2023/08/02 - 2023/08/10
2位(同エリア532件中)
noelさん
この旅行記のスケジュール
2023/08/08
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バスでの移動
エルサレム プリマ・パークホテル:7時00分→旧市街
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糞門:7時28分→セキュリティゲート:7時34分
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セキュリティ・ゲート:7時34分→神殿の丘:7時46分
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岩のドーム:7時55分
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嘆きの壁:8時30分
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シナゴーグ:8時55分
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ヴィア・ドロローサ:9時10分頃
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聖墳墓教会:10時15分
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ルーテル救世主教会:11時18分
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カルド:11時28分
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ランチ:11時40分-12時40分
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聖ジャックのアルメニア修道院:12時45分
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シオン門:12時50分
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最後の晩餐の部屋:13時00分
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ダビデ王の墓:13時09分
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鶏鳴教会:13時25分
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鶏鳴教会側のビュースポット:13時53分
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この旅行記スケジュールを元に
【この旅行記はかなり長いので、適当に読み流してください。】
実は、途中まで入力してから、各宗教ごとに分けてアップロードすれば良かったと思いました。
ても、乗り掛かった船、仕上げることにしました。
モーゼの十戒の石板が祀られていたエルサレム神殿はユダヤ教の聖地です。
BC1000年にソロモン王が建設し、十戒の石板を祀っていました。
その後BC586年、バビロニア帝国によって破壊されますが、ユダヤ人によって再建されました。
ただ70年にはこの周辺は、ローマの支配下となります。そして神殿は破壊されてしまいました。その破壊された神殿の壁が「嘆きの壁」です。
こうして、ユダヤ人が祈りを捧げる聖地となりました。
また、イエス・キリストが十字架で処刑された土地でもあります。
イエスはナザレの田舎から宣教活動をしました。イエスの教えはユダヤ教の教えにとって反政府運動ともとれ、これを当時のユダヤ教指導者たちは脅威に感じました。そのため、ユダヤ教の指導者たちは、当時この地を支配していたローマ帝国と結託し、イエスを処刑しました。そのため処刑された場所と思われる場所に「聖墳墓教会」を建設し、キリスト教の聖地の1つとなりました。
また、預言者ムハンマドが昇天し、神からの言葉を授かったと言われています。その場所が「岩のドーム」です。
元々はアラビア半島のムハンマドの生地メッカ、そして亡くなったメディナが聖地ですが、それに次ぐ聖地となっています。
このようにエルサレムは三大宗教の聖地です。
なお、イスラエル国家はエルサレムを首都と宣言していますが、国連決議では認められていません。テルアビブが首都になっています。
世界最古の都市であり、現在も紛争の地です。
この地は世界遺産になっていますが、聖地の獲得を目的として民族間、あるいは宗教間で抗争の原因となっていました。
そして隣の国のヨルダンが遺産の保護のため世界遺産の申請を行いました。
1982年エルサレム旧市街と城壁を危機遺産として登録されました。
【旅程】
8月2日(水)
NRT 成田発 22時30分→DXB ドバイ着
8月3日 4時10分着(EK0319便 エミレーツ航空)
↓
8月3日(木)
ドバイ空港 5時20分
ジュメイラ・パブリックビーチ 5時50分
ブルジュ・アル・アラブ・ジュメイラ 6時15分
ドバイ・フレーム 6時45分
ドバイ・モール 7時10分
ブルジュ・カリファ(ハリファ) 8時00分
ドバイ・モール 9時00分
ドバイ水族館 10時15分
↓
ドバイ国際空港 11時00分
↓
DXB ドバイ 14時05分発→AMM アンマン 16時00分
(EK903便 エミレーツ航空)
↓
アンマン国際空港 17時15分
ペトラ(エドム・ペトラ) 20時10分
エル・ハズネ(ペトラ・バイ・ナイト) 21時00分
ホテル 22時30分
8月4日(金)
ホテル発 9時00分
ペトラ遺跡
シーク 9時30分
エル・ハズネ 10時20分
ローマ遺跡 11時10分
ランチ(Basin Restrant)12時00分
エド・ディル 13時40分
カフェ 13時45分
ビューポイント 14時10分
ペトラ博物館 16時10分
ホテル 17時15分
8月5日(土)
ホテル発 7時30分
モーゼの泉 7時45分
ネポ山 11時25分
マタバ 聖ジョージ教会 12時40分
ランチ Haret Jdoudna Restaurant & craft shops 13時00分
アンマン アブドラ一世モスク 15時15分
ヨルダン博物館 16時05分
シタデル 17時15分
リージェンシー・パレス・ホテル 17時45分
8月6日(日)
ホテル発 7時00分
サルト旧市街 7時35分
ジェラシュ遺跡 9時10分
↓
ヨルダン出国 11時45分
イスラエルへ入国 13時00分
↓
ティベリア ランチ 14時05分
山上の垂訓教会 15時05分
パンと魚の奇跡の教会 15時45分
シナゴーグ 16時10分
カペナーム 16時40分
プリマ・ガリル・ホテル 17時10分
8月7日(月)
ホテル発 7時30分
ナザレ
カナの婚礼教会 8時00分
マリアの井戸 8時55分
受胎告知教会 9時20分
聖ヨセフ教会 9時45分
ヨルダン渓谷 12時00分
ランチ エリコ Temptation Restaurant 12時45分
死海 14時35分
エルサレム プリマ・パーク・ホテル 17時20分
8月8(火)
ホテル発 7時00分 ●
神殿の丘 7時30分 ●
岩のドーム 7時50分 ●
嘆きの壁 8時30分 ●
シナゴーグ 8時55分 ●
ヴィア・ドロローサ 9時10分 ●
聖墳墓教会 10時15分 ●
アルメニア教会 10時45分 ●
シリア教会 11時15分 ●
ランチ Armenian Restaurant Bar「Bulghourji」11時45分 ●
シオン門 13時00分 ●
ダビデの墓 13時10分 ●
鶏鳴教会 13時25分 ●
ベツレヘム
生誕教会 15時10分
ホテル 17時00分
8月9日(水)
ホテル発 9時00分
オリーブ山 9時40分
主の泣かれた教会 10時00分
ゲッセマネの園 10時20分
万国民教会 10時25分
ベドウィンのテント 11時05分
テルアビブ
ランチ 13時10分
港 14時00分
バウハウス時代の建築 14時35分
↓
TLV テルアビブ空港 19時50分発→
DXBドバイ空港 23時59分着(EK932便 エミレーツ航空)
↓
8月10日(木)
DXBドバイ空港 2時40分発→NRT成田空港 17時35分着
(EK0318便)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- エミレーツ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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Prima Park Hotel(プリマ・パーク・ホテル)の朝食です。
この日はエルサレムの旧市街を歩きます。 -
早く朝食を済ませて、7時にはホテルを出発しました。
これはホテルを出たところです。 -
右方向にイスラエル博物館があります。
また、右方向にはBible Land Museum(聖書の土地博物館)もあります。
気になります。 -
なんだか白い変わった建物が見えますが・・・・。
-
実は目の前の建物こそがイスラエル博物館です。
白い鍋の蓋のようなタジン鍋のような形ですが「聖書館」です。
この建物の中に「死海文書」が所蔵されています。
ヨルダンでも見ましたが、こちらの方がたくさんあります。
見たいなぁ~・・・・・! -
車窓から写真を撮ってますが、ほとんどの写真がブレてしまっていました。(-_-;)
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Damascus Gate(ダマスカス門)です。
ヘブライ語では「シェケム門」と言い、現在のナブルスに続く門です。
また、アラビア語では「バーブ・アル・アームード」と言い、柱の門を意味しています。
実はBC597年から始まったバビロン捕囚の際に、このすぐ側で次のような事がありました。
ゼデキヤ王は城外に脱出して逃亡しました。途中エリコ付近でバビロン兵に捕らえられ、ハマトのリブラ(オロンテス河畔のカデシの南方)に連行され、ネブカドネザル王の面前でその子どもたちは殺され、彼自身は眼をえぐられ、鎖につながれてバビロンへ連行されました。
(列王記下25・7、エレミヤ記52章・7~11節)。
この時エルサレム神殿の宝物はことごとくバビロンへ持ち去られてしまいました。このダマスカス門のすぐ東にソロモンの石切場と言われる大洞穴があり、別名「ゼデキヤの洞穴」とも言われ、ユダヤの伝承では、ここからゼデキヤ王が城外へ脱出したとされています。8つの門の中で1番美しい門 by noelさんダマスカス門 建造物
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それがこの場所です。
Zedekiah's Cave(ゼデキヤ洞窟)、ソロモンの採石場とも呼ばれ、石灰岩の採石場です。
この採石場はエルサレムで1番大きな採石場です。
元々この洞穴は第一神殿時代からの石切り場だったと考えられていました。奥行き約200mあり、切り出された岩は50万トンと推定されています。
そして入口から約100m先に大きな広場があり、その岩の表示によると、1854年の冬に再発見された時、訪問者に交じってフリーメーソンのメンバーも訪れました。
フリーメーソンは、ソロモン王が最初のメーソンと考えていて、ソロモン王が、第一神殿を建てるため、この石切り場を用いたことでメーソンにとっては重要な場所であり、洞穴の主要な場所で、彼らの伝統的な儀式を挙行したそうです。そのため、この広場をフリーメーソン・ホールと呼んでいます。今も当時刻んだ印が岩面に残っています。
ただ、洞穴は一旦ヨルダン政府によって封鎖されました。ただ、6日間戦争後、再公開されました。
そして「1番奥に近い岩の上の割れ目の水槽から下に水が滴り落ち、そばにある表示には「ゼデキヤの涙」と書かれているようです。ただ、この水は飲むことはできません。 -
ダマスカス門は北西の城壁にあります。
この門からシリアの首都であるダマスカスに通じてます。
門は8つあります。
Damascus Gate(ダマスカス門)
Herod's Gate(ヘロデ門)
St.Stephens Gate(聖ステパノ門)
Golden Gate(黄金門)
Dung Gate(糞門)
Zion Gate(シオン門)
Jaffa Gate(ヤッフォ門)
New Gate(新門) -
これはヨルダンのマダバにあるモザイクの地図です。
イスラエルに来る前に、この教会に行って実際に撮った地図です。
地図はもっと広範囲を示してましたが、その中のエルサレム部分をズームしました。
この地図はビザンチン時代の物で、エルサレムを示した地図の中では現存する最古の地図です。
