2026/05/19 - 2026/05/22
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chemireさん
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全国にはいろんな城址があって、一度は耳にしたこともある武将もたくさん。これまでは、行ったことのない土地の城を見学しようと旅を計画していましたが、関ヶ原古戦場を訪れてからは、興味を持った武将の治めた城を見てみたいと思うようになりました。
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4月に関ヶ原古戦場を旅した時のこと。小早川秀秋の決断が戦いの勝敗を決定づけたとしても、戦国時代に寝返りは珍しいことではなかったのに、なぜ秀秋がいろいろ言われるのかと気になっていました。
そして、次に訪れた滋賀で近江八幡城を築城した豊臣秀次を学んだ時、同じ秀吉の養子として将来を期待された小早川秀秋の名が心に残って。
これは、小早川秀秋をもっと調べなきゃ。という訳で、小早川隆景・秀秋ゆかりの名島城を訪ねました(でも、名島城では、小早川隆景の名ばかりが取り上げられていたけれど)。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
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5月19日(火)
目的地は、名島城の最寄り駅の西鉄貝塚線・名島駅。
福岡空港から地下鉄空港線に乗り、中洲川端駅で地下鉄箱崎線に乗り換えなのですが、事前に調べたら名島駅にはコインロッカーが無いようだったので、中洲川端駅でスーツケースをコインロッカーに入れてから、箱崎線に乗車。 -
終点の貝塚駅で西鉄貝塚線に乗り換え。
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地下鉄と西鉄の改札口が向かい合って設置されていて、移動はとっても楽です。
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ひと駅だけ乗って、西鉄貝塚線・名島駅に到着しました。
名島駅 駅
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島式ホーム1面2線。車両が向かい合うコンパクトな感じが好き。
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かつて存在した名島城に因んだ和風な造りの駅舎です。
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駅から名島城趾までは徒歩15分くらい。
いまは公園として整備されていて、ここは大手に当たるみたいで坂道を上りながら進みます。 -
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名島城
天文年間(1532~1555)に立花城の支城として築造したことが始まりとされます。
秀吉の九州平定後、筑前国を与えられた小早川隆景は、立花山城から海上交通や物流に優れた名島城へと拠点を移し、天正16年(1588)本格的な普請を開始。
1595年(文禄4)には小早川秀秋が城主となりましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに貢献したことから秀秋は備前国岡山に移封となり、代わって備前国中津から黒田長政が入城しました。
しかし、黒田長政は名島が城下町の発展に不便な土地であると、入封の翌年には福岡城の築城を決定。名島引けと呼ばれる名島城の石垣や建築物を福岡城の資材とする解体・移設を行ったため、名島城址に遺構はほとんど残っていません。
慶長7年(1602年)または慶長12年(1607)頃、名島城は廃城となりました。 -
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東側のみが陸続きとなる三方を海に囲まれた平山城で、海水を引き込んだ堀割と空堀で周囲を防御。
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きれいなカーブを描く石垣を見ながら歩いていると、
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石垣の様子が少し変わっている所がありました。中央は円筒形になっていて、石積みの様子も左右と違う。公園整備時に作られたものなのか、築城当時のものなのかな?
