来への想像をかき立てた時代でした。そうした新しい知識と、人間の意識や存在とを結び付けた作家の先駆が高松次郎だといえるでしょう。高松は量子力学や存在論の豊富な知識で、多くの議論を呼ぶ作品を手がけました。〈影〉は、「実体の世界の消却」を試みたと彼が語ったように、目に見える世界を問い直す狙いがあったのかもしれません。

    高松 次郎「赤ん坊の影 No. 122 」1965年
    作品の前に立つと画面に子どもの影が大きく映っているように見えます。しかし当然ですが、振り返ってもそこに影の主はいません。この〈影〉シリーズは、モデルと物理的な結びつきをもつはずの影を描くことで、あるはずのものが「ない」感覚を生み出しています。 この作品が描かれた1965年といえば、人類が初めて宇宙遊泳をした年です。空間や時間の概念が更新され、宇宙開発や原子力といった新技術が近未来への想像をかき立てた時代でした。そうした新しい知識と、人間の意識や存在とを結び付けた作家の先駆が高松次郎だといえるでしょう。高松は量子力学や存在論の豊富な知識で、多くの議論を呼ぶ作品を手がけました。〈影〉は、「実体の世界の消却」を試みたと彼が語ったように、目に見える世界を問い直す狙いがあったのかもしれません。

  • ライアン・ガンダー「おかあさんに心配しないでといって(6)」2013年<br />この作品は、作家の愛娘がシーツに隠れて幽霊ごっこをしている様子を、大理石の彫刻にしたシリーズです。シリーズといっても、娘が幽霊を信じている間だけ制作されたため、サイズは徐々に大きくなり、異なる姿をしていて、それぞれがユニークです。日常の観察に基づいたこの作品は、しかし美術史にも接続します。大理石の襞は明らかに、ギリシャ時代やバロック期の優美かつ荘厳な人体彫刻を包む布の造形を思わせます。他愛ない子どもの遊びと、権威や永遠性の象徴でもある大理石との思い掛けない組み合わせは、美術における重要な問いを投げ掛けます。信じる者にしか存在しない幽霊は、信じるがゆえに存在する美術の価値の言い換えでもあるのです。

    ライアン・ガンダー「おかあさんに心配しないでといって(6)」2013年
    この作品は、作家の愛娘がシーツに隠れて幽霊ごっこをしている様子を、大理石の彫刻にしたシリーズです。シリーズといっても、娘が幽霊を信じている間だけ制作されたため、サイズは徐々に大きくなり、異なる姿をしていて、それぞれがユニークです。日常の観察に基づいたこの作品は、しかし美術史にも接続します。大理石の襞は明らかに、ギリシャ時代やバロック期の優美かつ荘厳な人体彫刻を包む布の造形を思わせます。他愛ない子どもの遊びと、権威や永遠性の象徴でもある大理石との思い掛けない組み合わせは、美術における重要な問いを投げ掛けます。信じる者にしか存在しない幽霊は、信じるがゆえに存在する美術の価値の言い換えでもあるのです。

  • 李 禹煥「線より」1977年<br />まっすぐ筆で引かれた線は、上から下へ向かうにつれて絵具がかすれ、最後は見えなくなります。それを30回ほど繰り返すことで出来あがる画面からは、作者の身振りや息遣いを見て取ることができます。それはまるで緊張みなぎる書道の修練のようです。 韓国で生まれ育った李は、幼いころから書や水墨画、老荘思想といった東洋の文化を身に着け、留学先の日本大学では西洋の哲学を学びます。その後美術作家としての活動を始めると「アルガママの世界との出会い」を唱え、1970年頃の日本美術の動向である「もの派」を牽引しました。 作家が一筆ごとに画面に線を引いているところを想像してみてください。そこには、絵画と書、西洋と東洋、面と線といった、対立するようで関わりあう、容易には分かちがたい関係が現れているのです。

    李 禹煥「線より」1977年
    まっすぐ筆で引かれた線は、上から下へ向かうにつれて絵具がかすれ、最後は見えなくなります。それを30回ほど繰り返すことで出来あがる画面からは、作者の身振りや息遣いを見て取ることができます。それはまるで緊張みなぎる書道の修練のようです。 韓国で生まれ育った李は、幼いころから書や水墨画、老荘思想といった東洋の文化を身に着け、留学先の日本大学では西洋の哲学を学びます。その後美術作家としての活動を始めると「アルガママの世界との出会い」を唱え、1970年頃の日本美術の動向である「もの派」を牽引しました。 作家が一筆ごとに画面に線を引いているところを想像してみてください。そこには、絵画と書、西洋と東洋、面と線といった、対立するようで関わりあう、容易には分かちがたい関係が現れているのです。

