2026/01/17 - 2026/01/17
926位(同エリア2006件中)
kojikojiさん
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この旅行記のスケジュール
2026/01/17
この旅行記スケジュールを元に
「ヴァーサ号博物館/Vasamuseet」の見学が終わり、長年の夢がかなってほっとした気分で表に出ると身が引き締まる様な寒さを感じます。巨大な建物を周り込んで「北方民族博物館/Nordiska museet」に向かいます。ここ以外にもストックホルムには行ってみたい美術館や博物館はありますが、夕方までの時間を考えると一番効率が良いのと妻も民俗博物館が好きなのでここを選びました。この博物館はスウェーデンでは近世初期とされる1520年頃から現代に至るまでのスウェーデンの文化史と民族史を学ぶことが出来ます。現在の建物はイサク・グスタフ・クラソンの設計で、19年にわたる建設期間を経て1907年に完成しました。当初は国の物質的遺産を収める国の記念物として意図されていましたが1897年のストックホルム博覧会には半分しか完成せず、当初計画されていた規模には至りませんでした。この建築は特定のスウェーデンの歴史的モデルではなく、オランダの影響を受けたデンマーク・ルネサンス建築、フレデリクスボー宮殿などの建物を参考にしています。大きな扉を開けて内部に入ると「大聖堂様式」の建物の中心部は、全長126メートルの巨大なメインホールになっていて圧倒されます。正面にはスウェーデンの創設王グスタフ・ヴァーサの巨大な彫刻が置かれてあります。シニア料金で入城した後は地下のクロークのロッカーに荷物を畔けて身軽になります。まずはメインホールのカフェテリアでランチにしますが、ビールを2本とサンドイッチ1つと小さいポテチ1袋で6,000円ほどになってしまいます。朝ご飯をしっかり食べておいて良かったと思います。エレベーターで4階に上がった後はメインホールを囲むように配置された部屋を1つ1つ1520年から現代に向けて見学していきますが、その展示内容の量の多さには驚きます。それぞれの部屋にはタッチパネル式の案内板があり、それを見ないと展示されてるものが何だか分からないというのが少し面倒ではありました。地元の人はかなりじっくりと説明文を読んでいますが、スウェーデン語では横から盗み見しても何だか分かりません。空いたところで英語のボタンを押して読み込むので時間がかかります。ここでも2時間ほどかかりましたがスウェーデンの文化を少しは知ることが出来たような気がします。2つの博物館をほとんど歩きっぱなしで、表に出ると辺りはすでに真っ暗で、さらに街灯も無い船着き場に向かい、小型船に乗って「ガムラスタン」を目指します。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- JTB
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「ヴァーサ号博物館/Vasamuseet」の見学を終えた後は同じ島内にある「北方民族博物館/Nordiska museet」に向かいます。
ラストフスポルテン公園 広場・公園
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博物館の正面には「カール10世グスタフの騎馬像/Karl X Gustav Equestrian Statue」があります。カール10世グスタフは子のいなかったバイエルンのクリストファー王に続くスウェーデンのヴィッテルスバッハ家の第2代王であり、スウェーデン・カロリーナ朝の初代王でした。この時代は息子カール11世の治世末期に最盛期を迎えることとなります。
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博物館の建物はアイザック・グスタフ・クラソンの設計により、19年を費やして1907年に完成しました。原案では国定記念物の指定を受け国の遺産となる品々を収蔵する意向がありましたが、1897年のストックホルム博覧会開催までに半分しか完成しておらず、竣工時も設計案の3分の1規模となりました。
北方民俗博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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この建物は北欧ルネサンス様式の城として意図されており、設計言語からも建築家イサク・グスタフ・クラソンがデンマークのフレデリクスボー城やスウェーデンのヴァドステナ城など、北ヨーロッパの17世紀ルネサンスに触発されたことがうかがえます。ファサードの建築材料はロスラゲン産の砂岩とエーランド島およびゴットランド産の石灰岩がらなっています。
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切妻屋根の上には北欧神のオーディンが座っています。下の三角形の破風では中央に座るミューズ像は博物館を象徴し、人々からの贈り物を受け取っています。屋根の上の装飾にはリス見えています。これはリスが食べ物を集める採集者、すなわち創設者ハゼリウスの博物館の収集活動の助手の象徴です。
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扉を開けるとエントランスホールがあり、天井には巨大なシャンデリアが吊られています。階段を登った先にはさらに巨大なホールとスウェーデン建国の王と呼ばれるグスタフ1世の巨大な彫刻が見えます。
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「大聖堂風」の建物の中核は屋根まで貫く吹き抜けの奥行126メートルの中央展示室があります。テリー・ギリアムの映画「未来世紀ブラジル」の情報省の受付のようなカウンターでチケットを購入しますが「妻は70歳のシニアです。」と伝えると「あなたもね。」と2人割引料金で入場できました。地下にクロークがあるのでロッカーに荷物を入れて身軽になります。
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時間はすでに2時前になっているので吹き抜けホールの脇にあるカフェテラスで簡単ですがお昼にすることにします。巨大なホールですが暖房は入っていて温かいのでビール2本とサンドイッチを1個持ってレジに進むとこれだけで275クローナで4,923円です。生まれてから食べた最高に高いサンドイッチですが、周りの皆さんは普通に食事をしています。これでは少ないので小さいポテチの袋を買ったら29クローナで519円。