つまり当時はあって、現在はない物も描かれています。
ちなみにダマスカス門が左端にあります。(当時は、この門外でステファノスが殉教したため、ステファノス門と呼ばれていました。)
そしてその先に円柱広場があります。
第二次ユダヤ・ローマ戦争後、エルサレムはローマの植民地となりました。
その際、門の内側の広場の中央にハドリアヌス帝の像を載せた円柱が立っていたのです。
この地図にはそれが描かれています。
ご覧のように、これから行く聖墳墓教会や、カルドも中央に描かれています。
本件に関しては、東洋書林「聖都 エルサレム5000年の歴史」(関谷定夫氏)を参考にしました。 -
Herod's Gate(ヘロデ門)
ヘロデ王(ヘロデ・アンティバス)の家が近くにあったことに由来しています。
サロメの話でも有名なヘロデ王です。
ヘロデ・アンティパスは、ガリラヤとペレア地方の支配者でした。ヘロデ大王の3人の息子の1人で、父の死後ユダヤの一部分の支配者となったのです。
彼自身の兄弟の妻のヘロディアに横恋慕し、それまでの自分の妻を離縁した上でヘロディアを奪って妻にしていました。
洗礼者ヨハネはこの結婚が律法違反であるとしてアンティパスを非難していたのです。ヘロデはこれに怒り、ヨハネを牢に閉じ込めました。
ヘロデはヨハネを処刑したいとも思いましたが、民衆がヨハネを預言者だと信じていたので、処刑することはできませんでした。
ただ、ヘロデの誕生日の宴会で踊りを披露した娘サロメに、「何でも望みのものをやる」と約束しました。するとサロメは洗礼者ヨハネの首を所望したのです。
ヘロデは悩んだものの、客の手前拒否することもできず、洗礼者ヨハネを処刑したのです。有名なヘロデ王の名前が付けられています。 by noelさんヘロズゲート 史跡・遺跡
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アラブ人は「花の門」と呼んでいます。
1530年代にスレイマン大帝が城壁を建設した当時、塔の東側の側壁には小さな入口があり、めったに開かれませんでした。 以前は、この門内の広大な住宅地はベゼタ (新都市) として知られ、第二神殿時代後期、エルサレムの人口増加に対応するために建設されました。1875年までに、新しい地区への通路を提供するために、 旧市街の北で開発が始まっていたため、オスマン帝国はスルタン・スレイマン通りに面しアクセスが容易な塔の北側正面壁に新しい門を開き、元の横門を閉鎖しました。
1998年から2004年までに、イスラエル考古学局によりヘロデ門の東エリアが発掘されました。発掘は壁に隣接する 3つの別々のエリアに焦点を当て、そこでは鉄器時代からオスマン時代までの9つの考古学的な層が発見されました。
最も重要な発見の中には、第二神殿時代の建造物、ビザンチン・ローマ時代の壁の完全な部分と壁の下にある大規模な建造物の残骸が含まれていました。 これらの残骸は、古代イスラム時代及び中世の要塞の一部であることが確認されたようです。これらの発見は、都市の支配者が最も敏感な場所の1つである要塞に与えた重要性を指摘しています。 エルサレムの北壁、 実際、歴史的記述によると、1099年にゴドフロワ・ド・ブイヨン指揮下の十字軍が現在のヘロデ門の少し東にあった突破口を通って市内に入ったことが示されています。 -
ドームが見えてきました。
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バスを降りました。
遺跡がゴロゴロと無造作に置いているように見えます。エルサレム考古学公園 博物館・美術館・ギャラリー
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こちらから見えるのは、アル・アクサー・モスク
いわゆる「銀のドーム」です。古都エルサレムの三大宗教の聖地 by noelさん神殿の丘 城・宮殿
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立ち入れないように施錠されています。
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The western Wall Excavations(西の壁の発掘調査)
The Jerusalem Archeological Park(考古学公園)
神殿の丘の西南角の外側(左)です。
下の道から神殿に入るための大きな階段で、道の上を横切るアーチで王の柱廊の西の入口につながっていました。
ローマ軍がエルサレムを破壊した70年に、このアーチも破壊されました。
このアーチをロビンソン・アーチと呼びます。
ピンクで囲った箇所です。 -
名前はアメリカの探検家Edward Robinson(エドワード・ロビンソン)によって1838年に発見されたため、このように名付けられました。
アーチの直径は13mで、道路の高さから11m上に架けられていました。
アーチの下には、舗石路があり、その両側には商店が並んでいたようです。 -
Sha'ar Ha'ashpot (Dug' gate)(糞門)
ちょっとネーミングは綺麗ではありませんが、元々は焼却するために、屎尿やごみが神殿からヒンノムの谷に運ばれたために付けられたようです。昔は違う場所でした。
嘆きの壁には、ここが1番近いです。嘆きの壁や神殿の丘に近い門 by noelさん糞門 建造物
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ここから見たドームの南側、つまりこの写真の右奥ですが、ヘロデ王時代の階段が発掘されています。当時はその先に門がありました。
神殿に向かうため、おそらくイエスは、その階段を登ったと思われています。
ちなみにこの公園は入場料が必要です。
ツアーなので中には入りませんでした。 -
セキュリティ・ゲートを通ります。
バッグの中を開けて見せるように言われました。
また、パスポートの提示を求められる場合もあります。
今回はツアーでイスラエル在住のガイドさん同行だったので、提示は求められませんでした。
服装も注意です。肌の露出がないようにします。
ちなみに神殿の丘への入口は異教徒である私たちは、ここからしか入れません。
イスラム教徒は他にも入口がいくつかあります。
また異教徒は入場時間も制限されています。
日~木
夏期:8時30分から11時30分、13時30分から14時30分まで
冬期:7時30分から10時30分、13時30分から14時30分まで
イスラム教は金曜日が休日です。
ユダヤ教は金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日で休日となります。
また、神殿の丘領域への立ち入りは、この場所の聖さゆえ、律法により厳しく禁止されています。
(ユダヤ教師最高評議会)
誤って至聖所のあった場所に立ち入ることがないよう、厳しく警告されています。
通常は行列ができていたようです。
スムーズに入場できました。
ムスリム以外の観光客はこちらを入り、Moroccans' Gate(モロッコ門)から神殿の丘に入場します。他からは入場できません。 -
南側にはオリーブ山があります。
なんとなく右手にぼんやり見えます。
ところで、ヤッフォ門からは城壁の上を歩くこともできます。
北側のコースと南側のコースに分かれています。 -
Welcome Temple Mount(ようこそ、神殿の丘へ)
※ TempleのTの文字が切れてました。m(__)m
ついにやって来ました。 -
案内図のようですが、ヘブライ語なので読めません。
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神殿のレプリカのようです。
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木製の陸橋を通って行きます。
実は昔は屋根のついていない通常の遺跡を通って行けたのですが、2004年に坂道が崩落してしまいました。
そのため、この通路になりました。 -
橋から左手の下を見下ろすと嘆きの壁で、お祈りしている人たちが見えます。
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写真などでしか見たことのない光景を目の当たりにして、思わず立ちすくんでしまいました。
ユダヤ人の礎 by noelさん嘆きの壁 史跡・遺跡
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嘆きの壁の上は神殿の丘てす。
旧約聖書によると、かつてアブラハムが神の命令に従い、息子イサクを献げようとしたモリヤの丘でした。
それから3000年前ダビデがそこに契約の箱を置きました。
そしてダビデの子であるソロモン王が神殿(第一神殿)を建てた場所です。 -
左に見えるドームはアル・アクサ・モスクです。
705年から709年にかけて、ウマイヤ朝のワリード1世によって建設されました。
ただ、13世紀および15世紀に火災などによって幾度も再建や改築がされてます。
岩のドームや預言者のモスクと異なって創建当時の面影はミフラーブ手前のドームの壁面を除くとほとんど残されていません。異教徒は入場できませんが・・・。 by noelさんアル アクサー モスク 寺院・教会
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王の柱廊
ヘロデ時代は、神殿の南側にありました。
現在はこの場所に移されています。
ここに来た時、これは古代ローマ遺跡???
と思ってしまいました。
アンカンサスの柱頭のようなものまであります。
大理石の土台の上に、柱頭を重ねたようにも見えます。
この柱頭に関しての記述が見当たりません。
歴史的には、この神殿を破壊したローマが建設したとしてもおかしくないのですが。
ただ、ローマ遺跡なら、何かしら説明があるように思います。
それとも、神殿を破壊した憎きローマの事など、讃えたくもないのかもしれません。
本当にエルサレムは、複雑な歴史を持ってます。
ちなみに柱頭で画像検索すると、ヘブライ語の説明がありました。
それによると、リヴァク柱大通りとあります。
確かに列柱になってます。
第二神殿時代から何度も建設された古い遺跡の上に13-14世紀に建てられたとのこと。
ネット上の情報は、不確かな面も多いです。この記述については、個人的に信頼度10%位かと思います。汗汗汗
ソロモン神殿や、ヘロデ神殿の柱廊跡等々だったら、このようになっていないでしょうし・・・。 -
「Aelia Capitolina(アエリア・カピトリナ)」
この名前はエルサレムを破壊した後に建設された古代ローマの都市の名称です。エルサレムのユダヤ人は、66年ローマに対して反乱を起こしましたが、70年ローマ軍に制圧され、完全に破壊されました。
その後ハドリアヌス帝 (在位 117~138) の時代に、再びユダヤ人の反乱 (132) が起ったため、ハドリアヌス帝はエルサレムを徹底的に破壊しました。
ユダヤ的なものをすべて排除し、そこに新しい都市を建設して、ローマ名アエリア・カピトリナとしたのです。そして新都をローマの植民市 (コロニア) として、ユダヤ人の立入りを一切禁止しました。
これは4世紀にローマがキリスト教を公認するまで、この名前は存続しました。
この破壊される前の状態が気になります。 -
Temple Mount(Haram Sherif)
神殿の丘(アラビア語で、高貴なる場所)
BC1000年頃、ソロモン王によりエルサレム神殿(第一神殿)が建てられました。ただ、586年、バビロニア帝国により神殿は破壊されてしまいました。
その後、BC515年に第二神殿が再建されました。
ただ、BC70年に今度はローマ帝国によりエルサレム攻囲戦が行われ、再び神殿は破壊されてしまいました。
イスラム教の時代に、残されたエルサレム神殿の石壁の上に更に石垣を築いて、その上に岩のドームなどが築かれました。
現在も残っているエルサレム神殿の外壁(神殿の丘の西側外壁の一部)がユダヤ教の聖地「嘆きの壁」です。 -
アル・アクサー・モスクは元の神殿の遺構の上に建築されました。
実はテンプル騎士団の初期の本部です。
十字軍はその神殿を「ソロモン王のエルサレム神殿」と呼びました。
テンプル騎士団の名前は、テンプル(神殿)から名付けられました。 -
アル・アクサー・モスクは、イスラム教徒しか入れません。
ちなみに金曜日の礼拝の日に、パレスチナの人々が集まりますが、その際、イスラエル警察と衝突することがよくあるそうです。
その小競り合いの結果、暴動などが起きると、ガザからロケットが発射されることがあるようです。
簡単にロケット発射とは言いますがとんでもないことです。 -
おや、こんなところに猫ちゃんです。
猫ちゃんも神殿を守っているのかも・・・・。(*^-^*) -
El kas Fountain(The Bowl Fountain)
エル・カス(緑の柵で囲まれている)は、神殿の丘エリアにある49の地下貯水槽の内、最大の物の1つです。イスラム教徒は礼拝の前にここで体を洗います。複数の水道と、沐浴を行うときに座る椅子は、円形のベンチになっています。
