2024/02/29 - 2024/02/29
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kojikojiさん
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ツアー3日目は「アパホテル富山駅前」からスタートします。朝ご飯を食べた後は出発の時間まで富山駅の南側を散策しました。散策というよりは元々の神通川の河畔だったところに集中している鱒ずしの店を周るのが目的です。東京で富山の鱒ずしというと「ますのすし本舗源」くらいしか知られていませんが、市内には20軒ほどの店があります。このうち早朝から営業していて近い店をピックアップしていました。都合が良いのは保冷材などで冷やすとおいしくなくなるので、2月下旬であればそのまま常温で東京に持ち帰れるということです。ということで「鱒乃寿し青山総本舗」「川上鱒寿し店」「せきの屋」「高田屋」の4点に的を絞ります。その4店で友人たちの食べ比べ分も含めて8つ買い求めました。帰宅して食べ比べてみましたが、その違いに驚きました。汗だくでホテルに戻り、大急ぎでシャワーを浴びなおして、着替えて最終日のツアーに出発します。この日はまず「五箇山」に向かいますが、ここへ行くのは初めてのことでした。白川は有名で何度か行ったことがありますが、素朴な2つの集落を散策することが出来ました。その中でも「塩硝の館」は話しで聞いたことがあった塩硝の製造方法や道具を見ることが出来て勉強になります。当初の予定では「氷見漁港」で昼食を食べるはずでしたが、能登自身の被災地区に含まれることから「道の駅 万葉の里 高岡」での自由昼食になりました。事前に調べて富山ブラックラーメンが美味しいとあったので、昨晩も無理して町中でラーメンを食べには出掛けませんでした。最後に「雨晴海岸」に立ち寄りました。午前中はとても天気が良かったので、先に「雨晴海岸」に行けばと思いましたが、添乗員さんにはそれほど力は無さそうでした。思った通り午後は少し雲が出て美しい姿ではありませんでしたが、何とか立山連峰の姿を見ることは出来ました。富山駅へ向かう途中で予定外の「越中反魂丹」の店に寄ることになり、これは嬉しい誤算でした。さらに丸薬の丸め方の実演を見せてもらい、自分でも体験することが出来ました。ついつい「鼻くそ丸めて万金丹」なんて子供の頃に覚えた歌が浮かんできます。富山駅でもフリータイムがあり、新幹線の出発まで夕食を買ったり、お土産を買ったりすることも出来ました。新幹線の中では美味しい寿司をつまみに檸檬堂で反省会を開きいい気分で大宮まで戻ります。池袋で友人の車に拾ってもらい、お土産の鱒ずしを配りながら帰宅しました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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ツアー3日目は富山駅前の「アパホテル富山駅前」からスタートします。
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「京都銀ゆば」というレストランが1階に入っていて、ここで朝食をいただきます。
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開店と同時の午前6時30分に店に入りました。この日は午前9時の出発なので急ぐ必要はないのですが、この後散歩に出かける予定です。
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「アパホテル富山駅前はこんな形のホテルでした。午前7時にホテルを出て富山駅の南側に向かいます。
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富山駅の南側には早朝から回転している鱒ずしの店があるので、その何店舗かを周ってみます。
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駅前には「富山のくすりやさん」の像がありました。一組は風呂敷で包んだ柳行李(ごうり)を背負い、道を急ぐ姿のようです。もう一組は訪問先で懸場帳を開き、そばに紙風船を大切そうに持つ子供の姿のようです。明治から戦後の時期の懐かしい「売薬さん」の姿を伝えています。子供の頃はこんな行李を背負った富山の薬売りの方が家にも来ていました。
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「行商員心得十則」というものがあり、
1)戊申詔書(ぼしんしょうしょ)の聖旨を奉體(ほうたい)し忠實(ちゅうじつ)、業に服し國恩報謝(こくおんほうしゃ)を心懸けよ。
2) 自己の亨くる幸福は得意家の賜(たまもの)と心得て常に之を感謝せよ。
3) 得意家は一時に非す永久の顧客なれば尊重して親切を尽くせ
4) 懸場帳等の記載は明瞭に、計算は正確にし過誤なきを期せよ。
5) 仕事は豫(あらかじめ)準備し其日其日之を完了し翌日に延ばすな。
《四つの柱》
(1) 感謝報恩
(2) 先用後利
(3) 心説薬救(しんせつやっきゅう)真心をもって説き、良薬で苦しみを救う。
(4) 士魂商才(士の魂をもって商才を発揮する)
「先用後利」とは置き薬を使ってもらって、後から使った分の代金を貰って利を得るということです。 -
すずかけ通りを南に向かって歩くと「鱒乃寿し青山総本舗」が見えてきました。午前7時過ぎではまだ開店していないので先を急ぎます。
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富山軌道線には開業以来すべて自社発注の車両だけを導入しており、他の多くの路面電車でみられるような路線廃止などで他社から譲り受けた車両は走っていないようです。通りの先に雪を冠した立山の山並みが見えます。
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富山駅方面から7000形の地鉄色 (7017)が走ってきます。
