2024/09/21 - 2024/09/21
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+mo2さん
この旅行記のスケジュール
2024/09/21
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地方の美術館巡り大好きです。今月は、静岡県立美術館、秋田県立美術館、愛知県美術館と3週連続で訪れています。愛知県美術館の2024年度第2期コレクション展を見てきました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 新幹線
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10時には名古屋到着。
コロナ前は、仕事でよく来ていましたが久々の名古屋です。オアシス21 公園・植物園
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愛知県美術館は、愛知芸術文化センター10階にあります。ピカソやクリムトなど、20世紀初頭から現代までを中心とした国内外の作品を約8500件コレクションとして持ちます。コレクション展は写真撮影OKとなっています。
愛知芸術文化センター 名所・史跡
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グスタフ・クリムト「人生は戦いなり(黄金の騎士)」1903年
クリムト回顧展として開催された第18回ウィーン分離派展の出品作。分離派の会長として芸術の刷新に立ち上がり、大学講堂の装飾壁画を巡るスキャンダルでは、無理解な世論の批判の矢面に立たされていたクリムトは、世紀転換期のウィーンの新しい芸術の旗手として、この作品の題名どおり闘っていました。ただ戦闘の舞台が地上ではなく、のち隠棲したクリムトが描き出す官能美の世界が繰り広げられる楽園に設定されていることは、クリムトの心境に重大な変化が起きつつあったことを示しています。論争の渦中に萎えかけた自信を奮い立たせて表明された、クリムト最後の芸術姿勢のマニフェストといえる作品です。造形的には金などの工芸的要素が大胆に導入され、絵画・彫刻などの純粋美術と応用美術との境界の撤廃が試みられており、生活全般に芸術を取り入れようとしたウィーン工房に参加したクリムトの姿勢とも重なり合っています。愛知県美術館 美術館・博物館
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ポール・ゴーギャン「木靴職人」1888年
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パブロ・ピカソ「青い肩かけの女」1902年
「青の時代」のピカソの作品は貧困や弱者をテーマとし、青を基調とする画面には、感傷や憂愁といった冷やかな詩情が濃密に漂っています。この表現主義的象徴主義とも呼べる画風は、当時のピカソをとらえていた死や受難に対する個人的な感情に深く根づいたものですが、こうした感情は次第に昇華され、普遍化されていきます。バルセローナで制作されたこの作品は頭巾や肩掛けを身に着けた一連の婦人像の一枚で、モデルの非個性化された表情や悚然としたたたずまいからもうかがえるように、すでに個人感情を超越しており、見るものに畏敬の念を起こさせるような宗教的な域にまで到達しています。ここにカタルーニャ地方のロマネスクやゴシックの彫刻に通じる、スペインの宗教美術の伝統を認めることもできます。 -
マックス・クリンガー「女性像」1890年頃
クリンガーは1883年2月から93年2月までローマで制作しており、この時期に描かれた女性の肖像画のための習作のひとつと考えられます。しかし、明らかにこの作品を習作として描かれたと判断できる作品は現存していません。クリンガーはローマに移る前にパリで印象派の新しい絵画様式に触れており、明るい色彩と伸びやかな筆触によるこのスケッチ風の作品にもその影響は見て取れます。モデルは当時クリンガーが女性像のモデルとしてよく描いていた女流画家のコルネーリア・パツカ=ワーグナーと思われます。 -
エドヴァルド・ムンク「イプセン『幽霊』からの一場面」1906年
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エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「グラスのある静物」1912年
ベルリンのアトリエで描かれた作品です。画面は円と直線が基本的な構成要素となっており、とくに円がこの絵の中では支配的です。キルヒナーは1910年秋頃から約半年、非ヨーロッパ的なものからインスピレーションを得ようと図書館に通い、ジョン・グリフィスの本を通じてアジャンタの壁画を知りますが、円を基本とするその造形方法が、この静物画にも応用されています。意味論的な解釈をすれば、この静物画にはプリミティヴや自然に対するモダンや人工という対立関係が見てとれます。背景の壁掛けにはアフリカやオセアニアの美術からとった裸の男女が戯れる図が表わされており、それがアダムとエヴァの話を連想させるリンゴの背後に見えています。キルヒナー自身が彫った果物皿はプリミティヴな彫刻を模したものです。一方グラスやランプは近代的で人工的なものです。1937年の頽廃美術展に出品された歴史をもつ作品。 -
