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ひろしま美術館旅行記の続きです。<br />特別展は「フィンランドのライフスタイル~暮らしを豊かにするデザイン」が開催されていました。<br />ひろしま美術館HPより~<br />森と湖の国、北欧・フィンランドはデザイン大国としても知られています。独立を宣言した20世紀以降、本格的にデザインが産業として確立されていったフィンランドでは、アール・ヌーヴォーやバウハウスから影響を受けながらも、独自の様式を築きました。食器や家具などに見られるその独特な形と色彩は、機能性にも十分に配慮されたものとなっています。そうした合理性がひとつの特徴とされる一方で、自然からインスピレーションを得たという、どこかあたたかみのあるデザインは、多くのフィンランドのデザイナーたちの作品に見られる特徴です。フィンランド・デザインは、人々の生活に彩りを添える装飾性と利便性の両方を満足させるアイテムとして、今日では世界各国で愛されています。

ひろしま美術館②~2024.GW 山口・広島の旅(5)

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2024/04/28 - 2024/04/28

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ひろしま美術館旅行記の続きです。
特別展は「フィンランドのライフスタイル~暮らしを豊かにするデザイン」が開催されていました。
ひろしま美術館HPより~
森と湖の国、北欧・フィンランドはデザイン大国としても知られています。独立を宣言した20世紀以降、本格的にデザインが産業として確立されていったフィンランドでは、アール・ヌーヴォーやバウハウスから影響を受けながらも、独自の様式を築きました。食器や家具などに見られるその独特な形と色彩は、機能性にも十分に配慮されたものとなっています。そうした合理性がひとつの特徴とされる一方で、自然からインスピレーションを得たという、どこかあたたかみのあるデザインは、多くのフィンランドのデザイナーたちの作品に見られる特徴です。フィンランド・デザインは、人々の生活に彩りを添える装飾性と利便性の両方を満足させるアイテムとして、今日では世界各国で愛されています。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
グルメ
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
新幹線
  • マリー・ローランサン「メゾン・ムブレ」1912年<br />パリで生まれ育った女性画家で、エコール・ド・パリのひとりとみなされています。ピカソなどキュビスムの洗礼を受けて20世紀初頭の画壇にデビューを果たし、人気の肖像画家として社交界の人びとの肖像画を多く描きました。<br />

    マリー・ローランサン「メゾン・ムブレ」1912年
    パリで生まれ育った女性画家で、エコール・ド・パリのひとりとみなされています。ピカソなどキュビスムの洗礼を受けて20世紀初頭の画壇にデビューを果たし、人気の肖像画家として社交界の人びとの肖像画を多く描きました。

  • マリー・ローランサン「牝鹿と二人の女」1923年 <br />ローランサンの絵画に触発された曲をきっかけに制作された、ロシア・バレエ団による演目「牝鹿」。1920年代の、自由でエロティックなパリの社交界をテーマにしたこの舞台で、ローランサンは美術と衣装を手がけました。森の中に佇むふたりの女性と、彼女たちを見上げる鹿の姿を描いた「牝鹿と二人の女」は、そんな舞台に想像力を刺激されて生まれた作品のひとつです。<br />※2024.2 アーティゾン美術館「マリー・ローランサン ―時代をうつす眼」にて撮影

    マリー・ローランサン「牝鹿と二人の女」1923年
    ローランサンの絵画に触発された曲をきっかけに制作された、ロシア・バレエ団による演目「牝鹿」。1920年代の、自由でエロティックなパリの社交界をテーマにしたこの舞台で、ローランサンは美術と衣装を手がけました。森の中に佇むふたりの女性と、彼女たちを見上げる鹿の姿を描いた「牝鹿と二人の女」は、そんな舞台に想像力を刺激されて生まれた作品のひとつです。
    ※2024.2 アーティゾン美術館「マリー・ローランサン ―時代をうつす眼」にて撮影

