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名護屋城博物館の裏手にある木下延俊の陣跡を見学。<br />延俊は、秀吉の正室おね(北政所/高台院)の甥にあたり、名護屋城の大手口を守る重要な場所に陣を構えていました。

木下延俊陣跡

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2026/05/19 - 2026/05/22

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chemire

chemireさん

名護屋城博物館の裏手にある木下延俊の陣跡を見学。
延俊は、秀吉の正室おね(北政所/高台院)の甥にあたり、名護屋城の大手口を守る重要な場所に陣を構えていました。

  • 木下延俊陣跡<br />名護屋城の南方に位置し、現在は名護屋城博物館の野外展示施設として博物館の裏手に陣跡へ続く出入り口が設けられています。<br />この日は雨だったのですが、貸し出し用のビニール傘が10本ぐらい置いてありました。

    木下延俊陣跡
    名護屋城の南方に位置し、現在は名護屋城博物館の野外展示施設として博物館の裏手に陣跡へ続く出入り口が設けられています。
    この日は雨だったのですが、貸し出し用のビニール傘が10本ぐらい置いてありました。

  • リーフレット

    リーフレット

  • 主郭の平面復元。 通路が整備され、1周できるようになっています。茶室や庭園などもある優雅な陣であったようです。

    主郭の平面復元。 通路が整備され、1周できるようになっています。茶室や庭園などもある優雅な陣であったようです。

  • 日出(ひじ)藩藩祖・木下延俊は、秀吉の正室・おね(北政所・高台院)の兄である木下家定の三男。小早川秀秋は実弟(五男)。<br /><br />延俊の家系はもともと杉原氏でしたが、血縁の少なかった秀吉に重用され木下の苗字を称し、のちに日出藩を立藩した延俊およびその子孫の家系は豊臣の姓を名乗ることを許されています。<br />尚、延俊の父・家定は足守藩藩祖で、江戸時代に全国の大名は260家を数えましたが、豊臣家に繋がりを持った大名は、この足守藩木下家と日出藩木下家の2家のみ。<br /><br />延俊は、姫路城の城代を任されるなど豊臣政権の一門として育ちますが、関ヶ原の戦いでは木下一族の多くが去就に悩み西軍寄りの動きや曖昧な態度をとった者が多かった中で、義兄・細川忠興(延俊の正室・加賀は忠興の妹)の助言を受け交通の要衝であった姫路城を明け渡して東軍に加わっています。また、弟の小早川秀秋が西軍から姫路城に入ろうとした際、延俊はこれを拒絶して一族の混乱から一線を画したという逸話が残るそうです。

    日出(ひじ)藩藩祖・木下延俊は、秀吉の正室・おね(北政所・高台院)の兄である木下家定の三男。小早川秀秋は実弟(五男)。

    延俊の家系はもともと杉原氏でしたが、血縁の少なかった秀吉に重用され木下の苗字を称し、のちに日出藩を立藩した延俊およびその子孫の家系は豊臣の姓を名乗ることを許されています。
    尚、延俊の父・家定は足守藩藩祖で、江戸時代に全国の大名は260家を数えましたが、豊臣家に繋がりを持った大名は、この足守藩木下家と日出藩木下家の2家のみ。

    延俊は、姫路城の城代を任されるなど豊臣政権の一門として育ちますが、関ヶ原の戦いでは木下一族の多くが去就に悩み西軍寄りの動きや曖昧な態度をとった者が多かった中で、義兄・細川忠興(延俊の正室・加賀は忠興の妹)の助言を受け交通の要衝であった姫路城を明け渡して東軍に加わっています。また、弟の小早川秀秋が西軍から姫路城に入ろうとした際、延俊はこれを拒絶して一族の混乱から一線を画したという逸話が残るそうです。

  • 博物館内から陣跡へ続く出入り口の近くに、復元ジオラマ模型とデジタルコンテンツが展示されています。

    博物館内から陣跡へ続く出入り口の近くに、復元ジオラマ模型とデジタルコンテンツが展示されています。

  • 名護屋城趾内にあった陣跡の説明板より。

    名護屋城趾内にあった陣跡の説明板より。

  • これも、名護屋城趾内にあった説明板より。<br />緑色は、特別史跡の指定を受けているもの(名護屋城跡を含め現在23ヶ所)。木下延俊の軍役(人)数は250と他の武将たちと比べ圧倒的に少なく、大手口近くに陣を構えたのは延俊が優れた武将であったとしても、秀吉の血縁へのこだわりを感じてしまいます。

    これも、名護屋城趾内にあった説明板より。
    緑色は、特別史跡の指定を受けているもの(名護屋城跡を含め現在23ヶ所)。木下延俊の軍役(人)数は250と他の武将たちと比べ圧倒的に少なく、大手口近くに陣を構えたのは延俊が優れた武将であったとしても、秀吉の血縁へのこだわりを感じてしまいます。

  • では、陣跡へ。

    では、陣跡へ。

  • 桝形となった虎口の左手には玉砂利が敷かれ、右手には石塁が残っています。

    桝形となった虎口の左手には玉砂利が敷かれ、右手には石塁が残っています。

  • 虎口を抜けると庭園空間。飛石や、矢穴のある石が見られました。

    虎口を抜けると庭園空間。飛石や、矢穴のある石が見られました。

  • 砂雪隠<br />実用的なトイレというより、茶の湯における清浄の心を伝え客人への心遣いを表すものだそうです。

    砂雪隠
    実用的なトイレというより、茶の湯における清浄の心を伝え客人への心遣いを表すものだそうです。

  • 御殿の一部と考えられる石敷遺構。

    御殿の一部と考えられる石敷遺構。

  • 雨の中、10分ほど見学。整備された通路を歩くだけなら2~3分で一周できそうでした。<br /><br /> −−−−− −−−−− −−−−−<br /><br />延俊は高台院が寵愛した甥であったとされ、同じく甥であった秀次や小早川秀秋も可愛がられましたが、3人の人生は全く違った結果となっています。運命のいたずらだったなんて一言では片付けられないけど、日出藩まで開いた延俊は強運の持ち主だったのかな。<br />それと、延俊の子孫まで豊臣の姓を名乗るのを許されたというのも気になるところ。天下人だった秀吉を思い、家康が手を出さなかったのかなと想像してみたりして。<br /><br />日出藩の名も知らなかったので、日出城趾を訪ねる旅を計画して、現地でさらに妄想したいなって思い始めています。<br />

    雨の中、10分ほど見学。整備された通路を歩くだけなら2~3分で一周できそうでした。

     −−−−− −−−−− −−−−−

    延俊は高台院が寵愛した甥であったとされ、同じく甥であった秀次や小早川秀秋も可愛がられましたが、3人の人生は全く違った結果となっています。運命のいたずらだったなんて一言では片付けられないけど、日出藩まで開いた延俊は強運の持ち主だったのかな。
    それと、延俊の子孫まで豊臣の姓を名乗るのを許されたというのも気になるところ。天下人だった秀吉を思い、家康が手を出さなかったのかなと想像してみたりして。

    日出藩の名も知らなかったので、日出城趾を訪ねる旅を計画して、現地でさらに妄想したいなって思い始めています。

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