2025/11/29 - 2025/11/29
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kojikojiさん
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2泊3日の富山の旅も最終日です。以前来た時も早朝に「神通川船橋跡」周辺にある鱒ずしの老舗を巡ってみました。市内交通の1日乗車券にはこれらの店で鱒ずしが1カットもらえるというチケットがありました。一番早い時間に開店する「高田屋」で購入して1カットも貰ってきました。ホテルに戻ってチェックアウトして荷物を預けて富山駅に向かい、あいの風とやま鉄道で高岡まで移動します。駅のスタンプを押そうとしたら表の切符売り場にあるというので表に出してもらいます。ついでに観光案内所にも立ち寄ってみるとこれから行こうとしている福光の資料もいただけました。さらに改札口近くには巨大な銅製のドラえもんが立っています。これが郵便ポストだと分かり、持っていた絵葉書を投函することが出来ました。高岡からはJR城端線に乗り換えて福光駅を目指します。のどかな出年風景とその向こうにそびえる立山連峰を眺めていたら藤子不二雄の安孫子素雄の「少年時代」が思い出され、スマホに入れてあった井上陽水の「少年時代」を聴きました。福光駅では駅構内にある福光タクシーのカウンターで自転車を借りることにしました。これはいただいたパンフレットに掲載されていたのを読んでのフラッシュアイディアでした。契約書のようなものに住所氏名年齢を書いていると係りのおばさんは心配になったのか「ふつうはタクシーをご利用になりますよ。」と。ここでよく考えたら妻は電動アシスト自転車は初めてで、そういう私もほとんど乗ったことはありませんでした。駅のロータリーを抜けたところで妻がいきなり転倒して先が心配になってきますが、その後は順調に福光の町を走り抜けました。目的の「福光美術館」は町を抜けたバイパス道路の登り坂の中腹にありました。ポカポカ陽気だったのでなかなか楽しいサイクリングでした。美術館の係員さんも親切で収蔵品の写真撮影も一部を除いて出来ました。ここでも自転車で来たと話すと係員の方々は「貸自転車なんてあるんですか?」とびっくりされました。帰り道は下り坂なので快調で、市内に向かうと一昨日より雪が積もった立山連峰がきれいに見えました。立ち寄った「道の駅 福光」では地元の農産品でも買おうと思っていたのですが、入り口で氷見の干物を売っているおばさんが楽しい方で、あまりにもおいしそうな魚なのでお土産に大量買いしてしまいました。そのままでも安い魚でしたが、おまけもしてもらい自転車の前かごはいっぱいになってしまいました。冷凍の魚を買ってからどうしようと思うのはいつものことです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 船 自転車 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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最終日の朝はホテルを出て富山市内を流れていた古い神通川のほとり、「神通川舟橋跡(南岸)」近くに残っている鱒寿司の店を巡ってみることにしました。ホテル近くの「青山総本店」はまだオープンしていません。
青山総本舗 グルメ・レストラン
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この寿司店巡りは前回に富山市内に宿泊した時にも行っていますが、気のせいか各店舗の開店時間が遅くなっているようです。
富山の鱒ずし店巡り:https://4travel.jp/travelogue/11906408 -
「県庁前公園」を通過すると木立から朝日が差し込んできてとてもきれいです。この地域は元々神通川が流れており、富山城の外堀の一部でもありました。明治35年の1902年に松川に付け替えられる前の旧神通川は、現在の松川よりもはるかに川幅が広かったようです。
富山県庁前公園 公園・植物園
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現在は松川の最下流になった旧神通川の名残です。
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最初に現れるのは「前留鱒寿し店」という店です。天然のサクラマスの味わいのために酢で締める時間を短くしているようです。こちらは前日までの予約しないと買えない店のようです。昨日電話しても良かったのですが、早朝に快に凝れるか分からなかったので予約しませんでした。いつか食べてみたいです。
前留 グルメ・レストラン
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「川上のますの寿し」は以前購入しましたが、午前6時半からの営業は少し遅くなったのかまだ開店していませんでした。
川上鱒寿し店 丸の内本店 グルメ・レストラン