  • マリー・ローランサン「二人の女」1930年頃

    マリー・ローランサン「二人の女」1930年頃

  • マリー・ローランサン「花束を持つ婦人」1942年頃

    マリー・ローランサン「花束を持つ婦人」1942年頃

  • モーリス・ユトリロ「モンモランシーの通り」1912年頃<br />パリで生まれ育った、エコール・ド・パリの画家のひとりです。奔放なモデルにして画家であった母親シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれて寂しい少年時代を過ごしたことから酒にはまり、その治療のために絵を始めました。パリの街角を、独特の哀愁に満ちた情景で描き続けたことで知られています。

    モーリス・ユトリロ「モンモランシーの通り」1912年頃
    パリで生まれ育った、エコール・ド・パリの画家のひとりです。奔放なモデルにして画家であった母親シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれて寂しい少年時代を過ごしたことから酒にはまり、その治療のために絵を始めました。パリの街角を、独特の哀愁に満ちた情景で描き続けたことで知られています。

  • モーリス・ユトリロ「シャラント県アングレム、サン=ピエール大聖堂」1935年

    モーリス・ユトリロ「シャラント県アングレム、サン=ピエール大聖堂」1935年

  • キース・ファン・ドンゲン「ヴェネツィアの眺め」1921年<br />オランダ出身の画家で、フランスで活躍しました。フォーヴィスムの運動に参加したのち、1920-30年代、当時の社会と風俗を写した官能的な肖像画を描いたことで知られ、エコール・ド・パリのひとりと見なされています。

    キース・ファン・ドンゲン「ヴェネツィアの眺め」1921年
    オランダ出身の画家で、フランスで活躍しました。フォーヴィスムの運動に参加したのち、1920-30年代、当時の社会と風俗を写した官能的な肖像画を描いたことで知られ、エコール・ド・パリのひとりと見なされています。

  • ジュール・パスキン「緑衣の女」1927年<br />ブルガリアに生まれ、20世紀初頭にパリで活躍した画家。本名はジュリウス・モディカイ・ピンカスで、「パスキン」はピンカス(PINCAS)の綴りを並び替えて改名したものです。エコール・ド・パリの代表者のひとりで、憂愁を帯びた女性像を独特の雰囲気で描きました

    ジュール・パスキン「緑衣の女」1927年
    ブルガリアに生まれ、20世紀初頭にパリで活躍した画家。本名はジュリウス・モディカイ・ピンカスで、「パスキン」はピンカス(PINCAS)の綴りを並び替えて改名したものです。エコール・ド・パリの代表者のひとりで、憂愁を帯びた女性像を独特の雰囲気で描きました

  • ハイム・スーティン「にしんと白い水差しのある静物」1922-23年頃<br />パリで活躍したリトアニア生まれの画家で、エコール・ド・パリのひとりとされています。モンパルナスのアトリエ長屋「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」に住み、極貧の生活を送りながら独自の様式を確立しました。その後も、市井に生きる下積みの人びと、狂女、花や鶏、魚などの静物を表現主義的な激しさで描き続けた画家です。

    ハイム・スーティン「にしんと白い水差しのある静物」1922-23年頃
    パリで活躍したリトアニア生まれの画家で、エコール・ド・パリのひとりとされています。モンパルナスのアトリエ長屋「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」に住み、極貧の生活を送りながら独自の様式を確立しました。その後も、市井に生きる下積みの人びと、狂女、花や鶏、魚などの静物を表現主義的な激しさで描き続けた画家です。

  • キスリング「ルーマニアの女」1929年<br />パリで活躍したポーランド出身の画家で、エコール・ド・パリの代表人物のひとりとされています。陶器のような滑らかな絵肌でメランコリックな作品、なかでも花瓶に生けられた花の絵と肖像画を多く描いたことで知られています。

    キスリング「ルーマニアの女」1929年
    パリで活躍したポーランド出身の画家で、エコール・ド・パリの代表人物のひとりとされています。陶器のような滑らかな絵肌でメランコリックな作品、なかでも花瓶に生けられた花の絵と肖像画を多く描いたことで知られています。

