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2023年4月9日(日)夕方の6時前、博多の森から博多駅博多口近くのホテルに戻り、ジャマイカ時代に知り合った友人と合流する。昨年来た時にも私の息子と3人で食事したのでほぼ1年ぶりの再会。6時半からホテルに近い店を予約してくださってるので、それまでに時間つぶしに駅西の御供所エリアを案内してくれる。<br /><br />まずは、ホテルから博多港に続く大博通りを渡って少し奥の出来町公園へ。1965年に旧博多駅跡に整備された公園。出来町は昔の町名で、福岡藩の城下町として新しく出来た町と云うことから付けられた。旧博多駅は九州の鉄道(開業当時は九州鉄道)発祥の地であると云うことから1979年に国鉄九州総局が関業90周年を記念して建てた「九州鉄道発祥の地の碑」がある(下の写真1)。<br /><br />また、公園の奥には「博多駅」石刻円柱モニュメントもある(下の写真2)。地元出身の芸術家・書家である師村妙石氏の作品。こちらは2017年に設置されたもので、「博多駅」の石刻の裏には「寝吾庭者不顧深山幽谷」とある。元々は2010年の上海万博で展示されていたもので、友好駅である上海駅と博多駅の相互発展を願っている。意味は「この地は心安まる素晴らしい処なので、あえて奥深い自然の地を求めることをしない」となるそうだ。<br /><br />この公園の奥の承天寺通りを少し北西に進んだところにある博多千年門から先が御供所エリア。博多千年門は2014年に承天寺通りの再整備とともに設置した門で、御供所エリアの入口。承天寺通りは昭和40年代に承天寺境内を分断するように作られたが、この再整備事業により承天寺と市道に一体感が生まれたとして評価されている。<br /><br />この辺りには江戸時代に辻堂口門があった。博多から大宰府へ通じる道の入口で、農村部と商人の町の境となっていた。1889年の初代博多駅建設に伴い取り壊されたが、博多千年門はこの辻堂口門をモデルとして造られ、歴史的名称として「辻堂門口」としている。辻堂はこの辺りの旧町名で、辻堂という仏堂があったことに由来している。<br /><br />中世博多の寺社様式の門は本柱2本、控え柱4本の四脚門。門構造は木造切妻本瓦葺、虹梁大瓶束様式。門扉の板材には太宰府天満宮の千年楠が使われ、鬼瓦は大宰府で発掘された鬼瓦をモチーフとしている。<br /><br />博多駅側の扁額に掲げられた「博多千年」の揮毫は、当時の太宰府天満宮宮司によるもの。辻堂口門からの道が太宰府につながることから実現した。反対側の「万年正續(まんねんしょうぞく)」は中国の禅寺・径山萬壽寺(きんざんまんじゅじ)の住職が書いたもの。萬壽寺は承天寺を開いた聖一国師が修行した場所で、聖一国師が帰国後の1242年に萬壽寺が火災で焼失した際、博多より千枚の板を送ったとされている。<br /><br />門の欄間の彫刻には博多織の献上柄が採用されている。 表の欄間の柄は「独鈷模様 孝行縞」、見返しの欄間の柄は「華皿模様 子持ち縞」となっている。<br /><br />博多千年門から先に広がる御供所エリアは、「寺町」とも呼ばれる石堂川(御笠川の下流部での呼び名)沿いのエリア。大都会福岡のオアシス的なエリアで、多くの寺社仏閣が建ち並び、通りには昔の博多長屋の面影が残っている。筥崎八幡宮のお供え物を調えていた場所だったことから「御供所(ごくしょ)」という名が付いたとされている。<br /><br />博多千年門を抜けた先に広がるのが承天寺。臨済宗東福寺派の寺院で、山号は萬松山。鎌倉時代の1242年に、大宰少弐・武藤資頼が、聖一国師を招聘し、謝国明ら宋商人の援助により創建された。寺蔵の釈迦三尊像・禅家六祖像・銅鐘は国の重要文化財に指定されている。<br /><br />聖一国師は1235年に宋へ渡り、艱難辛苦の末に禅の大法を修め、1241年に日本へ帰国。その際、仏法の教義以外に宋の文化を持ち帰った。その代表的なものが、うどん・そば・羊羹・饅頭などの製法であったとされている。閉まっていたので見てないが、饂飩蕎麦発祥之地の碑が境内にある。また本堂方丈の前には洗濤庭(せんとうてい)と云う立派な石庭が広がる。