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「鱒の寿しせきの屋」は以前購入して食べたことがありますが、ここもまだ開店していません。
元祖 せきの屋 グルメ・レストラン
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唯一開店していたのが「鱒の寿し本舗高田屋」です。
高田屋 グルメ・レストラン
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こちらで友人に頼まれた分も含めて3つ買い求めました。今回のツアーに含まれていた「ぐるっとグルメぐりクーポン」という市電の1日乗車券には寿司のクーポンが付いているのですが、こちらで交換してもらうと僅か1/8カットのものが1人1カットづつもらえました。
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江戸期までは富山城の防衛上の理由からこの松川には橋が架けられず、小舟を連結した船橋(ふなはし)が繋がれていました。船橋は幅が狭く落下して溺死する人が多く、明治15年の1882年になって長さ228メートルの木橋が架けられました。
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明治36年の1903年には神通川の本流は現在の位置になり、この地帯は廃川地と呼ばれ、昭和10年の1910年までに埋め立てられました。現在は橋のたもとにあった常夜灯に往時を偲ぶことがことができます。
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買い物を終えてホテルへ戻る時間になると「青山総本店」も開店していました。
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部屋に戻って昨晩買ったコンビニのサンドイッチやおにぎりを食べ、荷物を預けてチェックアウトしました。
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駅前で写真を撮っていると地元の方が声をかけていただきシャッターを押していただけました。
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なかなか2人の写真を撮る機会が少ないので貴重な1枚になりました。今回の旅ではこれ1枚だけです。
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駅構内で福光までのキップを購入します。高岡までは「あいの風とやま鉄道線」で、その先は「城端線」乗り換えて福光で下車します。
富山駅 駅
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この鉄道の移動はかなり時間がかかり、片道2時間近くかかります。調べてみると金沢から直通バスが出ているようです。
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午前9時5分の列車に乗って高岡を目指します。
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神通川を越えて20分ほどで高岡に着きます。
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「城端線」のホームに向かうと列車が停車していたので検札していた係員さんに乗れるかどうかを尋ねると「切符が無いと乗れないですよ。」「早く福光に行きたいので、乗る方法はないですか?」と尋ねても「切符が無いと乗れないですよ。」の一点張りで声からも不愉快そうな感じです。予約していた男性が特急券を見せても「乗車券!」と高圧な応対です。今まで日本以外にも各国で鉄道やバスに乗る機会はあり、どこでも親切に対応され嫌な思いはしたことがありませんでした。
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まさか日本の鉄道で不愉快な思いをさせられるとは思いませんでした。普通列車の発車までは時間があると分かったので持っていた絵葉書の投函に改札を出させてもらいました。構内には高岡銅器で造られたのであろうどらえもんのポストがありました。このポストに投函するとドラえもんの消印が押されます。
まちなかアート 高岡の銅像・彫刻 美術館・博物館
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高岡駅からは城端駅行きの各駅停車の列車に乗り込みました。グーグルなどではさきの特急列車「ベル・モンターニュ・エ・メール」が表示されたので嫌な思いをする羽目になりました。
高岡駅 駅