エミール・ノルデ「静物L(アマゾーン、能?等)」1915年
自然を破壊し人間を疎外する元凶として工業化された近代を忌み嫌ったノルデは、真正なるドイツ美術創出のため非西洋、前近代の芸術に早くから関心を抱きました。1913年にドイツ植民地省が派遣した医学・人口学の遠征団の随行画家としてニューギニアを訪れ、その途上で日本・中国にも立ち寄っています。この作品に描き込まれた能面、唐馬踊は現在でもノルデ美術館に残されて折、旅行の際に持ち帰ったものでしょう。クッションカバーはノルデがデザインし、妻アダが織ったもので、酒神祭の踊り手の描かれた絵皿は1913年にノルデが制作したもの。ノルデをしばしば襲った幻影から醒めて、旅の思い出の詰まった身の回りの愛玩品をモティーフに肩の力を抜き、くつろぎの中でのびのびと描かれた作品です。 -
ジョルジュ・ブラック「水浴する女性と3つの果実」1926年
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ジョアン・ミロ「絵画」1925年
1918年から23年まで細密な写実絵画を描いていたミロは、1923年の末に一転して想像力の世界を追求するようになりました。彼は一般に色彩豊かで賑やかな幻想の画家として知られますが、1924年から1927年までの作品の大半は、青または褐色で一面をおおわれたモノクロームの空間と、その中を漂うごくわずかな形、線、点や文字だけで構成されました。それらは、イメージや観念の最初のきざしが生まれようとしている心の中の世界を映し出しているかのようです。1924年夏に友人のミシェル・レリスにあてた手紙の、「ただ線だけで描かれた絵の方が、色を塗り込めた絵よりも、はるかに率直に精神を揺さぶることに気づいた」という一節が物語るように、この時期のミロは、表現手段を極限まできりつめることによって、見る者の心を鋭くえぐるような衝撃を生み出そうとしていました。 -
ポール・デルヴォー「こだま(あるいは「街路の神秘」)」1943年
1943年に詩人ポール・エリュアールの依頼で制作した作品で、別題に《街路の神秘》とあります。月夜に円柱が連なるギリシア神殿風の石造りの建物が建ち並び、画面右下から画面中央左奧へと石畳の道が延びています。続く遠方には山が望まれます。道に並行した石壁も、月明かりに冷たく光り、石壁に沿った道は舗装が未完のまま、小石が転がっています。建物や人物の影の描写にデ・キリコの影響が認められます。虚ろな表情で同じポーズをした三人の全裸の女性は、道なりに歩みを進め、通り過ぎて行こうとしています。光の中に浮かび上がり、こだまの妖精に化身した女性たちは、左手を挙げ、耳を澄まして記憶をたどっているかのようです。それぞれの女性の大きさは、周囲の建物の大きさや距離には正確に比例しておらず、空間は歪められています。静謐な雰囲気だが、こだまが石に反響し、また光も建物の合間に増幅する神秘的な世界が展開されています。 -
ジャック・ヴィヨン「存在」1920年
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フランティシェク・クプカ「灰色と金色の展開」1920-21年
この作品は、純粋に造形的な構造体としての垂直線からなる作品群と、宇宙的なヴィジョンと広がりを持つ一連の作品の、双方の要素を兼ね備えています。垂直線を基本構造とする表現は1900年頃の作品に始められていますが、この作品では相似形の灰色の形態が間隔を変えて少しずつずれながら繰り返されてリズムが生まれています。その垂直の形態の背後には、金色に輝く太陽の光のような明るい空間が広がります。友人の画家ガリアンの影響もあり、クプカは1920-21年に一連の白黒の油彩画を制作しているので、この作品はこうしたモノクロームの新たな局面への移行段階に位置していると考えられます。2013年のX線調査によって下層に女性の半身像が描かれていることが判明しました。その女性像は《ガリアンの好み》(1909年、プラハ国立美術館)などと関係があると考えられます。 -
アンリ・マティス「待つ」1921-22年
マティスは1921年に本格的に南フランスのニースにアトリエを構えるようになりましたが、そのニースにて描かれたシリーズの1点。 -
バルテュス「白馬の上の女性曲馬師」1941年(1945年加筆)
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ルーチョ・フォンターナ「空間概念」1960年
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ジョーゼフ・アルバース「正方形頌」1962年