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ラベルが欲しかったビールは「Pickla Pils」と「Bedaro Bitter」で、スウェーデンのNynashamns Angbryggeriが製造するピルスナー(ラガー)タイプのビールと同醸造所の最も売れている製品の1つのビターです。明確な苦味と麦芽の風味があって美味しかったです。
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見学ルートは4階からなので、ホールの一番奥にあったエレベーターで上階に移動します。博物館は創設当初から当時としては現代的な革新を施しており、それぞれに運転者と数名の来場者が乗れるスペースを備えたエレベーターがありました。
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「リフト」(スウェーデン語で「ヒッ」)という言葉は、建物内のオリジナルの彫刻と同じ特徴的なタイポグラフィを使っています。落ち着いたオリーブグリーンの色合いは、建物全体に見られる鋼製の扉から引用されています。
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高さ24メートルの天井を持つ全長126.5メートルのホールの圧倒的なスケール感です。1930年代に電灯が設置されるまでは天井のランタン(ガラスドーム)が唯一の照明だったようです。ホールの屋根を支えるコルモールデン大理石の柱は68本あります。
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これまで数々の国の民族博物館を見てきましたが、分かりやすい民族衣装や伝統的な工芸品を展示するという手法ではなく時間軸で1500年から現代までのスウェーデンの全てが納まっているように思えます。
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何世紀にもわたり北欧地域はカトリック文化の一部であり、最終的な権威はローマの教皇にありました。しかし、ここではキリスト教の聖人や神秘的な伝統とともに、古代の神々や霊が今も認められています。誰かが何を信じていようと、その思考や行動は主に信仰に基づいています。ここで人々が何かに帰属感を感じているとすれば、それは家族、地域、そして言語に過ぎません。彼らはユトランド人、ダレカル人、サーミ人、サヴォニア人です。
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北欧地域には2つの大きな王国があります。西のデンマーク・ノルウェーと東のスウェーデン・フィンランドです。スウェーデン・フィンランドは北のラップマルクから南のスモーランド、東のフィンランドまで広がっています。これほど大きな王国は管理コストがかかるため、王は森の木々、山の鉱物、農民の作物を主張しなければなりません。彼は新しいプロテスタント信仰を導入し、自らを教会の長と称し、その資産と影響力を自分のものと宣言します。
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北欧社会には長年に渡りカトリックが根付いていました。特に聖母マリアへの信仰は強かったようです。1520年代になるとマルティン・ルターの教えが広まり、グスタフ・ヴァ―サはすぐにルター派の教義を王国に導入することの潜在的な利点に気が付きます。
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新しい信仰は人々の生活に大きな変化をもたらし、聖母マリアなどの聖人への信仰は違法となり、カトリックの神秘主義に取って代わっていきます。礼拝ももはやラテン語ではなく、現地の言葉で行われました。スウェーデンでの宗教改革はほぼ100年続き、プロテスタント教会と並行してカトリックの慣習、民俗信仰、キリスト教以前の伝統も維持されました。
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三連祭壇画も南欧やフランドルのものと比べても素朴な印象を受けます。受胎告知から始まるイエスの生涯が8つの場面に描かれています。
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ルネサンスは15世紀および16世紀にわたる歴史上の時期であり、ヨーロッパにおける文化運動です。中世から近代性への移行を画し、古典古代の思想と成果を復興し、これを凌駕しようとする志向を特徴とした。この時代のスウェーデンはどんな時代だったのかが気になってきます。
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地獄行きを審判された人々が怪物の口の中に追いやられていきます。膨大な展示物に圧倒され、個別のキャプションなども無いので印象に残ったものや興味のあるものだけを見ていくことにします。
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ライデンの博物館の部屋を描いた版画には心惹かれます。ちょうど1カ月ほど前に上野の「国立西洋美術館」で開催されていた「デューラー”三大書物”の木版画」を観たばかりだったせいかもしれません。ライデンの町も電車で通過しながら立ち寄れずにちょっと後悔している場所です。
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アトラスはゼウス率いるオリュンポスの神々とクロノス率いるタイタン神族との戦い「ティタノマキア」でタイタン神族に味方しました。この戦いに敗れたためゼウスにより天空を背負うという罰を科せられました。メドゥーサを討伐したペルセウスがアトラスを訪れ、メドゥーサの首をアトラスに向けたことでアトラスは石になったと伝えられています。これがアトラス山脈の由来になったと言われています。「ナポリ国立考古学博物館」に収蔵されているファルネーゼのアトラス像を思い出しました。
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「貴族の領地」
1600年代の裕福な貴族の館の部屋が移築されています。多くのマナーハウスはスウェーデンの中部や領地の両方で建てられていました。建物はますます豪華になっていきます。 -
1640年代には元帥レナルト・トルステンソンがブロンマにウルヴスンダ城を建てました。30年後に息子のアンダースと妻クリスティーナ・ステンボックは壮麗なステートベッドルームを飾り、そのデザインは訪問者を感動させることを目的としていました。寝室としての機能は純粋に象徴的なものでした。
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17世紀中頃に造られたトルステンソン家系図と肖像画が並んでいます。