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冬場はこの辺りも積雪があるのだろうと思います。これからの出番に備えて投排雪保守用車 (ENR-1000) 赤色の1号機というラッセル車がスタンバイしていました。
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借り入れを終えた田圃の向こうには立山連峰の山並みが見えています。
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高岡駅の観光案内所ではこんなパンフレットもいただけました。見どころはたくさんあるようで3時間ほどの滞在では予定通り「福光美術館」と棟方志功記念館「愛染苑」「鯉雨画斎」にしか行けなさそうです。
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午前11時2分に福光駅に到着しました。
福光駅 駅
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キップは運転手さんに渡すので駅に改札はありませんでした。古き良き昔の国鉄を感じさせるローカル路線の旅でした。「Discover Japan」のスタンプを集めていた小学生の頃を思い出します。
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福光駅では駅構内にある福光タクシーのカウンターで手続きをしてアシスト付きのレンタサイクルをお借りしました。誓約書をそれぞれ書き込みましたが、妻の年齢を見た女性は「タクシーで皆さんまわられますよ。」とアドバイスされました。
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アシスト付き自転車に初めて乗る妻はいきなり駅前のロータリーで転倒したのでちょっと無理だったかなと思いました。駅からの一本道を小矢部川を越えて進みます。
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自転車にもだいぶ慣れてきたようで、スイスイと進み始めたので一安心です。
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Y字路を左に進んでしまい、途中から秘儀に曲がって進路修正をしましたが、田んぼの中を進むのは気持ち良かったです。11月下旬というのにまだ稲穂を持った稲が残っていました。刈り入れを遅らせる何か理由があるのでしょうか。
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こんな風景がまだ日本に残っているんだなと思いつつも、柿を狙ってクマなど出てこないか心配な気分になります。
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甲板はかなりの上り坂でしたがアシストが威力を発揮して難なく登ることが出来ました。
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この美術館では板画家の棟方志功や旧福光町出身の日本画家である石崎光瑤の作品が常設展示されています。
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棟方志功は戦時中に福光に疎開し、約6年8か月間この地で創作活動を行いました。石崎光瑤は旧福光町出身の日本画家で、京都画壇の竹内栖鳳に師事しました。絢爛な花鳥画で知られ、石崎光瑤の作品450点の寄贈を契機に1994年10月に開館しました。
南砺市立福光美術館 美術館・博物館
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棟方志功がこの福光に戦争疎開したのは南砺市の法林寺の住職の高坂貫昭との交流からたびたび富山を訪れたことがきっかけだったようです。戦後になって昭和21年の1946年に有志の援助を受けて福光町内に家を新築し、昭和26年まで暮らしています。
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棟方志功は伝統的な「版画」とは一線を画す表現を追求し、1942年頃からは自身の木版画を「板画」と称するようになりました。この言葉には板が持っている性質を最大限に生かし、木の魂を直接的に表現するという彼の強い思いが込められています。彼は板の声を聴き、木目の美しさや墨の濃淡を活かすことで、日本ならではの伝統美と自然の魅力を作品に表現しました。一般的な「版画」が「木を半分に使う」という意味合いであるのに対し、「板画」は「板全体が持つ意味」を重要視しています。
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棟方志功の「裏彩色」は「板画」作品を特徴づける重要な技法です。板画の裏側から直接筆で色を塗ることで独特の鮮やかさや深みを表現しました。志功は白い紙に黒一色で刷り上げた板画の裏側から筆を使って紙に直接色を染み込ませる方法で彩色しました。この技法は板画のモノクロームの厳格さに温かみのある情味を加える効果があります。日本古来の彩色板画が多色刷りである浮世絵とは異なり、裏彩色によって白黒の板画を鮮やかに彩ちました。裏彩色を導入したのは民藝運動の指導者である柳宗悦の助言があったとされています。