<br /><br />承天寺通りにより境内は分断されており、山門や仏殿「覚皇殿」は南西側、本堂や墓地などは北東側に分断されている。北東側の本堂前の中門と承天寺通りを挟んだ反対側にある宝聚庵は塔頭で、1290年に寶覚堪照禅師によって開創されたと伝えられている。 博多大空襲などで度々消失し、現在の建物は1986年に再建されたもの。本尊は聖観音。<br /><br />承天寺通り北西の突き当たりの三差路のすぐ左手先には乳峰禅寺。この寺院も鎌倉時代の1248年、承天寺と同様に大宰少弐・藤原資能により、現在の春日市の旧那珂郡白水村に創建された。江戸初期の1632年に現在地に再建された。ご本尊は、博多七観音の一つ、十一面観音菩薩。<br /><br />古代インド神話の梵天(プラフマー)の子の摩利支天を祀った臨済宗のお寺で、摩利支堂に祀られている。摩利支天は一切の災禍を取り除き、開運・勇猛・得財・護身・勝利の神として信仰を集めており、毛利元就や山本勘助、前田利家といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられている。<br /><br />乳峰禅寺から北東の石堂川方向に進み、緑橋の手前から御供所都町通りに入ってしばらく進むと節信院。後で行く聖福寺の塔頭で、関ヶ原直後の1602年に黒田家の家臣、加藤重徳公が開き、加藤家の菩提寺となった。幕末に福岡藩の倒幕派の中心的な立場だった加藤司書(のりしげ)はその子孫。司書は、1865年に福岡藩が勤王派弾圧を実行した乙丑(いっちゅう)の獄で捉えられ、切腹させられた。享年36歳。<br /><br />さらに奥に進むと右手に幻住庵。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は天目山。開基は大友氏時で、南北朝時代の1336年に無隠元晦が現在の東区馬出(まいだし)に開山。戦国時代の兵火にかかり焼失し、江戸前期の1646年に博多の豪商大賀宗伯が聖福寺境内に再建した。以後大賀家の菩提寺となり、大賀家歴代の墓碑が並ぶ。<br /><br />その向かいの小さな寺は西光寺。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は金松山。ここも聖福寺の塔頭。10世紀に空也上人が創建した。虚無僧の寺と呼ばれ、尺八の道場・一朝軒を開いている。一朝軒は京都東福寺の塔頭・明暗寺の流れを汲み、博多に開創されたが、その後変遷を経て、西光寺に再興された。<br /><br />折り返して、西光寺の隣りに広がる聖福寺の塀を南に回り込んで行くと、道の反対側に順心寺。臨済宗建仁寺派の寺院。元々は聖福寺の塔頭だったが、江戸時代に聖福寺が妙心寺派に変えられたため、たもとを分かったそうだ。開創は南北朝時代の1361年で、聖福寺39世の夢庵顕一が開祖。当初は順心庵と号していた。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.33105607152415892&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />最後はその聖福寺。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は安国山(通称は安山)。栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺。当初は臨済宗単独寺院だったが、開山の栄西が京都に建仁寺を開山した後、建仁寺派となる。しかし、江戸時代に黒田長政の命により、妙心寺派となる。<br /><br />鎌倉初期、栄西が宋より帰国後の1195年に、鎌倉幕府将軍の源頼朝より八町四方を賜り、博多居住の宋人が建立した百堂跡に寺院を創建した。1204年に落成し、「扶桑最初禅窟」および「方丈」の宸翰を賜り、山門には後鳥羽天皇の宸筆と伝わる「扶桑最初禅窟」の額が懸かる。日本最初の本格的な禅寺であり、禅道場。<br /><br />最盛期は、京都五山十刹制の第3位に列する名刹で、丈六の釈迦・弥勒・阿弥陀三世仏を安置する七堂伽藍、および塔頭・子院を38ケ寺も擁する一大伽藍を誇る博多の中心的寺院だった。<br /><br />戦国時代に2度焼失し、さらに1587年に秀吉の太閤町割で四町四方に縮小されるが、領主小早川隆景が寺領300石を寄進、隆景庇護のもと、玄熊が仏殿や総門などの諸堂宇を再建した。