2026/05/19 - 2026/05/22
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chemireさん
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前田利家陣跡
丘陵北側麓を削平した陣所と、丘陵頂部を削平した連郭式の陣所の2つから構成。今回は、バスの時間に合わせて麓側だけサラッと見学しました。
文禄・慶長の役では、戦況の変化により利家の渡海は中止となり、後方支援や国内の拠点運営を担っています。
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5月21日(木)
名護屋城址を見学した後、バス停のある「道の駅・桃山天下市」まで戻ってきたけど買いたいものもなかったので、 -
バスの時間まで、道の駅の第二駐車場の南側に隣接する前田利家陣跡に行ってみることにしました。
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この説明板では、利家の陣屋の規模は6haとなっているけど、別の説明板では10haと書かれていて、さらに検索すると、広さは13haにおよび名護屋城周辺の陣跡では2番目の規模と記されていました。調査が進んで、広さが判明されてきたってことかな。
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2番目の広さというのが気になって、じゃあ最大規模を誇った陣屋の主は誰って調べたら、名護屋城から約1.3㎞の所に広さ20haを超える陣屋を構えた豊臣秀保でした(名護屋城は17haのはずだったけど、それを超える規模だなんて調べ間違い?)。
秀保は秀吉の姉・ともの3男として生まれ、叔父である秀長の養嗣子となっています。実兄は秀次・秀勝。秀保が文禄の役に際して陣屋を構えたのは、わずか13歳(数え年)で、この時に渡海はせず、文禄の役が起こる前に17歳で急逝。
最近、秀次・秀勝・秀保の生涯が気になってきたところだし(大河ドラマは見てません)、名護屋城再訪時の陣跡巡りリストに入れておこうっと。 -
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エピソードサイン
前田利家は、豊臣政権五大老のひとり -
(説明板より)
秀吉の盟友、その長けた経済感覚で名護屋城を取り仕切る
前田利家は豊臣秀吉と早くから交流をもつ間柄であり、四女の豪姫は秀吉の養女になるなど親類関係でもありました。そんな利家は、8,000の兵を率いて名護屋に参陣。当初は名護屋湾東側に陣を築きましたが、徳川との"水争い”の仲裁を受けた後は名護屋城から南東500mのこの地に陣屋を構えました。利家は、秀吉が自ら渡海する意思を示すと、徳川家康とともに説得に当たり、思い止まらせました。また、母・大政所危篤の知らせを受けた秀吉が大坂へ帰った際には、家康とともに諸将を指揮し名護屋で政務を行いました。加賀百万石の礎を築いた利家は経済感覚にも長けた武将であったとされ、名護屋参陣中に愛用したと伝わる"そろばん”は、日本最古級の算盤として現存しています。 -
単なる陣屋ではなく文化的な交流や賓客の接待も行なった空間であったそう。名護屋に来た明国使節団を接待しています。
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ここが虎口かと思ったけど、どうやら違うみたい。
あまり時間がなかったのと、発掘調査中で現場や説明板に近寄れなかったり、ブルーシートに覆われて見られない所も多かったのでサラッと歩いてみました。 -
振り返って見た道の駅方面。
近年の発掘調査で、長さ約400m・幅約20m・深さ約5mと推定される巨大な堀の遺構が見つかったそうで、駐車場は堀跡に造られたことになるみたいです。
発見された堀跡は、名護屋城の周辺にあった陣の中では最大規模で、姫路城級だと言われたそうです。と書いてもピンとこなかったけど、姫路城は約23ヘクタールとお城の広さランキング第5位でした。
とにかく、陣屋の遺構が有名なお城に例えられるなんてすごい。 -
どこが堀だか池だか分からない。他のお城のように、〇〇を調査中ですみたいな看板を立ててくれたら、想像力の乏しい私でも、もっと楽しめるのにと思いながら進みます。
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ここが虎口の石垣らしい。
虎口から入って左奥には、庭園が設えられ池があったそうです。 -
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こっちは蹲踞台かな。
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(説明板より一部引用)
前田利家陣跡は名護屋城跡の南方約300mに位置し、標高79mの頂上部を含む、広さ10haにも及び、数ある大陣跡の中でも最大級の大きさを誇ります。跡は山上の曲輪群と山裾の居館部分の曲輪(館部)に分かれており、居館部分は高さ6mの石垣からなる内桝形の虎口(入口)があります。
前田陣跡の規模の大きさや格式の高さは群を抜いており、石垣に矢で割った割石を多用している点でも先進的な造りをしています。 -
(説明板より一部引用)
前田利家は、天正20(1592)年3月16日、京都を出発し名護屋に向かい、4月中旬頃には到着。
軍役は8千人と言われており、着陣初は名護屋城の北方、名護屋湾の東岸に陣を構えたとされています。到着してほどない5月5日には飲料水の確保をめぐって徳川家康の兵といさかいを起こし、大きな騒動となっています。伊達政宗の仲裁で収まり、後に名護屋城の近くに陣が移されたと伝えられます。
文禄2(1593)年5月15日、明国の講和使節団が名護屋に到着し、使節の正使である謝用枠を徳川家康が、そして副使である徐一貫を前田利家が接待し、翌月まで滞在しています。なお、その際に武者揃えを行うため、槍柄に貼る金箔、銀箔を発注したことを記す文が残されています。利家がいつまで名護屋に在陣していたのかは、はっきりしませんが、同年8月中旬に秀吉が嫡子秀頼の誕生に伴い大坂へ帰ったのにあわせて名護屋を出発したものと考えられます。 -
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それでは、折り返し。
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発掘調査・整備は令和10年度/2028年度頃までの計画だそうなので、姫路城級と言われる堀の姿が見られるようになったら再訪したいと思います。
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