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富山地方鉄道7000形電車は東京都電8000形をモデルとしており、日本車輌製造で1957年から1965年にかけて22両製造されています。
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初めて見たのに懐かしく感じたのは子供の頃に乗り慣れた都電のシルエットだったからのようです。昭和40年代に撮った都電荒川線の写真が大量に出てきたのでいつか4トラにアップしたいと思っているのですが。
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安住橋を渡ったところから松川沿いに歩きます。この辺りは桜並木のようなので、もう少ししたらきれいな花が咲くのでしょう。河畔には「ヒマラヤの少女」という像が置かれてありました。この川沿いにはたくさんの彫刻作品が置かれているようです。
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まずは「川上のますの寿し」に入ります。この店は午前6時30分から開いているそうです。
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この状態で店先に並べられていて、買い求めると包装紙を乗せて紐を掛けてくれました。常温保存なので冷蔵庫に入れないようにと持ち運びのアドバイスをしてくださいます。保冷バックと保冷剤を持ってきていましたが不要になりました。
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次は「鱒の寿しせきの屋」です。それぞれの店で2折りづつ買い求め、地元の友人と食べ比べします。
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次は予定になかった「鱒の寿し本舗高田屋」に入ってみます。なんでこの辺りに鱒ずしの店が集中しているのかが気になってきます。
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黄土色が1段でブルーが2段です。もちろん食べ比べで漁があるので1段のものを買い求めます。
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お店のご主人にお話を伺うと現在の松川は元々の神通川だったということです。かつての神通川は富山の街の中を東に大きく蛇行し、河口が現在より西側に位置していました。戦国時代には神通川のすぐ脇に富山城が築城され天然の堀として利用され、この際に佐々成政によって洪水による流路変更を利用して富山城の北側に流れるよう流路を付け替えます。
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しかし蛇行部分でたびたび水害が発生していたため、明治時代蛇行部分を短絡する分流路を造ります。それ以前の神通川は川幅100メートルほどあったそうで、富山城の防御上橋を架けられないので、船を並べて橋としたそうです。その河岸がこの辺りだったので鱒ずしの店が集中しているそうです。
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現在はこんな松川の流れが神通川だったということは初めて知りました。
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古い常夜燈が往時をしのばせます。今まで富山の鱒ずしというと1種類しか知りませんでしたが、奥が深いこと学びました。
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詳しくは富山市の建てた看板を読んで納得しました。
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松川沿いにも「鱒の早寿し」という店がありました。ここはまだ開店していませんでした。
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最後に「鱒乃寿し青山総本舗」に寄って鱒ずしの買い物は終わりです。急いでホテルに戻ります。
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アパホテルの駅と反対側の景色はこんな感じでした。清掃のスタッフの方に非常階段から写真を撮らせてもらいました。汗びっしょりになってしまったので、シャワーを浴びなおして着替えて出発します。
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午前9時に富山駅を出て「五箇山」に向かいます。「富山県民会館」の近くを走っていて、昔「富山西武」がこの近くにあったことを思い出しました。
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富山城址内に天守閣風のコンクリート3階建ての建物の「佐藤記念美術館」が見えてきました。
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「富山市郷土博物館」の模擬天守も見えました。加賀前田家の分家であった越中前田家の居城で、神通川(現在の松川)の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名で難攻と言われました。当時の神通川が富山城の辺りで東に大きく蛇行していたことがこれで分かりました。
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富山市内を南に抜けたバスは富山ICから北陸自動車道に乗って「五箇山」に向かいます。
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砺波ICで自動車道を降りた後はのどかな田園風景の中をバスは走ります。
