2024/06/10 - 2024/06/10
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kojikojiさん
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チュニジアも最終日になりました。「エルムラディホテルアフリカ(El Mouradi Hotel Africa)」の部屋からは「ハビブ・ブルギバの騎馬像」とその向こうに「ビッグ・ベン・アリ」というニックネームで呼ばれる時計塔が見えます。さらにその向こうの朝日の当たる「チュニス湖」を見ていると旅も終わりだと感じてきます。荷物を廊下に出して朝食を終えて最終日の観光に出掛けます。最終日はカルタゴ(Karthago)の遺跡観光です。地中海を定期航路のフェリーで旅していた若い頃はフェニキアとカルタゴに漠然とした憧れを感じていましたが、今回の旅でようやくその遺跡を見ることが出来ました。まずは「ビュルサの丘(Byrsa)」に向かいますが、その途中で「ラ・グレット港(La Goulette)」を通過しましたが、懐かしさでいっぱいになりました。2006年にマルタ島を旅した際はイタリアのサレルノからフェリーに乗って、この港を経由してヴァレッタに向かいました。夕刻のアザーンの中でいつかチュニジアを旅しようと願ったことを思い出します。残念ながら妻にはそこまでの思いは無かったようで「そうだっけ?」と全く記憶が無いようです。「ビュルサの丘(Byrsa)」は巨大な「サン・ルイ教会(St Louis Cathedral )」の前の駐車場でバスを降りて見学を始めます。この大聖堂の見学は含まれていないのが残念でした。この日の朝にガイドさんにいつも作っているスケッチブックの日記を見てもらいました。ここまで食事したレストランのカードやホテルのパンフレットなどを貰っていた理由が分かったようで、ここでも1枚だけパンフレットをもらってくれました。ウェルギリウスの記述ではカルタゴを建国したディドと彼女の一行が野営していたとき、地元のベルベル人の族長は彼らに1枚の牛皮で覆えるだけの土地を提供すると申し入れしました。そこでディドは牛の皮を小さな帯状に切り、丘の頂上を完全に取り囲むように地面に置きました。ビルサは古代ギリシャ語で「牛の皮」の意味があるというガイドさんの説明は面白かったです。遺跡自体は住宅街に接しているので、いにしえの時代に思いを馳せるにはちょっと残念でした。ただ当時と変わらないであろう眺望の良さは素晴らしかったです。併設されている博物館も現在閉鎖中の陽で見学することは出来ません。次にまた住宅街をバスで走り、「トフェ(Tophet)」という墓地を見学します。ガイドさんは説明しませんでしたが、ここには子供の墓が数多くあります。それらはいけにえにされた子供の墓で、元々トフェはエルサレムの近くを指す言葉で地獄と同義語です。次は近くにある「古代カルタゴ軍港跡」です。昔からよく見る円形の軍港の縁に立っていると思うと感慨深いものがありました。近くに立ってもその全景は分かりませんが、先の「ビュルサの丘(Byrsa Hill)」からここを望むことが出来ました。最後は「アントニヌスの共同浴場( Thermae Antonini)」の見学です。第15代皇帝アントニヌス・ピウスの名前を冠する属州内で最大規模でローマ帝国内でも第3位の規模の施設であった浴場は確かに巨大でした。ただ、かなり崩壊が進んでおり、浴場らしさは感じられませんでした。カルタゴの見学はここまでで、バスで15分ほどの「シディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said)」に向かいます。ここは特に観光するところはなくガイドさんと一緒に街歩きをして、雰囲気の良い「カフェ・デ・ナッテス(Café des nattes)」でミントティーをいただきます。その前に「ベニエとバンバルーニの店(Beignets et Bambalouni)」で買った揚げたてのドーナツを一緒にいただきましたが、甘くてとても美味しかったです。その後30分ほどフリータイムになり、面白いアンティーク店を見つけましたが、欲しいものの値段が高く、さらに妻にダメだしされて残念な結果になりなりました。空港へ向かう途中の「ラ・グレット港(La Goulette)」の近くの「ラ・ヴィクトワール(La Victoire)」という店で最後のランチです。とても美味しい料理が続くのですがその量の多さにびっくりです。ここでガイドさんにお礼のチップを渡し、前からお願いしていた絵葉書と切手に代金を渡しました。2週間くらいで来るかと思っていた絵葉書は11月になってようやく届きました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- カタール航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- JTB
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チュニスのハビブ・ブルギバ通りにある高さ38メートルの時計は独裁者ザイン・エル・アビディン・ベン・アリによって2001年に建てられたことから、「ビッグ・ベン・アリ」というニックネームで呼ばれています。
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ベン・アリの23年間の権力はチュニジアの公共の場に時計のモニュメントを数多く残しました。2011年1月14日、ベン・アリは前年の12月に始まった民衆の反乱によって国外逃亡を余儀なくされました。この反乱はこの地域で起こった一連の反乱の最初のものでした。
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チュニジアのジャスミン革命から10年が経ち、民主主義が確立されたことにより基本的な自由がもたらされましたが抗議活動は国中で激化しました。その理由の一部はベン・アリの大時計が象徴するものが生き残っていることにありました。
