2024/06/08 - 2024/06/08
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kojikojiさん
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この旅行記のスケジュール
2024/06/08
この旅行記スケジュールを元に
ボン岬の最後の集落を抜けると低木の林が続き、その先に「ケルクアン遺跡(Kerkouane)」がありました。周囲に土産物屋も無く、入り口のゲートを観ても人影もありません。有名な遺跡ですがシーズンオフなのかあまり人気がなさそうです。遺跡の中は実際に我々ツアーの総勢10人ほどと家族連れが1組いただけでした。それ以外には遺跡修復に携わっている人が数人。遺跡の見学には人が少ないことに越したことはなく、さらに周囲には青い海が広がっているので雰囲気的にもいにしえの時代に思いを馳せるにはちょうど良かったです。遺跡にありがちな日影が全くないという状態とかなり暑かったので我々はファンベストを着込みましたが、持ってきて良かったと思います。まずはガイドさんの説明を聞きながら遺跡の中を進みます。こんな時日本語が堪能な方で良かったと思うのは我々よりも添乗員さんだったと思います。英語のガイドだと同時通訳しなければならないし、遺跡など考古学の専門的な用語も分かりやすくしなければなりませんから。この遺跡は古代ポエニの都市の跡で、ケルクアンはカルタゴ、昨日滞在したハドルメトゥム(現在のスース)、ウティカとともに最も重要なポエニの都市の1つでした。このフェニキアの都市はおそらく紀元前250年頃の第1次ポエニ戦争で放棄され、後の支配者のローマ人によって再建されませんでした。遺跡は小さな町だったことを想像させ、おそらく2,000人を超える人々が住んだことはなく、そのほとんどが漁師や職人だったようです。ムレックスの貝殻が多数存在することから、塩やガルム(食品)に加えて、貝紫の染料が生産されていたという説もありますが、ガイドさんの説明では別荘のような使われ方をしたのではないかという説が新しいようです。ここで有名なのは古代カルタゴの守護神「タニト」のモザイクです。これは翌日行った「バルドー美術館」のトイレのピクトにも使われていました。ある意味世界最古のピクトではないかと思ってしまいます。1時間ほどで見学が終わりましたが、出口に向かいながら添乗員さんに「博物館にはいかないのですか?」と尋ねました。「予定表に入っていないので残念ですが。」ということでしたが目の前にある博物館に寄らないなんてと思います。その声が聞こえたのがガイドさんが「予定にはありませんが博物館にも寄りましょう。」と言ってくれます。この遺跡で発掘されたものではなく、近隣の遺跡での発掘品だということですが満足のいく見学でした。博物館の見学を終えた後はボン岬を目指します。美しい海岸線を走り抜け「エル・ハワリア(El Haouaria)」にある「ラ・ダウレデ(La Daurade)」というレストランに入ります。ここで遅いランチになります。レストランのテラス席からの眺めは絶景で美しい地中海を眺めることが出来ました。ゆっくりする時間がないのが残念ですが、ボン岬の西海岸沿いにバスはチュニスに向かってラストランです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- カタール航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- JTB
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「ケルクアン遺跡(Kerkouane)」の入り口です。観光客の姿もありませんが、係員の姿もありません。左側の建物の中を通って遺跡エリアに入ります。
ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡 史跡・遺跡
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案内板によるともっとも古い遺跡は紀元千6世紀に遡り、2回の破壊行為にあっていることが分かっています。1回目は紀元前256年から255年にかけての湯治のレグルスの兵士によって行われました。2回目は第1次ローマ・カルタゴ戦争の時でしたその後町は打ち捨てられたため、現在見ることのできる遺跡は紀元前3世紀のものになります。
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海岸線に面した遺跡の見学は左上の博物館と小さな事務所の建物の間から始まります。見学ルートは決まっていて、地図上のラインと同じ遊歩道を歩くことになります。
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ケルクアンは建設資材やその技術に関する豊富な情報が含まれています。都市は二重の壁に囲われ、その厚さは14メートルもありました。背後には住居と神聖な空間が整地されています。
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都市の移行から推測するとここに住んでいた人々は2,000人を超えることはなかったようです。住宅の規模から1家族は5人から7人だったと考えられます。またその職業は職人や漁師や小規模な商人だったと考えられています。
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入口近くの比較的基礎部分がしっかりと残ったところは陶芸の工房だったようです。
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このような穴窯の痕が残されています。かなり規模が大きいのでこの町で使う陶器はここの辺りで製造されていたのだと思います。
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形状の違う窯の跡も残されています。
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我々以外の観光客の姿はほとんどありませんが、炎天下の中で遺跡の中で働いている人の姿がありました。
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居並ぶ住宅と住宅の間の紀元前3世紀の通りを歩いていると不思議な気分になってきます。
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住宅の跡の中には座って沐浴するエリアやトイレなどが完備されていたのが分かります。
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こちら側が住宅の入り口になります。かなり縦長の敷地だということが分かります。