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庄川に沿って山道を登り到着したのは「菅沼集落」です。駐車場でバスを降りて1時間ちょっとのフリータイムになりました。
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これまで「白川郷」の合掌造りを見たことは何度かありましたが、「五箇山」へ来るのは初めてのことです。さすがにここまで来ると多少の雪が残っていて雰囲気があります。
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合掌造り家屋9棟をはじめ、土蔵や板倉などの伝統的な建物や雪持林や茅場などの山林をも含めた地域が史跡に指定されているため、観光地化されていないのが魅力です。
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添乗員さんから集落内には江戸時代の主産業を伝える「塩硝の館」や「五箇山民俗館」があり、五箇山の歴史と伝統を学ぶこともできますと案内がありました。
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「五箇山」は富山県の南西端に位置する自然豊かな地域で、庄川沿いに40の集落が点在しているということはここへ来て初めて知りました。その中で「相倉(あいのくら)」と「菅沼(すがぬま)」の2つの集落には合掌造り家屋をはじめ伝統的な建物が数多く残り、今回はその「菅沼集落」を見学します。
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集落の中には水が引かれて長い池がありましたが、魚が飼われているのでしょうか。樋から落ちる水の音に心洗われます。
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合掌造りの家には雪で家が傷まないように筵が掛けられています。雪かき用の道具もきれいに並べられていますが、そろそろ必要なくなるのでしょうか。舟の櫂のような道具が気になります。
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添乗員さんにいただいた地図を頼りに集落を歩きますが、見学するところは2カ所しかないので全員が集中することになります。それでも他に観光客がいなかったので混雑することはありません。
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まずは「五箇山民俗館」を見学します。
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入口で靴を脱いでスリッパで館の中を歩きます。板の間には大きな囲炉裏が切られ、囲炉裏より大きな「火棚」が吊り下げられています。3年前に生田緑地の「日本民家園」で学んだことが記憶に蘇ってきます。その後も北海道の鰊御殿で同じようなものを見ました。
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古い農機具は父の生まれ育った家の蔵の中に残されていたので懐かしさも感じます。「唐箕(とうみ)」は臼などで籾殻をはずしたあと、風力を起こして穀物を籾殻と玄米と塵などに選別するための農具です。
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「泥臼(どろうす)」は籾殻[モミガラ]を取り除くために使われた道具で、竹を編んで円形の囲いをつくり、それに粘土に塩を混ぜて詰め竹や木で臼の目を成形します。目のパターンは8分画で回転方向は反時計方向なのは石磨臼と同じでです。日本には寛永年間の1624頃に伝わり、しだいに普及していきました。
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「布ばた織機」は形の違いはありながら、東南アジアを旅しているといろいろな所で出会います。素朴な織物を見るとついつい使いもしないのに買い求めてしまいます。
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「夜着(よぎ)」は着物のような形をした大型の寝具です。掛布団の一種で袖と襟が付いていて、綿が厚く入っているので温かいです。夜中にトイレに行く際には袖を通して防寒着にもなったので、こんな寒い地方では必需品だったのでしょう。
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広間には祝いのお膳が並べられています。昔はこんな膳を20人分30人分を揃えるのがあたりまえだったのでしょう。仏壇は須弥壇の奥に宮殿(くうでん)のある伝統的な富山仏壇も立派です。
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急な階段を登って2階を見学します。妻は降りる事を考えて昇りませんでしたが、年配の人ばかりのツアーなのですぐに交通渋滞になってしまいました。
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屋根ふき針という太い木製の棒や大工道具がたくさん並べられています。これらは現在も茅の葺き替えで使われるのでしょう。
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素朴な農具がたくさん並んでいますが、さすがにこれらは現在では使われないようです。
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「籠の渡し」は橋を架けることが出来ないまたは許されないために、両岸の間に綱を渡し、その綱に籠を吊り下げ籠に人や物を乗せて対岸に渡すものです。加賀藩の流刑地でもあった五箇山では川に架橋が許されず、行き来に籠渡しが使われました。
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古い馬の鞍は1月に行ったモロッコのラクダの鞍やモンゴルで見た鞍にも似ています。共通するのは美しく飾られていて、動物たちが大切にされたのであろうことです。
