2026/05/19 - 2026/05/22
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chemireさん
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名護屋城跡を見学した記録。
どこを見てるのか分からなくなっちゃったのは、方向音痴とルートの選択ミスなので、ちゃんとマップを確かめれば見落としなく回れると思います。
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全国統一を果たした豊臣秀吉は、中国大陸をも侵略しようと出兵に際する経由地を朝鮮とし、日本への服属と明への先導を要求しますが朝鮮はこれを拒否。そのため、秀吉は朝鮮半島への出兵を決断し、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)を起こしました(文禄の役1592~1593年・慶長の役1597~1598年)。
この時、秀吉は出兵拠点として名護屋城を築城。浅野長政が総奉行 、黒田官兵衛が縄張りをし、黒田長政・加藤清正・小西行長・寺沢広高らが普請奉行となり、総面積約17ヘクタール(17万平方メートル/約51,500坪)と当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮な規模の城が築かれました。
築城後は秀吉も1年あまり在陣し、7年間大陸侵攻の拠点となりましたが、秀吉の死亡により諸大名は撤退。江戸時代に入り唐津藩の領有となると、天守閣や主要な建物が取り壊され唐津城などへ移築されています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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5月21日(金)14:17
名護屋城跡を見学。維持管理協力金100円(任意)。
博物館を出て、城跡へ向かおうとした時に雨が止みました。やった~!探索するなら、雨じゃない方がいいもん(この写真は帰りに撮ったもの)。 -
(説明文より一部引用・加筆)
”はじまり”の地・名護屋、ここにあり
秀吉は天正20年(1592)4月に、27,000人の兵を率いて名護屋へ着陣。本丸ではなく、黄金の茶室を築いた山里丸を居館にし、延べ12か月ほどをこの地で過ごしました。
その秀吉が、在陣中に傾倒したのが茶の湯と能。着陣した翌月には早速、大坂城より連び出した黄金の茶室にて茶会を催したり、竹だけで造った草庵茶室に博多の豪商・神楽などを招いた記録が残っています。また、翌年には能の稽古に熱中し、能を十番覚えたことを正室のおね(北政所)に書状で伝えたり、当世を代表する四座(観世・金春・金剛・宝生)の共演の能を催すなどしています。桃山文化が花開いた名護屋城は、全国から集結した大名・武将らによる交流の舞台となり、その後の日本文化発展の"はじまりの地”となりました。 -
(説明文より一部引用・加筆)
名護屋城は、東西約600m、南北約350m、総面積は約17ヘクタールに及ぶ総石垣の城郭。黒田官兵衛(如水)が縄張りをし、その息子・長政や加藤清正、小西行長らが普請奉行となり、1591年(天正19年)10月に着工。西国大名を中心に各区域を分担する「割普請」によって、わずか5ヵ月で中心の施設が置かれた場所のほとんどを築き、8ヵ月後の文禄元年(1592)3月に城は完成。
その後も、7年の間に拡張や改修が重ねられ、当初築かれた石垣を埋めて本丸を拡げた痕跡などが発掘調査により確認されたそうです。さらに、天守台や本丸御殿跡をはじめとする城郭に関連する遺構に加え、茶室跡など桃山文化の粋を集めた遺構も発見されています。
(説明文より一部引用)
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出土した瓦の銘などから、1590年(天正18年)頃に前段階の準備や着工が始まっていた可能性も指摘されています。
尚、秀吉の死により大陸侵攻が中止されたため、やがて廃城となり、建物は寺沢広高によって唐津城に移築され、石垣も江戸時代の島原の乱の後に一揆などの立て篭もりを防ぐ目的で要所が破却されました。
また、江戸時代に朝鮮通信使との交流が再開されると、朝鮮出兵のシンボルであった城を破壊することで幕府が明や朝鮮との関係を改善しようとしたとの説や、一国一城令の時に壊されたとの説もあります。 -
名護屋城の周囲には、130(または150)以上の諸大名の陣屋が築かれました。これほど多くの陣屋が構えられれば様々な物が必要となり、商人や職人、遊女までもが集まり名護屋の街は常時20万人が滞在する一大都市となったそう。
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この頃の日本の人口は1,200万~1,500万人前後で、武士の割合は全体の数パーセント程度の45万人前後(人口も武士の数も推計)。 -
名前が似ていて混乱しそうなので、お勉強。
浅野長政
豊臣政権の五奉行筆頭。正室・やや(長生院)は、秀吉の正室・ねね(高台院)と浅野長勝の娘や養女として義理の姉妹のため、秀吉とは強い縁戚関係にあった。
秀吉の朝鮮出兵に対し、国内の空洞化や一揆のリスクを挙げて命がけで強く反対・諫言したという逸話が残るそうですが、名護屋城総奉行となったのが面白い。
関ヶ原の戦いでは東軍についた。
黒田長政
父は黒田孝高(官兵衛・如水)。九州平定や朝鮮出兵で武功を立て、関ヶ原の戦いで東軍の主力として戦功を挙げ、筑前福岡藩の52万石の藩祖となった。 -
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ひとつの陣跡における軍役(人)数は200人から15,000人まで。5,000人を超える軍役数を抱えるのは、私でも知っている武将ばかりです。
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現在、名護屋城跡と各地から参集した大名の陣屋のうち23ヶ所の陣跡が、名護屋城跡並びに陣跡として国の特別史跡に指定されています(緑が特別史跡)が、そのうちの12ヶ所は財源不足が一因となって未調査のまま。私有地の所もあって、いまは善意で現状維持されているけど掘削されてしまうことも考えられる訳で、遺構を保存する対策が進みますように。
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陣跡配置図