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棟方志功の作品に多く見られる「柵(さく)」という言葉は、四国巡礼者が寺に納める「回礼(えま)」を意味しています。これは、一つ一つの作品に願いを込めて人生の道標として残していくという志功の想いが込められています。
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棟方志功の作品は一番奥の常設展示室に展示され、土曜日だというのに訪れる人の姿もありません。棟方志功の板画は子供の頃から実家の玄関に飾ってあり、両親が亡くなって家を取り壊す際に早くに家を出た弟が急に欲しいと言い出し、半ば強引に持ち帰ってしまいました。
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そんなこともあってか小さい作品で良いので探してほしいと池袋西武の外商の担当にお願いしていました。春先の「椿山荘」の店外催事で「近所なのでお茶でも飲みにいかがですか。」と誘われるままに出向くと美術の担当の方が「今回展示はしていないのですがいくつかご用意しました。」と囁かれます。その中の2点が気に入ってしまい、どちらにするか選べないで両方購入してしまいました。そのためにこの旅でここへ来たかったのです。
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1枚は「板画」の富士山で、1枚は「倭絵」の愛染明王です。富士山は志功が東海道を描いたシリーズのうちの1枚で、原から見た富士山の絵がシンプルな構図で描かれています。原は妻の生まれた地に近いということと、原にある松蔭寺の住職が祖父の友人でもあり、母方の家族会で修善寺へ行った帰りに立ち寄りました。白隠禅師が住職を務めたことで有名な寺ですが、この後に三島で祖父と別れたのが最後となったので2つの想いが重なりました。
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愛染明王は一面六臂で他の明王と同じく忿怒相で描かれています。頭には獅子の冠をかぶり、宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという特徴ある姿をしています。愛染明王信仰は「恋愛・縁結び・家庭円満」などをつかさどる仏として古くから行われているので玄関に飾っていますが、これ以降旅先で知り合う方も多く、縁結びのご利益があったかもしれません。
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「不来方板画柵」棟方志功
不来方板画柵(こずかたはんがさく)は宮沢賢治の「雨二モマケズ」を描いています。 -
宮沢賢治と棟方志功には直接の交流はありませんが、雑誌「児童文学」に賢治の「グスコーブドリの伝記」が掲載されたときにその挿絵を描いたのが志功でした。
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冬至のことを志功はほとんど覚えておらず、、後年になってその挿絵を改めて見て「よくも悪くも自分にこんな絵が描けたものだ」と驚いたそうです。志功はその後も賢治の作品をいくつか創作しています。一時宮沢賢治と柳田国男に傾注し、遠野と花巻を訪ねた旅を思い出します。
宮沢賢治記念館:https://4travel.jp/travelogue/11791714
宮沢賢治童話村:https://4travel.jp/travelogue/11791719 -
「青衣妃図(せいえひず)」棟方志功
「黄衣妃図」と一対の大きな軸です。南砺市の一般会計を見ると平成29年の2017年に一般会計から1,470万円をで買い取ったとありました。他にも平成16年に21点を1,050万円でいっかつでかいとっていますのでせんけんのめいのある自治体だと感心しました。 -
「黄衣妃図(おうえひず」棟方志功
「板画」の大首絵は一桁違った金額になってしまいますが、「倭絵」と呼ばれる志功の肉筆画は板画よりは低い値段設定なのに驚きました。何枚も摺れるものより1点物の方が価値があるように思えるのですが。 -
「福光法林寺径道絵巻々図・上巻」棟方志功
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福光の光徳寺には棟方の描いた「華厳松」という襖絵があります。今回は時間が無くて尋ねることは出来なかったのが残念です。棟方はある時に光徳寺裏にある躑躅(つつじ)の咲き乱れる山から強いインスピレーションをうけ、3日がかりですった墨を細い筆3、4本を束ねたものに含ませ、互い違いにして雫を落としながら、集まってきた大勢の観衆と近所の門信徒たちが見守るなか、6枚の襖に一気に荘厳な巨松を描きました。