<br /><br />現存する主要な伽藍は、江戸時代に再建されたもので、山門、仏殿、方丈(本堂)が一直線に並ぶ配置は、禅宗寺院の典型的な伽藍配置をよく示しており、境内は国指定史跡となっている。これまで回った寺院は、元々非公開もあったが、時間が夕方6時を過ぎており、境内にさえ入れなかったが、この聖福寺だけは、南西半分に入れた。<br /><br />その部分の奥に建つのが仏殿。聖福寺の本殿で、扁額には大雄宝殿と書かれていて、これは釈迦仏を本尊としていることを示している。仏殿の中には巨大な仏像が安座しており、一般的には本殿で行われる仏事は仏殿の奥、境内の北東側にある方丈で行われる。<br /><br />1589年に耳峯玄熊(にほうげんゆう)和尚によって中興され、1673年に改修された。正面三間の桟唐戸は外に開く。2014年の800年遠諱大法要を行うに当たり、増築が行われ、2012年に落慶法要が行われた。古来の禅宗様式を残し、丈六三世仏(釈迦、弥勒、弥陀)を再現安座し、鎌倉時代創建当時の姿を取り戻した。三世仏は丈六(4m80㎝)サイズでは珍しい乾漆で造られている。天井「龍」の彫刻も狩野安信(探幽の末弟)の画を木彫りに改めた。<br /><br />建物の正面右手には聖福寺佛殿記の由来と云う石碑が建つ。江戸末期の1832年に建立されたもので、元々は南北朝時代の1368年に仏殿が再建された際に、その由緒を記したものだった。<br /><br />その前には日本茶発祥の「茶の木」と云う説明のある茶の木。日本茶は聖福寺を開山した栄西禅師が1191年に南宋から帰国の際に持ち帰った茶の種を、この日の午前中に行った佐賀の吉野ケ里町の霊山寺の前庭で栽培されたものから始まったと云われ、その後に聖福寺境内でも栽培された。この木はその末裔。<br /><br />山門は江戸初期に糸島半島北部の櫻井神社の観音堂を移築したが、幕末の1866年に焼失し、1911年(明治44年)に再建されたもの。後鳥羽天皇の宸筆と伝わる「扶桑最初禅窟」の額が懸かる。上層中央部の天井には博多生まれの日本画家冨田渓仙作の龍の天井絵、中央正面には高田又四郎作の千手観音立像・2体羅漢像、山崎朝雲作の16羅漢像が安置されている。<br /><br />山門の先には勅使門。切妻造本瓦葺で、正面柱間九尺、垂木を柱真に合わせ疎垂木で、柱間に八枝、外側は破風板共に二枝。行ってないが表(外)側には十六弁の菊の御紋章がある。通常は開けられる事はない。建設の時期は明らかではないが、文政10丁亥年(1827年)に修築したの棟札が存在しており、1700年初頭以前のものと思われる。2005年に屋根瓦を葺き替えた。<br /><br />山門と勅使門の間には無染池。放生池で、池の形状が瓢箪形のため「瓢池」とも呼ばれている。2010年に造園・作庭家の北山安夫により大幅に改修された。<br /><br />無染池側から見て勅使門右手に建つ高砂連供養塔は、博多高砂連は1985年(明治26年)に老年組として相互の親睦と社会奉仕活動を目的に設立され、日本で一番古い老人クラブとも云われる。供養塔は先祖の供養のために、また、飢餓、疫病で亡くなった人々を供養するために、1912年(大正元年)に建立されたもの。ただし、その時造られた釈尊銅像は太平洋戦争による金属類回収令で供出され、その後通用門前の戒壇石傍にあった石の観音地蔵尊が祀られている。<br /><br />山門を正面から見て右手には鐘楼。1589年の中興の後、江戸中期の1759年に改築されたもの。国の重文指定の朝鮮鐘が1976年まで掛けられていたが、今の鐘は黄鐘調の梵鐘。2003年に屋根瓦が葺き替えられた。<br /><br />境内を2つに分けて南東から北西に横切る道の奥には開山堂唐門がある。江戸中期、1762年建立の四脚門。入れなかったが、奥の開山堂は1589年建立で、栄西祖師の座像が安置されている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.33105674285742512&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />夕食に向かうが、続く