  • 李 禹煥「風と共に」1987年

    李 禹煥「風と共に」1987年

  • ルーチョ・フォンターナ「空間概念 N3」1959-60年<br />丸いブロンズの塊に穿たれた深い穴。見ていると、ブラックホールにでも吸い込まれていくような、そんな気分にさえなってきます。私たちが了解している三次元の空間を超え出ることを目指したフォンターナからしたら、狙いどおりと言っていいでしょう。粘土の塊に切り込みや穴を入れた、この「N(Nature/自然)」シリーズは全部で40点制作され、その後ブロンズに鋳造されました。 無造作に丸めたといった具合のごろんとした形と凹凸のある表面、また大胆に掻き出された大きな穴は、フォンターナの手わざを感じさせ、また一方で、私たちがうかがい知ることのできない、太古の自然の造形物のようにも見えてきて、タイトル通り、時空の不思議を感じさせます。

    ルーチョ・フォンターナ「空間概念 N3」1959-60年
    丸いブロンズの塊に穿たれた深い穴。見ていると、ブラックホールにでも吸い込まれていくような、そんな気分にさえなってきます。私たちが了解している三次元の空間を超え出ることを目指したフォンターナからしたら、狙いどおりと言っていいでしょう。粘土の塊に切り込みや穴を入れた、この「N(Nature/自然)」シリーズは全部で40点制作され、その後ブロンズに鋳造されました。 無造作に丸めたといった具合のごろんとした形と凹凸のある表面、また大胆に掻き出された大きな穴は、フォンターナの手わざを感じさせ、また一方で、私たちがうかがい知ることのできない、太古の自然の造形物のようにも見えてきて、タイトル通り、時空の不思議を感じさせます。

  • ジェームズ・アンソール「キリストのブリュッセル入城 」1898年<br />時は世紀末。ベルギーのブリュッセルで、骸骨や仮面で仮装した大群がこちらへと行進するなか、今まさにイエス・キリストがロバに乗って片手を挙げたところです。あたりには「キリスト、ブリュッセルの王」「社会主義万歳」などと書かれた旗が舞っています。 実のところキリストが入城するのは2000年ほど昔の聖地エルサレムのはず。異端の画家として不遇をかこっていたアンソールは大胆にも自らをキリストの姿に重ねて――つまり「ブリュッセルの王」として――自身に対して厳しい批評を浴びせ続けた街へと凱旋しているのです。 憤りや怒りなのか、あるいは誇大妄想なのか。細かい幻想的な線描がこの小さな画面を熱気に満ちた世界へと変えています。

    ジェームズ・アンソール「キリストのブリュッセル入城 」1898年
    時は世紀末。ベルギーのブリュッセルで、骸骨や仮面で仮装した大群がこちらへと行進するなか、今まさにイエス・キリストがロバに乗って片手を挙げたところです。あたりには「キリスト、ブリュッセルの王」「社会主義万歳」などと書かれた旗が舞っています。 実のところキリストが入城するのは2000年ほど昔の聖地エルサレムのはず。異端の画家として不遇をかこっていたアンソールは大胆にも自らをキリストの姿に重ねて――つまり「ブリュッセルの王」として――自身に対して厳しい批評を浴びせ続けた街へと凱旋しているのです。 憤りや怒りなのか、あるいは誇大妄想なのか。細かい幻想的な線描がこの小さな画面を熱気に満ちた世界へと変えています。

  • ジェームズ・アンソール「愛の園 」1888年<br />

    ジェームズ・アンソール「愛の園 」1888年

  • グスタフ・クリムト「若い女性の横顔 」1895年頃<br />クリムトは生涯で数千点もの膨大なデッサンを残しています。1890年から1900年頃のデッサンは、やわらかな描線で形状をとらえているのが特徴です。この若い女性を描いた作品は、古代の女性が竪琴を奏でる《音楽Ⅰ》(1895年)のために描かれたといわれます。 またクリムトはデッサンを手放なさないことで知られていました。サインが入っているデッサンは、クリムトが生前に手放したものとされます。繊細なタッチで描かれたサイン入りのこの作品は、クリムトの手から誰に渡ったのでしょうか。空想は広がります。