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躑躅にちなんで名づけられた「躅飛飛沫隈暈描法(ちょくひひまつわいうんびょうほう)」で描かれた「華厳松」は、今も土蔵の展示室で観ることができるそうです。
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その「躅飛飛沫隈暈描法」を気に入った志功は福光を「躅飛飛沫隈暈描法發祥之處」として、「偉くなったら福光駅前にこの碑を建てたい」と語っていたそうです。
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その願いが叶って谷崎潤一郎の題字による「棟方志功躅飛飛沫隈暈描法發祥之處」と刻まれた石碑が駅前のロータリーに建てられています。
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「躅飛飛沫隈暈描法」で描かれた町の情景の中には煙を吐く蒸気機関車の姿もありました。
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「諷鯉図」棟方志功
志功は福光の自らの住居を「鯉雨画斎」と名付けており、立身出世の象徴である鯉に思い入れがあったようです。閉館の前年の夏に行くことが出来た青森の「棟方志功記念館」でも何点かの鯉の図を見たことを思い出します。その翌年の夏には収蔵品は「青森県立美術館」に移されていましたが、やはり前の記念館の方が趣きがありました。
棟方志功記念館:https://4travel.jp/travelogue/11852760 -
「立山と医王山と法林寺村之図」棟方志功
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夏の立山連峰と福光の風景を描いた扇面が軸装されています。季節は違いますが、この風景の中を自転車で走ってきたのだと思うと感慨深いものがあります。
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「鐘渓頌(しょうけいしょう)」
志功が戦後最初に手掛けた大作である「鐘溪頌」は「此岸」に始まって「彼岸」で終わる全24柵から成り、まっ白な身体のものとまっ黒な身体のものを交互に配置して、どこまでもつらなるような市松模様のようにつくられています。 -
「鐘渓頌 竜胆の柵」
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「鐘渓頌 祭巴の柵」
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「鐘渓頌 風聞の柵」
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「栖霞品(せいかぼん)」棟方志功
栖霞品(せいかぼん)は志功と俳人の前田普羅が共同で制作した俳句板画集のことです。 -
志功は福光に疎開していた際に前田普羅と交流を深めました。普羅の俳句に感銘を受けた志功は彼の俳句を題材にして板画句集「栖霞品」を昭和23年の1948年に発表しました。
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前田普羅は高浜虚子に師事し、「辛夷(こぶし)」を主宰した俳人です。彼の俳句は各地域の自然や人々の暮らしを「地貌」という観点から捉えたもので、特に山岳俳句に優れた作品が多いとされています。
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「胸形変板画巻」棟方志功
志功が俳人の石田波郷の句集「胸形変」を元に制作した木版画集「胸形変板画巻」の一部です。 -
石田波郷の「胸形変」は結核という病と闘い、胸の形が変わるほどの手術を経験した石田波郷がその壮絶な体験を詠んだ句集です。
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波郷は清瀬(東京都清瀬市)の療養所で過ごし、そこで多くの句を詠みました。「胸形変」に収められた句は自身の生き死にを真正面から見つめ、その苦痛や葛藤を鮮烈に表現しています。
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自宅のあった西武池袋線沿線にこのような俳人がいたということを初めて知りました。まだまだ学ぶことはたくさんあり、残りの人生では学びきれないなと感じます。
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「流離抄板画柵 樊噲の柵(はんかいのさく)」棟方志功