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坂道から続く階段を上った広場が本丸。
ここから効率的に一周したかったのですが、それぞれの説明板をじっくりと読み込んでいる男性が3~4人いらっしゃったので、その方々とかぶらないように行ったり来たりしながら見学しました。 -
絵図によっては天守台と描かれているものもあるそうなのですが、遺構表示や説明板はなかったです。
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文禄・慶長の役の際には秀吉が淀殿を伴い、この城に立ち寄り宿泊したという記録が残ります。
名島城址 名所・史跡
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小早川隆景公名島城入封四百年記念
平成元年(1989)に建立。碑の最後には、大徳寺中黄梅院 二十七世太玄と書かれています。
黄梅院は信長が父・信秀の追善菩提のために黄梅庵を建立したことに始まり、秀吉が増築し黄梅院と改めた武将ゆかりの寺。庫裡、鐘楼、客殿などは小早川隆景が寄進したものだそうで、ここで京都と名島の繋がりを知りました。 -
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東屋で、ちょっと休憩。そこにあった説明板には、名島のすごい歴史が詰まっていました。
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神功皇后伝説
三韓遠征(三韓征伐)は、神功皇后が自ら軍を率いて朝鮮半島へ渡り、新羅・百済・高句麗の三韓を服属させたとする伝承。三韓遠征の時代は特定されていませんが、神功皇后は古墳時代(3世紀後半~4世紀頃)の人物とされています。但し、実在したかは諸説あり。
多々良浜の合戦(1336年)
足利尊氏が菊池武敏を破り、足利幕府樹立のきっかけとなった戦い。 -
あれ?ここでも秀秋の名前が出てこない。
記念碑や説明板に記されているのは、小早川隆景の名ばかりだったので、4月に旅した関ヶ原古戦場を振り返りながら、秀秋の人生の様子をまとめてみました。
小早川秀秋(1582~1602)
1582年(天正10)秀吉の正室ねね(北政所)の兄・木下家定の五男として誕生 → 3歳、子宝に恵まれなかった秀吉・ねねの養子となり溺愛される → 7歳、丹波亀山城10万石を与えられ、周囲からは秀次に次ぐ後継者と見なされていた → 秀吉と側室・淀殿(茶々)の間に実子の秀頼が誕生すると状況は一変し、12歳で毛利氏の重臣・小早川隆景の養子に → 13歳、秀次事件の連座により丹波亀山城を没収(改易)されるが、養父・小早川隆景の機転により連座による死を免れ、名島城を築いた隆景が隠居したことで35万石を相続し名島城城主となる → 初陣を飾った慶長の役で、16歳ながら日本軍の総大将として指揮を執ったものの、先陣を切って戦った様が三成から不適切な行動と非難され、秀吉より越前国北ノ庄15万石への減封処分 → その1年後、秀吉が死去。家康ら五大老によって処分は覆り、筑後国の旧領へ復帰(再封)→ 1600年(慶長5)に起きた関ヶ原の戦いで、西軍から東軍へ寝返り勝敗を決定づけた(開戦と同時に家康方についたという史料あり)→ 戦後の論功行賞として、宇喜多秀家が去った後の備前岡山城に入り50万石(後に55万石に加増)を領有。その後、秀詮(ひであき)と改名。治水・城下町の拡張や領民の統治と安定を行うなど、領主として多くの足跡を残す → 1602年(慶長7)に突然病死。享年21歳。世間では「関ヶ原で討ち死にした大谷吉継の祟り」と噂されたが、実際には大酒飲みによる肝硬変だったと考えられ、嫡子がいなかったため小早川家は改易・断絶(明治時代に再興)。 -
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名島水上飛行場
1929年(昭和4)に完成し、大阪や中国への定期便を運航。1931年(昭和6)にはリンドバーグも飛来した歴史的な飛行場でしたが、水上機専用のため使い勝手が悪く1934年(昭和9)に閉鎖。 -
下野国(栃木県)国史跡足利学校
不断梅
裏面には「足利学校の祈願成就、学問探求の古木である。慶長元年(1596)小早川隆景は足利の学校から白鴎老師を招き領門へ学舎を建て若き士庶に学問を奨励した。これが我が国教育史の嚆矢であった。この梅は熟しても変色することなく青を保つ目出度い木で縁をもって隆景公入府四百年を記念して移植する」と記されていました。
足利学校を訪ねた時に不断梅を見て、大内・大友・島津や徳川といった大名の名を目にしましたが、小早川の名は出てこなかったと思います。ここで、小早川隆景と足利学校の繋がりも知ることになりました。
2025/03 足利学校
https://4travel.jp/travelogue/11969880
それと。
嚆矢(こうし)= 物事の始まりや最初、発端の意味。古代中国で、射ると大きな音を立てる鏑矢を合戦開始の合図としたことに由来。戦いの始まりから、すべての物事の始まりを指す言葉に転化。読み方すら分からなかったので勉強になりました。 -
本丸北西隅櫓台
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北西隅櫓台だけは、発掘によって上部の石垣が発掘されたためそのまま展示されています。
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大手石垣遺構の矢印表示があったので向かってみたら、