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中にはこのような意思が真ん中に置かれた石が置かれた入口もあります。我が家の体形では住めない家だと思います。
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その先にはきれいに混石を敷き詰めた部屋があります。
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2300年この姿が残っていたのは奇跡だと思います。ピクトのようなひとがたは「タニト(Tanit)」と呼ばれる豊穣や出産、成長を司るカルタゴの女神です。その形状はエジプトのアンク(Ankh)と呼ばれる「生命」を意味する言葉の護符の形からインスピレーションを得ているそうです。
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エジプトのアブシンベル神殿の入り口の写真ですが、手に持っているのがアンクです。確かに似ているように思えます。
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タニトの崇拝はチュニジアにある古代フェニキア都市カルタゴのローマ時代に広まり、そこで彼女は「母」を意味する「イェンマ」と呼ばれていました。彼女はバアル・ハモン(またはアムン)神の配偶者でした。タニトはヘレニズム時代に西地中海のフェニキア世界で崇拝されて、現在のマルタからスペイン南部のカディスに至るまで広範囲にわたって信仰されていました。
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浴室やトイレは赤い漆喰で仕上げられているので見つけることが安易です。
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比較的大きな中庭のある家のレイアウトです。1番が中庭、2番が井戸です。3番が2階へ上がる階段、4番が浴室です。5番から7番が居室で、8番がキッチンです。
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遺跡にありがちな日影が全くないという状態とかなり暑かったので我々はファンベストを着込みましたが、持ってきて良かったと思います。6月初旬と言っても北アフリカの日中はとても暑いです。
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ガイドさんの説明を聞きながら遺跡の中を進みますが、こんな時日本語が堪能な方で良かったと思うのは我々よりも添乗員さんだったと思います。
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英語のガイドだと同時通訳しなければならないし、遺跡など考古学の専門的な用語も分かりやすくしなければなりません。到着時の空港で、ガイドさんの顔を見て大喜びした添乗員さんの顔は忘れられません。
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この遺跡は古代ポエニの都市の跡で、ケルクアンは最終日に行く予定のカルタゴ、昨日滞在したハドルメトゥム(現在のスース)、ウティカとともに最も重要なポエニの都市の1つだったようです。
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カルタゴ(Carthago/Karthago)は紀元前にアフリカ大陸の北岸を中心に地中海貿易で栄えたフェニキア人による国家で、中心となる都市(首都)はチュニス湖東岸にありました。
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カルタゴは造船技術や水運や海上貿易のノウハウに優れ、地中海の貿易によって経済力や軍事力を誇り、地中海の西部の海上交易を支配しました。
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文化の中心地としても栄え、アフリカ北岸の広域やイベリア半島の南側を領土として支配しました。地中海南岸に本拠地を持つ大国であり、地中海北側に本拠地を持つローマと競い合うほどでした。
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紀元前9世紀ころに地中海東岸のティルスを本拠地としていたフェニキア人でしたが、本国のティルスがアッシリアに支配されてからは、カルタゴのほうが本拠地となり、ここを拠点として西地中海の貿易を支配してゆくことになります。
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イタリア半島を本拠地に台頭してきたローマと地中海の覇権を競うライバル関係となったことから敵対し、地中海覇権の鍵を握る中央部のシチリア島など島々の支配をめぐってローマと軍事的に激突していきます。
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カルタゴとローマの間の一連の戦争は当時ローマ人からは「ポエニ」と呼ばれていたことから「ポエニ戦争(紀元前264年から紀元前146年)」と呼ばれています。造船技術に長けて海軍力に優れたカルタゴに対して、ローマは陸上の歩兵戦では優れていましたが海戦は苦手とし、両国の軍隊は対照的であったようです。
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ハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカなど幾人もの卓越した軍事司令官が輩出され、ローマの本拠地を攻撃する目的でイタリア北部のアルプス越えを行って陸伝いに攻撃を行い、歴史に残るような大勝も成し遂げました。俗にいう「ハンニバルのアルプス越え」です。
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しかしローマの本拠地を支配することには成功せず、強大化しつづけるローマに対して次第に劣勢になり、ついにはローマ軍に都市を全て焼き払われ、もともと50万人はいたカルタゴ人は5万人になり、残ったカルタゴ人も逃亡したり奴隷になるなどし、カルタゴは滅亡していきます。
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フェニキアはギリシャ語でPhoinike、ローマからはポエニ(Poeni)と呼ばれていました。元々は古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名で、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域にあって、およそ現在のレバノンの領域がその地域に当たります。