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大時計の脇にはチュニジア共和国の初代大統領ハビブ・ブルギバの像があります。独立後にブルギバはチュニジアを植民地化したフランスの大臣ジュール・フェリーの像を撤去し、馬に乗った自分の像に置き換えました。そのためベン・アリが1987年に権力を握ったとき、政治的な象徴であるブルギバ像を排除する必要がありました。象は一度撤去される憂き目に遭いますが、再びこの場所に戻されています。
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チュニスも今日が最終日で、カルタゴ(Karthago)の遺跡観光が終わるとその足で空港へ向かうだけとなります。
エル ムラディ ホテル アフリカ チュニス ホテル
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今日も朝のレストランはガラガラでした。前の日にトラピックスのツアーもこのホテルに到着していましたが、その後見掛けることはありませんでした。
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バスに乗って「ビッグ・ベン・アリ」の脇を通ってカルタゴ(Karthago)に向かいます。
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バスは「チュニス湖(Lac de Tunis)」の中を走るラデス・ラグレット橋を走り抜けます。
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ラデス・ラグレット橋は名前の通り「ラ・グレット」と「ラデス」の間のチュニス湖運河に架かる橋です。チュニジア最大の橋でベン・アリー大統領により2009年に開通した。橋の開通前の運河の横断にはフェリーが使われていたようですが、乗船待ち時間は最低でも30分かかっていたそうです。
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橋を渡りきると「ラ・グレット港(La Goulette)」が見えてきました。この港は妻とイタリアのサレルノから乗ったグリマルディ社のフェリーでマルタのヴァレッタへ行く途中で寄港したところです。
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その当時に乗ったグリマルディ社のフェリーが見えないかと探してみましたが、週に1回しか来ない船ですから探せるのは無理でした。
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幾つかのロータリーを通過しますが、その中にはそのエリア特有のオブジェが置かれてありました。一瞬フラミンゴかと思いましたが、冠羽があるのでコサギだと分かりました。
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このモニュメントは「チュニス-カルタゴ国際空港」への分岐のロータリーにあったものです。
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橋を渡ってから30分もしないうちにカルタゴ(Karthago)の表示も見えてきました。
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まずは「ビュルサの丘(Byrsa Hill)」まで登って遺跡の見学からスタートします。近くには現存しているカルタゴの遺跡のマップがありました。
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入口ではガイドさんが1枚だけパンフレットを貰ってくれました。この日の朝に旅行中に彼から聞いた話はスケッチブックの日記に書き留めていました。彼はそれをとても喜んでくれて、一緒に張り込んだレストランのカードなども見ていたからのことでした。
カルタゴ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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ビュルサとはフェニキア語で「城塞」を意味する言葉から派生しているそうです。古代ローマの詩人ウェルギリウスによると、カルタゴを建国した伝説上の女王ディード(Dido)の一行がこの地を訪れた時、地元のベルベル人の長イアルバースは「牛の皮1枚で覆えるだけの土地」しか与えないと言ったそうです。
カルタゴ遺跡 史跡・遺跡
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ディードは牛の皮を細長く切り裂いて紐状とし、それでビュルサの丘を囲ってその土地を手に入れたという伝説が残っています。また、ギリシア語で牛の皮を意味するβυρσαが転じてフェニキア語のByrsaになったとも言われています。
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2000年前の一帯の地図がありました。チュニス湖は現在よりも大きく、セブカ・アリアナは完全に海で、カルタゴは三日月型の半島だったことが分かります。
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在りし日のカルタゴの町の想像図にロマンを感じます。有名な古代カルタゴのシンボルである「円形軍港(Punic Ports)」も見えます。対岸にはボン岬の根本にある「ブコルニヌ山(Mount Boukornine)」も見えます。
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「2本の角を持つ者」という山の名前は元々はポエニ語に由来しています。その名前は標高576メートルと493メートルの2つのピークから来ています。古代カルタゴではこの山は神聖なものと考えられており、そこで宗教的な儀式が行われ、問題の神は2本の角で表されたバール・ハモンでした。バアル・ハモン(Baal Hammon)は古代カルタゴの主神で、天候と植物の繁殖力を司る神で女神タニト(Tanit)の夫でもあります。