福岡 博多 御供所エリア(Gokusho Area,Hakata,Fukuoka,Fukuoka,Japan)

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2023/04/09 - 2023/04/09

4711位(同エリア6077件中)

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年4月9日(日)夕方の6時前、博多の森から博多駅博多口近くのホテルに戻り、ジャマイカ時代に知り合った友人と合流する。昨年来た時にも私の息子と3人で食事したのでほぼ1年ぶりの再会。6時半からホテルに近い店を予約してくださってるので、それまでに時間つぶしに駅西の御供所エリアを案内してくれる。

まずは、ホテルから博多港に続く大博通りを渡って少し奥の出来町公園へ。1965年に旧博多駅跡に整備された公園。出来町は昔の町名で、福岡藩の城下町として新しく出来た町と云うことから付けられた。旧博多駅は九州の鉄道(開業当時は九州鉄道)発祥の地であると云うことから1979年に国鉄九州総局が関業90周年を記念して建てた「九州鉄道発祥の地の碑」がある(下の写真1)。

また、公園の奥には「博多駅」石刻円柱モニュメントもある(下の写真2)。地元出身の芸術家・書家である師村妙石氏の作品。こちらは2017年に設置されたもので、「博多駅」の石刻の裏には「寝吾庭者不顧深山幽谷」とある。元々は2010年の上海万博で展示されていたもので、友好駅である上海駅と博多駅の相互発展を願っている。意味は「この地は心安まる素晴らしい処なので、あえて奥深い自然の地を求めることをしない」となるそうだ。

この公園の奥の承天寺通りを少し北西に進んだところにある博多千年門から先が御供所エリア。博多千年門は2014年に承天寺通りの再整備とともに設置した門で、御供所エリアの入口。承天寺通りは昭和40年代に承天寺境内を分断するように作られたが、この再整備事業により承天寺と市道に一体感が生まれたとして評価されている。

この辺りには江戸時代に辻堂口門があった。博多から大宰府へ通じる道の入口で、農村部と商人の町の境となっていた。1889年の初代博多駅建設に伴い取り壊されたが、博多千年門はこの辻堂口門をモデルとして造られ、歴史的名称として「辻堂門口」としている。辻堂はこの辺りの旧町名で、辻堂という仏堂があったことに由来している。

中世博多の寺社様式の門は本柱2本、控え柱4本の四脚門。門構造は木造切妻本瓦葺、虹梁大瓶束様式。門扉の板材には太宰府天満宮の千年楠が使われ、鬼瓦は大宰府で発掘された鬼瓦をモチーフとしている。

博多駅側の扁額に掲げられた「博多千年」の揮毫は、当時の太宰府天満宮宮司によるもの。辻堂口門からの道が太宰府につながることから実現した。反対側の「万年正續(まんねんしょうぞく)」は中国の禅寺・径山萬壽寺(きんざんまんじゅじ)の住職が書いたもの。萬壽寺は承天寺を開いた聖一国師が修行した場所で、聖一国師が帰国後の1242年に萬壽寺が火災で焼失した際、博多より千枚の板を送ったとされている。

門の欄間の彫刻には博多織の献上柄が採用されている。 表の欄間の柄は「独鈷模様 孝行縞」、見返しの欄間の柄は「華皿模様 子持ち縞」となっている。

博多千年門から先に広がる御供所エリアは、「寺町」とも呼ばれる石堂川(御笠川の下流部での呼び名)沿いのエリア。大都会福岡のオアシス的なエリアで、多くの寺社仏閣が建ち並び、通りには昔の博多長屋の面影が残っている。筥崎八幡宮のお供え物を調えていた場所だったことから「御供所(ごくしょ)」という名が付いたとされている。

博多千年門を抜けた先に広がるのが承天寺。臨済宗東福寺派の寺院で、山号は萬松山。鎌倉時代の1242年に、大宰少弐・武藤資頼が、聖一国師を招聘し、謝国明ら宋商人の援助により創建された。寺蔵の釈迦三尊像・禅家六祖像・銅鐘は国の重要文化財に指定されている。

聖一国師は1235年に宋へ渡り、艱難辛苦の末に禅の大法を修め、1241年に日本へ帰国。その際、仏法の教義以外に宋の文化を持ち帰った。その代表的なものが、うどん・そば・羊羹・饅頭などの製法であったとされている。閉まっていたので見てないが、饂飩蕎麦発祥之地の碑が境内にある。また本堂方丈の前には洗濤庭(せんとうてい)と云う立派な石庭が広がる。