この水盤はマムルーク朝のダマスクスの支配者によって1320年に造られました。最後にトルコのスルタンによって修復されました。 -
1193年にアル・アデル・アブ・バクル・ビン・アユーブのスルタンによって建てられました。
清めの噴水になっています。
石のスツールで囲まれた装飾された鉄の柵に囲まれた円形になっています。
中央の噴水と、沐浴に使用されるいくつかの蛇口があります。
一度改装され、最後にタルクズ・アン・ナシリ王子によって1327年に改修されました。 -
左は現在の神殿の丘です。
右はヘロデ王時代の神殿の丘です。
参照:図説 新約聖書の考古学より -
階段の上には黄金に煌めくドームが見えます。
ウマイヤ朝のカリフ・アブド=アルマリクが692年に建設しました。 -
ムハンマドがここから昇天したと言われる岩の上に建てられた記念堂です。
7世紀末に建設されました。
2000年以前は入れましたが、今はイスラム教徒以外入れません。
また、次のような歴史ある場所です。
アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山(創世記22章)
ダビデ王が祭壇を築いたエブス人アラウナの打ち場(第2サムエル24章)
ソロモンがエルサレム神殿(第一神殿)を建設(第1列王記5章)
バビロン捕囚からの期間後に、第二神殿を建設(エズラ記)
ヘロデ大王が改築し、ローマ軍により滅ぼされる(AD70年)
本当に旧約聖書の有名な物語の舞台です。
そこに異教徒の自分が立っていると思うと感慨深くもあり、僭越でもあり、不思議な感じがしました。美しいドームとタイル by noelさん岩のドーム 寺院・教会
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今は美しいこのドームですが、1993年雨漏りが問題となりました。
腐食してしまったアルミ合金から24金で表面書処理をした鉛板に張り替えました。
その際、サウジアラビア国王が資金供与を申し出たそうです。
ただ、ヨルダン国王はこれを辞退し、ロンドンに所有していた屋敷の1つを売却して資金を調達したそうです。
この屋敷はパレス・グリーンという通りに面した邸宅で、イスラエル大使館から4軒離れた所にあったそうです。
※ 「イスラエル秘密外交 モサドを率いた男の告白」エフライム・ハレヴィ著、参照 -
コロナ後の規制が緩和された後ですが、人はほとんどいません。
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「ハラム・アッシャリーフ」
イスラム教徒は、この岩のドームのことを高貴な聖域と呼びます。
「それを目にした者は誰でも、自分の表現力の乏しさを痛感するだろう」
1326年、エルサレムを訪れた旅行家のイブン・バットゥータが、岩のドームに驚嘆した際の言葉です。
確かに頷けます。
このドーム内には異教徒は立ち入りできませんが、内部の中央には石灰岩の岩が露出しているようです。ムハンマドは、この岩から天界に向かう旅をしたのだと言われています。
壁面は美しいアラビア文字の碑文で埋め尽くされているのだそうです。
そして大理石の階段を下り、聖なる岩の下に潜り込むと、「魂の井戸」と呼ばれる天然の洞窟があります。
この洞窟の下には天国の水が流れているとイスラムの伝承にはあります。
ただ、一部のユダヤ教徒とキリスト教徒の間では、この洞窟の下のどこかに秘密の通路が隠されていると言われてもいます。
謎です。
そして、この建造物は礼拝所としてのモスクではありません。
神聖な岩を覆った記念堂です。
ちなみに内部はイスラム特有の幾何学模様の装飾は全くないようです。
ちょっと意外でした。 -
内部にある聖なる岩は旧約聖書では、大洪水の後、ノアが上陸した岩とも言われています。
-
Hebron Dome (昇天のドーム(クバト・アル・ミーラージュ))
岩のドームの北西にあります。
十字軍によって岩のドームが教会に変えられた時に、その附属の礼拝堂として使用されました。外面は大理石板で被われていますが、入口は後に閉鎖されました。
ムスリムの伝承では、ムハンマドが昇天する前に、ここで祈ったとされています。 -
霊(板)のドーム(クバト・エル・アルヴァ)
岩のドームの北東にあります。八角形の建物です。
大理石円柱ののアーチで支えられています。直径4m、高さ2.5mです。
かつての神殿の至聖所があった場所の跡だと言われています。
このドームは別名「板のドーム」と呼ばれ、第一神殿の至聖所の床石の上に置かれていた「十戒」の板を記念したものと言われているようです。
そしてミシュナに記された真の基礎石は、このドームの床下にあるのだそうです。
ちなみに岩盤はむき出しになっています。
霊の門の真東に黄金門があることから、ここにエルサレム神殿があったのではないかと思われています。
ちなみに黄金門は現在封鎖されています。
これはメシアが黄金門を通ってエルサレムに来るというユダヤ教の伝承に対して、門を封じ、門前を汚すことで、メシアが通れないように墓地としました。
8本の大理石で支えられています。 -
この建造物は、外壁は八角形で、入口は東西南北の4方向にあります。
また創建当時から円柱が取り付けられています。
この美しいタイルはトルコ製のタイルのようです。
1516年にオスマン帝国の支配下になった際に、1561-1562年の間の修理で、張り付けられたようです。
スレイマン1世はこのためにエルサレムにイスタンブールからタイル職人のグループを送ったようです。 -
私たち以外にはほとんど人がいませんでした。
鳩がたくさんいるぐらいでした。 -
ブルーの幾何学模様のタイルは本当に美しいです。
実は、13世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(フェデリーコ2世)は、この美しさに魅せられて、イタリア南部にカステル・デル・モンテ(8つの塔を持つ、八角形のお城)を築いたとも言われています。
フリードリヒ2世は、シチリア王でもあり、アラビア語などの言語にも通じていました。神聖ローマ皇帝として十字軍を率いていきましたが、イスラム教徒と和平を築きました。
ローマ法王からは破門になりますが、異文化に対して寛容でした。
現在の世に、このような指導者がいれば・・・・・と思わずにはいられません。 -
ドームの上にまるで取っ手のように丸い物があります。
月を意味しているのでしょうか?
以前三日月形を見ました。
つまりこれは、新月でしょうか?
これについて気にかけているのは、私ぐらいなので、真偽はわかりません。 -
Dome of hte Chain(鎖のドーム(クベイト・エ・シルシレ))は修復中です。
ウマイヤ朝によって建てられ、十字軍の下でキリスト教の礼拝堂となりました。
エルサレムのムスリムの宝庫として用いられました。
その後、アイユーブ朝によってイスラム教の礼拝所として復元され、マムルーク朝、オスマン帝国、ヨルダンを拠点とするワクフによって改装されました。 -
東側を眺めています。
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この黄金に輝く岩のドームはエルサレムの中でも象徴的です。
様々な場所から見た際、光り輝いていました。 -
柱頭部分はアンカンサスのきめ細かい造りになっているようです。
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ドームの入口のタイルの柄です。
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同じ入口の天井部分を仰いでみました。
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扉の部分もきめ細かい彫りになっています。
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ウドゥ
ここで礼拝の前に手足や顔を清めます。
また、クルアーン(コーラン)では、「清められた者以外触れるな。」と書かれています。 -
こちらも同じです。
一列になっているタイプや、円形になっているものもあります。 -
噴水(カーイト・ベル・サビール)
マムルーク朝時代の建物として、最も立派な建築物と言われています。
神殿の丘と別れて、アラブ人居住地区に入ります。 -
細い路地を通ります。
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まるでミフラーブのような造りです。
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Chain Gate(チェーン・ゲート)鎖の門
緑色の扉で封印されています。
こちらは、確かイスラム教徒しか通れないはずです。 -
Bab el Silsieh RD.(バブ・エル・シルシレー通り)
チェーンズ・ゲート通りのようです。
ライトが剥き出しに垂れ下がっています。 -
細い道を通って行きます。
アーチになっています。この先には嘆きの壁があります。 -
嘆きの壁の傍のトイレの棚には、タナハ(旧約聖書)が置いてありました。
ユダヤ教は三大宗教の中で、1番古い宗教です。
世界最古の宗教はゾロアスター教と言われていますが、ほぼ同じ時期に誕生しました。
BC2000年頃、メソポタミアのシュメールの中心にあるウルにアブラムがいました。
アブラムは神託を受け、カナンの地を目指して旅をしました。その途中で、アブラムにイサクと言う名の息子が生まれました。
その後、ヤハウェがアブラムに、イサクを捧げるように命じ、アブラムはイサクを捧げようとしたところ、最後の最後に、ヤハウェが止めました。
その際に、アブラムという名前がアブラハムに変わり、ヤハウェから、あなたの子孫を祝福すると告げられまっした。
時が経過し、イサクには息子ができました。弟のヤコブは兄のエサウと喧嘩し一旦兄の元から逃げます。ただ年月が経過し戻った時、ヤコブがヤハウェと格闘します。
そして最後に、ヤコブにイスラエルと名乗るよう告げられました。
ヤコブには息子が70人ほどいて、その後は息子のことをイスラエル人と呼ぶようになりました。
ユダヤ人にとっては、アブラハム、イサク、ヤコブを先祖としています。 -
用紙をいただき、これに願い事を書きます。
そして西の壁の隙間に小さく折って詰め込みます。
男性は異教徒でもキッパを被らなくてはいけません。
キッパを被るのは、ヤハウェに対する尊敬と畏れを表すためです。
自分の物を持っていなくても、入口で借りることができます。
※ キッパは帽子のように頭に被る物です。 -
ユダヤ人会堂です。
西の壁(嘆きの壁)があります。
左が男性用、右が女性用になっています。 -
BC1300-1200年頃、モーゼはエジプトで奴隷として虐げられたユダヤ人をエジプトから脱出させました。
エジプトを離れたユダヤ人は、シナイ半島の荒野を約40年彷徨います。
その際にモーセがヤハウェと契約を結び、十戒と律法を授かりました。
これがユダヤ教の始まりです。
その後、長い年月が経過します。
エルサレム神殿は、ソロモン大王が第一エルサレム神殿を建てたことまで遡ります。ソロモン大王の治世で、イスラエル王国は貿易や商業などで、莫大な富を得ます。
また、この当時のイスラエル王国には敵国はなく、隣接国はイスラエルの属国となっていました。王国の最盛期には属国から貢物を献上されるなど、富のみならず、確固たる権力を保持していました。
有名なのが、シバの女王が貢物を献上した話です。
ただ、繁栄は長く続かず、ソロモン王が亡くなると、イスラエルは北と南に分裂し、衰退の一途を辿ります。そして北の王朝はBC722年にアッシリア帝国によって滅亡します。対して南王朝はBC587年にバビロニアによって滅亡します。
ただ、ユダヤ人はペルシャ帝国によってバビロニア帝国から解放されました。
そして神殿の再建に取り組みます。BC515年には神殿が再建され、第二エルサレム神殿として奉献されました。
その後、イスラエルがローマの属国になり、ヘロデ大王が第二エルサレム神殿の拡張を行ったものの、70年、第一次ユダヤ戦争によって第二エルサレム神殿が崩壊されてしまいました。そして西の壁(嘆きの壁)だけが残ったのです。
そして、ユダヤ人は全世界に離散してしまったのです。
その後、長い歳月の末、この「聖書の地」にユダヤ人国家を再建する日がきて、世界の70か国以上から離散したユダヤ人の子孫たちが帰還したのです。
※ ♪シバの女王♪と言うとRaymond Lefevre Grand Orchestraの美しい旋律で有名です。
ちなみにシバの女王は現在も謎ですが、旧約聖書の列王記上 10章などによると、女王はソロモン王の名声を聞いて、多くの随行員と共に、香料(乳香や白檀等)、黄金、宝石などの貢物をラクダに積んで、エルサレムのソロモン王を訪問しました。
これをモチーフにした絵画もたくさんあります。
ただ、シバの女王はどこの国の女王なのかは諸説あります。エチオピア、イエメン等・・・。 -
神殿の丘は人がまばらでしたが、ここにはたくさんいました。