  • キスリング「花」

    キスリング「花」

  • マルク・シャガール「インスピレーション」1925-26年<br />旧ロシア出身のユダヤ人画家で、エコール・ド・パリを代表する画家のひとり。モンパルナスのアトリエ長屋「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」に入居し、レジェ、モディリアーニ、スーティン、またアポリネールやアンドレ・サルモンらの詩人と交友するなかから、自由な創造力で豊麗な色彩のなかに夢のような世界を描く画風を確立しました。

    マルク・シャガール「インスピレーション」1925-26年
    旧ロシア出身のユダヤ人画家で、エコール・ド・パリを代表する画家のひとり。モンパルナスのアトリエ長屋「ラ・リュッシュ(蜂の巣)」に入居し、レジェ、モディリアーニ、スーティン、またアポリネールやアンドレ・サルモンらの詩人と交友するなかから、自由な創造力で豊麗な色彩のなかに夢のような世界を描く画風を確立しました。

  • マルク・シャガール「河のほとり」1973年<br />色彩画家といわれるシャガールが最晩年に描いた、穏やかな情感あふれる一作。

    マルク・シャガール「河のほとり」1973年
    色彩画家といわれるシャガールが最晩年に描いた、穏やかな情感あふれる一作。

  • アリスティド・マイヨール「正面を向く坐る女」1925年<br />ロダン以降のフランスを代表する彫刻家。彫刻のなかに、単純化した純粋な形態の集積という考え方を持ち込んだ最初の彫刻家で、ロダンとともに、20世紀彫刻の展開に大きな影響を与えました。

    アリスティド・マイヨール「正面を向く坐る女」1925年
    ロダン以降のフランスを代表する彫刻家。彫刻のなかに、単純化した純粋な形態の集積という考え方を持ち込んだ最初の彫刻家で、ロダンとともに、20世紀彫刻の展開に大きな影響を与えました。

  • アリスティド・マイヨール「ヴェールを着けたディナ」1940年

    アリスティド・マイヨール「ヴェールを着けたディナ」1940年

  • アリスティド・マイヨール「ディナ、「大気」の習作」1938年

    アリスティド・マイヨール「ディナ、「大気」の習作」1938年

  • アリスティド・マイヨール「窓辺のディナ」1942年

    アリスティド・マイヨール「窓辺のディナ」1942年

  • アリスティド・マイヨール「横向きに横たわる裸婦」

    アリスティド・マイヨール「横向きに横たわる裸婦」

  • アリスティド・マイヨール「横向きの裸婦立像」1930年

    アリスティド・マイヨール「横向きの裸婦立像」1930年

  • アリスティド・マイヨール「背姿」1932年

    アリスティド・マイヨール「背姿」1932年

  • アリスティド・マイヨール「横向きのディナ」1942年

    アリスティド・マイヨール「横向きのディナ」1942年

  • アメデオ・モディリアーニ「頭部像」1911-12年頃

    アメデオ・モディリアーニ「頭部像」1911-12年頃

  • レオナール・フジタ「裸婦と猫」1923年<br />

    レオナール・フジタ「裸婦と猫」1923年

  • レオナール・フジタ「三王礼拝」1927年

    レオナール・フジタ「三王礼拝」1927年

  • レオナール・フジタ「十字架降下」1927年

    レオナール・フジタ「十字架降下」1927年

  • レオナール・フジタは、エコール・ド・パリのひとりとして、フランスで活躍した日本人画家。東洋と西洋の伝統を融合したその画風は、フランスをはじめ、ヨーロッパ各地でも高く評価されています。第二次大戦後再び渡仏し、フランスに帰化、さらにカトリックの洗礼を受けました。

    レオナール・フジタは、エコール・ド・パリのひとりとして、フランスで活躍した日本人画家。東洋と西洋の伝統を融合したその画風は、フランスをはじめ、ヨーロッパ各地でも高く評価されています。第二次大戦後再び渡仏し、フランスに帰化、さらにカトリックの洗礼を受けました。

  • 浅井 忠「農夫帰路」1887年<br />油絵受難の時代、明治美術会を創設して油絵の普及に尽力した明治を代表する洋画家。写実を重視しつつ情感溢れる農村風景を描きました。渡欧後、晩年は京都の洋画壇の発展に尽力する一方で、自ら図案や工芸の制作にも精力的に取り組みました。