承天寺通りにより境内は分断されており、山門や仏殿「覚皇殿」は南西側、本堂や墓地などは北東側に分断されている。北東側の本堂前の中門と承天寺通りを挟んだ反対側にある宝聚庵は塔頭で、1290年に寶覚堪照禅師によって開創されたと伝えられている。 博多大空襲などで度々消失し、現在の建物は1986年に再建されたもの。本尊は聖観音。

承天寺通り北西の突き当たりの三差路のすぐ左手先には乳峰禅寺。この寺院も鎌倉時代の1248年、承天寺と同様に大宰少弐・藤原資能により、現在の春日市の旧那珂郡白水村に創建された。江戸初期の1632年に現在地に再建された。ご本尊は、博多七観音の一つ、十一面観音菩薩。

古代インド神話の梵天(プラフマー)の子の摩利支天を祀った臨済宗のお寺で、摩利支堂に祀られている。摩利支天は一切の災禍を取り除き、開運・勇猛・得財・護身・勝利の神として信仰を集めており、毛利元就や山本勘助、前田利家といった武将も摩利支天を信仰していたと伝えられている。

乳峰禅寺から北東の石堂川方向に進み、緑橋の手前から御供所都町通りに入ってしばらく進むと節信院。後で行く聖福寺の塔頭で、関ヶ原直後の1602年に黒田家の家臣、加藤重徳公が開き、加藤家の菩提寺となった。幕末に福岡藩の倒幕派の中心的な立場だった加藤司書(のりしげ)はその子孫。司書は、1865年に福岡藩が勤王派弾圧を実行した乙丑(いっちゅう)の獄で捉えられ、切腹させられた。享年36歳。

さらに奥に進むと右手に幻住庵。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は天目山。開基は大友氏時で、南北朝時代の1336年に無隠元晦が現在の東区馬出(まいだし)に開山。戦国時代の兵火にかかり焼失し、江戸前期の1646年に博多の豪商大賀宗伯が聖福寺境内に再建した。以後大賀家の菩提寺となり、大賀家歴代の墓碑が並ぶ。

その向かいの小さな寺は西光寺。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は金松山。ここも聖福寺の塔頭。10世紀に空也上人が創建した。虚無僧の寺と呼ばれ、尺八の道場・一朝軒を開いている。一朝軒は京都東福寺の塔頭・明暗寺の流れを汲み、博多に開創されたが、その後変遷を経て、西光寺に再興された。

折り返して、西光寺の隣りに広がる聖福寺の塀を南に回り込んで行くと、道の反対側に順心寺。臨済宗建仁寺派の寺院。元々は聖福寺の塔頭だったが、江戸時代に聖福寺が妙心寺派に変えられたため、たもとを分かったそうだ。開創は南北朝時代の1361年で、聖福寺39世の夢庵顕一が開祖。当初は順心庵と号していた。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.33105607152415892&type=1&l=223fe1adec

最後はその聖福寺。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は安国山(通称は安山)。栄西創建で、日本最初の本格的な禅寺。当初は臨済宗単独寺院だったが、開山の栄西が京都に建仁寺を開山した後、建仁寺派となる。しかし、江戸時代に黒田長政の命により、妙心寺派となる。

鎌倉初期、栄西が宋より帰国後の1195年に、鎌倉幕府将軍の源頼朝より八町四方を賜り、博多居住の宋人が建立した百堂跡に寺院を創建した。1204年に落成し、「扶桑最初禅窟」および「方丈」の宸翰を賜り、山門には後鳥羽天皇の宸筆と伝わる「扶桑最初禅窟」の額が懸かる。日本最初の本格的な禅寺であり、禅道場。

最盛期は、京都五山十刹制の第3位に列する名刹で、丈六の釈迦・弥勒・阿弥陀三世仏を安置する七堂伽藍、および塔頭・子院を38ケ寺も擁する一大伽藍を誇る博多の中心的寺院だった。

戦国時代に2度焼失し、さらに1587年に秀吉の太閤町割で四町四方に縮小されるが、領主小早川隆景が寺領300石を寄進、隆景庇護のもと、玄熊が仏殿や総門などの諸堂宇を再建した。