わざわざ遠くから来た信者さんもいるようです。
他の人の祈りの邪魔にならないように、祈ります。 -
この西の壁ですが、幅は50m余りあります。
高さは地上から19m位ですが、地面の下に埋まっている壁が高さが13m分あるそうです。
ヘロデ大王時代のものは真ん中より下の部分です。
地下に埋まっている17段分と地上で出ている7段目までです。
その上はイスラム統治時代の7世紀のものです。
最上部は19世紀の追加工事部分です。
石がかなり小さくなっています。オスマン時代以降にモーゼス・モンテフィオーレ(イタリア生まれのユダヤ系イギリス人)が積ませた部分です。
彼は銀行や都市ガスなどで財を蓄え、その財力でエルサレムのユダヤ人のために尽力した人物です。
これは石の大きさではっきりわかります。
ヘロデ大王時代の石は特に大きく、現在では不可能です。
イスラム時代は、それより少し小さくなっています。
最上部の石はだいぶ小さいです。 -
こちらは男性用の壁です。
真ん中で仕切られています。 -
書物がたくさん置いてました。
現在は西の壁でユダヤ人がお祈りしていますが、実は1967年の6日戦争でイスラエルの管理下に置かれるまで、ユダヤ人の立ち入りは制限されていました。 -
セキュリティゲートの先にあった、木造の通路が見えます。
今は下から眺めています。 -
なんだか凄い所を通ります。アーチ状になっていますが、石が崩れそうです。
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柵の中は歴史的には古い層のようです。
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THE OHEL YITZCHAK SYNAGOGUE
今回の旅程には入っていませんでしたが、ガイドさんがユダヤ教徒のためか、入場することになりました。
ガイドさんは、日本人ですが、改宗してユダヤ教徒になり、イスラエルに居住しています。 -
シナゴーグの入口です。
そもそも、シナゴーグを外側から見たことはありますが、中に入ったのは初めてでした。
ユダヤ教の会堂のことを言います。キリスト教の教会のような存在です。
イスラム教徒地区にあります。
1870年代にハンガリー系ユダヤ人の組織であるコレル・ショムレイ・ハホモスによってイェシバとして建てられましたが、1938年の暴動後に放棄され、建物は1948年以降に破壊されました。ただ、宗教シオニストグループによって修復されました。 -
入ってすぐ、本棚にはずら~りと本が並んでしました。
ちなみに、ユダヤ教において、ヘブライ語聖書は大きく以下の3つの区分に分けられます。
1 律法(トーラー / Torah 5巻モーセ五書とも言われます。)
(1)創世記
(2 )出エジプト記
(3 )レビ記
(4 )民数記
(5 )申命記
2 預言者(ネビーイーム / Nevi'im 8巻)
(1)前預言者4巻
ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記
(2)後預言者3巻
イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書
(3)十二小預言書1巻
ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、
ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、
マラキ書
3 諸書(クトビーム, カトビーム / Ketubim11巻)
(1)真理(エメト)3巻
詩篇、箴言、ヨブ記
(2)巻物(メギロート)5巻
雅歌、ルツ記、哀歌、伝道者の書、エステル記
(3)その他3巻
ダニエル書、エズラ記-ネヘミヤ記、歴代誌(I, II)
律法、預言者、諸書で24巻です。
ただ、エズラ記とネヘミヤ記は別に、また、サムエル記、列王記、歴代誌はそれぞれ2つの書物からなると言う見方もあり、この場合は全39巻になります。 -
1階入口ドアから覗いた様子です。
正当派のユダヤ教徒は、黒服と黒の山高帽を身につけ、髭ともみあげを生やしてます。また、食事の規程も厳格に守っています。
現代社会に合わせて、食事の自由を認めて生活をする改革派に属する人たちは、現代社会に合わせて、食事の自由を認めて生活してます。
この正統派と改革派の中間に保守派がいます。
厳密には他にも宗派があります。
超正統派のお若い方は、もみあげを、三つ編みにしています。
西の壁やこの付近では、そんな方々をたくさん見かけました。 -
シナゴーグはこざっぱりしていると思っていましたが、思っていた以上にシャンデリアがあったり、窓もステンドグラスだったり、燭台でしょうか・・・装飾的なものもあります。
中央は説教壇のように見えます。 -
一人熱心に勉強されている方がいました。
ユダヤ教はヤハウェを唯一神とする一神教です。
自らは選ばれし民だとする選民思想を持っています。
共通の国家や言語、また民族的組織を持たないことも大きな特徴で、トーラー(律法)と呼ばれる教えを襷として独自のアイデンティティを受け継いできました。 -
ベンチに座って眺めた様子です。
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2階にはベンチがありました。
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古い絵がありました。
モノクロの絵です。かつての建物でしょうか。 -
右はダマスカス門
右は獅子門
左は西の壁
左は神殿の丘 -
ここはイスラム教徒の地区です。アラブ女性がアバヤを着用して目の前を歩いてました。
最近はアバヤも色々あって、カラーの物等ありますが、こちらの女性は典型的な黒いアバヤでした。 -
イスラエル国旗がたくさんありました。
向かう方向にはツアーの人がたくさんいたので、逆方向から撮ってみました。 -
ここにモスクがあったかどうか記憶はありませんが、通り沿いだったと思います。
ミフラーブ(キブラ)のようなものがありました。 -
様々なお店が並んでいます。
ドライ・フルーツ、ドライ・ジンジャー・・・。
メジュール・デーツは深い褐色で、キャラメルのような風味で、デグレット・ヌールよりも大きく柔らかく甘いらしいです。
※ メジュール・デーツとは元々はモロッコのタフィラルト地方で栽培されてましたが、現在では米国、イスラエル、パレスチナ、イラン、サウジアラビア、南アフリカ、ヨルダンで栽培されいぇます。
イスラエルはメジュール市場の中でも60%以上ををシェアしてます。 -
香料のお店です。
ペトラで買ったミルラや乳香もあります。
また、見慣れない香料もあるようです。
気になります。 -
パン屋さんです。
面白い形ですが、イスラエルのベーグルです。 -
Armenian Catholic Patriarchate
(アルメニアン・カトリック教会)
この教会はヴィア・ドロローサの途中にあります。
アルメニアン カトリック教会は、イスラム教徒地区とは対角線上に位置するアルメニア人地区のアルメニア教会とも一線を画すキリスト教の教会です。
タダイ、バルトロマイ、シモンなどのキリストの弟子から教えが伝わり、301年にはアルメニア教会が創設されて世界で最初のキリスト教国となったのがアルメニアです。
ただ451年に東ローマ帝国で開かれたニカイア公会議で、ローマ教会の三位一体説が正統とされました。
そのため三位一体説を否定するアルメニア教会は異端となってしまいました。
ローマ教皇のベネディクト14世が、正式にアルメニアン カトリック教会として設立されたのは1740年のことでした。
この教会はイエスが、十字架の重みで躓いた最初の場所です。3番目のステーションと言われています。
ちなみに、この写真の右に第4ステーション(留)があります。
これは悲しむ母、マリアに出会う場所です。
実は聖書には記述はありませんが。中世に伝承が生まれたようです。イエスが最初に倒れた場所 by noelさんアルメニアン カソリック教会 寺院・教会
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VIA DOLOROSA(ヴィア・ドロローサ)
いよいよ、キリストの受難の道が始まります。
ただ、現在の道は2000年前とは、大きく変わっています。
以前、遠藤周作の本を読んだ時にこの事に関する記述がありました。
ようやく、ここに辿り着き、今から確認して行きます。
また、メル・ギブソンが監督した映画「パッション」では、キリストの処刑まで描かれていましたが、撮影はイタリアのマテーラで行われています。
以前マテーラに行った時、階段を登りながら、なるほどと思いました。
マテーラとこのエルサレムと比較すると、道幅はエルサレムの方が狭く感じました。
ただ、2000年前は5m以上も下層部にありますので、現在の様子とはだいぶ違ったのでしょう。
ところで、このヴィア・ドロローサですが、これが設定されたのは、13世紀の十字軍時代以降のことです。この道順は、あくまで巡礼者のための想定上のものであって、考古学的根拠は全くありません。
ちなみに、この14の留(ステーション)が指定されたのは、アッシジのフランチェスコが、1219年に聖地を訪問し、約2年間滞在したことに関係があります。
実は、フランチェスコは十字軍がエジプトのダミエッタを包囲した時に、現地にいました。イスラム教徒を改宗させようと努力しましたが、それはうまくいきませんでした。
そして聖地に滞在中、アッコの修道会に住み、そこから各聖所を訪れました。
そしてイタリアに戻って、キリストの苦難と愛を強調するフランシスコ会を創設しました。そして1314年、公式にクストディ(聖地保護会)を引き継いで、十字架の留(ステーション)の指定に発展したのです。エルサレムでは14の留(ステーション)が、教皇座によって指定されたのです。イエスの受難の道 by noelさんヴィア ドロローサ 散歩・街歩き
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足元は、ご覧のように石畳になっています。
第1留(ステーション)
総督ピラトによる裁判が行われた場所は、かつてのアントニア要塞と言われる場所ですが、現在はパレスチナの学校になっていて普段は入れません。
この学校の校庭は石が敷き詰められていて、普通の学校とはちょっと違うようです。 -
ここはイコンや絨毯、貴金属などのお店です。
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Greek Orthpdox Patriarchate of Jerusalem
Prison of Christ
(エルサレムのギリシャ正教総主教庁・キリストの牢獄)
聖墳墓教会の端にある小さなギリシャの礼拝堂であるキリストの牢獄は、マイナーな場所です。
ただ、中世には、少なくとも12世紀以来、ヨーロッパ中から巡礼者を惹きつけ、聖墳墓教会の辺りでも最も人気のある場所の1つでした。
福音書はイエスが逮捕中に囚われの身となった場所について言及していなくても、イエスが投獄されたという事実に言及しており、中世のキリスト教徒がイエスを収容した牢獄を探し始めるきっかけとなったようです。9世紀、ビザンチンの修道士は、この場所を「キリストがバラバとともに幽閉された守衛室」と呼んでいました。 -
Sanctuary of the Flagellation
鞭打ちの教会
The Chapel of the Condemnation
非難の礼拝堂(有罪判決教会)
柱の陰になってますが、正面の建物です。
この敷地内の左側には、有罪判決のチャペルがあります。
これらはイエスの受難に関連しています。
ミサの最中にはドアを閉めています。
鞭打ちの教会は、この時は閉まっていましたので、中には入れませんでした。
フランシスコ会修道院は、1838年に設立されました。
1924年には考古学研究所と聖書研究所の学術センターができました。 -
第2留(ステーション)
鞭打たれ十字架を担がされます。
過越の祭りでは、誰か一人を釈放する慣わしでした。
ローマ総督のピラトは、ユダヤの王を釈放するかと民に問うたところ、その人ではなくバラバ(強盗)をと言われました。そのため、ピラトはイエスを捕らえて、鞭で打ちました。 -
有罪判決の教会(主の宣告聖堂)
有罪判決を受け、大きな十字架を、これから背負わされる場面のようです。
これから苦行が始まります。 -
天井のドームを眺めました。
窓はステンドグラスになっていて、光が漏れています。 -
有罪判決を受け、ユダヤ人に身柄を引き渡される場面のように見えます。
それをマリアが阻止しようとしているかのようです。
ただ、聖衣剥奪のようにも見えます。赤い衣を剥がされているように・・・。
でも、その場面は第10留(ステーション)で、まだ早いのでおそらく違うでしょう。
異教徒の私にとって、聖画の解読は難しいので、誤った解釈をしてる場合もありますので、ご了承下さい。 -
茨の冠を被せられ、十字架を担いでいるイエスの像です。
-