「正方形頌(Homage to the Square)」と題する多量の作品を形成したシリーズのうちの点。これは、1949年から彼の死の1976年まで継続されました。入れ子状に重なる4つの色面で構成され、各色面は、垂直軸に対して相互にシンメトリカルに置かれ、水平軸に対しては構図のグリッド・システムに順じて非対称に置かれるのが彼の基本構造でありましたが、時にはこうした色面のうち最大のものが省略されることもありました。彼はこれらの作品についてこう言っています。「こうした作品を隣り合わせに置いて見ると、それぞれの絵画が、それ自体、いわば楽器編成であることがわかる。これはつまり、これらは異なったパレットであり、したがって、いわば異なった気風を持つことがわかるのである。使用された色彩の選択とその順序は、互いに前へ後ろへと影響し合い、変化しあう、相互作用を意図している」 -
マックス・エルンスト「ポーランドの騎?」1954年
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レオノーラ・キャリントン「ウルでの狩り」1946年頃
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高橋由一「厨房具」1878-79年
由一は1874年頃より「卑近な事物、つまり誰にでも、よく判りよいもの」(平木政次)を対象に一連の静物画を写実的に描いています。斜め上方から見下ろした構図は由一の静物画の特徴であり、まったく同一の空間設定は、1876年2月4日の天絵社月例油画展に出品された《鱈梅花》にも見られます。複雑に重ね合わされた各種厨房具の配置方法や陰影のつけ方などから空間や量感に対する意識を既に看取できますが、単独で置かれた蓮華と擂粉木との間の曖昧な関係にはっきりと窺えるように、まだ統一的な空間を捉えるには至っていません。しかし対象の真に迫ろうとする画家の鋭い気迫は、擂粉木のごつごつした樹皮やどっしりとした擂鉢の表現などによく表れています。 -
浅井忠「八王子付近の街」1887年
工部美術学校においてフォンタネージの薫陶を受けた浅井は、師の自然観を最もよく受け継ぎ、洋画の冬の時代にあってもよくその詩的自然主義を育んでいきました。フォンタネージはバルビゾン派の影響を受けた、当時イタリアでは一流の画家で、その画技と人格は生徒たちから尊敬されていました。1889年、原田直次郎らと結成した「明治美術会」第1回展に出品した《春畝》は、フォンタネージの作風の追随ではなく、日本の風土に根差した独自のリアリズムを画面に表した作品として、高く評価されていますが、その2年前に描かれた《八王子付近の街》もまた、東京近郊での写生を基とした、風景画として初期の代表作と考えられる作品です。遠景に山並みを配し、近景から中景へと田舎の道に沿って並ぶ家並みを描いていますが、色彩の処理や構図法、光への注意深い配慮に、浅井固有の表現が感じられる作品です。 -
小山正太郎「西船堀村」1891年
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黒田清輝「暖き日」1897年
黒田清輝(1866-1924)は、明治中期にフランスに渡り、アカデミックな写実に印象派の明るい色彩を加味した「外光派」の様式を日本に持ち帰りました。西洋の伝統的な描法によっていた洋画(旧派)と黒田らの画風(新派)との間で対立が起こりましたが、黒田は1896(明治29)年に新設された東京美術学校西洋画科の教官となるなど、明治後期洋画の主流を形成していきました。この作品は、寒い季節の中で穏やかな陽光に包まれた田舎の風景を題材とし、さりげない描写ながら、緑や青を主とした画面のほぼ中央に干された洗濯物の赤が効果的に映えています。 -
久米桂一郎「秋景」1892年
1886年渡仏した久米は、黒田清輝と生活を共しながらコランの指導を受けていましたが、コランを通して触れたアカデミスムと印象主義的表現の折衷的作風は、陰影の表現にその特質を示すもので、後の日本の絵画的潮流に大きな影響を与えました。《秋景》は1895年に帰国する前、黒田と共に、夏から冬にかけて滞在していたブレハ島で制作された作品です。久米の渡仏の年に最後の印象派展が開催されており、その影響はコランなどのアカデミズムの画家たちにも及んでいました。また1889年にはモネの展覧会が開催され、92年にはピサロの大回顧展画開催されるなど、そうした展覧会を見た画家の傾倒ぶりが感じられる作品です。この作品に描かれている、陽光を受けて並ぶ積藁のモティーフや陰影部に施されている紫色の色彩表現など、印象派への接近の程がうかがえます。 -
梅原龍三郎「横臥裸婦」1908年
1908年夏パリに着いた梅原がその年に制作し、帰国後の1913年神田ヴィナス倶楽部の「梅原良三郎油絵展覧会」に出品した作品です。旅装を解くとすぐにリュクサンブール美術館、サロン・ドートンヌ、市街の各画廊を巡り、ルノワールに会う前の、様々な近代画家たちの作品を見て歩いていた頃、高村光太郎のアトリエで描いた作品で、《パリの雪景色》と共に初期滞欧期の特色ある作品です。梅原は、「こうした青っぽい真珠色みたいな色になったのは、アトリエの光の関係からだと記憶している」と語っています。右腕を頭に回し、左腕を曲げてソファーに置いて横たわる裸婦には、ほの暗い空間の中、その身体に青白いような光が当たり、女の身体に施されている筆触は細かく、また自由に動いています。この作品は、高村を驚嘆させた作品の1点です。 -