    浅井 忠「農夫帰路」1887年
    油絵受難の時代、明治美術会を創設して油絵の普及に尽力した明治を代表する洋画家。写実を重視しつつ情感溢れる農村風景を描きました。渡欧後、晩年は京都の洋画壇の発展に尽力する一方で、自ら図案や工芸の制作にも精力的に取り組みました。

  • 藤島 武二「桃花裸婦」1902年頃 <br />黒田清輝とともに日本画壇にアカデミズムを根付かせ、その重鎮となり、また指導者として大きな役割を果たした洋画家。アール・ヌーヴォーをはじめとする西洋世紀末の影響の強いロマン主義・象徴主義的な画風から出発し、円熟期には単純化された装飾的な風景画を描き、日本独自の洋画を模索しました。

    藤島 武二「桃花裸婦」1902年頃 
    黒田清輝とともに日本画壇にアカデミズムを根付かせ、その重鎮となり、また指導者として大きな役割を果たした洋画家。アール・ヌーヴォーをはじめとする西洋世紀末の影響の強いロマン主義・象徴主義的な画風から出発し、円熟期には単純化された装飾的な風景画を描き、日本独自の洋画を模索しました。

  • 黒田 清輝「洋燈と二児童」1891年<br />日本に西洋絵画を根付かせた最大の功労者です。日本風のアカデミズムを確立させ、明るい外光描写を取り入れた清新な画風を移植して、その後の日本洋画の方向性に決定的な影響を与えました。

    黒田 清輝「洋燈と二児童」1891年
    日本に西洋絵画を根付かせた最大の功労者です。日本風のアカデミズムを確立させ、明るい外光描写を取り入れた清新な画風を移植して、その後の日本洋画の方向性に決定的な影響を与えました。

  • 山下 新太郎「少女」1929年<br />ルノワールに傾倒し、日本に印象主義の導入を図ったことで知られています。明るく流麗な画面が特徴です。二科会の結成に参加しますが、帝展松田改組の際に二科会から離脱、晩年は、官展の一派である一水会を中心に活動しました。また、西洋画の保存修復についても研究し、同分野の日本における草分け的存在でした。

    山下 新太郎「少女」1929年
    ルノワールに傾倒し、日本に印象主義の導入を図ったことで知られています。明るく流麗な画面が特徴です。二科会の結成に参加しますが、帝展松田改組の際に二科会から離脱、晩年は、官展の一派である一水会を中心に活動しました。また、西洋画の保存修復についても研究し、同分野の日本における草分け的存在でした。

  • 南 薫造「ピアノの前の少女」1927年<br />大正・昭和にかけて、官展を中心に活動し、画壇で確固たる地位を得た洋画家です。終生、湿潤な日本の風景や穏やかな家庭の情景を温雅で堅実な写実で描きました。また、日本水彩画会を創設にかかわるなど、日本における水彩画の振興にも貢献しました。

    南 薫造「ピアノの前の少女」1927年
    大正・昭和にかけて、官展を中心に活動し、画壇で確固たる地位を得た洋画家です。終生、湿潤な日本の風景や穏やかな家庭の情景を温雅で堅実な写実で描きました。また、日本水彩画会を創設にかかわるなど、日本における水彩画の振興にも貢献しました。

  • 小出 楢重「地球儀のある静物」1925年<br />二科展で活躍した洋画家で、画面構成への関心と濃密な情感を併せ持つ静物画、裸婦を描き、大正から昭和初期の洋画の頂点の一角を築きました。流麗な筆致で描かれた胴長の裸婦により、「裸婦の楢重」とも称されています。ガラス絵や、谷崎潤一郎『蓼喰う虫』などの挿絵を描き、また飄逸な随筆を残すなど多才な人でした。

    小出 楢重「地球儀のある静物」1925年
    二科展で活躍した洋画家で、画面構成への関心と濃密な情感を併せ持つ静物画、裸婦を描き、大正から昭和初期の洋画の頂点の一角を築きました。流麗な筆致で描かれた胴長の裸婦により、「裸婦の楢重」とも称されています。ガラス絵や、谷崎潤一郎『蓼喰う虫』などの挿絵を描き、また飄逸な随筆を残すなど多才な人でした。