ローマの第5代総督としてエルサレムを統治していたピラトは水を取り、群衆の前で手を洗って言いました。
「この人の血について、私には責任はない。お前たちで始末をするがよい。」
そのピラトは右にいます。
イエスは赤い衣を着て、その横にはローマ兵がいます。 -
ローマ帝国時代の敷石と思われます。
ローマの兵士が遊ぶために敷石に刻んだ王のゲーム(King's Game)などもあります。
兵士は監視をするのが仕事ですが、割と時間があるため、ゲームなどもしてました。
ちょっと憎らしいローマ兵ですが人間味を感じます。 -
Dimisit Illis Barabbam
彼らはバラバを釈放しました。と刻まれているようです。
ところで、信者は予約をしておけば、この教会から十字架を借りて運んでいくことができます。
イエスと同じ体験ができます。
実は、十字架を背負って行ったのだと思っていましたが、十字架の縦木は現地の刑場に元々立てられていたようです。
つまり死刑囚はその横木だけを担いで運んだのでした。
ただ、ほとんどの絵画では十字架を背負っています。
横木だけだと絵にならないかもしれません。(-_-;) -
イエスの時代の旧市街の地図が立体的に描かれています。
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今、行った有罪判決の教会のドームです。
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第2留(ステーション) Ⅱ
ここにも目印がありました。 -
Ecce Hono(エッケ・ホモ)
-
エッケ・ホモ教会(ノートル・ダム・ド・シオン女子修道会)
ピラトがイエスをさして「この人を身よ。」と言ったことで有名です。ラテン語です。
有名なアーチは2世紀に、古代ローマ皇帝ハドリアヌスが築いた凱旋門が一部アーチとして残っています。
ハドリアヌス皇帝は、さすがに建築王だけあって、色々な所に遺跡を残してますが、ここエルサレムにもあったとは‥‥。Ecce Homo(エッケ・ホモ)見よ、この人を! by noelさんエッケ ホモ修道院 寺院・教会
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祭壇の中央には大きな十字架が架けられています。
イエスの裁判が行われました。 -
エッケホモアーチ
ラテン語で「この人を見よ」
イエスは茨の冠と、紫色の衣を身につけて出てこられました。
ピラトは言いました。「見よ、この人だ。」祭司長たちと下役たちは、イエスを見ると「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫びました。
先述したとおり、実際には、古代ローマの植民地だった時、新しく造成されたフォーラムの東玄関口に建てた通用門で、いわゆる凱旋門だったのです。
実際に、イスラエルに来る前に、ヨルダンのジェラシュ遺跡に行きましたが、ハドリアヌスの凱旋門があり、三重アーチの壮大な門でした。
同じくシリアのパルミラにもあります。 -
ヴィア・ドロローサには、このようにわかりやすく表示がしてあります。
上がヘブライ語
中がアラビア語
下が英語で示されています。 -
第4留(ステーション)
苦悩の母のマリアの教会 Ⅳ
ヴィア・ドロローサには、丸い黒っぽい物がありますが、これに留(ステーション)が示されています。
ちなみに、ヴィア・ドロローサだけでなく、この城壁内全体的に言えることですが、何度も破壊されたり再建されたりという歴史を繰り返した地ですので、現在の留(ステーション)がイエスの時代のものとは言えません。
もっと、この下の層になっています。
そうと、わかっていても、この地に来れただけでもありがたいです。 -
悲しむ母マリアと出会った場所です。
Chapel of the Fainting(失神の教会)「苦悩の母マリア教会」マリアの悲しそうな顔が印象的です by noelさん苦悩の母マリア教会 寺院・教会
-
苦悩の母マリアの教会は、門が閉まっていました。
「汝自身の魂を貫いた剣」と記しているようです。
マリアが十字架を背負って通り過ぎる息子イエスのの苦しみを、見つめながら立っていたとされます。 -
第3留(ステーション) Ⅲ
先ほども、ちらりとこの前を通りましたが、また通りました。
アルメニア教会が立てられたのは1856年のことです。
その後、パレスチナに滞在中のポーランド兵の寄付のおかげで、修繕することができました。
このレリーフに、Ⅲ Statioと描かれています。 -
第5留(ステーション)
-
Simon-cynenaeo
CRUX INPONTUR Ⅴ
クレネ人シモンがイエスを助けて、十字架を担いだ場所です。
シモンは過越祭のために田舎から出てきたユダヤ人だったようです。
シモンを捕まえ、十字架を背負わせて、イエスの後ろから運ばせたのです。 -
シモンがイエスの代わりに十字架を背負う Ⅴ
左にⅤ、右にはST(Station(ステーション))の文字があります。 -
この窪みは、イエスが倒れそうになった時に、手をついてできたと言われる岩の窪みです。
キリスト教徒にとっては、聖なる窪みです。
ただ、ユダヤ教徒とイスラム教徒は、ヴィア・ドロローサを嫌悪していました。そのことから、この石に汚物などを付けて冒涜していました。
残念なことです。
自分の信じるものが大事なのはわかりますが、他の信仰にも共感できるといいのですが・・。
共感は無理でも、寛容であってほしいです。
2000年以上経った今でも、昔と変わらず、情けなく思います。
↑
実はこれについて、chat GPTで質問してみたら、的確な回答がありました。 -
この先はお土産屋さんが立ち並ぶ通りです。
-
このお店のザクロジュースは、フレッシュで美味しかったようです。
私はお腹がいっぱいなのと、氷が怖いので、いただきませんでしたが。 -
第6留(ステーション)
St. Veronica Church Ⅵ
(聖ヴェロニカ教会)
ヴェロニカが辛そうに歩くイエスの顔をハンカチで拭ったと言われる場所です。
そしてそのハンカチには、イエスの顔が浮き上がったと言われています。
それを記念して教会が建てられました。
ただ、これも聖書には記述のない伝説ではありますが・・・。
この付近は土産物屋が多く、ステップが低めの階段になっています。
谷から丘に登っていく感じです。ハンカチにイエスの顔が・・・・。 by noelさん聖ヴェロニカ ギリシャカトリック教会 寺院・教会
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石柱が埋め込まれています。
ビザンチン時代の遺跡
礼拝堂の壁に埋め込まれた小さな柱で、ヴェロニカとイエスの出会いの場所を記念しています。 ここでヴィア・ドロローサは上り坂になり、狭い階段状の通りになります。 入り口の左側にある柱状の石には、ラテン語で「6 ST PIA VERONICA FACIEM CHRISTI LINTEO DETERCI」「敬虔なヴェロニカがキリストの顔をベールで拭った6番目の駅」と刻まれています。 -
Greek Catholic Church of St. Veronica(Holy Face)
聖ヴェロニカのギリシャカトリック教会
ヴェロニカは十字架を背負い、ゴルゴダの道を歩くキリストを憐れんで、額の汗を拭くために、自分のヴェールを差し出しました。
キリストが汗を拭き、ヴェールをヴェロニカに返したところ、ヴェールにはキリストの顔が浮かび上がるという奇跡が起きました。 -
実は正典の福音書にはヴェロニカと彼女のベールの物語への言及はありません。
最も近いのは、イエスの衣の裾に触れて癒された女性の奇跡です。
(ルカ8章43-48節)
彼女の名前は後に外典「ピラトの行為」によってヴェロニカであることが判明しました。この物語は後に詳しく説明されました。11世紀には、キリストが布に描いた自分の肖像画を彼女に与え、後に彼女はそれを使ってティベリウスを治したと付け加えています。これと受難の十字架の担持、そしてその像の奇跡的な出現との関連付けは、13世紀のロジェ・ダルジャントゥイユのフランス語聖書によって行われました。 -
3本の蝋燭の明かりが揺らめいています。
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1883年、ギリシャのローマ・カトリック教徒は、この場所にあった12世紀の遺跡を購入し、その上に聖顔教会と聖ヴェロニカ教会を建てました。
ヴェロニカは自分の家の外でイエスに出会ったと言われています。
そしてその家は、以前はこの場所にあったと主張しています。
現在は、聖マンディリオンのレプリカが、聖顔礼拝堂内に置かれています。 -
ギリシャ語の碑文
古い香炉にはギリシャ語の碑文があるようです。
ルカ23章27節に基づいています。
「そして彼は、泣きながら男女の大群を追った。」
ヴェロニカは、ラテン語の「ヴェラ・アイコン」または「真の像」、つまり、ヴェロニカのハンカチに描かれたイエスの顔に基づいている可能性があります。 -
この他にトリノの大聖堂にキリストをくるんだ聖骸布があると言われてます。
イエスは亜麻布に包まれたとルカ23章52節にあります。
ただ、真偽のほどは・・・・。
一説にはテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーの埋葬布説もあります。(-_-;) -
1964年1月4日 教皇パウロ6世
聖地への巡礼では、ヴェロニカとキリストとの出会いを記念するこの場所で祈りました。 -
第7留(ステーション) Ⅶ
再びつまずく
イエスの時代は、城壁の外へと出ていく城門(裁きの門)があった場所とされています。
つまりイエスは城門をくぐる時、その段差で躓いてしまった場所です。
小さなチャペルがあります。
私たちは入りませんでしたが、このヴィア・ドロローサには留(ステーション)ごとにチャペルのある場所が多く、信者の方々はその都度お祈りします。 -
第8留(ステーション)
イエスに付き従っていた女性たちを慰めました。 -
第8留(ステーション) Ⅷ
「エルサレムの娘たち、私のために泣いてはいけません。むしろ自分自身と自分の子どもたちのために、泣きなさい。」
ルカ23章28節 -
Austrian Hospice(オーストリアン・ホスピス)
-
ここには十字架が埋め込まれていました。
「なぜなら不妊の女、子どもを産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ」という日が来るのですから。
ルカ23章29節
これはエルサレム滅亡の預言です。 -
イスラエルの地図やポスターやポストカードなどが、たくさんありました。
-
Coptic Orthodox Patriarchate
(コプト正教会総主教庁) -
十字架の先に聖墳墓教会のドームが見えます。
-
第9留(ステーション) Ⅸ
3度目に倒れた場所です。
これは聖書には記述のない場所です。
この先の10から先の留(ステーション)は聖墳墓教会の中に入っています。 -
9番目の留を通過しないで、そのまま聖墳墓教会に入ることができますが、私たちは確認してから向かいました。
十字架やイコンやロザリオなどを売っている店の奥の狭い門から入ると、聖墳墓教会の境内に出るようです。
ところで、ゴルゴダは古代の石切り場で、別の場所、ゴードンのカルバリと言われている場所があります。
それは19世紀半ば頃、イギリスのゴードン将軍が、ダマスカス門の近くの岩山がゴルゴダではないかと発表しました。
ただ、現在では考古学的に違うことが判明しているようです。 -
イチオシ
現在は聖墳墓教会は城壁内にありますが、イエスの時代は城壁外にありました。
-
猫ちゃんです。
イエスは自分で十字架を背負って「どくろの場所」と呼ばれる所に行かれました。
そこはヘブライ語ではゴルゴダと呼ばれています。
ヨハネ19章
※ 「どくろ」のことをヘブライ語で「ゴルゴダ」、ラテン語で「カルバリ」と呼ばれます。 -
Coptic Orthodox Patriarchate
Church and Cistern of St.Queen Helena
コプト正主教区教会
聖ヘレナ女王の教会と貯水槽 -
この貯水槽は岩から切り出され、4世紀にコンスタンティヌス帝の母、ヘレナによって発見されました。
それは飲料水として、建築用として使用されました。
この貯水槽の階段を降りると、音楽的な驚きがあります。エコーを楽しんでください。 -
Queen Helen Church Coptic Orthodox
(ヘレナ女王コプト正教会)
緑のドアから中に入ります。 -
振り香炉のようです。
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祭壇
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中央は竜を退治している聖ゲオルギウスのようです。
右は聖母子です。 -
砂漠なので、聖家族のエジプト逃避かと思いましたが、星が見えます。
ベツレヘムの星でしょうか・・・・?