現存する主要な伽藍は、江戸時代に再建されたもので、山門、仏殿、方丈(本堂)が一直線に並ぶ配置は、禅宗寺院の典型的な伽藍配置をよく示しており、境内は国指定史跡となっている。これまで回った寺院は、元々非公開もあったが、時間が夕方6時を過ぎており、境内にさえ入れなかったが、この聖福寺だけは、南西半分に入れた。

その部分の奥に建つのが仏殿。聖福寺の本殿で、扁額には大雄宝殿と書かれていて、これは釈迦仏を本尊としていることを示している。仏殿の中には巨大な仏像が安座しており、一般的には本殿で行われる仏事は仏殿の奥、境内の北東側にある方丈で行われる。

1589年に耳峯玄熊(にほうげんゆう)和尚によって中興され、1673年に改修された。正面三間の桟唐戸は外に開く。2014年の800年遠諱大法要を行うに当たり、増築が行われ、2012年に落慶法要が行われた。古来の禅宗様式を残し、丈六三世仏(釈迦、弥勒、弥陀)を再現安座し、鎌倉時代創建当時の姿を取り戻した。三世仏は丈六(4m80㎝)サイズでは珍しい乾漆で造られている。天井「龍」の彫刻も狩野安信(探幽の末弟)の画を木彫りに改めた。

建物の正面右手には聖福寺佛殿記の由来と云う石碑が建つ。江戸末期の1832年に建立されたもので、元々は南北朝時代の1368年に仏殿が再建された際に、その由緒を記したものだった。

その前には日本茶発祥の「茶の木」と云う説明のある茶の木。日本茶は聖福寺を開山した栄西禅師が1191年に南宋から帰国の際に持ち帰った茶の種を、この日の午前中に行った佐賀の吉野ケ里町の霊山寺の前庭で栽培されたものから始まったと云われ、その後に聖福寺境内でも栽培された。この木はその末裔。

山門は江戸初期に糸島半島北部の櫻井神社の観音堂を移築したが、幕末の1866年に焼失し、1911年(明治44年)に再建されたもの。後鳥羽天皇の宸筆と伝わる「扶桑最初禅窟」の額が懸かる。上層中央部の天井には博多生まれの日本画家冨田渓仙作の龍の天井絵、中央正面には高田又四郎作の千手観音立像・2体羅漢像、山崎朝雲作の16羅漢像が安置されている。

山門の先には勅使門。切妻造本瓦葺で、正面柱間九尺、垂木を柱真に合わせ疎垂木で、柱間に八枝、外側は破風板共に二枝。行ってないが表(外)側には十六弁の菊の御紋章がある。通常は開けられる事はない。建設の時期は明らかではないが、文政10丁亥年(1827年)に修築したの棟札が存在しており、1700年初頭以前のものと思われる。2005年に屋根瓦を葺き替えた。

山門と勅使門の間には無染池。放生池で、池の形状が瓢箪形のため「瓢池」とも呼ばれている。2010年に造園・作庭家の北山安夫により大幅に改修された。

無染池側から見て勅使門右手に建つ高砂連供養塔は、博多高砂連は1985年(明治26年)に老年組として相互の親睦と社会奉仕活動を目的に設立され、日本で一番古い老人クラブとも云われる。供養塔は先祖の供養のために、また、飢餓、疫病で亡くなった人々を供養するために、1912年(大正元年)に建立されたもの。ただし、その時造られた釈尊銅像は太平洋戦争による金属類回収令で供出され、その後通用門前の戒壇石傍にあった石の観音地蔵尊が祀られている。

山門を正面から見て右手には鐘楼。1589年の中興の後、江戸中期の1759年に改築されたもの。国の重文指定の朝鮮鐘が1976年まで掛けられていたが、今の鐘は黄鐘調の梵鐘。2003年に屋根瓦が葺き替えられた。

境内を2つに分けて南東から北西に横切る道の奥には開山堂唐門がある。江戸中期、1762年建立の四脚門。入れなかったが、奥の開山堂は1589年建立で、栄西祖師の座像が安置されている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.33105674285742512&type=1&l=223fe1adec


夕食に向かうが、続く

  • 写真1 九州鉄道発祥の地の碑

    写真1 九州鉄道発祥の地の碑

  • 写真2 「博多駅」石刻円柱モニュメント

    写真2 「博多駅」石刻円柱モニュメント

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