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2023年4月9日(日)11時ちょっと前、古代の森ゾーンの甕棺墓列を南に進むと再び吉野ヶ里町になる。特に表示がある訳ではない。先に小高い丘が見えて来る(下の写真1)。ここが吉野ヶ里の環壕集落跡の北端で、小高い丘は北墳丘墓。柵の内側には環壕が復元されている。<br /><br />北墳丘墓は吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられている。外観が復元され、内部には14基の本物の甕棺や出土品レプリカが展示され、北墳丘墓の解説展示も行われている。<br /><br />違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られ、とても丈夫な構造になっている。弥生時代の中頃、紀元前1世紀のもので、その後は墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていた。<br /><br />この北墳丘墓から集落の南端にある南祭壇を結ぶ南北線がこの環壕集落の中軸線で、北墳丘墓南面には祠堂と立柱が並び、さらに北内郭の主祭殿の中心も貫いている。祀堂は墳丘墓に眠る祖先の霊に毎日お供え物を捧げ、お祈りをするための建物で、立柱は祖先の霊が宿る柱としてシンボル的な役割を果たしていた。また、環壕の外、西側からやってくる人々がお参りするための墓道も発見されている。<br /><br />北墳丘墓の南には古代の森ゾーンにもあった甕棺墓列があり、その南には北内郭の濠の外側に穀物や供物、稲穂、道具などの高床倉庫が復元されている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.32858239877152622&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />柵と2つの環壕に囲まれた北内郭に入る。ここは吉野ヶ里環壕集落の祭祀儀礼の中心地で、まつりごとに関わる人がいたとされる。祭祀を中心に様々な祭祀儀礼が行われていたと考えられ、巨大な祭殿など9棟の建物が復元されている。<br /><br />北内郭の形は年南西を頭にした英語のAの形に似ている。この形は真ん中からちょうど左右対称に分かれる形をしているが、この左右対称に分ける線は夏至の日の出と冬至の日の入の点を結ぶ太陽の運行線に合っていると云う。<br /><br />北内郭で最も重要な建物は、上述の内郭の中央線に東祭殿、斎堂と共に並ぶ主祭殿。吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、中心的な建物と考えられている。内部に入ることが出来、2階では王やリーダーたち、さらには周辺のムラの長の集会が、3階では祖先の霊のお告げを聞く祈りが再現されている。<br /><br />東祭殿は太陽の動きを知るための建物で、ここでは季節ごとの祀りが行われていたと考えられている。斎堂は主祭殿の祀りの前に身を清めたり、祀りの道具を保管する場所として使われていたと考えられている。<br /><br />内郭には環壕が外に張り出している部分が4ヶ所あり、物見やぐらが復元されている。周囲を見張る役割に加え、神聖な空間である北内郭の性格から、四方を祀る意味も持っていたと考えられている。また、主祭殿の近くには高床住居が復元されており、普段は人前に姿を見せなかった最高司祭者の住まいだったと考えられている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.32858295423813734&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />南側入口から外に出ると中のムラ(下の写真2)。北内郭や北墳丘墓は祭祀的な性格の強い場所だが、この中のムラはそうした祭りや儀式、政事などに使う物を、神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられている。また、復元されてないが、こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられている。<br /><br />具体的には神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられている。<br /><br /><br />次は、南内郭へ向かうが、続く

佐賀 吉野ヶ里歴史公園 環壕集落ゾーン北部(Moat-Encircled Village Zone North,Yoshinogari)

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2023/04/09 - 2023/04/09

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ちふゆ

ちふゆさん

2023年4月9日(日)11時ちょっと前、古代の森ゾーンの甕棺墓列を南に進むと再び吉野ヶ里町になる。特に表示がある訳ではない。先に小高い丘が見えて来る(下の写真1)。ここが吉野ヶ里の環壕集落跡の北端で、小高い丘は北墳丘墓。柵の内側には環壕が復元されている。

北墳丘墓は吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられている。外観が復元され、内部には14基の本物の甕棺や出土品レプリカが展示され、北墳丘墓の解説展示も行われている。

違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られ、とても丈夫な構造になっている。弥生時代の中頃、紀元前1世紀のもので、その後は墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていた。

この北墳丘墓から集落の南端にある南祭壇を結ぶ南北線がこの環壕集落の中軸線で、北墳丘墓南面には祠堂と立柱が並び、さらに北内郭の主祭殿の中心も貫いている。祀堂は墳丘墓に眠る祖先の霊に毎日お供え物を捧げ、お祈りをするための建物で、立柱は祖先の霊が宿る柱としてシンボル的な役割を果たしていた。また、環壕の外、西側からやってくる人々がお参りするための墓道も発見されている。

北墳丘墓の南には古代の森ゾーンにもあった甕棺墓列があり、その南には北内郭の濠の外側に穀物や供物、稲穂、道具などの高床倉庫が復元されている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.32858239877152622&type=1&l=223fe1adec

柵と2つの環壕に囲まれた北内郭に入る。ここは吉野ヶ里環壕集落の祭祀儀礼の中心地で、まつりごとに関わる人がいたとされる。祭祀を中心に様々な祭祀儀礼が行われていたと考えられ、巨大な祭殿など9棟の建物が復元されている。

北内郭の形は年南西を頭にした英語のAの形に似ている。この形は真ん中からちょうど左右対称に分かれる形をしているが、この左右対称に分ける線は夏至の日の出と冬至の日の入の点を結ぶ太陽の運行線に合っていると云う。

北内郭で最も重要な建物は、上述の内郭の中央線に東祭殿、斎堂と共に並ぶ主祭殿。吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、中心的な建物と考えられている。内部に入ることが出来、2階では王やリーダーたち、さらには周辺のムラの長の集会が、3階では祖先の霊のお告げを聞く祈りが再現されている。

東祭殿は太陽の動きを知るための建物で、ここでは季節ごとの祀りが行われていたと考えられている。斎堂は主祭殿の祀りの前に身を清めたり、祀りの道具を保管する場所として使われていたと考えられている。

内郭には環壕が外に張り出している部分が4ヶ所あり、物見やぐらが復元されている。周囲を見張る役割に加え、神聖な空間である北内郭の性格から、四方を祀る意味も持っていたと考えられている。また、主祭殿の近くには高床住居が復元されており、普段は人前に姿を見せなかった最高司祭者の住まいだったと考えられている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.32858295423813734&type=1&l=223fe1adec

南側入口から外に出ると中のムラ(下の写真2)。北内郭や北墳丘墓は祭祀的な性格の強い場所だが、この中のムラはそうした祭りや儀式、政事などに使う物を、神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられている。また、復元されてないが、こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられている。

具体的には神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられている。


次は、南内郭へ向かうが、続く

  • 写真1 北墳丘墓北側入口

    写真1 北墳丘墓北側入口

  • 写真2 中のムラ

    写真2 中のムラ

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