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その当時の貴族の持ち物であった調度品が数多く並んでいます。興味のあるものはコーナーごとに置かれたタッチパネルで調べることも出来ますが、先のことを考えると全てを見るわけにはいきません。
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蕗ね気の巨大なホールの周囲は延々と部屋が続き、それぞれがテーマごとに分かれて展示室になっています。部屋ごとに美しくデザインされているのでそれだけでも歩くのが遅くなってしまいます。
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メメント・モリはラテン語の成句で「死を想え」「死を忘るるなかれ」、つまり「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」といった意味の警句です。芸術作品のモチーフとして広く使われ、芸術では「静物画」は以前は「ヴァニタス」( Vanitas「空虚」)と呼ばれていました。
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静物画を描く際には、なにかしら死を連想させるシンボルを描くべきだと考えられていたからです。明らかに死を意味する骸骨や、より繊細な表現としては花びらが落ちつつある花などがシンボルとして使用されました。
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デンマークのユトランドの収納箱の正面パネルには旧約聖書のアダムとイブ、新約聖書のイエスの洗礼や磔刑が素朴な彫刻が施されています。
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アカンサスの枠に縁どられたパネルには右手に剣を持ち、左手に天秤ばかりを持つ大天使ミカエルの姿があります。
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17世紀のスウェーデンで作られた福音記者ヨハネです。足元の鷲は鳥の中で唯一太陽を直視できるのだと信じられていました。 神の深い神秘を誰よりも見つめていたので、福音記者ヨハネの図像には鷲が描かれています。
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貴族の子供たちの肖像画
グスタフ・ホルンの娘のヘレナとマリア・エレオノーラ・ホルン・アフ・ビョルネボルグは、それぞれ生後6か月と4歳で亡くなりました。子供たちの絵は彼らの死後に描かれました。彼らはまだ生きているかのように描かれていますが、枯れた花や砂時計が彼女がもうそばにいないことを観る者に伝えます。これらは理想的な子どもの描写です。子供の葬儀で行われる長い葬儀説教は家族の名誉にとって重要でした。子どもの両親やその家族、育て方や美徳がすべて認められています。 -
ヘレナ・ホーン、生後6か月
左:子供の肖像画、1648年、エストニア・タリン
右:亡くなった少女の肖像、
1652年、子供の肖像画、ラトビアまたはスウェーデン -
子供の肖像画、1662年、フィンランドのトゥルクで描かれました。この当時の子供は10歳までの間に約半数が亡くなったそうです。
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小さな女の子のための埋葬ドレス
1650年頃にストックホルムのセント・ジェームズ教会に納められたものです。 -
以前にシチリア島のパレルモ郊外のカプチン修道会の地下納骨堂に、世界一美しい遺体と言われる1920年に肺炎のため2歳で亡くなったロザリア・ロンバルドの防腐加工した遺体を見たことがあります。現在とは違った深い愛情を感じるものでした。
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シリ・オクセンシェルナの肖像画は1613年に1歳で亡くなった少女を描いています。フィンランドのウーシマーで描かれました。
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ホールの中央にはグスタフ・ヴァ―サの巨大な彫刻が鎮座しています。カール・ミレスによる高さ6メートルのオーク材の彫刻である王はこの博物館が1523年以降の時代に焦点を当てていることを示しています。
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この像の額の部分にはグスタフ・ヴァ―サ自身がリドボホルム城に植えた樫の木の一部が用いられているそうです。
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1700年代になるとスウェーデン宮廷ではメッソナ党とハッタナ党による派閥争いが熾烈を極め、王権は弱体化して派閥に属する貴族による議会が国政を取り仕切る「自由の時代」となっりました。比較的平和な時代が続き、生物学のリンネなどが活躍し、学芸が大いに発展していきます。しかしスウェーデンの対外的国力は低下していき、かつての「バルト海の覇者」の面影はなくなってしまいます。
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スウェーデンの没落を憂慮した啓蒙専制君主グスタフ3世は、1772年にクーデターによって王権を復活させ、1790年までに絶対君主制を復活させました。さらに強力に内政を充実させ、外交ではフランス王国と提携し、エカチェリーナ2世時代のロシア帝国と対抗します。グスタフ3世はロシア・スウェーデン戦争を起こし、バルト海でのパワーバランスをある程度回復させました。
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ペルシャ湾から極東アジアまでの地図がありました。この当時からホルムズ海峡は交易の要衝だったということが分かります。17世紀から18世紀の古地図を集めていたこともあり、とても興味深い展示です。
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この当時は中国製の陶器はヨーロッパで人気の品となりました。この獅子の置物は中国から輸出された物がコピーされました。この陶器の獅子はヴァルベリのタイル張りストーブ職人組合で職人の技能試験として作られました。東インド会社の本社があるヨーテボリに近いことから、このデザインの普及に寄与したと考えられます。青花の壺は1755年にストックホルムで作られました。
