2025/03/31 - 2025/04/06
1558位(同エリア8893件中)
chemireさん
- chemireさんTOP
- 旅行記501冊
- クチコミ167件
- Q&A回答0件
- 264,632アクセス
- フォロワー105人
弘道館は、水戸藩第九代藩主 徳川斉昭(1800~1860)によって創設された藩校。
江戸時代末期には各地に藩校が造られましたが、現存する遺構では弘道館は規模が大きく整った建築物で、幾度の戦火を免れた正門、正庁、至善堂は国の重要文化財に指定されています。
表紙の写真は、斉昭書「游於藝」扁額。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
-
3月31日(月)旅1日目
この時点ではまだ雨は降り出してなかったので、急ぎ足で弘道館に向かいました。
水戸駅北口から3コースある水戸学の道。あちこちにマップ付の案内板があるので歩きやすく、マップはHPからもダウンロードできます。
弘道館事務所作成のマップによれば、弘道館散策ルートは、約1.5km・約1時間(館内の見学時間除く)だそう。水戸学の道 自然・景勝地
-
14:29
冠木門
水戸学の道を進んで来ると、武館跡に建つ三の丸小学校がありました。ここから反時計回りに進みます。 -
小学校を囲む塀。さすがに狭間はありません。
-
-
弘道館正門
本瓦葺きの四脚門で、藩主の来館や特別な行事の際にのみ開門。 -
-
徳川御三家
水戸三つ葵 -
-
-
正門は閉まっているので、右手の通用門から入城。
-
14:38
入城してすぐ右手にある番所。創建時の様子を今にとどめる建物で、生徒や諸役人は、この横にある通用門を利用していました。 -
格子窓から外の様子がよく見えますと説明文があったので、中を覗いてから料金所に向かったら、時間なのか雨が降り出したせいか番所の戸が閉められました。先に見ておいてよかった。
-
水戸城三の丸には重臣の屋敷がありましたが、水戸藩第9代藩主 徳川斉昭(江戸幕府第15代将軍 徳川慶喜は斉昭の7男)は、屋敷を移転させ弘道館を建てました。
旧水戸藩の藩校である弘道館は、斉昭が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして開設され、天保12年(1841)に仮開館、安政4年(1857)に本開館式の日を迎えています。弘道館では藩主とその子弟が学び、入学年齢は15歳で卒業はなく、学問と文芸の両方が重視され多様な科目が教えられていましたが、幕末の動乱期を経て明治5年(1872)の「学制」により閉鎖。 -
-
左近の桜
斉昭夫人登美宮吉子が水戸家に御降嫁された時に仁孝天皇から賜わった山桜。江戸小石川の水戸藩邸に植えられていたものが弘道館開設の際に移植され、現在の桜は3代目。 -
青空の下だったら、もっと華やかに感じたはず。
-
-
-
-
桜と松の間の敷石を通って玄関へと行きたいところですが、正庁玄関は立ち入り禁止。入口は、右奥にあります。
-
ギリギリまで近付いて見てから、入口へ。
-
14:45
では、建物内を見学。観覧者出入口で靴を脱ぎ(下駄箱あり)、時計回りに進みます。 -
建物内の撮影可。さっそく戸や釘隠しなどの装飾からチェックすると、思っていたほど華美ではありませんでした。学校なのだから当然か。
-
-
-
左側が正庁玄関。
-
-
建物内部からなら式台に降りることができました。
正面に斉昭自筆の「弘道館」の扁額が掲げられています。 -
-
玄関正面にある諸役会所。
床の間の「尊攘」の掛け軸は、安政3年(1856年)に斉昭の命により水戸藩の藩医・松延年が揮毫。 -
尊王攘夷。重みのある理念が迫ってきます。
-
-
-
シンプルな欄間。
-
建物内で婚礼の撮影をしていました。白無垢や紋付袴姿は、やっぱり日本家屋が似合います。水戸ご出身の方なのかな。お幸せに。
-
-
「游於藝」扁額
斉昭書。論語の一説による。
芸に遊ぶの「芸」とは、礼(礼儀)楽(音楽)射(弓術)御(馬術)書(習字)数(算数)をさし、武芸にこりかたまらず悠々と芸を究めるという意味。 -
正庁 正席の間
正庁は学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心的な建物で、藩主臨席のもとで行われた文武の大試験や諸儀式に用いられました。 -
床の間には、弘道館記碑の拓本が掲げられています。
-
-
-
-
-
弘道館記碑拓本
斉昭撰文および書。弘道館の建学精神と教育方針を記したもので、天保9年(1838)に斉昭の名で公表。
石碑は、弘道館内の八卦堂に納められています。 -
-