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筵を織る編み機はとても単純な構造です。
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先日の横手の旅で見た「ケラ」や「わらぼっち」と同じような防寒着が並んでいます。この地方では多分呼び名は違うのでしょうが、そこまでの説明はありません。
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こちらも藁沓やかんじきなど冬の雪山で使う道具が並んでいます。初めて見たのは藁沓を編むための木製の型が存在したことや牛のための草鞋です。
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調理道具や石臼、味噌や醤油を仕込む桶などが並んでいます。
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糸繰車は父の生家が養蚕を行っていたこともあり、家に何個か置いてありました。
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糸車も蔵の中で見掛けましたが、もう残っていないでしょう。ロワール渓谷の古城を巡った際に行った「ユッセ城」ではシャルル・ペローが「眠れる森の美女」を執筆したこともあり、糸車が置かれてありました。国が変わっても道具にはあまり差異が無いと思いました。
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桑の葉を敷いてカイコの幼虫を育てる「蔟(まぶし)」です。
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子供の頃に家族で中山道を旅した際に馬籠で立ち寄った農家では養蚕を行っていました。兄弟3人に1匹づつ幼虫と桑の葉を貰って帰ったことを思い出しました。無事に成虫になって卵を産みましたが、そこで終わってしまいました。昭和40年代は旅先でそんな出会いもありました。
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養蚕で使う道具も役目を終えて博物館に展示されるだけです。
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もう五箇山ではこんな道具を造ることは廃れているのでしょうね。建物だけが残されているだけで素晴らしいことだと思います。
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五箇山の一大産業だった塩硝作りを再現した「塩硝の館」を見学します。
加賀藩政時代300年にわたって続けられていた火薬の原料となる塩硝づくりは、当時の五箇山の一大産業でした。「塩硝の館」では材料の採取、塩硝作りと出荷におけるまでの過程を人形や影絵で紹介しています。 -
塩硝づくりについては何かのTV番組で紹介されているのを観た記憶があります。
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塩硝とは硝石のことで、硫黄と調合して鉄砲火薬を製造する爆薬原料とされています。中世末から作られた換金生産物でもあり、藩政期には貢納のためほぼ五箇山全域に及びました。
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ある種の夏草を刈って床下に掘られた穴に積んで蒸らし、それを釜で煮て結晶させます。各家で下煮された塩硝は中煮屋から上煮屋へ集められて精製されます。
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塩硝製造は家屋の床下で畑の土と養蚕の糞尿、山草等を混入して腐蝕させ、硝化バクテリアの働きによって硝酸塩を形成した土を水で溶出させ、その液を煮立て濃縮して硝石の結晶をとり出すものでした。
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この工程は農民の堆肥製造の技術にも通じたことから、塩硝製造に必要なものは労働力と豊富な山草と薪のみでした。
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五箇山の塩硝製造がいつ頃から始まったのかというと、五箇山が本願寺の支配下にあった永禄年中までは塩硝は糸や綿と共に本願寺に上納され、織田信長との石山合戦中は大阪石山本願寺に上納したと伝承されています。
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その後の天正13年の1585年に五箇山が前田氏の支配下となり、慶長10年の1605年のの前田利長の塩硝請取状によって始めて塩硝上納が確認されます。塩硝上納から逆算して秀吉の朝鮮の役の前半の文禄の役で得た捕虜を前田利家が申し受けて加州硝石の始祖としたのではないかとされます。
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塩硝製造工程についても詳しく記載されていますが、この時は流し読みして、帰宅後にじっくり読みこみました。
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こんな大きな鉄釜を造っても利益を生み出す塩硝製造だったのだと感じます。
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こういった模型は塩硝製造の手順を理解するのに非常に役立ちました。
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やっている作業の全てが科学実験のような内容ですが、使っている道具のほとんどが木製というところに面白さを感じます。