  • 岸田 劉生「支那服を着た妹照子像」1921年<br />西洋からの新しい美術動向を敏感に受け入れた二科会の動きに対して、つねに独自の写実を求めて「フュウザン会」「草土社」「春陽会」を次々に立ち上げ大正期を二分する大きな動きを作り出した洋画家です。自己の内面を徹底的に客体化するなかに写実の本質を見出しました。

    岸田 劉生「支那服を着た妹照子像」1921年
    西洋からの新しい美術動向を敏感に受け入れた二科会の動きに対して、つねに独自の写実を求めて「フュウザン会」「草土社」「春陽会」を次々に立ち上げ大正期を二分する大きな動きを作り出した洋画家です。自己の内面を徹底的に客体化するなかに写実の本質を見出しました。

  • 岡田 三郎助「水辺の裸婦」1935年<br />黒田清輝のもとで明治期の日本洋画の発展に寄与した洋画家。東京美術学校、本郷絵画研究所等で多くの後進を育てました。温雅な画風を特徴としており、柔らかな光の注ぐ風景の中の裸婦など、日本の女性にふさわしい裸婦表現を開花させたことでも知られています。

    岡田 三郎助「水辺の裸婦」1935年
    黒田清輝のもとで明治期の日本洋画の発展に寄与した洋画家。東京美術学校、本郷絵画研究所等で多くの後進を育てました。温雅な画風を特徴としており、柔らかな光の注ぐ風景の中の裸婦など、日本の女性にふさわしい裸婦表現を開花させたことでも知られています。

  • 鹿子木 孟郎「月」<br />フランス・アカデミズムの堅実な手法で肖像画や風景画を描いた洋画家。文展・帝展を中心に活動し、後進の指導にも力を注ぎました。明治後半に日本で流行していた水彩画をとりあげて、フランス・アカデミズムでは水彩画は練習、あるいは習作の一部にすぎないとその流行に難じた「水彩画論争」は有名です。

    鹿子木 孟郎「月」
    フランス・アカデミズムの堅実な手法で肖像画や風景画を描いた洋画家。文展・帝展を中心に活動し、後進の指導にも力を注ぎました。明治後半に日本で流行していた水彩画をとりあげて、フランス・アカデミズムでは水彩画は練習、あるいは習作の一部にすぎないとその流行に難じた「水彩画論争」は有名です。

  • 佐伯 祐三「ロカション・ド・ヴォワチュール」1925年<br />1920年代のパリに留学し、新しい芸術の息吹を日本に伝えた洋画家。パリの街路を描いた画家として知られ人気を博しますが、30歳の若さで早世しました。

    佐伯 祐三「ロカション・ド・ヴォワチュール」1925年
    1920年代のパリに留学し、新しい芸術の息吹を日本に伝えた洋画家。パリの街路を描いた画家として知られ人気を博しますが、30歳の若さで早世しました。

  • 梅原 龍三郎「裸婦」1936年<br />昭和初期から安井曾太郎とともに「梅原・安井時代」を作った日本洋画壇の重鎮。滞欧中はルノワールの薫風を受け、その鮮やかで華麗な色彩と筆致による装飾的なスタイルは、帰国後「梅原様式」と呼ばれました。

    梅原 龍三郎「裸婦」1936年
    昭和初期から安井曾太郎とともに「梅原・安井時代」を作った日本洋画壇の重鎮。滞欧中はルノワールの薫風を受け、その鮮やかで華麗な色彩と筆致による装飾的なスタイルは、帰国後「梅原様式」と呼ばれました。

  • 長谷川 利行「ソファーの上の裸婦」1937年<br />二科展で樗牛賞を受賞するなど、ある程度の評価を得ていましたが、おおむね浅草近辺の貧民街にある簡易宿泊所に寝泊まりして、友人たちや著名人に金をせびったりするなど生活は荒れていました。下町の情景やそこで生活する人々の姿を自由かつ奔放な筆致で写し取り、独特の画面を作ったことで知られています。