キリスト生誕の場面のようです。 -
左はヒエロニムスのようです。傍にライオンがいます。
そして右は受胎告知のようです。 -
キリストの被昇天でしょうか。
足に釘を打たれた痕があります。
また、両脇にいるのはローマ兵でしょうか。
よく見ると、胸のあたりに槍で突かれたような痕が見えます。
ロンギヌスの槍で刺されたのでしょう。
今、正に天へと昇っていこうとしている場面です。 -
アーチの部分は石で剥き出しになっています。
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聖ヤコブの教会
4世紀に建てられました。
ベッドの岩 -
こちらを登って行きました。
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巡礼の方々のようです。
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Deir es-Sultan(ディル・エス・スルタン)
いくつかの聖地のうちの 1 つであり、さまざまなキリスト教宗派が争っています。 この修道院は、聖墳墓教会複合施設の一部である地下礼拝堂のヘレナ礼拝堂の屋上に位置し、パルヴィス (教会の中庭) に通じる入口があります。 修道院の面積は 1,800 平方メートルです。
コプト教会とエチオピア正教会で所有権が争われていて、そのため、なかなか修復が進んでいません。
これは聖ヘレナの礼拝堂のドームです。
通常はここを通らないようですが、なにせ現地のガイドさんの案内なので安心です。
聖墳墓教会と偏に言っても、正教会、カトリック教会、コプト教会(エジプト)、シリア正教会、アルメニア使徒教会などの共同での統治になっています。 -
コプト教会によると、ウマイヤ朝のカリフ、アブド・アル・マリク・イブン・マルワーンは、この教会をコプト教徒に「デイル・エル・マラク」(天使の修道院)と名付けることを許可し、十字軍に没収された後、サラディンによって「デリ・エス・スルタン」と改名されました。
オスマン帝国のスルタン・アブドゥルハミド2世は、エチオピア人に聖墳墓の屋根に大きなテントを張って祝う権利を与えました。
1970年4月25日、聖墳墓教会で行われた復活徹夜祭の際、イスラエル政府は軍隊を派遣し、エチオピアの僧侶が修道院を支配できるように修道院の鍵を変えました。その後、1971年3月16日、イスラエル最高裁判所は全会一致でコプト教徒への修道院の返還を承認しましたが、政府は最高裁判所の判決の履行を拒否したのでした。
2018年10月、コプト教会の同意なしに修道院の修復作業に抗議した後、コプト教の司祭が逮捕されました。 2021年4月、エジプトとエチオピアの僧侶の間で「軽い衝突」が勃発し、後者は修道院内にテントを張り、エチオピア国旗を掲げ1年後の2022年4月18日にも同じ事件が繰り返されました。 -
エチオピア教会の中です。
おそらく、ソロモン王のもとに、シバの女王が貢物を献上している場面かと思います。
シバの女王はエチオピアの女王とも言われています。
象牙、駱駝の姿が描かれています。
また、いくつかの器もあります。
この時は、金、銀、宝石、香料、没薬など、そして孔雀、さる、白檀の木なども献上されたようです。
ソロモン王の名声は広く知れ渡っていたようです。
ちなみにシバの女王はエチオピアの女王という説と、南アラビアの「サバ」のあったイエメン説などがあります。 -
教会内の様子です。
エチオピア正教会は、イスラム勢力から聖墳墓教会を守ってきました。
ただ、他の宗派の勢力が回復すると、教会の管理を巡り対立しています。
また、エチオピア教会では、エチオピア建国の祖を、古代イスラエルのソロモン王とエチオピア女王の間に生まれたメネリク1世とされています。 -
たくさんのイコンです。
また、エチオピアには、ラリベラの岩窟教会群などの世界遺産もあります。 -
エチオピア教会の中を通って、聖墳墓教会の入口前の庭にでました。
薄暗い教会内から屋外に出ると、日がまぶしいです。 -
敷地は広くはありませんが、道が入り組んでいて、しかもアップダウンを繰り返しているので、現在地がどこなのか、頭の整理をするのが大変です。
実はローマ皇帝のハドリアヌスですが、キリスト教徒の聖地を汚すため、ここにアフロディーテの神殿を建設しました。
ただ、その後、ローマ帝国がキリスト教化していき、その神殿は取り壊され、聖墳墓教会が建てられました。 -
第10留(ステーション) Ⅹ
衣服を剥ぎ取られました。 -
そしていよいよ、聖墳墓教会内に入ります。
ちなみにこの場所は現在は入口になっていますが、本来のコンスタンティヌス時代ではアトリウム(中庭)だった場所です。本来のファサードではないので、左右対称でもありません。
ヨーロッパで見かける教会の壮麗なファサードと比べると、これが本当に聖地のファサード?と思ってしまいます。
ただ、聖地だけに複雑な歴史があります。
また、ここは十字軍時代の1149年に建てられたため、十字軍のファサードと呼ばれることはあります。
ロマネスク風のどっしりとした造りになっています。 -
建物に入って、右側にある階段を登るとイエスが磔になったゴルゴダの聖堂があります。
いわゆるゴルゴダの丘です。
十字架の場所はこの先です。
狭い階段を登って行きました。 -
イエスが亡くなった場所に来ました。
イエスは再び大声で叫んで霊を渡されました。すると神殿の墓が上から下まで真っ2つに裂けました。
マタイ27章
ここは、通常は人が多く、かなり並ぶのだそうですが、やはり新型コロナウイルスの規制が解けて初めての夏だったおかげか、また、世界レベルで暑い夏だったおかげか、私たちだけの貸し切り状態でした。(*^-^*)(*^-^*)(*^-^*)
なんてラッキー!
混んでいたら、ここまで来ても見られなかったかもしれません。
じっくり時間をかけて見ることができました。ずっと行きたかった教会 by noelさん聖墳墓教会 寺院・教会
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この場面は、アブラハムがイサクに手をかける直前に天使が現れて、止めている場面です。(旧約聖書)
ここが、そのモリヤの地です。 -
ここに描かれているのは女性5名のようです。
これはあくまで私の推測です。
イエスを埋葬する際に、見ていた女性たちが、安息日が終わった翌日の早朝、香料をもってイエスが納められた墓に赴く場面があります。
墓に着くと、墓の入り口を塞ぐ石が脇にあって(絵の中には見受けられませんが)、墓は空っぽでした。これを表しているのではないかと思います。
もしくは、ルカ23章28節のエルサレムの娘たちに対して、自分のために泣いてはいけない。自分自身と自分の子どもたちのために、泣きなさい。とイエスが言いますが、その場面でしょうか。
いずれも、私の推測です。 -
第11留(ステーション) ⅩⅠ
十字架に磔られました。
ここはカトリック教会が管理しています。
イエスが手の平に釘を打ち付けられています。
傍には金槌と釘を持ったローマ兵らしき人物が平然とした顔で座っています。
そして泣き崩れるマリアと、天使が佇んでいるようです。
もしくは、天使と思っているのは、聖母マリアで嘆いているのはマグダラのマリアかもしれません。 -
上記の下の祭壇です。
聖墳墓教会は色々な宗派の教会が、混在しています。
ギリシャ正教会(エルサレム総主教庁)、アルメニア使徒教会、カトリック教会、コプト正教会、シリア正教会が管理に関わっています。
教会の内部には各教派が独自に管轄する区域が存在しています。
この管理をめぐり、緊張が高まることもあるようです。
そのため、聖墳墓教会の鍵をイスラム教徒の一族が管理しています。
こちらはローマ・カトリックの聖堂です。
ちょっと不思議ではありますが、そうすることで、ある程度宗教間の平和が維持できているようです。
ちなみに管理しているのは何代も続くイスラム教徒の2つの家族です。 -
第12留(ステーション) ⅩⅡ
イエスが息を引き取りました。
この囲われている祭壇には、元々の岩があります。
そこに穴があって、手を入れて触ることができます。
これは、聖墳墓教会だけでなく、ベツレヘムの教会にも同じような祭壇がありました。
ここでイエスは息を引き取りました。
ギリシャ正教の祭壇です。 -
煌びやかな祭壇です。
東方教会、ギリシャ正教会の影響もあって、煌めいています。
おそらくこの中央のあたりに十字架が立てられたであろうと思われます。
その中央にイエスが頭を垂れています。 -
ゴルゴダの岩です。しゃれこうべという意味です。
アダムがこの下に眠っていると言われています。
このゴルゴダの岩には窪みがあって、十字架が立っていた場所とされています。
プレートの穴から手で触ることができます。
祭壇には、ガラスケースがあります。中にはゴルゴダの岩盤があります。
ケースに入れてないと、記念に岩を削って持ち帰ってしまうといけないからでしょう。 -
ついでに床まで写真撮影ができました。
これもひとえに、空いていたおかげです。
12芒星のようにも見えます。
少なくとも12角あります。この数字は旧約聖書、新約聖書の双方において特別な意味があります。
旧約聖書ではイスラエルの民の12部族を意味しています。
また、キリスト教においては、12人の使徒の生涯と奉仕の上に築かれた教会を表すことがあります。
また、12芒星は、教会がキリストが神の子として顕現したことを祝うクリスマスの12日目の公現祭でも使用されることがあります。
※12部族は下記のとおりです。
ルベン、シメオン、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシュル、エフライム、マナセ -
天井が低いので、よく見ることができます。
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この天井に描かれているのは、イエスが衣を剥ぎ取られた場面のよう見えます。
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イエスは両手を縛られています。
判決を受けた場面でしょうか。 -
左の天井画は、ローマ兵に槍で突かれているようです。
右は、シモンがイエスの代わりに十字架を担いでいる場面のようです。 -
ピラトが手を洗っている場面です。
この人の血について、私には責任がないと言ってる様子です。 -
中央の祭壇の右の横には聖母マリアがいます。
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第13留(ステーション) ⅩⅢ
マリアの小祭壇です。
マリアがイエスの亡骸を受け取りました。(スタバト・マーテル)
聖母マリアです。
本物の人のように見えました。
本当に悲しんでいるように見えました。 -
ご覧のようにテラスがついてます。
天井が近くよく見えます。
聖墳墓教会の中は、それぞれの教会によって趣が違います。 -
テラスから見た様子です。
実は聖墳墓教会に入って、1番最初に目に入るのは、ここです。
ただ、混雑を避けるために、まずは最初に、磔にされて亡くなった場所に来ました。
香炉が吊り下げられています。 -
ドームの様子です。
見えにくのですが、聖人が描かれています。 -
床の部分です。
こんな所まで撮る余裕がありました。
人でいっぱいだったら、無理だったと思います。
本当に貸し切り状態でした。 -
イエスが十字架から降ろされる場面です。
アリマタヤのヨセフがイエスの体を取り降ろすことをピラトに願い出ました。そしてニコデモも来ました。彼らはイエスの体を埋葬の手順に従って香料と一緒に亜麻布で巻きました。
ヨハネ19章38節 -
拡大します。
マリアがキリストを抱いて泣いているピエタです。
宗教画や彫刻で有名なピエタです。
今までにも様々なピエタを見てきましたが、ここがそのピエタの場所であると思うと異教徒ながら、胸にこみあげてくるものがありました。 -
香油を塗り、埋葬の準備をする場面です。
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墓に葬られる場面です。
これら全てが壁一面に描かれたモザイク画です。 -
聖油の石板で、キリストを十字架から降ろした場所です。
磔の刑の後のキリストの体を聖油で清めた場所です。
聖墳墓教会の正面に位置しています。
教会に入るとすぐの場所です。
信者の方がひざまづいて、お祈りをしていました。
後方にはイエスが埋葬されるまでのモザイク画が描かれています。 -
清めに使われたのは、オリーブオイルだったようです。
オリーブは旧約聖書にも記載されている伝説の7食材の1つと言われています。 -
Stone of Unction(穢れの石)(塗油の石)
香油を注がれた石で、大理石の石板です。
この岩そのものは、記念のものであって当時のものではありません。
でも、信者のみなさんにとっては、特別な石(岩)です。
熱心にお祈りをされてました。 -
第14留(ステーション)ⅩⅣ
イエスの墓
エディクラと呼ばれる聖堂の中にイエスの墓と言われる石墓があります。