歌人の吉井勇の歌集「流離抄」を題材にした作品です。吉井勇は昭和20年2月に戦火を避けて富山県八尾町に疎開しました。その時に詠んだ歌が収められ、吉井勇は「流離抄」から24首、棟方を歌ったものなど旧作を10首選び、このうちから棟方が和歌の三十一文字にちなんで31首を選んで板画にしました。 -
「流離抄板画柵 広鰭の柵(ひろはだのさく)」棟方志功
吉井勇の歌は同じころに福光に疎開していた棟方の心とふれあうものがあったらしく、棟方はこれらの歌を大声でうたいながら板を彫ったといいます。 -
「流離抄板画柵 伴天連の柵(ばてれんのさく)」棟方志功
「白秋とともに泊りし 天草の大江の宿は 伴天連の宿」
柳川出身の北原白秋と共に天草を旅した時の歌の横にはそれぞれのイニシャルのI・HとH・Kが読み取れます。妻と旅した天草では大江には寄りませんでしたが、近くの津崎へは行くことが出来ました。また、2週間前にはMSCベリッシマで大江の沖合いを通過したことを思い出します。
津崎教会:https://4travel.jp/travelogue/11822522 -
一番奥には「二菩薩釈迦十大弟子」の六双二曲の屏風が展示してあります。この作品は1956年のヴェネツィア・ビエンナーレで絶賛され、志功が日本人初の国際版画大賞を受賞するきっかけとなりました。この受賞により志功は「世界の棟方」と呼ばれるようになりました。
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「文殊菩薩の柵」
昭和14年当時に仏教に関心を深めていた棟方が、東京上野の国立博物館で展示されていた奈良興福寺の須菩提の乾漆像を見て構想を得た作品です。棟方とともに十大弟子の板木は東京から富山県福光に疎開しましたが、送り遅れた普賢と文殊菩薩の2面の板木は5月の東京空襲で灰燼に帰してしまいます。その後の福光滞在中の昭和23年の1948年に二菩薩図を改めて彫りなおしました。
「阿那律(あなりつ)の柵/天眼第一」
釈迦が故郷カピラ城に帰り、難陀(アーナンダ)、羅睺羅(ラーフラ)がまず仏弟子となり、阿那律は兄の摩訶男と相談して彼が出家することになったといいます。祇園精舎での釈迦の説法中に眠ってしまい釈迦より叱責されると、不眠不休の誓いをたて常坐不臥の修行をしました。これには釈迦仏も心配され、眠ってもよいと諭されましたが、彼はその誓いを全うしついに失明してしまいます。しかしその失明により天眼を得たといわれます。 -
「阿難陀(あなんだ)の柵/多聞第一」
阿難陀は美男子ゆえに女難を被ることが度々あったと言われますが、志操堅固にして身を護り修行を全うしました。また智慧多くして諸経を持誦していたが、心を摂する点に欠け、定と慧が均等でなく、漏尽通を起くことができず、仏の入滅時には未だ有学の人で阿羅漢果を得ていなかったと言われます。出家後は釈迦が入滅するまで25年間常に近侍し、身の回りの世話も行っていました。そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞き、よく記憶していたので多聞第一といわれます。
「迦旃延(かせんねん)の柵/論議第一」
子供の頃より聡明で、一度聞いた内容は忘れず良く理解したと言われます。それでも難解で理解できないことがあり、釈迦に教えを請うことになり、これがきっかけで弟子となったとされます。 -
「富楼那(ふるな)の柵/説法第一」
釈迦と生年月が同じで、幼くして既に聡明で、バラモンの四ヴェーダ(聖典)と五明(声・因・医・工・内)に通じていましたが、世塵を厭うて雪山(ヒマラヤ)に入山学道し、苦行を重ねて四禅定と五神通を得ました。釈迦の成道を聞き、波羅奈(ヴァーラーナシー)国の鹿野苑へ同朋と赴き仏弟子となります。
「羅睺羅(らごら)の柵/蜜行第一」
羅候羅は釈迦の実子で、釈迦の妻である耶輸陀羅妃が釈迦の出家前に妊娠した子で、釈迦が出家して5年後に生まれたとされます。密行第一と称され十六羅漢の1人でもあります。 -
「優婆離(うばり)の柵/持律第一」
元は理髪師であり、直弟子の中でも戒律に最も精通していたことから持律第一と称せられ、釈迦入滅後の第一結集では戒律編纂事業の中心を担います。アヌピヤー村にいた釈迦のもとで、諸王の王子たちを差し置いて仏弟子となります。釈迦より儀礼に従い先に出家した者を敬い礼拝するように命じられると、王子たちは使用人であったシュードラ出身の優波離にも礼拝しました。これを見て釈迦は「釈迦族の高慢な心をよくぞ打ち破った」と讃嘆します。
「舎利弗(しゃりほつ)の柵/知恵第一」
釈迦の弟子となった舎利弗はすぐに最高の悟りを得て教団の上首となります。釈迦からの信任も厚く、時には釈迦に代わって説法を委ねられることもあり、釈迦の実子である羅睺羅の師僧も任されていました。舎利弗と目連の二大弟子は釈迦よりも年長ではあったものの教団の後継者になるであろう人物として注目されていました。しかし最有力とされた目連が撲殺されてしまい、相次いで舎利弗もまた晩年に重い病に罹ると釈迦の許しを得て帰郷し、母に看取られながら病没してしまいます。 -
「魔訶迦葉(まかかしょう)の柵/頭陀第一」