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塩硝街道は五箇山に向かう加賀藩の陰道(間道)で、幕府に提出する国絵図にも記載されなかったそうです。その理由は軍事的に重要な火薬の原料となる塩硝を運ぶ道だったからでしょう。
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その街道の険しさはこの地図を見るとよく分かります。
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最後に火縄銃の展示がありました。
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改めてたくさんの道具が必要で連射などできなかったことが分かります。
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出口の脇には模造中が置かれ、手に取ることが出来ました。なかなかいい構えです。
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五箇山に始めてきて思ったことが1つあります。それは小学校の担任の先生のことでした。夏休み明けの2学期になっての授業で「こきりこ節」を教えてくれたことです。多分夏休みにこの辺りを旅して知ったのではないかと推測できますが、それ以上のことは分かりません。
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日本最古の民謡の「こきりこ節」は田植えや稲刈りの間に行われた日本の伝統芸能である田楽や田踊りとして発展し、「越中おわら節」と「麦屋節」に並んで富山県の三大民謡とされます。
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先生に習った歌詞のフレーズが面白くて、50年以上経った今でも唄うことが出来ます。
こきりこの竹は 七寸五分(しちすんごぶ)じゃ
長いは袖(そで)の かなかいじゃ
窓のサンサは デデレコデン
ハレのサンサも デデレコデン
向いの山を かづことすれば
荷縄(になわ)が切れて かづかれん
窓のサンサは デデレコデン
ハレのサンサも デデレコデン
向いの山に 鳴く鵯(ひよどり)は
鳴いては下がり 鳴いては上がり
朝草刈りの 眼をさます
朝草刈りの 眼をさます
https://www.youtube.com/watch?v=rctnRq6HHtg&t=23s -
お土産を買ったところで集落の見学も終わりです。観光客だらけの白川郷と違った雰囲気がとてもよかったです。
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時間もまだ残っているので周辺を歩いてみることにします。
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集落を囲むように迂回している庄川の淵も何か伝説がありそうな気がします。
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駐車場へ戻るエレベーターはこんなトンネルの中にありますが、そのまままっすぐ行くと別の集落へ行けるようです。リング・ワンダリングという言葉がありますが、初めて知ったのは諸星大二郎の妖怪ハンターの「闇の中の仮面の顔」という作品でした。
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「時のリング・ワンダリング」に迷い込むという作品でしたが、このままトンネルを抜けたら違う時代に迷い込みそうな不安を感じます。それくらい長いトンネルを抜けると先ほど「五箇山民俗館」で見た「籠の渡し」がありました。
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ここは「五箇山合掌の里」という菅沼合掌造り集落に隣接した宿泊施設のようで、8棟の宿泊コテージがありました。
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内部を見学することは出来ませんし、時間も無いのでその周辺だけを歩いてみます。
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トンネルを1つ越えただけですがさらに雪深くなって、想像していた「五箇山」の景色に近づいてきました。
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周囲には誰もおらず、昭和のままに時間が止まったような景色に「時のリング・ワンダリング」に迷い込んでしまった気分になってきます。
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この後の旅行でのことですが、機内で「リング・ワンダリング」という映画を観る機会がありました。もちろん題名を見た瞬間に観なければと思ったのですが。
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誰もいない集落を歩いていると、駐車場に戻ったと思っていた妻の姿がありました。一瞬ほんとうに妻なのかと疑い、タヌキに化かされているのではないかと思いました。
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現在は人が住むことは無くなりましたが、宿泊コテージとして再利用されるのは良いことだと思います。人が使うことで囲炉裏にも火が入り、虫よけも出来て、茅を葺き替えることも出来るのだと思います。
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そろそろ集合時間になったので菅沼展望広場の駐車場に戻ります。午後はお昼を食べた後に「雨晴海岸」に向かいます。
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