縁側から庭を眺めてみました。花盛りなら、どれほど素敵なんだろう。
-
-
-
-
至善堂は御座の間をはじめ4室からなり、名称は、斉昭が四書のひとつ『大学』の一節からとって命名されたもの。藩主の休息所や諸公子の勉学所でもありました。
斉昭の七男・徳川慶喜(七郎磨)も幼少期にここで学び、大政奉還後の慶応4年(明治元年・1868)に水戸へ下った慶喜は至善堂にこもり、静岡に移るまでの約4ヶ月間謹慎生活を送っています。 -
-
「至善堂」扁額
斉昭書。至善は『大学』の一節。 -
-
要石歌碑拓本
斉昭詠および書。日本人としての進むべき道が示されている石碑は、孔子廟の南側に建っています。 -
-
-
将軍職を辞した徳川慶喜が、上野の寛永寺から至善堂に謹慎の場を移す際に使用したものと伝わるそうです。
-
-
雲龍水
弘道館に備えられていた消火用ポンプ。 -
-
安政4年(1857年)と書かれています。
-
特別公開 渋沢栄一書。
渋沢栄一は「尊王攘夷」を掲げた水戸学に触れ、攘夷運動にも傾倒。斉昭の実子で15代将軍になった一橋慶喜に仕えています。 -
-
-
農人形
斉昭が自ら鋳造し子供たちに分け与えたという人形をモチーフに拡大彫刻されたもの。本来の農人形は手のひらに乗る大きさで、斉昭は食事の際に膳の隅に置き、食前に飯を備えて農民に感謝をしたと言われています。 -
-
-
種梅記碑拓本
斉昭撰文の名文「種梅記」が自筆の隷書で刻まれています。
斉昭は、梅の花を愛し、梅干しは軍事の際の非常食として役立つとして、偕楽園と弘道館をはじめその近郊や士民の家にも梅の木を植えさせました。 -
-
-
-
製造元を示す印。石垣の刻印同様、見つけるとなぜかワクワクします。
-
15:10
正庁から、段を下りた廊下を渡って資料展示室へ。 -
-
-
水戸藩ニ代藩主 徳川光圀の命により編纂が着手され、明暦3年(1657)から明治39年(1906)まで249年もの年月を経て397巻、目録5巻、計402巻の大日本史が完成。
神武天皇から後小松天皇まで100代にわたる天皇の功績が記されています。 -
弘道館で展示しているものは、「本紀」・「列伝」243巻100冊の嘉永版「大日本史」です。
-
-
-
-
近世日本を支えた学校4校が紹介されていました。これらの学校は、日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」に指定されています。
閑谷学校、咸宜園は訪ねたことがあって、今回の旅で弘道館と足利学校を見学するからコンプリートできそう。 -
-
-
-
-
徳川慶喜の筆
明治2年(1869)9月に謹慎解除された頃、勝海舟に贈った書。 -
-
15:30
建物を出て庭を歩きました。 -
-
-
-
対試場
武術の試験などが行なわれた場所。 -
-
-
-
梅の時期の庭はとっても綺麗だろうなぁ。
-
-
文館跡。明治元年(1868)弘道館の戦いで消失。
-
-
15:45
通用門に戻らなくても、弘道館の庭から孔子廟に抜けられる木戸がありました。 -
孔子廟(復元/廟内は通常非公開)
-
-
弘道館建学の主旨のひとつである「神儒一致」の教義に基づき建てられたもの。
中国にある大成殿を模した入母屋造り瓦葺で、屋上には2種類の架空の動物(鬼犾頭・鬼龍子)の像が置かれ、孔子の生地(中国山東省)の方向(西)を向いています。 -
-
-
-
-
鬼犾頭(きぎんとう)
龍頭魚尾で一種の鯱。龍の頭から水を噴出している姿には火災除けの意味が込められているそうです。 -
鬼龍子(きりゅうし)
虎に似た霊獣で聖人の徳に感じて現れる一種の義獣といわれ、生物を食せず至信の徳があるとされています。 -
-
-
弘道館鹿島神社へ。
-
-
鹿島神社
御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
安政4年に常陸一の宮である鹿島神宮から分霊を勧請
鹿島神宮を参拝した旅
https://4travel.jp/travelogue/11469254 -
要石歌碑
-
弘道館に拓本がありました。
-
斉昭の自詠自筆で「行末も ふみなたがへそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける」とあります。道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏み違えることがあってはならないの意。歌意と鹿島神宮の「要石」になぞらえて「要石歌碑」という名がつけられたそうです。
-
種梅記碑
-
-
こちらも弘道館に拓本がありました。
-
学生警鐘
-
-
斉昭自鋳の鐘(複製)が吊り下げられています。