仏教教団における釈迦の後継である仏教第二祖とされ、釈迦の入滅後に初めての経典の編纂事業の結集の座長を務めました。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれずに清貧の修行を行いました。
「須菩提(すぼだい)の柵/解空第一」
須菩提はもとは粗暴で短気な性格だったともいわれますが、後に外道から非難や中傷や迫害を受けても決して言い争うことなく円満柔和を心がけたといわれ、このため弟子中で無諍第一といわれます。また多くの人々から尊敬せられ限りなく供養を受けたので被供養第一とも空の思想を良く理解した人物として解空第一とも称されます。 -
「目鍵連(もっけんれん)の柵/神通第一」
目鍵連はある日、先に亡くなった実母である青提女が天上界に生まれ変わっているかを確認すべく、母の居場所を天眼で観察します。母親は天上界どころか餓鬼界に堕し地獄のような逆さ吊りの責め苦に遭っていました。驚いて供物を捧げたところ供物は炎を上げて燃え尽きてしまい、困り果てた彼は釈迦に相談します。釈迦は亡者救済の秘法を伝授し、目鍵連は教えに従って法を施すと母親は地獄から浮かび上がり、歓喜の舞を踊りながら昇天しました。この盂蘭盆の逸話により、目鍵連が日本におけるお盆及び盆踊りなどの行事の創始者とされます。
「普賢菩薩の柵」
文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることから十大弟子を護るようにこの菩薩が選ばれたのでしょうか。改めて十大弟子の由来を考えると描かれた人物像と合致することが多く、本当にこれを下絵なしに一気に彫れたのだろうかと思います。 -
「柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)」は志功が昭和26年の1951年11月から荻窪駅近くにアトリエを構え、多くの作品を杉並区から世界へ送り出した頃の作品です。
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「柳緑花紅頌 葦連の柵」棟方志功
1956年のヴェネツィア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、この受賞は棟方志功が世界的な板画家として知られるきっかけとなりました。 -
「柳緑花紅頌 萩菊の柵」棟方志功
四季折々の様子を表現した全12枚の版画から構成されています。また志功の作品が欲しくなってきました。 -
「華狩頌(はなかりしょう)」棟方志功
「棟方志功ヨロコビノウタ」の中の1954年に製板された作品は、鳥や獣がいる花咲く森の中で武器を持たず馬に乗って狩猟をする古代人が描かれています。これはアイヌ民族が祭りの際にきれいな花矢を天の四方に向かって放つ儀式に想を得ています。 -
棟方は自己中心的だった若かりし頃に柳宗悦から意識された自己を消すことを教えられました。試行錯誤しながら研鑽するなかで広大な仏の世界に目覚めたときからその芸術は大きく変貌したといわれます。
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花を狩るこころおもいで版画しました。
けものを狩るには、弓とか鉄砲とかを使うけれども、
花だと、心で花を狩る。 -
きれいな心の世界で美を射止めること、
人間でも何でも同じでしょうが、心を射とめる仕事、
そういうものを、いいなあと思い、
弓を持たせない、鉄砲を持たせない、
心で花を狩るという構図で仕事をしたのです…… -
馬上の3人の人物は狩のポーズをしています。でも、弓矢や鉄砲はもってないません。それは獣を狩るのではなく花を狩るからです。心で花を狩り、美を射止める。弓矢をもつ手つきだけをし、空を狩るもの、地を狩るもの、地下を狩るものを表しています。
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「歓喜頌(かんぎしょう)」棟方志功
これは闇の中からあらゆるものが生まれてくる様子を描いたもので、見る人に力強い創生の感動を与えます。志功はこの現象を「他力による出来栄え」や「ヨロコビモ、オドロキモ、カナシミモ、湧イテ来ルヨウニ、板画ガ湧イテ来マス」と表現しています。 -
石崎光瑤(いしざき こうよう)についてはここに来るまで全く知らない作家でした。素封家の石崎和善の五男として生まれ、12歳頃に東京から金沢に移り住んだ琳派の絵師の山本光一に師事し、19歳で京都の竹内栖鳳の門に入っています。
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大正5年の1916年から翌年にかけてインドを旅行し、ヒマラヤ山脈登った後にアジャンター石窟群やエローラ石窟群などの古蹟を巡っています。帰国後に第12回文展に出品した「熱国妍春」と翌年第1回帝展の「燦雨(さんう)」が特選となり無監査となり、大正11の1922年11月から翌年にかけてにはヨーロッパに外遊しています。才能もあったのだと思いますが、江戸時代から蔵宿業を営み、町役人も務めた豪商の家の生まれだったことも幸いしたようです。
道の駅 福光 道の駅