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フェニキアという名称はフェニキア人の居住地がギリシャ語でポイニケーと呼ばれたことに由来しています。ギリシア人は交易などを目的に東から来た人々をこう呼びました。
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フェニキアがミュレックスと呼ばれる貝から取れる紫色の染料(貝紫)を特産としていたことから「紫色」という意味のギリシア語を語源とする説も存在するようです。実際この遺跡でも貝紫を採取していたということです。
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ローマの大浴場に比べるとかなり小ぶりの公共浴場の跡もありました。この施設は聖域の近くにあることからも身体の浄化とは関係があったと思われています。
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フェニキアについてはマルタ島の2回の旅でもいろいろ学んだことがありました。1回目はギリシャの島々を周った後にアテネからは飛行機でヴァレッタに入りましたが、2回目はフェニキアを意識して、イタリアのサレルノから定期航路のフェリーに乗ってチュニスの「ラ・グレット港(La Goulette)」を経由してヴァレッタに入りました。
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この海の沖合いをのんびりフェリーで航行した旅のことも思い出します。同じような天気の良い日でした。
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一番長めの良さそうな場所にあった浴室ですが、実際には海岸線は紀元前はもっと先にあったようです。ガイドさんによると海中には港などが沈んでいるということでした。海岸線の浸食や海面上昇など危機に面した遺跡でもあるようです。
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ファンベストを着込んで快適な見学でした。同じ時期にマルタ島を旅した時は妻は陽射しによる咳喘息を発症してしまい苦しそうでかわいそうでした。それでも翌週のフェリーが来ないと帰れない旅でした。
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この町には雨水などを排水溝で集めるようなシステムも採用されていました。井戸は各所にありましたが、それでも真水の確保は生活に必須だったのだと思います。
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我々以外1家族が遺跡を見学しているだけでした。ツアーの最後尾を歩いていると一人で旅していた頃のことを思い出します。久し振りにキプロス島にも行ってみたいなと思います。
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水廻りがすべて残された家がありました。
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ローマ帝国のコンクリートを使った建築の強度は現在のコンクリートを凌駕しますが、フェニキアの漆喰も良く残されていると思います。出口に向かいながら添乗員さんに「博物館の見学はしないのですか?」と尋ねると「予定表には入っていないので。」
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ここまで来てすぐ横にある博物館を見ることが出来ないなんてと思っていると、その話を聞いていたのかガイドさんが「予定には入っていませんが、博物館も見ていきましょう。」と予定を変えてくれました。
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ギリシャ時代のヴィラのような建築なので、当時のこの町の建築を模したのかもせれません。壁の中にアンフォラ壺が埋め込まれています。
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「ケルクアン博物館」
1987年に開館したケルクアン博物館にはカルタゴの都市とそれに関連する墓地の発掘調査で発見された遺物の一部が収蔵されています。展示されているコレクションは日常生活、宗教生活、死者の領域に及びます。 -
最初の部屋は日常生活に特化し家庭の道具である皿やカップ、アンフォラやランプ、花瓶など、人々が日常生活を送る様子を見ることができます。
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カルタゴの陶器の他にギリシャやマグナ・グラエキアから持ち込まれたアッティカ陶器などの輸入陶器もあります。紀元前6世紀のケルクアンにはギリシャ人の文化と美学を理解できる人々が住んでいたことが分かります。
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玉縁のアンフォラには船上の装飾が施されています。船に積み込むタイプのアンフォラではなく、実際に家庭で使う形状になっています。
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こちらはギリシャで造られた黒色陶器のアンフォラです。地中海での交易が盛んだったことが窺えます。フェニキア人は優れた商人であり、その繁栄は海上交易に支えられていました。紀元前8世紀には地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に至る交易ネットワークの中心地となっていました。
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イベリア半島にあったタルテッソスの銀をオリエントに持ちこむ航路はフェニキア人が独占していました。紀元前13世紀から紀元前12世紀にかけて海の民によって東地中海は荒廃しますが、フェニキアの都市は難民を受け入れつつ拡大し、西方へ進出していきます。
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紀元前11世紀にはイスラエル王のダビデと友好関係を結び、紀元前10世紀にテュロス王のヒラムはイスラエル王のソロモンと共同で紅海の貿易に進出します。
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紀元前9世紀にはテュロスを中心にフェニキアの貿易網が栄え、その様子は旧約聖書のエゼキエル書に記されています。ギリシア人のホメロスは叙事詩「イリアス」や「オデュッセイア」でフェニキア人を船を操る商人や職人の集団として表現しています。