墓については諸説あるようです。
この時も行列ができてました。
ただ、いつもはもっと並ぶようです。
イエスは埋葬後、3日後に復活したので遺体はないとされています。
墓には1度に3人しか入れません。
後ろにはコプト教の聖堂があります。
イエスが十字架に架けられた場所には園があり、そこには新しい墓がありました。その日はユダヤ人の備えの日であり、その墓に近かったので、彼らはこそにイエスを納めました。
ヨハネ19章40節
また、日が落ちる前に埋葬しなければなりませんでした。 -
殉教聖堂(マルチュリオン)
ギリシャ正教の教会のイコノスタティスの前です。 -
イエスの墓の向かいにある復活聖堂
ギリシャ正教
天井のドームにはパントクラトールのイエスのイコンが描かれています。 -
聖墳墓教会には、たくさんの礼拝堂があります。
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聖マグダラのマリアの祭壇
「ノリ・メ・タンゲレ」(私に触れてはいけない)のレリーフです。
イエスがマグダラのマリアに、かけられた言葉です。
ヨハネ福音書20章17節
また、マグダラのマリアは、イエスが十字架にかけられるのを見守り、イエスが埋葬されるのを見守りました。
そして磔刑後のイエスの遺体に、香油を塗るために墓を訪れました。 -
こんなところにパイプオルガンらしきものがあります。
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Chapel of the Apparition of Jesus to his Mother
(イエスの母への出現の礼拝堂)
ブルーが印象的な小さな礼拝堂です。
また、右にあるのは、御出現の礼拝堂に展示されている柱の部分です。 -
壁の棚には、ヴィア・ドロローサの道のりが、可愛らしい小さな像で描かれています。
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イエスの墓の上に作られた祠です。
墓の洞穴があった岩の上部は削り取られてありません。
ここは人が並んでいます。
いつもはこれ以上多く並んでいるようです。
当時のお墓は現在の日本の墓とは違います。
横穴式の岩窟墓だったようです。
前室と玄室から成っています。 -
聖墳墓教会はアフロディーテ神殿を取り壊して、4世紀に建設されましたが、その後、破壊、火災、地震などによる被害と修復を繰り返しました。
11世紀のイスラム皇帝ハーキムによる完全な破壊の後に、再建されて現在に至っています。 -
右の端の方から中に入ります。
石墓はこの「エディクラ」と呼ばれる小さな聖堂の中にあります。
エディクラは何度も破壊されていて、今のものは1808年~1810年に再建されました。 -
イエスは3日後に復活しました。
週の初めの日の明け方近く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来ました。見ると石が墓からわきに転がされていました。そこで中に入ると主イエスの体は見当たりませんでした。
ルカの福音書 24章1-3節
そのために、途方に暮れていると、まばゆいばかりの衣を着た人が2人が近くに来ました。彼女たちは恐ろしくなって地面に顔を伏せました。すると、その人たちはこういいました。「あなた方はどうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」
ルカ福音書24章4-5節
ここにはおられません。蘇られたのです。まだガラリヤにおられた頃、主がお話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、3日目によみがえると言われたでしょう。」
彼女たちはイエスの言葉を思い出しました。
ルカ福音書24章6-8節 -
祠の上のドームの中央から光が差し込んでいます。
聖堂を入ると前室で、「天使のチャペル」と呼ばれています。
日曜の朝早く、ここを訪れた女たちに、天使がイエスの遺体は、ここにはないことを告げた場所であるとされました。
そこから、小さい入口から奥の主室に入ると、そこにはイエスの遺体が置かれた岩棚が保存されていました。
そしてその上に大理石が敷かれてます。
その構造は、当時の典型的なアルコソリア式ユダヤの墳墓であることを示しています。
お墓の内部は撮影禁止でした。 -
イエスは苦しみを受けた後、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示されました。
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アリマタヤの聖ヨセフと聖ニコデモのシリア正教礼拝堂
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祭壇です。
かなり古く劣化しています。 -
フレスコ画のようですが、かすかに見える程度です。
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教会内のロクリ
アリマタヤの聖ヨセフと聖ニコデモの礼拝堂に隣接する1世紀のユダヤ人のお墓です。
アリマタヤのヨセフの墓とも言われていたようですが、正確には他のユダヤ人のお墓のようです。
福音書によると、サンヘドリンの議員のアリマタヤのヨセフの私有墓の一部でした。
「アリマタヤのヨセフは(ピラトの許可によって)イエスの死体を受け取って、綺麗な亜麻布に包み、岩を掘って造った彼の新しい墓に納めて、そして墓の入口に(入口を閉じるための)大きな石を転がしておいて帰りました。」
マタイ福音書第27章59-60節
この聖堂の西側の地下は、カタコンベになっていて、イエスの墓はもともとその一部だったと思われています。 -
Christ's Prison(Chapel Greek Orthodox)
(キリストの牢獄ギリシャ正教礼拝堂)
十字架に架けられる前に閉じ込められた場所・・・だったように思います。
ちなみにキリストのみならず、囚人の牢獄だったはずです。 -
壁には十字架が刻まれています。
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イエスが処刑される前、足枷をはめられた場所かと思います。
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足元には十字架があります。
ただ、槍のようなものも描かれているように見えます。
ちなみに槍と言えば、ロンギヌスの槍が連想されます。
ローマの百人隊長のロンギヌスは、イエスが磔刑になった際に、イエスの生死を確認するため、槍でイエスの左脇腹を刺しました。
すると、そのイエスの血がロンギヌスの目に入りました。
目が見えなかった(もしくは目が悪かった)ロンギヌスですが、その後、目が見えるようになりました。
このことから、ロンギヌスは改心し、洗礼を受け、最後には聖人になりました。 -
Church of the Holy Sepulchre
聖墳墓教会の中にはたくさんの礼拝堂があります。以下のとおりです。
本当にたくさんの礼拝堂があって、後で写真の整理をする際になって、どの写真を撮っていたのか判別に苦しみました。(-_-;)
・Stone of Unction(油を注いだ石)
・Chapel of Forty Martyrs and Belfry(40 人の殉教者と鐘楼の礼拝堂)
・Chapel of St. John and Baptistry(聖ヨハネ礼拝堂と洗礼堂)
・Chapel of James(ヤコブの礼拝堂)
・Stone of the Three Women(Armenian Orthodox)
(三人の女性の石(アルメニア正教)
・Chapel of Angel(天使の礼拝堂)
・Holy Tomb(聖なる墓)
・Chapel of the Copts(コプトの礼拝堂)
・Chapel of the Jacobites(Syrian Orthodox)(ジャコバイト礼拝堂(シリア正教)
・Tomb of Joseph of Arimathea(Abissinian)
(アリマタヤのヨセフの墓(アビシニアン)
・Franciscan Chapel (Catholic)(フランシスコ会礼拝堂(カトリック))
・Mary Magdelene Altar(Catholic)(マグダラのマリアの祭壇(カトリック)
・Archway of the Virgin(聖母のアーチ)
・Christ's Prison(Chapel Greek Orthodox)
(キリストの牢獄(ギリシャ正教礼拝堂)
・St. Longin's Chapel (Greek Orthodox)
(聖ロンギヌスの礼拝堂(ギリシャ正教)
・Chapel of the Sharong of the Raiment (Armenian Orthodox)
(衣服のシャロン礼拝堂 (アルメニア正教)
・St. Helena's Chapel (Armenian Orthodox)
(セントヘレナ礼拝堂 (アルメニア正教)
・Crypt of the Finding of the Cross (Catholic)
(十字架発見の地下室 (カトリック)
・Medieval Cloister(中世の回廊)
・Chapel of hte Insults(屈辱の礼拝堂)
・Chapel of Adam(Greek Orthodox)(アダム礼拝堂(ギリシャ正教)
・Site of tombs Godefroy de Bouillon and Baldwin
(ゴドフロワ・ド・ブイヨンとボールドウィンの墓の場所)
・Cruxifixion Alta and Stabat Mater Altar (Greek OrthodoX)
(磔刑の祭壇とスターバト マーテルの祭壇 (ギリシャ正教))
・Chapel of the Crucifixion(Catholic)(磔刑礼拝堂(カトリック))
・Chapel of St. Michael(聖ミカエル礼拝堂)
・Chapel of St/ John (Armenian)(聖ヨハネ礼拝堂 (アルメニア語))
・Abraham's Chapel(アブラハム礼拝堂)
・Chapel of the Sorrows (Mary the Egyptian)
(悲しみの礼拝堂(エジプトのマリア))
・Tomb of Philippe d'Aubigny(フィリップ・ドービニーの墓)
・Latin Choir (Catholic)(ラテン合唱団 (カトリック))
・Navel of the World (Omphalos)(世界のへそ (オンパロス))
・Greek Choir(Greek Choir)(ギリシャ合唱団) -
聖ヘレナ聖堂
聖墳墓教会の下層にある12世紀のアルメニア教会のチャペルです。
色彩豊かで綺麗なチャペルです。
現在は聖グレゴリーに捧げられているとのこと。(ズヴォニミール・アトレティック) -
ヘレナはローマ皇帝の中で、初めてキリスト教を公認したコンスタンティヌス1世の母です。
熱心なキリスト教徒で、聖地を巡礼し、この地に初めて教会を建築しました。
また、他にも生誕教会など多くの教会を建てました。 -
320年頃、ゴルゴタに巡礼し、キリストが磔になった十字架を発県しました。
実はこの時に、同じ場所で聖釘(キリストに打ち付けた釘)、聖槍(ロンギヌスの槍)も発見されました。
この釘と十字架の破片はイタリアにあるモンツァ博物館に所蔵されています。
この教会を建築した聖ヘレナの功績は大きいので言いにくいのですが、十字軍が聖地から聖遺物を持ち帰った事を思い出しました。(-_-;)
ちなみにイエスの脇腹を刺したロンギヌスの槍、イエス聖誕の際に訪問した東方三博士の遺骸、生誕の際の飼い葉桶のまぐさ、等々の伝説もあります。 -
聖ヘレナ聖堂のドームです。
ブルーを基調とした美しいドームです。 -
下に降りて行きます。
セントヘレナ礼拝堂の床には、ノアの箱舟のモザイクが描かれているようです。 -
十字架発見のチャペルです。
聖ヘレナが十字架を抱いている像です。
最下層階にあります。
4世紀、聖ヘレナが古代石切り場だった地下空間で、十字架を発見したと言われる伝承の場所です。 -
フレスコ画のようですが、全然わかりません。
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岩の下になります。
この壁には部分的にフレスコ画が残っています。
保護されています。 -
ここは、かつて石を切り出した後に、貯水槽として使用されていたようです。
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十字架発見礼拝堂の床の祭壇です。
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地下部分で薄暗いです。
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アダムのチャペル