    長谷川 利行「ソファーの上の裸婦」1937年
    二科展で樗牛賞を受賞するなど、ある程度の評価を得ていましたが、おおむね浅草近辺の貧民街にある簡易宿泊所に寝泊まりして、友人たちや著名人に金をせびったりするなど生活は荒れていました。下町の情景やそこで生活する人々の姿を自由かつ奔放な筆致で写し取り、独特の画面を作ったことで知られています。

  • 靉光「瓶花」<br />日本近代洋画を代表する画家のひとりで、日本が生み出したシュルレアリスムの代表作《眼のある風景》(1938年、東京国立近代美術館)を描いた画家として知られていますが、38歳の若さで没しました。

    靉光「瓶花」
    日本近代洋画を代表する画家のひとりで、日本が生み出したシュルレアリスムの代表作《眼のある風景》(1938年、東京国立近代美術館)を描いた画家として知られていますが、38歳の若さで没しました。

  • 田辺 三重松「開墾地」<br />ほぼ独学で油絵を学び二科会に出品しながら実力をつけた洋画家。戦後は、行動美術協会の設立に参加、以後同会を中心に活躍しました。勢いのある筆致で北海道など雄大な自然を奔放に描いた風景画でも知られています。

    田辺 三重松「開墾地」
    ほぼ独学で油絵を学び二科会に出品しながら実力をつけた洋画家。戦後は、行動美術協会の設立に参加、以後同会を中心に活躍しました。勢いのある筆致で北海道など雄大な自然を奔放に描いた風景画でも知られています。

  • 安井 曾太郎「画室」1926年<br />梅原龍三郎とともに「安井・梅原時代」と呼ばれる昭和初期の一時代を作った洋画家。最初二科会で活躍しますが、のちに一水会の創設に参加し、同会を中心に活動しました。デフォルメと省略、メリハリのある色彩を用いた力強い造形の画風を確立し、そのスタイルは「安井様式」と呼ばれました。

    安井 曾太郎「画室」1926年
    梅原龍三郎とともに「安井・梅原時代」と呼ばれる昭和初期の一時代を作った洋画家。最初二科会で活躍しますが、のちに一水会の創設に参加し、同会を中心に活動しました。デフォルメと省略、メリハリのある色彩を用いた力強い造形の画風を確立し、そのスタイルは「安井様式」と呼ばれました。

  • 小磯 良平「婦人立像」1974年<br />東京美術学校を卒業後、最初官展で活躍し、後に新制作派協会を創設して同会を中心に活動した洋画家です。気品のある婦人像を描き続け、独自の写実の世界を切り開きました。

    小磯 良平「婦人立像」1974年
    東京美術学校を卒業後、最初官展で活躍し、後に新制作派協会を創設して同会を中心に活動した洋画家です。気品のある婦人像を描き続け、独自の写実の世界を切り開きました。

  • 小磯 良平「婦人像」1978年

    小磯 良平「婦人像」1978年

  • 特別展「フィンランドのライフスタイル~暮らしを豊かにするデザイン」です

    特別展「フィンランドのライフスタイル~暮らしを豊かにするデザイン」です

    ひろしま美術館 美術館・博物館

  • 森と湖の国フィンランド。人と自然との共生が世界で広く意識されはじめるよりも早く、20世紀初頭から、フィンランドの多くのデザイナーたちは、ものづくりにおいて自然との調和を重視してきました。昼間でも太陽が昇らない厳しい冬を快適に過ごすため、あるいは貴重な夏を楽しむために、デザインの中に明るさや柔軟さを取り入れ、人々の生活を向上させようとしてきたのです。

    森と湖の国フィンランド。人と自然との共生が世界で広く意識されはじめるよりも早く、20世紀初頭から、フィンランドの多くのデザイナーたちは、ものづくりにおいて自然との調和を重視してきました。昼間でも太陽が昇らない厳しい冬を快適に過ごすため、あるいは貴重な夏を楽しむために、デザインの中に明るさや柔軟さを取り入れ、人々の生活を向上させようとしてきたのです。