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アスコスは古代ギリシャやローマ時代に香油や酒を入れるために用いられた壺です。
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紀元前4世紀前半に造られたもので、上部の穴から一滴づつ垂らすように作られ、油や香油、蜜などを濾しながら垂らして中に液を入れることが出来ます。
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生き生きとした魚が描かれた大皿です。エイの描き方がローマ時代のモザイクと同じなのが面白いです。
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ハンドル付きアスコスはシンプルな素焼きの上に赤色の彩色が施されています。
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このアスコスは馬を表しているようで、両脇にアンフォラ壺を背負っています。
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左のボウルに入ったのは黒曜石の破片です。右はミニチュアの椅子とテーブルのようです。
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かなり良い状態でテラコッタが残されています。これらは墓の副葬品のようです。
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デメテルの頭部の香炉はギリシャの博物館でもよく見るスタイルです。
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ベッドの上の男性は彫刻としても完成度がとても高いです。
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スキュラ(Skylla)は「オデュッセイア」では3列に並んだ歯を持つ6つの頭と12本の足が生えた姿と書かれていますが、「変身物語」では上半身は美しい女性で、下半身からは足の代わりに幾つかの犬の体が生えた姿をしているとされます。紀元前3世紀のテラコッタです。
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左側はクアドリガという戦車でのでの勝利、右はアマゾネスの頭部です。
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ヒッポカムポス(hippocampus)はギリシア神話に登場する半馬半魚の海馬で、前半分は馬の姿ですが、たてがみが数本に割れて鰭状になり、前脚に水掻きがついています。胴体の後半分が魚の尾になって、ノルウェーとイギリスの間の海に棲んでいるとされます。ポセイドンの乗る戦車を牽くことでも有名です。
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紀元前3世紀に造られたグリフォン(griffon)の描かれたテラコッタ製の小祭壇で、家庭で使われたもののようです。グリフォンと雌馬の間に生まれ、鷹の上半身に馬の下半身をもつ生物はヒッポグリフ(hippogriff)と呼ばれ、ハリーポッターの映画にも出てきました。
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テラコッタも面白いものが数多くありました。
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キャプションでは若い男性の頭部とありましたが、男性の生殖器がついているその姿はヘルマ(herma)を連想させました。古代ギリシアの神ヘルメスの名はこのヘルマに由来するとされ、ヘルマは街道と境界の境界線を示す目印として使われました。他にもアテナイでは幸運を招くよう家の外に置かれました。
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髭を生やした神の頭部はトルコのネムルトダ―の山頂で見た神像の頭部の姿に似ています。
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クーロトロフ(Courotrophe)はギリシャ・ローマ古代の子供を養い育てる女性像です。
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ケルノス(Kernos)は供物を入れるためのいくつかの小さな容器が取り付けられた陶器の器です。
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素焼きのキャンドルスタンドもマトマタで買った素焼きの肌合いを思い出させます。
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実に写実的な羊の頭部です。区部の市を考えると胴体があったのではなく容器の一部だったのではないでしょうか。
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こちらもケルノス(Kernos)ですが、キャンドルスタンドとの違いが分かりにくいです。
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紀元前4世紀のテラコッタ製のライオン像です。モロッコを旅した時のアトラスライオンのことを思い出し、チュニジアにもライオンがいたのだろうかと考えてしまいます。
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動物型をしたガットス(Guttus)という急須のような道具です。これもライオンのような顔が彫られています。
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紀元前6世紀の女神小像は死者を護るための副葬品です。足元には一緒に埋葬された副葬品が並んでいます。
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紀元前4世紀から紀元前3世紀のガラス製のネックレスとブレスレットです。エジプト起源のアミュレットではないかと思われます。アミュレット(amulet)は「加護」「保護」を意味するラテン語「amuletum(アムレートゥム)」が語源で、古代エジプトの死者の書からは約200種類のアミュレット用の呪文が見つかっているほど歴史があります。