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「ティータイム」1775年ストックホルム
この油彩画では時計は午前9時半を示していて、お茶の時間を思わせます。ペール・ヒレストロームの絵画では女性が読書をしているとメイドがお茶を持って来るという流行の風景を描いています。新しい商業の世界からの商品が部屋中に散らばっています。ティーポットとカップは中国製で、茶葉も中国からもたらされました。銀製の砂糖缶は西インド諸島から輸入される砂糖のために新たに製造されたものです。窓の間のテーブルにはマリーベルクのファイアンス製ポプリ壺が置かれています。エレガントな鏡とコンソールテーブルはフランスのデザインをもとにストックホルムで作られました。 -
左上の絵画は当時ロンドンに住み制作していたスウェーデンの画家カール・フレドリック・フォン・ブレダによる油彩画です。絵画ではカール・ベルンハルト・ワドストレームがペーター・パナにキリスト教について教えている様子が描かれています。ペーター・パナは西アフリカのアフリカ人支配者の息子でした。彼は奴隷商人に誘拐され、西インド諸島を経てロンドンへ連れて行かれました。そこで彼はセネガルへのスウェーデン遠征に参加していた実業家カール・ベルンハルト・ワドストロームと出会いました。ワドストロームはアフリカの奴隷貿易での経験を経て、奴隷制の反対者となりました。ペーター・パナの自由はワドストレームによって買い取られ、彼は洗礼を受けてキリスト教の学校に送られることになりました。パナはキリスト教を広めるためにアフリカに戻るというアイデアでしたが、彼は短い闘病の末わずか18歳か20歳で亡くなりました。
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青い服を着た農民たち
「かつてはグレーのコートを着ることに満足していた農民は、今や青いコートを所有したいと強く感じている」と植物学者カール・ペッター・トゥーンベリは1782年に書いています。スウェーデンやフィンランドの農民がどう着飾るかは明確なイメージがありました。灰色の手紡ぎの羊毛生地で作られたシンプルで伝統的な衣服です。高価な輸入染料で染めた青い服を着た農民に対する批判は厳しかったようです。 -
当局や要人は外国の趣味が田舎に伝わったことに不満を抱いていました。農夫が「都会のスタイル」で光沢のあるボタンがついた流行の青いコートを着て、杖と懐中時計を持ち歩くと農民らしく振る舞わなくなるかもしれません。カラフルなトルソや頭部に花をあしらったり、ちょっと風変わりな展示手法が面白いです。
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ヴァルター・ヘルマン・リフによるシュヴァンゲラー・フラウエン・ローゼンガルテン。出産前後の様々な状況を図解したドイツの医学書です。ここでは版画で描かれていますが、フィレンツェの「ラ・スペーコラ博物館」で美しい蠟人形を見たことを思い出しました。
ラ・スペーコラ博物館:https://4travel.jp/travelogue/10361715 -
1714年に描かれたトロンプ・ルイユ絵画です。トロンプ・ルイユはフランス語で「眼を騙す」を意味します。このような絵画はヨーロッパ中の美術館に多く残されています。
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モチーフはローマの女神ケレスが冥界に連れ去られた幼い娘プロセルピーナを必死に探す様子を描いています。両親は冥王星にたとえ半年間だけでも娘を戻してほしいと懇願します。彼女が戻ると夏が咲き始め、古代神話によれば地球の季節が訪れます。グスタフ3世はスウェーデン語でプロセルピーナを題材にしたオペラを考え、この作品は1782年の新しいオペラハウスの開業前に上演されました。スウェーデンの愛国的な寓意として王は正義の父ユピテル、王妃は善良で母性的ケレスによって表現されました。
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カール・ミヒャエル・ベルマンのデスマスクです。彼は広く知られる作曲家で音楽家、詩人でエンターテイナーであり、スウェーデンの歌の伝統とスカンジナビア文学の中心的人物とされています。
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スウェーデン王グスタフ3世の石膏のデスマスクです。1792年3月29日に制作されました。
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宗教改革とルターの信条への移行の後に結婚はさらに重要な制度となりました。現在ではそれは社会の基盤であり、あらゆる家族の基盤と見なされています。理想は勤勉で結婚した夫婦が勤勉かつ実り豊かに共に生活し働くことです。結婚中の性は奨励される一方で、不倫や婚前交渉は神とスウェーデンの法律に反しています。宗教改革はまた聖職者の独身制を終わらせ、代わりに結婚することが期待されています。
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農民の結婚式のコーナーは赤い展示コーナーになっています。
公民の婚礼は誰と結婚するかは恋愛よりも経済的な決定の方が多かったようです。この時代は土地を所有することが最も重要なことでした。有利な結婚は自分の農場と家庭を持つこととされ、土地所有権は主に相続によって決まります。最も一般的には相続法で定められている子供たちの平等にもかかわらず、長男が農場を引き継ぎました。 -
結婚式は大きな祝賀行事で、大規模な結婚式は数日間続くこともあり、複数のパーティや式典が行われる幸せな機会となります。ゲストは食べ物や飲み物を持ってきます。結婚制度の重要性は花嫁の衣装や宝飾品やガラスビーズ、絹のリボンや紙の花などの装飾によって強調されています。土地所有者の農家は妊娠した妻の方が良いと考えることが多かったようで、それが農場を次の世代に受け継がせる証だからです。
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教会が結婚式で花嫁に貸し出す花嫁冠はかつて人々が守っていたカトリックの伝統の名残でした。カトリック教会ではこれらの冠は聖母マリアによって被られ、彼女の崇拝にも関わっていました。
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それらはしばしば金箔銀で作られ、純潔や貞潔、処女を象徴しています。もし花嫁が妊娠していると司祭たちは教会の花嫁冠を貸すことにあまり乗り気でなくなります。しかし、大きな農場ではしばしば独自の花嫁冠を持っていました。