鐘の外側には、斉昭自筆の「物学ぶ 人の為にと さやかにも 暁告ぐる 鐘のこえかな」という和歌が万葉仮名で浮彫され、鐘の内側には、斉昭の自著自筆で浮彫りされた鋳造の由来があり花押が添えられているそうです。
実物は昭和20年の戦火を免れた後に修理され、弘道館資料室で公開されています。 -
16:08
土塁・通路(復元)
弘道館全図や発掘調査で判明した遺構に基づいて復元的整備が行われました。 -
-
-
奥に見える茶色の建物は、茨城県三の丸庁舎。旧県庁舎・昭和5年設置。
-
-
-
見る角度を変えたりと土塁を2周してしまった。
-
-
-
-
-
-
北柵御門(復元)
弘道館建設時に敷地の南北双方に設けられた門のうちの北側の門。二門とも教職や役人だけが通行を許されていました。 -
-
-
では、三の丸から大手方面に向かおうと思ったけど、
-
その前に、向かいに見えた配水塔の見学へ。
夜はライトアップされて素敵な雰囲気だそうです。 -
三の丸庁舎の駐車場で、やっと明るくて元気な桜に出会えました。咲いていてくれてありがとう。
-
-
文武両道を目指した水戸藩士たちの思いを引き継ぐという水戸東武館。門が閉まっていて、内部の見学は出来ませんでした。
-
-
東武館前の信号を渡り、北柵御門の対面の道を戻るように大手橋方面に進むと、すぐにあったのは水戸市水道低区配水塔。水戸の近代水道史を今に伝えます。
-
昭和7年(1932)に造られたゴシック風の装飾の建物は、重厚感があって素晴らしい。
-
この古さも良い感じ。
-
16:35
では、今度こそ大手門へ。 -
-
梅か桜が咲いていたらなぁと思いつつ振り返って土塁を見上げたりして、なかなか進みません。先を急がなきゃ。
(二の丸から本丸方面見学の旅行記に つづく) -
弘道館マップとリーフレット。
日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」
水戸市における構成文化財
旧弘道館、常磐公園(偕楽園)、旧水戸彰考館跡、日新塾跡、大日本史 -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2025北関東の春旅
-
桜はあまり咲いてなかったけど、春旅を水戸から始めました。
2025/03/31~
水戸
-
水戸城跡。江戸時代の総合大学といわれる弘道館を見学。
2025/03/31~
水戸・大洗・ひたちなか
-
水戸城跡。二の丸から本丸周辺を歩く。
2025/03/31~
水戸
-
水戸城跡。黄門神社と三の丸空堀へ。水戸黄門って呼べる方は光圀公以外にもいるんだって。
2025/03/31~
水戸
-
水戸市立博物館見学.その1 . 歴史部門/常設展・特別展(特別公開 「戦国武将書翰集」の世界)
2025/03/31~
水戸
-
水戸市立博物館見学.その2/常設展(民俗・美術部門)
2025/03/31~
水戸
-
水戸東照宮を参拝してから、水戸を離れ小山に向かいました。
2025/03/31~
水戸
-
史跡小山城跡(祇園城跡)探索。土塁や堀切を見るのが楽しかったけど、いろいろと疑問も残っちゃった。
2025/03/31~
小山
-
小山で寺社巡り。吉宗や勝海舟の名が出てきたり、戊辰戦争の傷痕があったりと歴史が詰まってました。
2025/03/31~
小山
-
小山から足利へ。
2025/03/31~
足利
-
渡良瀬橋。
2025/03/31~
足利
-
足利學校に入学。
2025/03/31~
足利
-
足利市内で寺社めぐり 1 /足利織姫神社・通五丁目八雲神社(八雲神社がたくさんありました)
2025/03/31~
足利
-
足利市内で寺社めぐり 2 /鑁阿寺 ・大門通り八雲神社・伊勢神社
2025/03/31~
足利
-
前橋城を見学してから、公園を散策。昼ごはんのために寄った昭和を感じるパーラーレストランが最高でした。
2025/03/31~
前橋
-
高崎城
2025/03/31~
高崎
-
富岡製糸場見学のため上信電鉄(高崎 − 上州富岡)に乗車
2025/03/31~
富岡・甘楽
-
日本の絹産業を支えた富岡製糸場へ
2025/03/31~
富岡・甘楽
-
高崎公園付近を、ぶらぶら。夕食用に買った鳥めし弁当は、また食べたい味でした。
2025/03/31~
高崎
-
東京駅に似た外観の深谷駅は、渋沢栄一の功績に由来するもの。駅周辺は、渋沢推しの様子が感じられました。
2025/03/31~
深谷・寄居
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
PR
旅行記グループ 2025北関東の春旅
0
164