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当時、大坂城に次ぐ規模をもっていた名護屋城の構えは3段の渦郭式で、天守台のある本丸を中心に二ノ丸、三ノ丸、弾正丸、東出丸を置き、北方には遊撃丸、水手曲輪、その下段に山里丸と台所丸を配しています。
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ガイドマップ
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大手口→東出丸→三の丸→本丸大手門→本丸・天守台というのが登城ルート(なのに、これを忘れて三ノ丸→ニノ丸へ進んでしまった)。
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では、探索開始。
旗竿石(移設)。名護屋に集まった大名や、商人たちが交流の場として重視したのが茶の湯。茶会の記録や茶室の遺構が多く残っています。 -
唐津城の天守閣近くで見た旗竿石は、元々は茶室などに置く手水鉢で、名護屋城から渡ったものだという説を思い出しました。
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大手口・登城坂
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破壊された石垣の姿を確かめながら進みます。
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櫓台はありますが門の跡は確認されていないため、常時開放されていたと考えられています。
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大手口から長い坂を上って。左側の高石垣の上は三ノ丸。
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大手口からまっすぐ続く登城坂を上ると、右手に広がるのが東出丸です。
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東出丸の縄張り担当は、加藤清正。
広々とした千人枡と呼ばれる曲輪が現存し、大手口や三ノ丸の警護をする侍詰所があったと推測されています。右に見えるのは櫓台。往時には門があったそう。 -
東出丸櫓台。ここは、隅角部の石を縦に積んでいます。
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東出丸から見た風景・陣跡の説明板。
陣の配置は、大名たちの身分・序列や軍事的な役割などを基準に秀吉が割り振ったようですが、この写真の右端は石田三成の陣跡で、陣をひとつ挟んで約1.2kmほど離れた場所に位置したのが大谷吉継。関ヶ原の戦いでは固い友情で結ばれていたふたりのエピソードがありましたが、秀吉にお互いを近くに配置してくれと言ったのかなとか、戦法を話し合ったりしたのかなとか妄想しながら眺めました。 -
呼子大橋が見える。
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続いて、三ノ丸へ。
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真ん中に、で~んと巨石。
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破壊されたおかげで、斜面に沿って石が積まれた様子が分かります。
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この時は写真を撮っただけで、本丸の表示を気に留めずに三ノ丸だけを意識していたみたい。自分のバカ。
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三ノ丸跡
本丸より一段低いところに位置する東西68m、南北124mの曲輪。 -
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屏風には、三ノ丸を歩く公家風の人物が描かれています。
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三ノ丸から馬場へと続く標識の先にあったのは、
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三の丸井戸跡。
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城内の高台では唯一の井戸。
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この時、冷静に考えればわかったのだけど、三ノ丸井戸跡の先にある本丸大手から本丸・天守台跡へ行くのが登城ルートだったのに、三ノ丸→ニノ丸→本丸と進むのが普通だと思って、マップも見ずにニノ丸を目指してしまいました。
結局、三ノ丸→伝馬場→ニノ丸→遊撃丸→本丸北口→本丸・天守台→本丸北口→東出丸→大手口と進み、本丸大手をしっかり見ることなく下城。
本丸大手にあった二重の豪壮な大手門(櫓門)は、伊達政宗によって仙台城(青葉城)の大手門へと移築されたという伝承がある(但し、移築された門は1945年の仙台大空襲で焼失)そう。本丸大手門跡を見なかったことを、旅行記を書いてる時に気付くなんてホントに自分のバカ、バカ。
見学ルートは複数ありますが、皆さまには三ノ丸から本丸大手・天守台へと進み、本丸北口から戻るようにニノ丸、伝馬場と見学されることをお勧めします。 -
三ノ丸南東隅櫓台
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新石段を上り、
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振り返って。
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こちらは、旧石段。
登り口となる石段が2ヶ所あるのは、築城の途中で設計を変えた名残だと考えられています。 -
櫓台から見下ろした破壊跡。
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ここは、どこの石段だっけ?