  • 1975年から76年までの1年間だけ制作された、カイ・フランクのデザインによる貴重な「キウィバード」のシリーズ。手のひらに載るくらい小さくても、そのガラスの持つ質感とともに圧倒的な存在感のありオブジェです。

    1975年から76年までの1年間だけ制作された、カイ・フランクのデザインによる貴重な「キウィバード」のシリーズ。手のひらに載るくらい小さくても、そのガラスの持つ質感とともに圧倒的な存在感のありオブジェです。

  • 石本藤雄の「陶の花」シリーズ

    石本藤雄の「陶の花」シリーズ

  • マリメッコでデザインした石本藤雄のさまざまなテキスタイル

    マリメッコでデザインした石本藤雄のさまざまなテキスタイル

  • ビルゲル・カイピアイネン「オブジェ パンジーの木」1964年 スコープ蔵

    ビルゲル・カイピアイネン「オブジェ パンジーの木」1964年 スコープ蔵

  • ビルゲル・カイピアイネン「ビーズバード(シャクシギ)」1950年代 スコープ蔵

    ビルゲル・カイピアイネン「ビーズバード(シャクシギ)」1950年代 スコープ蔵

  • ビルゲル・カイピアイネン「ウォールプレート」1960年代 スコープ蔵

    ビルゲル・カイピアイネン「ウォールプレート」1960年代 スコープ蔵

  • ライヤ・ウオシッキネンは、1986年までアラビア製陶所で活躍した装飾家およびデザイナー<br />

    ライヤ・ウオシッキネンは、1986年までアラビア製陶所で活躍した装飾家およびデザイナー

  • オイバ・トイッカはフィンランドを代表するガラスデザイナーの一人<br />

    オイバ・トイッカはフィンランドを代表するガラスデザイナーの一人

  • オイバ・トイッカのポムポムベース<br />

    オイバ・トイッカのポムポムベース

  • カウニステのファブリックコレクション<br />カウニステは日本人とフィンランド人二人のクリエイターがたちあげたテキスタイルブランドです<br />

    カウニステのファブリックコレクション
    カウニステは日本人とフィンランド人二人のクリエイターがたちあげたテキスタイルブランドです

  • ミロコマチコ「原画 ヒョウ」「原画 くま」2012年 カウニステ蔵

    ミロコマチコ「原画 ヒョウ」「原画 くま」2012年 カウニステ蔵

  • 1975-77年、ヌータヤルヴィガラス工場で制作された吹きガラスによるボトルシリーズ「プテリ」

    1975-77年、ヌータヤルヴィガラス工場で制作された吹きガラスによるボトルシリーズ「プテリ」

  • オイバ・トイッカ「アニュアルバード」1996-2022年、ヌータヤルヴィ/イッタラ、スコープ蔵

    オイバ・トイッカ「アニュアルバード」1996-2022年、ヌータヤルヴィ/イッタラ、スコープ蔵

  • ロリポップ<br />

    ロリポップ

  • オイバ・トイッカ「キーックリ」

    オイバ・トイッカ「キーックリ」

  • キューブ

    キューブ

  • 広島駅に戻る前に、原爆ドームへ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれています。

    広島駅に戻る前に、原爆ドームへ。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれています。

    原爆ドーム 名所・史跡

  • 昭和20年8月6日、原子爆弾により広島市街の建物は一瞬にして倒壊し、灰燼に帰しました。産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆しましたが、爆風が上方から垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れ現在まで原爆ドームとして保存されています。

    昭和20年8月6日、原子爆弾により広島市街の建物は一瞬にして倒壊し、灰燼に帰しました。産業奨励館は爆心地から北西約160メートルの至近距離で被爆しましたが、爆風が上方から垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れ現在まで原爆ドームとして保存されています。

    原爆ドーム前停留場

  • 広島駅から新幹線で帰ります

    広島駅から新幹線で帰ります

    広島駅 (JR)

  • 活あなごめし食べながらビール

    活あなごめし食べながらビール

    沼津駅

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