    グスタフ・クリムト「若い女性の横顔 」1895年頃
    クリムトは生涯で数千点もの膨大なデッサンを残しています。1890年から1900年頃のデッサンは、やわらかな描線で形状をとらえているのが特徴です。この若い女性を描いた作品は、古代の女性が竪琴を奏でる《音楽Ⅰ》(1895年)のために描かれたといわれます。 またクリムトはデッサンを手放なさないことで知られていました。サインが入っているデッサンは、クリムトが生前に手放したものとされます。繊細なタッチで描かれたサイン入りのこの作品は、クリムトの手から誰に渡ったのでしょうか。空想は広がります。

  • エゴン・シーレ「アルトゥール・レスラーの肖像」1914年 (1922年刷)

    エゴン・シーレ「アルトゥール・レスラーの肖像」1914年 (1922年刷)

  • グスタフ・クリムト「オイゲニア・プリマフェージの肖像 」1913-14年

    グスタフ・クリムト「オイゲニア・プリマフェージの肖像 」1913-14年

  • エゴン・シーレ「カール・グリュンヴァルトの肖像 」1917年<br />エゴン・シーレは、人間の実在とその表現に取り組んだ画家の一人です。虚飾をそぎ落と した鋭く力強いデッサンと渋みのある色彩によって、人間の内面まで浮き彫りにしようと しました。 しっかりと組み合わせた両手と、落ち着いた表情が印象的な肖像画です。モデルが腰を掛 けている椅子は暗い背景に溶け込むように描かれ、人物そのもの存在が際立って見えます。 シーレはさまざまな角度からのデッサンを行い、最終的にはモデルを正面からではなく俯 瞰するような視点から描きました。シーレはこの作品を描いた1年後、28歳の短い生涯を 閉じます。 グリュンヴァルトは繊維業を営む美術愛好家であり、第一次大戦中のシーレ兵役時には上 官、後にはパトロン(後援者)にもなった人物です。

    エゴン・シーレ「カール・グリュンヴァルトの肖像 」1917年
    エゴン・シーレは、人間の実在とその表現に取り組んだ画家の一人です。虚飾をそぎ落と した鋭く力強いデッサンと渋みのある色彩によって、人間の内面まで浮き彫りにしようと しました。 しっかりと組み合わせた両手と、落ち着いた表情が印象的な肖像画です。モデルが腰を掛 けている椅子は暗い背景に溶け込むように描かれ、人物そのもの存在が際立って見えます。 シーレはさまざまな角度からのデッサンを行い、最終的にはモデルを正面からではなく俯 瞰するような視点から描きました。シーレはこの作品を描いた1年後、28歳の短い生涯を 閉じます。 グリュンヴァルトは繊維業を営む美術愛好家であり、第一次大戦中のシーレ兵役時には上 官、後にはパトロン(後援者)にもなった人物です。

  • オスカー・ココシュカ「絵筆を持つ自画像 」1914年<br />スカー・ココシュカは、グスタフ・クリムトに早くからその才を見いだされた画家です。 しかし華やかで装飾的な作風のクリムトとは異なり、自らの内面をも鋭く観察し、深く激 しい感情を作品に投影しようとしました。 斜めに上半身をひねり、画面の外の私たちに強い視線を投げかけてくる画家の姿。大胆な 筆致で、暗い色調の絵具が厚く塗られたこの作品には、画家の情念が宿っているかのよう です。作品裏面には次の言葉が記されています。-「私はこの絵から見つめる。あなたは 私を見る」。これは、ココシュカが当時恋愛関係にあった作曲家グスタフ・マーラーの未 亡人アルマに宛てたものと言われています。しかしその恋は長くは続きませんでした。こ の作品の完成後まもなく、失恋の痛手を忘れるためかココシュカは軍隊に入隊するのです。

    オスカー・ココシュカ「絵筆を持つ自画像 」1914年
    スカー・ココシュカは、グスタフ・クリムトに早くからその才を見いだされた画家です。 しかし華やかで装飾的な作風のクリムトとは異なり、自らの内面をも鋭く観察し、深く激 しい感情を作品に投影しようとしました。 斜めに上半身をひねり、画面の外の私たちに強い視線を投げかけてくる画家の姿。大胆な 筆致で、暗い色調の絵具が厚く塗られたこの作品には、画家の情念が宿っているかのよう です。作品裏面には次の言葉が記されています。-「私はこの絵から見つめる。あなたは 私を見る」。これは、ココシュカが当時恋愛関係にあった作曲家グスタフ・マーラーの未 亡人アルマに宛てたものと言われています。しかしその恋は長くは続きませんでした。こ の作品の完成後まもなく、失恋の痛手を忘れるためかココシュカは軍隊に入隊するのです。