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「霜月」石崎光瑤
菊の三本仕立ては盆養とも言い、大菊の最も基本的な仕立て方です。1本の苗を摘芯して3本の枝を伸ばして育てます。うしろの1輪を花の2/3位高く、前の2輪は同じ高さに揃えて3つの花を同時に同じ大きさに揃えて出来るだけ巨大輪に咲かせ、茎・葉を含めた全体が調和を保つように育てます。 -
ちょうど霜月である11月の終わりに福光で美しい菊の花を見ることが出来ました。母方の祖母や伯母と枚方へ菊人形を観に行ったことを思い出します。
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「豊穣」石崎光瑤
白いキジを画面上半分に大きく捉え、下方には黄色の穂を垂らしたアワを描いています。この白いキジも豊穣を象徴する吉祥的なモチーフとして描かれたようです。 -
「罌粟(けし)」石崎光瑤
2025年は石崎光瑤の生誕140年記念で作品の多くが静岡や京都や東京へ巡回展で貸し出されていたようです。それらの戻った11月の訪問で良かったと思います。 -
「寂光」石崎光瑤
石崎光瑤が45歳のときに描いた円熟期の作品で、第10回帝展に審査員出品したものです。切箔と砂子を散らした画面に7羽の孔雀と樹木、月が巧みに構成されています。孔雀の羽根の茶と緑の対比に深い調和がみられます。 -
「雪」石崎光瑤
第2回帝展に無鑑査出品された作品で、大正8年から9年に描いた「熱国妍春」と「燦雨」はインドの情景を描いたものでしたが、一転して日本の雪風景を描きました。 -
左隻と右隻の金銀の鮮やかな対比、1つの画面に俯瞰と水平など複数の視点が融合するなど、創意の跡をうかがうことができます。当時から傾倒し研究を重ねていた伊藤若冲の影響が色濃く見られる作品です。
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「燦雨(さんう)」石崎光瑤
インドの熱帯風景を描いたこの作品は石崎光瑤が35歳のときに描いた代表作の1つです。大正5年から6年にかけてのインド取材旅行の成果ともいえる作品で、第1回帝展で特選を受賞し、花鳥画家としての地位を築きました。この作品は海外流出寸前に多くの関係者の尽力で奇跡的に日本に留め置かれました。 -
「奔湍(ほんたん)」石崎光瑤
ごうごうと流れゆく早瀬を描いています。光瑤が撮影した写真のなかに逆巻く水と流木のモチーフがあり、この作品はその写真を元にして描かれたものだそうです。 -
ミュージアムショップで棟方志功の福光美術館の冊子とクリアファイルを買い求め、係員の女性と少しお話しをしました。駅の貸自転車で来たというと驚かれ、貸自転車の存在すらご存じないようでした。
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やはりこの美術館に来るのはタクシーか自家用車かレンタカーなのだそうです。「お気をつけて。」と見送られて次の目的地である棟方志功記念館「愛染苑」「鯉雨画斎」に向けて坂道を下ります。
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車で来るのは簡単ですが、この美しい風景の中を自転車で走るのも気持ち良いものでした。もっともその前提はこの快晴の秋晴れの空だったと思います。昨日の曇天だったら自転車は考えなかったかもしれません。
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この時の妻は電動アシストのスイッチを入れていなかったようで、登る時よりも力が必要だったと後述していました。
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坂道を下った辺りからは左手に雪を被った立山連峰の山並みが美しく見えてきました。
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一昨日の夕方に岩瀬町の「富山港展望台」から夕日に染まる山並みを見た際はもう少し雪が少なかったように思います。昨日の曇天時に山間部は雪が降ったのでしょう。
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妻は先に「道の駅 福光」まで行ってしまいましたが、あまりの美しさにしばらく写真を撮り続けました。
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「道の駅 福光」で何かお土産と思いましたが、入り口に平台を置いて干物を売っていたおばさんから大量に干物を買ってしまいました。大きな鯖が3枚で1,000円とか3,000円も買ったら自転車の前かごが一杯になってしまいました。この氷見の干物が美味しくて、年明けに出もネットで注文しようと思いました。
道の駅 福光 道の駅
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