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カルタゴは造船技術や水運や海上貿易のノウハウに優れ、地中海の貿易によって経済力や軍事力を誇り、地中海の西部の海上交易を支配しました。カルタゴを興した「フェニキア人(Phoinike)」という名称は自称ではなく、ギリシア人による他称で、ギリシア人は交易などを目的に東から来た人々をこう呼びました。
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紀元前9世紀に北アフリカに建設された植民都市カルタゴはフェニキア本土の衰退とは別に繁栄を続けていましたが、3度にわたるポエニ戦争の結果、共和政ローマに併合されて滅びます。ポエニ(Poeni)とはラテン語でフェニキア(Phoiníke)を指す言葉です。
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先ほど通過してきた「ラ・グレット港(La Goulette)」もきれいに望めました。地中海を航行するフェリー航路の多くは乗っていますが、以前は情報も少なくチケットすらどこで買えばいいか分からない時代でした。夜遅くにコンテナの並ぶ真っ暗な港を歩いて、乗船手続きをするドキドキ感が懐かしいです。
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古代カルタゴが繁栄し、丘の麓の市街地とビュルサの丘の軍用地は一体となって発展しましたが、第三次ポエニ戦争末期の紀元前146年にスキピオ・アエミリアヌス率いる共和政ローマ軍に敗れたことでカルタゴは陥落し、ビュルサの施設も破壊されました。
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西ローマの支配が弱まると西暦439年にガイゼリックはカルタゴを占領しました。ヴァンダル王はビザンチン皇帝(東ローマ帝国)ユスティニアヌスが533年に再征服するまでビュルサから北アフリカを支配しました。イタリアのラヴェンナやイスタンブールを旅して覚えたユスティニアヌスがここでも登場しました。
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カルタゴの港は船が一方から他方へ通過できるように設計されていました。海からは幅約21メートルの入り口からアクセスでき、入り口は鉄の鎖で閉じられていました。商船用の港には数多くの多様な係留設備が設けられていました。内港の真ん中には島があり、これらの港に沿って220隻の軍艦を収容できる格納庫があったようです。
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この丘からの眺めはカルタゴを感じるには一番良いロケーションだと思います。この後に円形軍港の畔にも行きましたが、その形を感じることは出来ませんでした。
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遺跡には昔の大砲の玉が置かれてありました。大砲と言っても火薬を使った筒状のものではなく、カタパルトと呼ばれる投石器です。古代中国では遅くとも紀元前5世紀初頭には使われはじめ、欧州(シチリア)では紀元前4世紀初頭に開発され、古代ギリシャでもアレクサンドロス大王の東征において使用されています。
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遺跡に隣接して「国立カルタゴ博物館」がありますが、修復工事中のようで、この時は閉館になっていました。この場所にはフェニキアのアクロポリスがあったとされます。
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遺跡の広場の一角には偶然発見された「ビュルサの若い男性(Young Man of Byrsa)」の墓がありました。1994年に博物館の正面に木を植えていた庭師が、ポエニの埋葬地下室を発見しました。
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この地下室の中には若い男性の遺体とさまざまな埋葬品があり、すべて紀元前6世紀後半のものだったそうです。この若者の骨学的分析により、身長は約1.7メートルで、年齢は19歳から24歳であることが判明し、頭蓋測定分析ではアフリカ人やアジア人ではなく、地中海に住むヨーロッパ人の祖先である可能性が高いことが示されました。
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トイレのピクトマークが「ケルクアン遺跡(Kerkouane)」で見てきた女神タニト(Tanit)の姿によく似ています。
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遺跡に隣接する「サン・ルイ教会(St Louis Cathedral )」はフランス時代の遺構となっていて、現在は教会としての役目は果たしていないようです。このように遺跡の上に建てられた建物はこの周辺に多いです。
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発掘された地下の遺構は隣接する別荘の下に続いていました。現在は新たな建築物の建設は禁止されているようですが、建ててしまった別荘の撤去は出来ないようです。
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教会の中は見学できるようですが、今回のツアーの立ち寄り先には入っていません。もっともこの時はひと気が感じられなかったので閉まっていたのかもしれません。
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見学を終えて次の「トフェ(Tophet)」までバスで移動します。