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良い猟犬は貴重で、人々は自分の犬が危害を受けるのではないかと心配していました。犬は農場や家畜を守り、吠えたり合図したりして主人に警告を促していました。しかし、農場を守るために外に置かれた犬は、オオカミの餌にされる危険にさらされていました。この鋭く長いトゲ付きのハーネスは、オオカミや他の犬に襲われた際に犬を守る役割を果たしました。この建物は1826年、リュスダール出身のヨネ・アルヴィドソンによって設計されました。彼は25歳でした。この品は記録上珍品とされており、1873年にリュスダールの司祭ロスからノルディスカ美術館に寄贈されました。しかし、犬の保護を試みることは一般的であり、博物館のコレクションには他にもいくつかのトゲ付き「ウルフカラー」があります。
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「幼馴染のジョンとフリティオフ」と題されたフォークロアな絵画に魅かれました。1800年代になると近隣や遠くからも商人たちが北欧を行き来するようになります。アルハンゲリスクやオロネツからはカレリア人やロシア人がスウェーデンのバルト海沿岸、さらにはイェヴレまで市場を訪れます。フィンランド南東部の市場には中国人やタタール人の商人が訪れることもありました。スウェーデンのサーミ人はトナカイを放牧させる際にトナカイの肉や鎌、銀をノルウェーに持ち込みます。ノルウェーの市場ではヤムトの農民が干し魚や塩漬けニシンを取引し、それらを持ち帰って中央スウェーデンで販売しています。世紀末頃にはポーランド、ドイツ、ロシアからもユダヤ人の行商人が訪れ始めました。
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J・ヴィルヘルム・ヴァランデルの絵画「マルクナド・イ・ヴィンゴーカー(Marknad i Vingaker)」では、警備員の1人が太鼓で警報を鳴らし、警備員が窃盗の疑いで逮捕された若い男性を後ろに護送している様子が描かれています。スウェーデンのソーデルマンランド州ヴィンゴーカーの市場の情景が生き生きと描かれています。
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牛市はよく開催され、牛や羊、ヤギや豚、家禽などが販売されていました。馬の取引も市場でよく行われており、馬の商人たちが互いに騙し合っていたという多くの逸話が残っています。ヴェルナモ、ヴェトランダ、リュングビー、スモーランドのギスラヴェドの市場では生きた牛が最も重要な商品でした。J・ヴィルヘルム・ウォランダーによる絵画では田舎道を牛を追い込む様子を描いています。
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フレドリック・ウェスティンによる油彩画「ヴォムフスの髪職人たち」は、ストックホルムのエステルマルムの都市環境に女性たちを描き、背景にはヘドヴィグ・エレオノーラ教会が描かれています。額縁には「指輪を買え」と刻まれたモットーが刻かれています。この2人の女性は伝統的なモラの衣装を着ており、おそらくモラの北にあるヴォムフス出身でしょう。そこにいた女性たちは髪作りに長けており、馬の毛や後には人間の髪で装飾品や宝飾品を作っていました。彼らは14歳か15歳の時に重要な副収入源となった技術を教わりました。
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「ピルト・カリン・エルスドッターの肖像」ダレカルリアの美しい女性を描いた肖像画はエリック・ヴァールベルグソンによって描かれました。
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カスパーテーター(パンチ&ジュディ人形劇場)は1800年代のスウェーデン各地の市場で人気でした。この人形劇は1800年代に旅人形遣いたちによってスウェーデンにもたらされました。1860年代にドイツ人のJ.C.ホイザーマンはストックホルムでパンチ&ジュディ劇場の許可を得て、最終的にユールゴーデンに定住しました。
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カスパーまたはパンチのキャラクターは1600年代のイタリアのコメディア・デッラルテのプルチネッラのキャラクターを基にしていると考えられます。キャラクターはピエロかならず者のような存在でした。
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「写真家を訪ねる(Hos Fotografen)」は、アクセル・ペッテルソンによって制作されました。写真家は当時の市場で珍しい光景ではありませんでした。余裕のある多くの人がこの機会に写真を撮ってもらいました。この家族は皆非常に真剣な表情をしており、これは古い写真でよく見られる表情です。以前に中国の貴州省を旅した際に生まれて初めて写真を撮ってもらう子供に出会ったことがあります。その時の子供たちを思い出しました。
貴州省水族の村:https://4travel.jp/travelogue/10354720 -
このジャックインザボックスの人物はツルハシと口ひげを持ち、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクを象徴しているようです。そのフィギュアはバネコイルに取り付けられており、蓋が開くと飛び上がります。蓋に描かれた孔雀と鏡の絵は道徳的な教訓を教えてくれます。中世以来、孔雀は虚栄心、贅沢、傲慢さの象徴でした。この場合は特に傲慢さを象徴するために使われています。このおもちゃは人々の好奇心を利用し、蓋が開くとフィギュアが飛び上がり、かなり人を驚かすことが出来ました。
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一体この博物館どれだけの展示があるのでしょう。夕方までに観終わるのか心配になってきました。この先まだ200年分が残っています。
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ラージョガーピールはかつてノルウェーのフィンマルクやフィンランドのラップランドで着用されていたサーミ女性の帽子です。中をくり抜いた木製の枠に布で覆われ、それを支えています。この帽子の使用は1850年代にラエスタディアンの説教者たちによって非難され、悪魔の角を表していると感じられ、その後はほぼ使われなくなりました。
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凝った銀の首輪はかなりの出費で、大きなボタンのペアはトナカイの雄牛1頭、時にはもう1頭の小さなトナカイで支払われます。そのような首輪は最大で15頭から20頭のトナカイに相当する可能性があるということです。