梅原龍三郎「若き羅馬人」1909年
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山下新太郎「白耳義の少女?」1909年
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安井曽太郎「婦人像」1912年頃
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安井曽太郎「パンと肉」1910年
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岡田三郎助「山県有朋像」1913年
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鈴木不知「山畑」1910年
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野崎華年「武具」1895年
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青木繁「太田の森」1902年
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坂本繁二郎「海岸の家」1915年
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岸田劉生「高須光治君之肖像」1915年
モデルは豊橋出身の洋画家で草土社同人であり、岸田に師事し、椿貞雄らと共に代々木時代の友人のひとりでした。高須によれば、モデルとなった作品は「素描三枚と油絵が三枚で、油絵はその中一枚は一日書き未完成である」。
画面上部に欧文文字を書き入れ、左上にはモノグラム、右上には「20 JANUARY 1915」の年記があります。1915年10月の第一回草土社展に出品されました。後期印象派の洗礼を受けた後、代々木に越して以来徐々に西洋古典の写実性に傾倒していきました。この時期デューラー等の北方ルネサンスの画家やブレイクなどから影響を受け、「写実的神秘派」「内なる美」などの観念を見出し、それを描写しています。 -
岸田劉生「斎藤与里氏像」1913年
モデルは埼玉県生まれで、渡仏後日本に後期印象派を紹介した洋画家(1885-1959)。劉生らと共にフュウザン会を結成しましたが(1912)、劉生との意見の対立から第二回展で解散しました。その後、文展への出品、日本美術協会の設立、帝展への出品、槐樹社の創立と解散などを通して活躍し、『美術新論』主幹としても活動を行いました。 -
河野通勢「自画像」1917年
河野は偶然に岸田劉生と親交を結び、1916年の第3回展から草土社に参加しました。絵筆を右手に持ち正面を見つめる自己の姿を克明に描写しています。左上からの光線によって生み出される陰影の効果をたくみに表現し、左側の背景を明るく処理することで輪郭を際立たせています。河野は岸田に会う以前からデューラーらの作品に関心をもち、独学で写実表現を研究していたといわれます。本作品では、その独特の写実描写によって、画家としての自己を顕彰するかのような自信に満ちた姿が描き出されています。 -
大沢鉦一郎「大曽根風景」1919年
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大沢鉦一郎「ジンベを着た少女」1920年
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宮脇晴「自画像」1920年
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前田寛治「褐衣婦人像」1924年頃
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神原泰「生命の流動」1924年
長く個人所蔵が続き、公に出ることのなかったこの作品は、89年頃の作家自身の記憶によれば、第2回アクション展に出品された作品ということです。つまり新興美術運動の最盛期における彼の制作を知る貴重な作品ということです。機械的唯物論に反対し生命の内的自発性を強調した、仏のアンリ・ベルグソンの哲学が背景にあると考えられるこの作品は、いっさい具体的な事物を描くことなく、抽象形態のみによって生命の有機的な運動、あるいは成長を暗示しています。 -
古賀春江「夏山」1927年
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中原悌二郎「エチュード」1914年
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木村荘八「瓶を持っている女」1915年