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バスは住宅街の中へ迷い込んでいくようです。そんな街角にも犠牲祭のための羊の姿があります。
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「トフェ(Tophet)」の入り口には古い石板が埋め込まれ、そこには女神タニト(Tanit)の姿がありました。
トフェ 史跡・遺跡
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「トフェ(Tophet)」は元々はエルサレムのヒンノム渓谷(ゲヘナ)の地名で、子供を生贄としてモロクという神に捧げる儀式が行われていました。聖書はこれらの犠牲を非難して禁じていましたが、預言者エレミヤ、エゼキエル、イザヤによるとトフェに関連する慣習が持続していたことを示唆しています。トフェの町は最終的にヨシヤ王によって破壊されます。
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聖書やヘレニズム時代の資料によってフェニキアとカルタゴで記録された同様の儀式と関連付けています。生贄がモロクという神に捧げられたかどうかについては意見が分かれているようです。
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考古学者はヘレニズム時代や聖書の資料で説明されているように、伝統的に生贄の人間の子供を埋葬していると信じられてきたカルタゴの遺跡で発見された子供たちの大きな墓地に「トフェ」という用語を用いましたが、単に子供用の墓地で合ったという説もあるようです。
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並べられた墓碑には女神タニト(Tanit)の姿が多く彫られています。タニトの崇拝はカルタゴのローマ時代に広まり、そこで彼女は「母」を意味する「イェンマ」と呼ばれていました。
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タニトはカルタゴにおける月の女神アスタルト(イシュタル)の同等神であり、ローマ人はタニトをユノーの一形態として解釈しました。
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この遺跡も隣接する別荘や邸宅の地下へと続いていました。勉強にはなりましたが、由来を学ぶと観光ツアーで来るにはちょっと重たい遺跡でした。
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住宅街の道路は徐行運転をしなければならないようです。自動車と自転車の時速20キロは分かりますが、歩行者も時速20キロで走るのは大変だと思います。
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そんな美しい住宅街をトラクターが通過していきました。我々の乗っている観光バスでさえ場違いな気がします。
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こんな美しい街路樹の道を進んだ先でバスを降りました。
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そこは「円形軍港(Punic Ports)」の跡地がありました。先ほど「ビュルサの丘(Byrsa Hill)」から見下ろしたところです。
古代カルタゴ軍港と商業港 史跡・遺跡
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対岸の丘が「ビュルサの丘(Byrsa Hill)」で、「サン・ルイ教会(St Louis Cathedral )」もきれいに見渡せます。
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「ハンニバル通り(Rue Hannibal)」なんて通りの名前にロマンを感じます。ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca)はカルタゴに実在した名称で第2次ポエニ戦争を開始した人物でもあります。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味があります。連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられています。
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「アントニヌスの共同浴場( Thermae Antonini)」まで移動してきました。今回のカルタゴの観光はここまでです。
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ガイドさんを先頭にして、説明を聞きながら広大な敷地の中に入ります。
古代ローマの浴場 (アントニヌス) 史跡・遺跡
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ローマ時代になるとカルタゴの町はここまで拡大し、格子状のグリットの町並みが完成されています。円形の軍港はそのまま残されているのが分かります。
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アントニヌス・ピウス浴場とも呼ばれるアフリカ属州のカルタゴに造られたこの公衆浴場は、建物の総面積35,000m2、長辺の長さが200メートルに達し、属州内で最大規模でローマ帝国内でも第3位の規模の施設だったそうです。
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第15代皇帝アントニヌス・ピウスの治世下の146年から162年頃に建設されたと推定され、碑文から157年から161年の間に完成したと考えられます。