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見学してきた「ケルクアン遺跡(Kerkouane)」の模型も展示されていました。歩いてきたばかりなので細かく見入ってしまいます。
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建物のデザインを見るとやはりこの博物館の建物のデザインもここに起因しているのだと感じます。
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アフリカ系の人物を模したテラコッタ製の香水用容器です。ヨーロッパ世界の美術品として見掛けるムーア人(Moors)のような姿を想像します。実際ムーア人は中世のマグレブ、イベリア半島、シチリア、マルタに住んでいたイスラム教徒のことで、キリスト教徒のヨーロッパ人が最初に使った外来語でもあります。当初はマグレブ地方の先住民であるベルベル人を指すものでしたが、8世紀初頭以降イベリア半島がイスラム化されるにつれ、イスラム教徒を意味するようになります。ムーア人は明確な民族でもなければ、自らを定義する民族でもありません。
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スカラベ形印章も紀元前4世紀から紀元前3世紀のものとは思えません。
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古代ギリシャやローマ時代、それ以前のエジプト文明のアクセサリーの金属工芸のデザインを見るとその時代でデザインは完成されてしまっていると感じます。
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オイノコエ形容器も紀元前4世紀から紀元前3世紀のガラス製です。
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紀元前3世紀前半に造られたガラス製のアンフォリスコスで、高価な香油や軟膏を保存するために用いられました。紺色地に黄色と水色のガラス紐を巻きつけてジグザグ文を造っています。
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紀元前後にガラス工芸は大きく発展し、様々な技法が生み出されました。紀元前1世紀から紀元後4世紀頃にかけ、ローマ帝国領内ではガラス器の大量生産が行われるようになり、様々なガラス製品が重要な交易品として輸出されました。生産の中心はエジプトのアレキサンドリアやシリア地方のシドン等で、カットグラスやエナメル絵付けのガラス器とともに、精密なモザイクガラスや緻密な色文様のとんぼ玉が多造られました。。
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シグネットリングの始まりはメソポタミアのシュメール文明にまで遡ることができます。5000年以上も昔のことですが当時は指輪という形より円筒状のシリンダーに印章を彫り、文書に押し付けて使用したのが始まりです。金属製のシグネットリングは青銅器時代のメソポタミアに初めて生まれました。
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そして古代エジプトに古代ローマ、ギリシャ時代と時代を経ていきます。24カラットのような鈍い輝きに魅了されます。思いがけずに博物館を見学することが出来て良かったです。
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「ケルクアン遺跡(Kerkouane)」はボン岬のかなり先端部にあるので、お昼を食べるレストランまではあまり時間がかからなそうです。
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もっと歳を取って旅行に行くことも無くなったらこんなカフェで麦わら帽子を被って、幼馴染の友人と時間も忘れて話し込むのいいなと思うようになりました。
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西アジアから北アフリカにかけては大きく2種のハイタカが生息し、1つはアラビア語ではバーシャク(baashaq)と呼ばれ、もう1種はバイダク(baydaq)と呼ばれます。イスラム成立の7世紀初め初期から、血はハラーム(不可食)とされ、屠殺する場合は血は抜かねばなりません。問題となったのは鷹や犬、弓槍など間接狩猟で獲物をしとめた場合、獲物が即死かそれに近くても血抜きを十分に出来ませんでした。
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預言者の時代にも狩人や鷹匠がいて、ハラーム(不可食)に抵触する問題として預言者の許に来て論争となりました。その結果血抜きをせずにハラール(可食)とされるものとして魚類と並んで例外的に狩猟の獲物も加えられることになります。ハイタカを用いての狩猟伝統は今では北アフリカのチュニジアでもボン岬で保たれていることからオブジェやストリートアートとして紹介されていました。
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到着したのは岬の先端「エル・ハワリア(El Haouaria)」にある「ラ・ダウレデ(La Daurade)」というレストランです。友人の添乗員さんにLineで写真を送ると行ったことがあると言っていたので、日本の旅行会社ご用達の店なのかもしれません。
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気持ちの良いテラス席でのランチです。ここで初めて同じツアーのご夫婦と話をする機会がありました。我々以外に2組のご夫婦がいらっしゃいましたが、いつも4人テーブルで一緒だったのですが、ここでは横並びでした。
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朝ホテルを出てからかなり時間が経っているのでお腹はペコペコです。周りのテーブルに出ている料理を見ると期待出来そうです。
ラ ドラード シーフード
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このレストランの先にももう1軒レストランがありました。海の色と荒地の雰囲気からもマルタ島やゴゾ島の海岸線のリゾートを旅したことを思い出します。
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まずは冷たいビールで乾杯です。ここでもチュニジアで一番人気のあるセルティア(Celtia Beer)です。