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植物のための台座はカラフルなレリーフ装飾が施されたイタリア・ルネサンスに触発されています。錫または鉛釉の陶器で作られています。ジャルドニエール(植木鉢)や小さなヤシの木、その他の珍しい植物が置かれることが一般的でした。
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この絵はニルス・スヴェンソンによって制作されました。描かれたテーマは新約聖書のカナでの結婚の物語に由来しており、イエスが水をぶどう酒に変えた奇跡も含まれています。このタペストリーはスモーランドの主要な人生の出来事や年中行事の祝祭に使われました。物語は作家がよく知っていた、地元で馴染み深く現代的な環境で展開されています。
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この絵の主題は新約聖書から取られており、より具体的には人生の2つの道の直喩を表しています。罪の人生は地獄へと進み、徳の人生は天国へと続く道です。タペストリーの伝説はこう書かれています。「Den doren ar trang Och den wagen ar smal Som Drager til Ewig lifwet och Saliga Lan(永遠の命と約束の地へと続く道は小さく、狭い)」絵画を見た鑑賞者は、自分たちが人生で直面する岐路を思い出させるはずでした。
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これは聖書の物語に登場する人物たちが地元の農家の結婚式の名誉あるゲストに変わる構図の良い例です。パーティテーブルにはイエス、マリア、房飾りの結婚式の天蓋の下にいる花嫁、新郎、牧師、料理人が並んでいます。
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タペストリー画家は聖家族が地元の人間にとって非常に馴染み深い生活環境で描いています。イエスは横の揺りかご付きの南スウェーデンのゆりかごにしっかりと安らぎ、ヨセフは当時男性のホリデーの華やかな服の一部だった赤い編み帽子をかぶっています。テーブルはスモーランド風の宴として用意されており、木製の皿や客用のナイフ、そして共同の飲み具が用意されています。テーブルにはスモーランド風ツイストバンズやゴロン・ウエハースなどの甘いお菓子が並んでいます。これらの南スウェーデンのタペストリー絵画はクリスマス、イースター、結婚式、洗礼式などの重要な行事や祝日に壁に掛けられ、それ以外の日は箱にしまわれていました。
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ここでの主題は受胎告知、すなわち大天使ガブリエルが聖母マリアの部屋に入り、神の子を産むために選ばれたことを告げる瞬間です。スウェーデンのキリスト教暦では、この日はヴォルフューダゲン(Varfrudagen)またはスコーネ地方のフリュー・ダグ(Frue dag)と呼ばれ、3月25日に祝われます。
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カフェの生活は1800年代の新しい公共生活の主要な側面でした。都市部の人口はより良い移動性と自立を享受していきます。都市の過密状態は中産階級にとっても深刻で、ほとんどの人は自分のキッチンや居間を持っていません。多くは下宿者で一室を借りたり、雇用主の家で寝泊まりしたりしていました。
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数々の肖像画の中で頬に手を置くのはスウェーデンの菜園運動の先駆者アンナ・オーベリソンです。日本ではなじみのない人々の人生でも、より19世紀後半の時代を感じることが出来ます。
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「ゆえ、スウェーデン人よ、時を守れ:質素さと尊厳に回帰せ」と、スウェーデンで最も有名なロマン主義民族主義芸術家カール・ラーションは著書「Ett hem, A Home」で書いています。彼はスウェーデン国民が自らの国民精神や起源から離れてしまったことを嘆いていました。多くの他の芸術家、作家、研究者と同様にカール・ラーションは本物の民俗文化を求めていました。彼らはそれが特定の歴史的時代や1800年代の農業社会に存在すると確信していました。このロマンチックな概念に、口承歴史や地元の民族衣装、民俗儀式や踊りを加えました。
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風刺作家アンダース・フォルスベルグの「ソヴァンデ・パル・リ・ソッファ(Sovande par i soffa)(ソファの上の眠るカップル)」は、うとうとして今や人生に気づかなくなった高齢のブルジョワ夫婦を描いています。この絵はブルジョア的な家族生活の美化に対する批判です。一見すると理想的な光景に見えるかもしれませんが、その印象は夫婦の状況によって揺らぎます。コニャックと年齢に酔いしれ、眠りに落ち、自分たちの理想や美学を捨ててしまっているようです。
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世紀の変わり目になるとスウェーデンは貧しい国でした。通りには多くの物乞いがいました。アンダース・フォルスベルグの風刺的な「ぼろをまとった乞食」の絵では、その物乞いはこう言っています。「親がいない貧しい不幸な人に一銭でも寄付してください。父は軍務中に亡くなり、母は長兄を出産中に亡くなりました。」この絵は1902年に雑誌に掲載されました。この風刺は貧困の残酷さを明らかにしています。ここでは風刺は絶望的で嘘つきの貧困者よりも、騙されやすい良心の重い観客に向けられています。この時代の多くの風刺作家は町のブルジョア階級に皮肉を向けていました。母親が兄を生む際に亡くなったら自分は生まれてきませんからね。
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頭相学は1700年代に遡る疑似科学であり、さまざまな人間の特性が脳の異なる部分に存在し、頭部の形がそれらの存在の度合いを示すという考えに基づいています。1800年代に頭相学者たちは様々な人種と考える人類に関心を持ち始めました。しかし、解剖学者ほど頭蓋骨を測定していたわけではありません。彼らの教えは頭の形を研究して誰かの性格をどう推理するかという問題に重点を置いていました。ある人物は善人なのか、悪人なのか、犯罪者なのか、あるいは芸術的なのか?