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建築物の外装材として用いられた大理石やモザイクタイルは属州外から輸入されたもので、平面プランは帝都ローマの大規模な公衆浴場と同じく左右対称型となっています。
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古代ローマの公衆浴場はバルネア (balnea)やテルマエ (thermae) と呼ばれており、多くの都市に少なくとも1つの公衆浴場が存在しました。
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古代ローマ人にとって入浴は非常に重要で、1日のうち数時間をそこで過ごし、時には1日中いることもありました。裕福なローマ人は複数人の奴隷を伴ってやってきて、料金を支払った後に裸になり、熱い床から足を守るためにサンダルだけを履きました。奴隷は主人のタオルを運び、飲み物を取ってくるなどしました。
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入浴前にはランニングや軽いウェイトリフティング、レスリングや水泳などの運動も行いました。運動後には奴隷が主人の身体にオイルを塗り、木製または骨製の肌かき器で汚れと共にオイルを落としました。
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公衆浴場は基本となる3種類の部屋のカルダリウム(高温浴室)、テピダリウム(微温浴室)、フリギダリウム(冷浴室)を中心として建設されていました。
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ローマ人にとって公衆浴場は社会生活の重要な一部の施設として建設され、貧富の差を問わず誰でも利用できました。飲食、運動、読書、商売、哲学的議論などができる場所だもありました。
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外国人になぜ毎日公衆浴場に行くのか訊かれたローマ皇帝は「1日に2回行くだけの時間をとれないからだ」と答えたという話も残されています。
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規模の大きさもさることながら大理石で覆われた浴場は美しい彫刻で覆われていたことが想像できます。これまでのいくつものローマの公衆浴場を見てきましたが、規模はとても大きく感じました。
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アントニヌス浴場では建物中央のフリギダリウム(冷水プール)とその北西に隣接するカルダリウム(高温浴室)、南東に隣接するナタティオを軸線としていました。建物の左右部分には男女別にパレストラ(ジム)などの各部屋が設けられていました。日本では江戸時代まで男女混浴でしたが、地中海世界ではこれ以前より風呂は別だったのだと感じます。
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アントニヌス浴場は5世紀のヴァンダル族による支配を生きながらえ、建材を他の建物に流用されながらも規模を縮小して6世紀の東ローマ帝国統治下まで使われ続けました。その後カルタゴの支配がウマイヤ朝に移るとアントニヌス浴場は使われなくなり、倒壊したと考えられています。
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「アントニヌスの共同浴場( Thermae Antonini)」を出て、住宅街を抜けて最後の観光地の「シディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said)」に向かいます。
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「シディ・ブ・サイド(Sidi Bou Said)」以前はジュベル・エル・メナールと呼ばれていました。町自体は観光名所となり、青と白のコントラストが美しいことで知られています。
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12世紀から13世紀にかけてアラブのスーフィー学者のアブ・サイード・アル・バジ(Abu Said al-Baji)がジュベル・エル・メナールの村に来訪して聖域を設立しました。
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18世紀にはチュニスの裕福な市民がシディ・ブ・サイドに住居を建てはじめました。1920年代になるとフランスの画家で音楽学者のロドルフ・デランジェは青と白で建物を塗り分けることを提唱します。
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1914年に第1次世界大戦が勃発する直前、34歳のパウル・クレーは高校の同窓生で画家のルイ・モワイエとモワイエと通して知り合ったアウグスト・マッケとともにチュニジアを旅行してこの町を訪れています。
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有名なクレーの日記には「色彩は私を永遠に捉えた。私にはそれがわかる。この至福の時が意味するものは、私と色彩は一体だということ。私は画家だと言うこと」という記述があり、クレーの色彩画家宣言として理解されています。
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パウル・クレーは特に好きな画家ではありませんが、画家と同じ追体験をするとまた見方や見え方が違ってくるのは過去にも感じたことがあります。好きではなかった印象派の絵画も南仏のモンペリエからアルルへ向かう列車の車窓の糸杉を眺めていたら「あぁ、本当にこんな景色があるんだ。」と感じました。
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白い壁と青い扉にピンク色のブーゲンビリアが美しく映えています。なるほどこの町が人気なのが分かるような気がします。