この作品が制作された1915年は草土社結成の年であり、彼はそれまでの後期印象派の影響を受けた画風から脱して、デューラーなど北方ルネサンスへの強い関心をうかがわせるクラシックなものへと転じた時期にあたっています。この変化は彼が行動を伴にしていた岸田劉生の制作と軌を一にしています。後年彼は「岸田劉生は草土社であるが『草土社』もその七、八分は通りは岸田劉生である」と述懐していますが、これは彼が劉生の強い影響下で制作していたことを物語っています。この作品は、女性の持っている壷に「To my Wife」という書き込みがあり、画家の妻をモデルとした作品であることがわかります。壷の質感描写をはじめとする細部の質感描写へのこだわり、雲に覆われた暗い空やどこか荒涼としたものを感じさせる草地の描写などは、彼のこの時期の制作傾向を端的に示すとともに、草土社前期の制作傾向に重なるものであることをよく物語っています。 -
小出楢重「N婦人像」1918年
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小出楢重「蔬菜静物」1925年
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佐伯祐三「自画像」1917年
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川島理一郎「伎場の図」1925年
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藤田嗣治「青衣の少女」1925年
1920年、藤田は白色に墨線による線描を生かし、人間の皮膚の質感を追求した裸体画を発表しました。輪郭を描いたのちに、淡く白色を重ね、陶器のように滑らかで内面から光る乳白色を生み出しました。この作品には、1920年代のこのような特質がはっきりと現れています。色彩が抑制された画面には、静謐な空気が流れ、白い背景に座す少女は清楚です。ドレスや毛皮、本などの装いはその上品さを引き立てています。繊細な線と淡い彩りからなるドレスや毛皮の柔らかな質感もまた、少女の可憐さと調和しています。一方で、少女の黒髪は白地に対照的に浮かび上がり、毛皮の先端と呼応して画面の引き締めに成功しています。黒く大きな瞳は印象的で、肖像画として少女の個性が感じられます。華々しくフランス画壇に登場した藤田には、上流社交界や文化人からの肖像画の依頼が殺到しました。 -
海老原喜之助「雪山と樵」1930年
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小島善太郎「房州風景」1927年(1930年改変)
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中山巍「青背座婦」1927年
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里見勝蔵「裸婦」1928-29年
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清水登之「森に憩う人」1929年
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満谷国四郎「裸婦」1930年
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梅原龍三郎「北京紫禁城」1939年
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安井曽太郎「承徳喇嘛廟」1938年
歴代皇帝が避暑地としたことで知られる中国北東部・河北省の街、承徳。その抜けるような青空と陽に照らされて鮮やかに光る丘の上に、チベット仏教寺院が大掴みな筆致で伸びやかに描かれています。1937年に新京(現・長春)の美術展に審査員として招かれた安井曾太郎(1888-1955)は、その帰途に承徳に立ち寄り、同地の風景を写生しました。大胆にデフォルメしたかたちと鮮やかな色彩が画面に生き生きとした感覚を与える、安井の円熟期の一枚です。 -
猪熊弦一郎「馬と裸婦」1936年
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宮本三郎「裸婦」1937年
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本郷新「無辜の民「油田地帯」」1970年(1991年鋳造)
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柳原義達「黒人の女」1956年
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舟越保武「シオン」1979年
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佐藤忠良「レイ」1980年
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