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1930年代のスウェーデンとフィンランドはヨーロッパで最も劣悪な住宅環境を誇っていました。失業、住宅不足、過密状態が多くの人々の日常生活を特徴づけています。多くの子ども連れの家族は配管や電気のないワンルームアパートに住んでいます。住宅や社会状況が緊急の政治課題となり社会工学者たちの机の上に近代化された民主社会のビジョンが形を成し始め、将来の世代は健全でよく設計された家庭で育てられるべきと考えられます。
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機能主義の思想は1930年のストックホルム博覧会で突破口を開きました。多くの訪問者は新しく簡素なデザインに魅了され、一方で滑らかな表面や直角にひどいと感じる人もいました。批評家たちは鋼管で作られた家具を非難し、それは家庭には場違いに見えると言いました。一般の人々が生活や装飾の仕方に慣れるまでには時間がかかりましたが、より軽やかで堅苦しいスタイルは定着していきます。
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モデル家具は家具設計図とともにスウェーデン工匠協会(Svenska Slöjdföreningen)の住宅問題に関する教育で使用されました。学生時代にこのような家具模型を作ったことがあるので懐かしく思えます。
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スウェーデン初のセルフサービススーパー、ストックホルムのコンサム・スナッブケップの「ショッパー」バッグです。スーパーマーケットは超モダンで、新しいアメリカンスタイルでデザインされていました。ここでは客が店員のサービスに並ぶことなく自由に歩き回り、開いた棚から商品を選んでいました。それは驚くべき新奇な体験でした。
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アクセル・ラーションによって設計されたテーブルは模様のある白樺で作られています。1925年から1956年までアクセル・ラーションが働いたボダフォルスのスヴェンスカ・メーベルファブリケルナによって製造されました。スウェーデン工匠協会が主催する巡回展『Vårt bohag』にも含まれ、これは合理的で良質な家庭用品を宣伝する協会のプロパガンダ展示会の1つでした。
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教育用おもちゃは子どもたちの生後数年の発達を助けるために設計されています。このカテゴリーには積み木、ロッキングホース、線路、パウンドアペグのおもちゃ、動物のいる農場などが含まれます。子どもたちの創造性と想像力を刺激するのが目的で、新しい心理学理論は幼少期の初期が子どもの将来の発達に大きな影響を与えると考えました。
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ロンドンの玩具会社ディーンズ・ラグ・ブック社がライセンス生産した最初期のウォルト・ディズニー・ミッキーマウス人形の1つです。ミッキーマウスは1928年に映画スクリーンに登場し、すぐに国際的なヒットとなりました。スウェーデンでは社会教育者たちがミッキーマウス人形やその他の「悪いおもちゃ」が玩具店で売られていることに警告を発しました。危険であり子どもたちの遊びや創造性には適していないと考えられていました。この人形は1930年頃に5歳のヴィオラという女の子に贈られたものです。それは彼女の人生を通じて共に歩む大切な友人となりました。
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1939年11月にフィンランドで冬戦争が勃発すると、フィンランドの子どもたちは避難し、スウェーデンの家族のもとで暮らし始めます。戦争終結時にはフィンランドから7万人以上の子どもたちがスウェーデンにやって来きました。ドイツからは1938年から1940年のキンダートランスポートの一環として500人のユダヤ人の子どもたちがスウェーデンに送られました。
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人形はSAの制服を着ており、帽子にはナチスのバッジ、茶色のリード、茶色のハイブーツを履いています。1973年の北欧博物館ジュビリー展のために博物館のコレクションに収蔵され、「戦争と危機」のセクションで展示されています。
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1938年のスウェーデン国家社会主義党選挙ポスターには不穏な世界情勢の縮図のような雰囲気が感じられます。この時代はこのようなプロパガンダのポスターなどが必要でしたが、現代のSNSはより複雑で恐ろしい時代になったと感じます。
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ようやく我々の生きてきた時代にたどり着きました。気のせいかこのコーナーには観覧者の数が多いように思えます。やはり懐かしさを感じるようです。
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フェールラーベン FJALLRAVENのカンケンは2018年の女性世界デザイン賞グルドクナッペン・アクセソアを受賞しました。世界中で愛され続けるロングセラーリュック「Kanken」はスウェーデン語で「持ち運ぶ」という意味を持ち、リュック・手提げとして2WAYで摩耗性、耐久性、耐水性の高いビニロン素材を使用しています。幼稚園の初日から山でのハイキングまで、多くのスウェーデン人の人生を共に歩んできました。
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ポップグループABBAは1974年にユーロビジョン・ソング・コンテストで「Waterloo」で優勝し、世界的に有名になりました。これにより国際的なキャリアが始まり、1980年代初頭にグループが解散するまで続きました。中学から高校の頃によく効いたことを思い出します。中学の技術の時間にラジオを作ったことがありますが、FEN(ファー・イースト・ネットワーク)の基地局が近いエリアなのでそればかりを拾うラジオになってしまいました。現在はAFNに代わっていると最近知りました。
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若いヨーロッパ人にバックパッキングを促すため、1972年にインターレイルパスが導入されました。この年は鉄道組合の創立50周年を祝う年です。1976年には、通行証の費用は1か月間560クローナでした。インターレールのコンセプトは広まりました。
80年代後半になってユーレイルパスを買ってヨーロッパを旅したころが懐かしく思い出されます。あの時代に2カ月という単位で旅をしておいて良かったと思います。 -