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これまでの人生で一番美しい窓に嵌められた鉄格子です。この窓は絵葉書にもなっていました。
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そんな風景の中に妻は似つかわしくない上下真っ黒の姿です。
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チュニジアに来て久し振りに眺めた地中海もそろそろ見納めです。
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「ラ・グレット港(La Goulette)」からチュニスに向けて美しく見渡すことが出来ました。もう少し右には空港もあるはずです。
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足元のビーチには砂浜が広がり、ビーチパラソルも並んでいます。ボン岬の「ブコルニヌ山(Mount Boukornine)」と美しい海が絵になります。
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ガイドさんから「この町のお土産は他で買うより高いですよ。」と言われていたので眺めるだけですが、イタリアのシチリアやプーリアで見掛ける陶器と同じものが並んでいます。いろいろな国のものが混在しているようです。バリ島のウブドの郊外にはイタリア中で売っているピノキオの人形を作っている巨大な工場があったりしますから。
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ガイドさんがおすすめの「ベニエとバンバローニの店(Beignets et Bambalouni)」は揚げドーナツ屋さんです。
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揚げたてのものが並んでいますが、注文すると新たに揚げてくれます。これが「バンバローニ(Bambalouni)」と呼ばれるドーナツです。
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揚げたては膨らんでいますが、しばらくすると萎んでしまいます。
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結局買ったのは我々だけでした。1個0.5TDNで25円くらいです。揚げたてに砂糖をまぶして紙袋に入れてくれます。
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美味しいものを手に入れるとご機嫌です。どこでも買えるものより、こういったものを食べるのが旅の醍醐味ですね。
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ツアーの予定に入っているカフェは揚げドーナツ屋のすぐ近くでした。上段の青い格子のテラスがいっぱいになってしまったので、我々だけ下のテーブルに座りました。
カフェ デ ナット カフェ
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ここは「カフェ デ ナット(Cafe des Nattes)」という有名なカフェだそうです。
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まだ熱々でパンパンにふくれたドーナツをちぎりながらお茶が来るのを待ちます。ツアーにはミントティーが含まれています。持ち込みもOKです。
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ミントティーは砂糖入りか無しかは選べるようですが、疲れているので砂糖入れをお願いしました。1月にモロッコのマラケシュのジャマ・エル・フナ広場でミントティーを飲んだことが思い出されます。
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スペインのグラナダのアラブ街の「カスバ」というカフェでミントティーを飲んだのはもう6年前のことで、その時にモロッコとチュニジアへは近いうちに行こうと話し合った夢が今年2つとも叶いました。コロナの3年は本当に海外旅行に飢えた月日でした。
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店内は空いていたので中も見学させてもらいました。中には居酒屋の小上がりのようなスペースがいくつかあり、絨毯が敷かれてちゃぶ台が並んでいます。
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「シーシャ(shisha)」もここで楽しめるようです。2008年に長年の喫煙をやめてからタバコを吸うことは無くなりましたが、エジプトに行った際に一度だけシーシャを楽しんだことがあります。
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ハン・ハリーリ(Khan El Khalili?)にある「エル・フィッシャウエイ(EL FISHAWY)」というカフェでまったりパイプの煙をくゆらせた時もミントティーを飲みました。
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馬蹄型のアーチに鳥籠と白と青の町並みという典型的なチュニジアの風景です。
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カフェでお茶を楽しんだ後は40分ほどのフリータイムになりました。特に買い物をするわけでもないけどぶらぶら歩いてみます。
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「カフェ デ ナット(Cafe des Nattes)」の階段を降りた1つ目の路地の先にこんなお土産屋が見えました。直感的に絶対に面白いものがあると感じました。