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説明板が設置されていて、その先は柵で囲まれ進めなかった。
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説明板の裏から覗き込んだけど、石垣らしきものは見当たりません。
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整備された敷石を歩き回って四方を覗きながら戻ると、
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わずかな石垣が見えました。どうやら、これが大手石垣みたい。
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本丸南側にあった臥龍桜。
枝が地面のすぐ上を這うように伸びているのが特徴。
樹齢400年といわれ、名島城の歴史を見てきた古木です。
では、この先にある石段を下って名島神社へ。 -
神社境内から見た本丸へと続く石段。
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名島祐徳稲荷
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神社にあるのがめずらしい清涼池と書かれた宝塔。神仏習合の名残なのかな。
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大きな狛魚。名島神社は名島弁財天社として信仰されていた歴史があり、海の祭神である宗像三女神が祀られている海の祭神に因んで奉納されたもののようです。太い眉と口角の上がって「キラ~ン」と吹き出しが付くように見えた横顔がユニーク。
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本殿の四方を守る四神。
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御祭神
宗像三女神/田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命 -
休憩所の屋根を木が突き破っています。
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事無柴
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事無柴のいわれ
神功皇后の三韓征伐の伝説に由来する、主に博多湾周辺に伝わる縁起。 -
参拝後に、海を望む参道へ。
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石段の先に見えたのは木の鳥居。
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降りてきた石段を振り返って。
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木の鳥居の先には石造りの鳥居があり、その先には多々良川のそそぐ博多湾が広がっています。
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海側より見た鳥居。
この後、海岸沿いを往復しました。
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結局、名島城では小早川秀秋に関する情報が得られなかったので、秀秋が歩んだ関ヶ原の戦いのおさらい。
もともと豊臣家の血筋で毛利家とは血の繋がりはないものの、毛利家の分家である小早川家が西軍に就くのは自然なことでしたが、秀吉から筑前を没収され代わりに越前北ノ庄を与えられた大幅減封の理由は、蔚山城の戦いにおける三成の陰謀によるもの(秀秋は蔚山城の戦いには参加していない説もあるそうで真意は不明)で、そんな三成が西軍にいる。
一方で、家康は秀秋を復領・所領高の大幅な加増まで叶え、育ての親であるねね(北政所)からも「家康に内応せよ」との助言。
西軍と東軍との間の板挟み状態となったまま、秀秋の心は揺れていたようです。
結局は西軍として開戦を迎え、そして東軍へ寝返り大谷吉継を自害へと追い込むことになります。秀秋はハンセン病とされる重い病を患っていた吉継を忌み嫌い、吉継側も血筋だけで高位に就いた秀秋を軽蔑していたという感情的な対立があったのだとか。
但し、近年の歴史研究により、秀秋は合戦中に裏切ったのではなく、開戦前から家康に通じ事実上の東軍だったとする説が有力視され、家康の問鉄砲は、のちに語られた作り話であるようです。
秀吉と家康に翻弄された小早川秀秋の人生。天守も石垣も残っていなかったけれど、ひとりの武将を思いながら城址を訪ねる旅は面白かったです。
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秀秋の治めた城を訪ねた旅
2025/8 北の庄城
https://4travel.jp/travelogue/12007140
資料館を見学した時、秀秋の治世は僅か1年ほどと短かかったせいか、その名がなかったように思うけど見落としてしまったのかもしれません。
2023/5 岡山城
https://4travel.jp/travelogue/11829843
在城わずか約2年で急死。短気で感情の起伏が激しい性格だったと伝わりますが、朝鮮出兵によって疲弊した農民を保護し減税を行ったり、城下町・寺社領の整備や復興など功績を残しています。
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