この時代のディスコやクラブも楽しかったです。新宿からスタートして友人がバイトしていた関係で六本木に移り、赤坂辺りまで背伸びをして踊りに行っていました。86年にロンドンに行った際は真っ先にWAG Clubにも行きました。
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ようやく最後の2000年に到達しました。
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展示はまだまだ続き、16世紀後半のダイニングテーブル、17世紀後半の菓子を並べた宴会テーブル、スウェーデンパンチを提供するテーブル、18世紀の特別なディナーとティーパーティー用のテーブル、19世紀のアクアビットを提供する朝食テーブル、そして19世紀のアクアビット提供用のテーブルを見てみましょう。20世紀のコーヒーパーティーテーブルと進んでいきます。
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15世紀から16世紀のドイツのハッランド地方のクネレードやヘルシングランド地方のオヴァ―ノーケルで作られた緑や茶色のガラスのカップです。このような不純物の多いフォレストガラスに魅了され、レプリカですがいろいろな時代のものを集めていました。チェコのチェスキークロムロフでは専門店を見つけて狂喜したことがあります。
チェスキークロムロフ:https://4travel.jp/travelogue/11451564 -
16世紀後半のテーブルセッティングが再現されています。テーブルはシンプルですが、この時代はコース料理で料理が提供されました。裕福な人の食卓ではスープ、根菜のマッシュ、ジビエ、揚げ魚、鶏肉、パイ、ソーセージ、チーズ、果物、お菓子が音楽に合わせて一皿づつ運ばれました。
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客は各自ナイフとスプーンを持参し、指を使っても食べたようです。茹でた骨から骨髄を搾る際には特別な櫛が使われました。ビールは酒杯か轆轤で挽いた木製のゴブレットが使われました。この頃はシュナップスが社交的な飲み物として人気でしたが、スープのようにスプーンで飲みました。
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17世紀後半の祝宴が再現されています。祝宴の夕食は3品か4品で構成され、テーブルにはパイク、ローストした白鳥、鳩料理、ミートパイなどが並びます。テーブルの中央にローストされた白鳥が置かれているように羽飾りはよく使われました。
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16世紀のように男性だけのテーブルではなく、男女がテーブルを囲んで一緒に座りました。畳まれたナプキンは装飾的で、フォークは食事には必須でした。ナイフは幅の広いものを切る時にだけ使われました。
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金箔を施したマジパンケーキが並ぶデザートテーブルはパーティの締めくくりです。美しい銀の皿やボウルには食欲をそそるマジパンや砂糖漬けの花や果物やナッツ類が盛られています。
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スウェーデン東インド会社は東アジアとの貿易を目的として1731年に設立されました。大型船は絹や磁器、茶やアラックなどの高級品そして新しい飲み物であるパンチを故郷に持ち帰りました。パンチという名前は砂糖と水、茶とレモンとアラックを混ぜ合わせたものであることからインドで「5」を意味する言葉に由来しています。パンチはすぐに人気になり、男性の新しい夜の娯楽はカードゲームと煙草とパンチを飲むことでした。
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テーブル上の調和と対称性は18世紀の特徴です。料理の色もお互いに美しく調和していなければなりませんでした。この祝宴の料理はヨハン・ウィンべリの1761年の料理本に沿ってセッティングされています。料理を実際とは異なるものに見せるのはこの時代の最新の流行でした。
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午後になると高級住宅街にはティータイムのエキゾチックな香りが漂いました。紅茶には砂糖とクリームが添えられ、お湯を温めるために薬缶はバーナーの上に置かれました。お茶の発祥地である中国や東洋への関心も高まりシノワズリーと呼ばれる中国趣味の家具やインテリアが人気を博しました。
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18世紀後半になるとスナップスのテーブルは食事の一般的な始まりになり、女性も参加するようになります。サンドイッチとフルーツリキュールが並べられました。19世紀にはさらに多くの小皿料理が並べられ、古典的なスモーガスボードへと発展していきます。
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19世紀になると裕福な中産階級のテーブルはきらびやかに輝き、これから始まるパーティを予感させます。皿の横に置かれたメニューも各料理がフランス語で書かれています。
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テーブルの中央には金メッキとブロンズの台座が置かれ、フルーツやナッツの入ったクリスタルのボウルが置かれています。食器には磁器が使われ、カトラリーは銀製でした。グラスも並び、料理に合ったワインが供されました。
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ようやくグスタフ1世の近くまでやってきました。彼は1509年から1514年にウプサラ大学に学び、1518年から翌年にかけてスウェーデン独立派の貴族としてデンマーク軍と戦って捕らえられます。1520年にストックホルムでデンマーク王クリスチャン2世による「ストックホルムの血浴」が起こると脱出してダーラナに帰り1521年にこの地方の農民を率いて反乱を起こし成功しました。スウェーデンの摂政となることを宣言し、1523年にスウェーデン国会によって国王に選出されました。
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この博物館の展示が1500年代から現代までというのは彼の時代からが現代に続くスウェーデンの歴史なのだと感じます。
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約2時間で何とか博物館を1周することが出来ました。2つの博物館を見るだけで半日が終わってしまいましたが、今回思っていたことはほぼ達成できたので満足です。あとは「ガムラスタン」まで戻って、予約したレストランで食事を楽しみます。
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