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店の横の袋小路にもベルベル絨毯がたくさん置かれています。
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3畳ほどの店内はその場所で回転するしかならないほど商品が並べてありますが、今までどこでも見たことがない物ばかりです。声を掛けましたが誰もいないようです。
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表に出てみると額に入った絵がたくさん並んでいます。これが何なのか店主聞きたたかったのですが。吊り下げられている赤い帽子の人形はオスマントルコ戦士で、お守りの役目があります。
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下に並んでいるのはチュニジア北部の小さな町セジュナン(Sejeunane)で造られている陶器です。ベルベル人の伝統技術で新石器時代からあるという原始的な土焼きで、家の近くで取れる粘土を採取して水を加えて足で練り、生地を強くするために細かく砕いたレンガを混ぜるそうです。
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手びねりで成形した後は数日間乾燥させて、木の葉から出る葉汁で文様を描いていきます。飼っている家畜の糞で作った平炉で焼き上げる。という紀元前からの造り方はが伝承されています。
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欲しかったのはこの絵でした。黒いインクで描いた後に彩色を施したノアの方舟のようです。ノアの方舟の物語はさまざまな宗教の聖典で言及されています。紀元前2000年頃にシュメール人によって書かれた「ギルガメシュ叙事詩」にも大洪水の話が記載されていました。よく知られている聖典はキリスト教の「聖書(創世紀)」とイスラム教の「クルアーン(コーラン)」とユダヤ教の「トーラー」の3つです。クルアーンではノアの方舟は現在のトルコの東部に位置する「ジュディ山」に上陸したと述べられ、聖書(創世紀)ではトルコの「アララト山」に辿り着いたと書かれています。
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ガラスの入った額も一緒に造られていて、同じようなペインティングが施されています。モチーフはどれも旧約聖書の物語のようです。イスラム教の国であるチュニジアで造られていると考えると不思議な感じがします。
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一番欲しかったのがこの絵で、左側は聖ゲオルギウスのように思えました。ラクダに乗った女性は誰なのか?フラフラと店の主人らしき人がやってきましたが、英語は通じないのでどんなものなのか聞くことも出来ませんでした。ただ、値段は日本円で2万円ほどだということは分かりました。額の造りが雑なのと妻からのダメ出しがあったので諦めてしまいました。
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自由時間も終わり、バスに戻って空港方面に戻ります。「ラ・グレット港(La Goulette)」の町でバスを降りてレストランに向かいます。
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「ラ・ヴィクトワール(La Victoire)」というおしゃれなレストランです。
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2階に我々の席が用意されていました。少し後に欧米人の団体も入ってきたので、現地旅行会社がよく使うレストランなのでしょう。
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まずはニンジンサラダの「オメク・フーリア(Omek Houria)」です。マッシュ状になったニンジンがこんなに美味しいとは思いませんでした。ニンニクにレモン汁、コリアンダーやクミンパウダー、オリーブオイルとハリッサも入っているので味は濃厚です。
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続いて「タジン・マルスーカ」という卵料理です。マルスーカとは小麦粉、水、塩でできた皮のことで、ミルフィーユのように層になっています。チュニジアのタジンは普通の鍋を意味して、二の付いた三角形の土鍋はモロッコのタジンと呼ぶそうです。
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メインは「エビのオジャ」出下。どれも量が多くて今回初めて全部食べきれませんでした。どれも美味しかったのでちょっと残念です。給仕のおじさんにレストランのカードももらっておきます。
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サレルノからフェリーでこの港に着いたときはチュニジアに来ることはあっても近くに来ることは無いと思っていました。
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ガイドさんの最後の挨拶を聞いているうちに空港に着いてしまいます。彼の上手な日本語もお陰でチュニジアの歴史や文化をより深く知ることが出来たと思います。
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空港でガイドさんとはお別れです。絵葉書を彼に託して、切手代とお礼を渡しました。後は日本までの長いフライトが待っています。
Espace Privilege Lounge (チュニス カルタゴ国際空港) 空港ラウンジ
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