  • 宮脇 晴「自画像 (17才) 」1919年<br />宮脇晴(1902~1985)は、愛知郡田代村村長を務めた父正臣と母千代の第8子(四男)として名古屋市東区に生まれました。13歳のときに結核の療養のため現在の知多市に転居し、そこで画家の大澤鉦一郎と出会ったことで画家を志しました。大澤を中心に結成された愛美社に15歳で参加し、当初は名古屋で見た草土社展の岸田劉生らによる細密な表現に影響を受けた写実的な作品を制作しました。名古屋市立工芸学校卒業後は、同校で教えながら春陽会展などで作品を発表しました。戦後は、子供のかわいらしい姿を明確な輪郭線で描き出し、1970年頃になると柔らかなタッチと温かな色調で、身近な光景を作品にしました。

    宮脇 晴「自画像 (17才) 」1919年
    宮脇晴(1902~1985)は、愛知郡田代村村長を務めた父正臣と母千代の第8子(四男)として名古屋市東区に生まれました。13歳のときに結核の療養のため現在の知多市に転居し、そこで画家の大澤鉦一郎と出会ったことで画家を志しました。大澤を中心に結成された愛美社に15歳で参加し、当初は名古屋で見た草土社展の岸田劉生らによる細密な表現に影響を受けた写実的な作品を制作しました。名古屋市立工芸学校卒業後は、同校で教えながら春陽会展などで作品を発表しました。戦後は、子供のかわいらしい姿を明確な輪郭線で描き出し、1970年頃になると柔らかなタッチと温かな色調で、身近な光景を作品にしました。

  • 宮脇 晴「自画像 」1925年

    宮脇 晴「自画像 」1925年

  • 宮脇 晴「樹上姉弟図 」1936年

    宮脇 晴「樹上姉弟図 」1936年

  • 宮脇 晴「びいどろ吹き 」1977年

    宮脇 晴「びいどろ吹き 」1977年

  • 宮脇 綾子は、アップリケ作家、エッセイスト。夫は洋画家の宮脇晴。<br />豊田市美術館は、宮脇綾子の作品を192件所蔵しているそうです。

    宮脇 綾子は、アップリケ作家、エッセイスト。夫は洋画家の宮脇晴。
    豊田市美術館は、宮脇綾子の作品を192件所蔵しているそうです。

  • 宮脇綾子は野菜や魚など、主婦として毎日目にしていた身近なモノを対象に、布と紙で美しく親しみやすい作品を生み出しました。

    宮脇綾子は野菜や魚など、主婦として毎日目にしていた身近なモノを対象に、布と紙で美しく親しみやすい作品を生み出しました。

  • 宮脇はモティーフを徹底的に観察し、時に割って断面をさらし、分解して構造を確かめます。その強い探求心により生み出された作品は、高いデザイン性と繊細な色彩感覚に支えられ、いのちの輝きが見事に表現されています。

    宮脇はモティーフを徹底的に観察し、時に割って断面をさらし、分解して構造を確かめます。その強い探求心により生み出された作品は、高いデザイン性と繊細な色彩感覚に支えられ、いのちの輝きが見事に表現されています。

  • 宮脇 綾子「あんこう 」1975年

    宮脇 綾子「あんこう 」1975年

  • 宮脇綾子「赤い蟹」 1981年

    宮脇綾子「赤い蟹」 1981年

  • 宮脇 綾子「かれい」1955年

    宮脇 綾子「かれい」1955年

  • 宮脇綾子「ガラス瓶の中のつる草」 1986年

    宮脇綾子「ガラス瓶の中のつる草」 1986年

  • 今年(2025年)「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」が東京ステーションギャラリーで開催されました。

    今年(2025年)「生誕120年 宮脇綾子の芸術 見た、切った、貼った」が東京ステーションギャラリーで開催されました。

  • 豊田市美術館は、美術館を数多く設計してきた谷口吉生建築の中でも最高傑作の一つと言える美術館です。建築同様に美しい常設展や興味深い企画展と同様に、それを魅せる器としての建築も楽しむことができます。

    豊田市美術館は、美術館を数多く設計してきた谷口吉生建築の中でも最高傑作の一つと言える美術館です。建築同様に美しい常設展や興味深い企画展と同様に、それを魅せる器としての建築も楽しむことができます。

  • 再訪したい美術館です。

    再訪したい美術館です。

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