撮った写真をGoogleレンズで調べたら、上山里丸へと続く山里口(山里丸虎口)で、 -
右側に見えているのは、上山里丸の北側にある堀の鯱鉾池という結果でした。
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でも、アップにした写真で調べ直したら、城のかげ溜池と表示されました。だとしたら、本丸・三ノ丸南側、搦手口側付近に位置する溜池で、鯱鉾池とは反対側の場所。いったいここは、どこ?
実は、説明板を見逃したからと行ったり来たりしていて、どの風景がどこから撮ったものかわからなくなっちゃった。
私も、Googleレンズも、迷走。 -
次は、馬場跡へ。左に見えるのは三ノ丸櫓台。
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三の丸櫓台
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三ノ丸南西隅櫓台鏡石。3つ並ぶ巨石の中央が、名城跡で最大の石材を使った石垣らしいです。表面に見えてるとそう思えないけど、体積(奥行)の問題かな。
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本丸の南側に帯曲輪的に配された馬場は、長さ100m・幅15mと細長く、本丸とは12mもの比高の石垣が聳えています。
その立派な石垣も、築石部が見事に壊されています。 -
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ここで乗馬訓練が行なわれたそうですが、本丸の東にある三の丸と西側の二の丸を結ぶ通路で、本丸・三の丸の守備という役割もあったため櫓が建てられ、現在は櫓台の石垣が残されています。
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本丸南西隅石垣
石がゴロゴロ。破壊された景色も見慣れてきちゃった。 -
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ニノ丸へ。
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本丸の西側に位置する二ノ丸は、東西75~90m×南北110~120m。とにかく広い。
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二ノ丸長屋建物跡
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長屋建物(掘立柱建物)は3棟あり、恒久的な施設ではなく、築城時に使われた施設と考えられるそうです。
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二ノ丸合坂
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合坂は、石垣を登り下りするための石段のひとつで、兵の移動を容易にした。
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石垣を回り込みながら進みます。
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ここもしっかり破壊。
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曲がりくねった道を進みます。舗装されているけれど、裏道感が満載。
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名護屋城には、虎口が5ヶ所(大手口・搦手口・山里口・水手口・船手口)ありました。
本丸の北西、二の丸の北に配された曲輪が遊撃丸。眼下に船手口があり、朝鮮の役の講話の際に明国側講話使節(遊撃将軍・沈惟敬)の宿舎となった場所が名の由来。 -
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水手曲輪から、本丸へ。
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15:06
大手口からここに来るまで50分が経過。 -
城内に造営者を説明する類いの説明板はなかったように思うので、興味深く確認。複数名が書かれた中に、知っている武将二人の名を見つけました。
羽柴加賀宰相/前田利家
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)に際し、8,000人の兵を率いて参陣。築城・陣営において、三ノ丸西門や西北角の矢蔵などの作事・普請を分担。
浅野弾正少弼/浅野長政
三ノ丸西二階櫓、取付櫓を造営。
築城において普請総奉行を務め、周辺に諸大名の陣屋が置かれる中、城郭の内部(本丸・二の丸南側)に位置する曲輪を居館としました。官位である弾正少弼から、その居館や曲輪は弾正丸と呼ばれています。弾正丸の南側には搦手口があり、厳重な虎口構造を持つ防衛の要所となっていました。
(本丸見学につづく)
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