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西の沖合にはザンブラ島(Zembra)が見えます。この島の沖合をフェリーで通過したことがありますが、全く記憶にはありません。
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まずはスパイシーなスープがサービスされました。濃厚でとても美味しいです。
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チュニジア料理というよりは地中海料理といった感じの豆とエビの煮込みが続きます。パンにスープを浸み込ませていただくとビールもすすみます。
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デザートはチョコレートムースです。量的にはちょっと物足りませんでしたが、ボン岬の絶景を眺めながらの食事は楽しかったです。
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食事の後は周辺を少し歩いてみます。
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ここまで来たら岬の先まで行ってみたい気になりますが、グーグルマップで見てみるとバスでは行けないことが分かりました。
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マルタ島までは300キロほど距離が離れていますが、その風景はとても似ていると思います。ここからはチュニスへとバスを走らせます。
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しばらくは海岸線沿いの絶景の中を走ります。もうボン岬の西海岸になっています。
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再び羊の姿をよく見掛けるようになります。
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そして麦畑が広がります。
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この女の子は同じシャツなので姉妹だと思いますが、羊を取り合っていました。それくらい身近な存在なのだと思います。
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羊の群れの移動には車道を使っていることが多いです。道を塞いで車両の邪魔になっても運転手さんはじっと待っています。
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この羊たちはもうこの世にはいないのかもしれません。昔イスタンブールの羊料理専門店に入ったことがありました。メニューは簡単で羊の内臓のスパイシーなスープと羊の頭脳みそ添えか羊の頭脳みそなしだけでした。値段が同じなので脳みそ月を注文しました。頭のままではなくそぎ落とした肉が積み上げられているので食べやすかったです。ただ、頬肉をフォークとナイフで持ち上げたら黒い眼玉が2つ。目が合ってしまったらその先は食べ進めることは出来なくなりました。
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ISUZUのピックアップトラックとスイカの組み合わせは実にチュニジア的な風景です。
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ボン岬の小さな集落でもフルーツを売る店は多かったです。
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名前も分からない集落のロータリーに建つオブジェを幾つも通り抜け。
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ガイドさんの知ったカフェでトイレ休憩になりました。ツアーでなければ日本人が来ることは絶対にないような場所です。
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カフェでトイレを借りるだけだと有料ですが、ガイドさんに習ってレモネードを注文してみました。レモネード1杯を2人で飲んで2人分のトイレチップを考えると得した気分です。冷たくて美味しかったです。
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そして犠牲祭用の羊たちがバスの車窓を流れていきます。
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数を数えたら眠たくなりそうですが、子供のころから旅先の乗り物の中で寝ることは父親に禁止されていました。外の風景を見て何かを感じなさいというのが教えでした。
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50年経ってもその習慣は変えることか出来ず、絵葉書を出す習慣もやめられず、旅行前にスケジュールを造ることはたとえツアーであっても必須の作業です。
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旅先で日記をつける習慣は今となっては4トラベルの旅行記を作成するのにはとても役立っています。旅行をし過ぎて旅行記をアップする前に次の旅が始まってしまいます。
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また名前も知らない町を通り過ぎます。
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ロータリーの看板にチュニスの文字が現れました。
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絵に描いたような美しい麦畑を通り過ぎていきます。
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見覚えのある岩山が見えてきました。チュニスに到着した日にバスに乗って最初に見えた山です。ようやくチュニスに戻ってきたと実感できました。
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チュニス湖を越えればチュニス市内ももうすぐです。
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ボン岬を一気に走り抜けてきましたが、この日はまだチュニス市内の観光が残っています。
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