ゴルゴダの丘のすぐ下にあって、アダムが眠っていると言われています。
この岩はイエスが息をひきとった時に起こった地震でひび割れたと言われてます。 -
硝子窓からゴルゴダの丘が見られます。
イエスの血が流れ(贖罪の血)、アダムの骨に触れたと言う伝説があります。
アダムは人類の創生の人物ですから、これは人類の贖いが成就したのだと言われています。
神学的な話ですので、考古学的なものではありません。 -
地上に出ました。
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The Lutheran Church of the Redemer
(ルーテル救世主教会)
実はこの教会はエルサレムでは、2つめのプロテスタントの教会です。
この教会は、1869年のスエズ運河開通式にオスマン帝国のスルタン アブドゥルハミドが参加した際に、プロイセン国王ウィリアム1世 (1870年以降は皇帝ヴィルヘルム1世) に与えられた土地に建てられ、1892年から1898年にかけて建設されました。この場所は聖マリア・マイナーの古い教会のあった場所でした。 -
祭壇の様子です。
シンプルな祭壇です。
この教会の塔からは、エルサレム旧市街やオリーブの丘の景色を一望できるようです。
塔の展望台は鐘の部屋よりも高く、約40メートルの高さがあります。ただし、エレベータはありません。 -
ドームです。
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ステンドグラスから光が漏れてきています。
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さて、教会を後にしました。
遺跡のようなものがあります。 -
Columns of the western portico of the Cardo
(カルドの西柱廊玄関の柱) -
梯子のようなものがあり、下に降りていけそうです。
結構下まであります。
貯水槽でしょうか・・・。
歴史の深さを感じます。 -
キッパがたくさんあります。
こんなにもバリエーションがあるとは吃驚です。 -
主に観光客用だと思うのですが、幾何学模様のものまであるのは不思議です。
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お土産屋さんです。
ちょっと気になりますが、そのまま通り過ぎます。 -
カルド
カルドとは古代ローマなどの南北に走る基幹道路のことです。
135年にハドリアヌス帝が廃墟の上に建築しました。
その後、ビザンツ時代、ユスティニアス帝の治世下、完成しました。かつてのダマスカス門とシオン門を結ぶメインストリート by noelさんカルド 史跡・遺跡
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これは、カルドのイメージ画像です。
当時はこのように賑わっていたのでしょう。
十字軍の時代には、ご覧のように一部商店街になっていました。 -
このあたりが古い道でしょうか・・・。
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屋根がついているので、この付近は歩きやすいです。
1967年の第3次中東戦争後、完全に破壊されてしまいました。 -
これはヨルダンのマダバで見たモザイクの地図のコピーです。
マダバの地図は死海周辺全て描かれていましたが、ここは「カルド」に照準を当てて描かれています。 -
エルサレムの部分に焦点をあてたものです。
こちらの列柱がしっかり描かれています。
この古代ローマの列柱は「カルド」と呼ばれています。
2007年1月の発掘調査で遺跡が見つかりました。
道幅は約10mもあります。
恐るべし古代ローマ、歴史からわかってはいるものの、ここにも足跡をしっかり残しています。 -
逆方向から見た列柱です。
-
これからお昼ご飯です。
この付近はアルメニア地区です。 -
Armenian Tavern (アルメニアン・タヴァーン)
このお店でランチをします。 -
暑すぎて喉は乾くのですが、食欲はあまりありませんでした。
私はあまり食べませんでしたが、メニューはもっとたくさんありました。
夫のプレートを写せば良かったかも・・・。 -
地下に繋がる階段のようです。
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Armenian Convent of St. Jacques(聖ジャックのアルメニア修道院)
アルメニア人地区の入口ゲート近くの聖ヤコブ大聖堂
12世紀のアルメニア教会です。
ゼベダイの息子のヤコブ(大ヤコブ)とイエスの兄弟のヤコブの2人のヤコブに捧げられました。 -
ここを通り抜けて行きます。
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聖ヤコブの首を囲む聖母マリアと天使たちのようです。
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拡大しました。
嘆き悲しんでいる様子が窺えます。 -
聖ヤコブの主教座聖堂です。
茶色を基調とした落ち着いた色彩で描かれています。
また、独特なタイル模様も美しいです。
このファサードには金属細工が施されています。 -
左にはヤコブの首も描かれています。
それを取り囲んで、聖母マリアと天使たちが描かれています。 -
シオン門が見えてきました。
-
左に矢印が出ています。
西の壁の方向です。
そしてダビデの六芒星(ヘキサグラム)が描かれています。 -
シオン門です。
シオン門は最も南側に位置してます。
16世紀半ばに建築されました。この門からシオンの丘(山)に通じます。
実はヤド・ヴァシェムの前身であるホロコーストの部屋(マルテフ・ハショア)もシオン山にあります。
そしてホロコーストで 1,200 人のユダヤ人の命を救った正義の異邦人、「シンドラーのリスト」で有名なオスカー・ シンドラーが埋葬されているローマ・カトリック墓地もあります。このお墓には訪れる人が石を積んで行き、感謝されています。預言者ダビデの門 by noelさんシオン門 建造物
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門の壁をズームしてみます。
壁はこのように銃弾の痕でいっぱいです。
中東戦争の時の銃弾の痕跡です。
本当に生々しいです。 -
旧市街の地図です。
-
シオン門も、西の壁も、聖墳墓教会も左側の方向です。
-
最後の晩餐の建物の屋上です。
この左隣のかすかに見えるのがモスクだった時代のミナレットです。
マリア永眠教会です。 -
ゴシック様式の建物の中にあります。
ダビデ王の墓の2階が、イエスと十二使徒の最後の晩餐の部屋です。 -
Room of the last supper
最後の晩餐の部屋
さあて、どんな部屋なんでしょう。
気になります。
ちなみに、この建物は聖シオン教会の一部で、ビザンチン時代に建てられマダバの地図にも描かれています。
ただ14世紀以来、フランシスコ修道士たちの共同食堂として使われていました。 -
シオンの丘にある最後の晩餐の場所
聖書では「シオン」はダビデの街のこと。
ソロモン王が主の宮のためにした全ての工事が完了しました。
そしてソロモンはダビデの街シオンから主の契約の箱を運びあげました。
第一列王記8章
現在のシオンの丘とは少しだけ場所がずれています。イエスが弟子たちと過越しの祭の食事をした場所 by noelさん最後の晩餐の部屋 史跡・遺跡
-
ここが最後の晩餐の場所?
本当にそう思ってしまいました。
有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの絵と比較すると、かなり違います。 -
勿論、内部の柱といいそのアーチといい美しいのですが、イエスの時代の物ではありません。
-
ステンドグラス
ゴシック建築様式で、12~14世紀に建築されたと推測される建物ですが、その後のイスラム支配の下で、イスラム寺院として使用されたため、コーランの文字が刻まれたステンドグラスが残っています。 -
このミフラーブらしきものも、イスラム支配の時代の名残のようです。
それにしても、最後の晩餐の部屋に、このようなものがあるとは思ってもみませんでした。
とにかくエルサレムに来て驚いたのが、様々な時代、様々な宗教の物が当然のように混在している事です。 -
レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐があまりにも有名なので、イエスが弟子たちとテーブルについているイメージが強いのですが、実際には古代ローマ時代の晩餐のように寝そべって食べていたようです。
古代ローマの人々ならともかく、イエスが寝そべっていたなんて・・・・今までのイメージが壊れてしまいます。(-_-;)(-_-;)(-_-;)
そして、イエスが「あなたがたの内の一人が私を裏切ります。」と言っています。弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていました。
そして誰が裏切るのか尋ねたところ「私がパン切れを浸して与える者その人です。」と言って、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられました。
ヨハネ13章
この浸すという行為は、イスラエルの食事ではペースト(ソース)にパンをちぎって浸しました。
そしてユダが、それを受け取った時、サタンが彼に入った・・・とあります。
ヨハネ13章
そしてイエスは、ユダにあなたがしようとしていることを、すぐにするよう言いました。
ヨハネ13章 -
この建物は中世の十字軍の建物です。
イエスの記念としての場所です。 -
オリーブの木のようですが、晩餐の部屋なので、燭台でしょうか。
メノラーを表しているようにも思います。
(そう思ったのには、この部屋の下と関係があります。) -
横から見た様子です。
この部屋は五旬節(ペンテコステ)の部屋とも呼ばれました。
イエスが亡くなって50日目の日に弟子たちが聖霊が降りた所とも言われています。
(使徒言行録2章) -
シオン門のすぐ外の町の南側にある広場で食事を整えることになりました。
言い伝えでは、この会堂はシナゴーグの上にありました。
14世紀にフランシスコ会が再建したものです。
16世紀にはオスマン帝国がモスクに転用しました。
また、1948年の戦争時、ヨルダン軍の砲弾が壁の一部を崩壊し、ヘロデ時代の石壁が発見されました。
綺麗に石を積んだ壁は、1世紀の建物、つまりシナゴーグがあったことを裏付けました。 -
イエスが、その家の主人に、弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、弟子に尋ねるように言うと、既に席が整っている2階の客間を見せてくれます。
ルカ22章
メノラーです。
「燭台」と訳され、ユダヤ教の典礼具の一つです。
メノラーは早くからユダヤ教の象徴的存在となり、シナゴーグの床におけるモザイクや柱頭、石棺、その他の器具に模様が描かれるようになりました。
特に12月のハヌカのお祭りは、特別なメノラーを使用します。
8枝(台)と、もう1つのろうそくをつける台がついていて、9本の台があるメノラーです。これをハヌキヤと言います。
1日1本ずつ増やして点火し、8日目に全部が灯されるようにして、油の奇跡をお祝いします。 -
ダビデ廟
最後の晩餐の部屋の下には、ダビデの墓があります。
ダビデの記念碑があります。
考古学的な遺跡ではありません。
中はユダヤ人会堂になっていますが、十字軍時代からの建物です。
※
ダビデはヘブライの部族の1つユダ族の人間でした。
ベツレヘムのエッサイの子で、羊飼いをしていました。
その頃、ヘブライ王国のサウル王はペリシテ人と戦っていました。
ペリシテ人のゴリアテという2mを越える大男に手を焼いていたのですが、ダビデはこのゴリアテを倒し、首を切り落としました。そして、ペリシテ軍に勝利しました。この事から、ダビデはサウル王に見いだされました。ただ、やがて王位を狙う者と疑われたため、ダビデはペリシテに亡命したのです。
やがてサウル王が戦死し、ダビデは、ユダ族のヘブロンの地に戻り、BC1003年、王を称しました。やがてサウルの娘を妃として迎え、ヘブライ人全体の王として認められました。これによってダビデはユダ王国とイスラエル王国2国の国王となり、統一国家の王となりました。そしてその後もダビデはペリシテ人とのゲリラ戦を展開、ペリシテ戦争でついにその宿敵を屈服させ、ヨルダン川西岸のカナンに勢力を伸ばしたのです。BC998年、ダビデはカナン地方の中心地エルサレムを征服し、イスラエル全域を支配することとになりました。 -
1階の部屋の角にあるダビデ王のお墓は、古代の礼拝所シオン教会の跡に位置しています。
見えにくいのですが、ダビデ王の埋葬を象徴する石棺があります。綺麗なビロードの布で被われています。
そして奥の半円形の窪み(ニッチ)は、トーラーの巻物を収める場所(アプス)を示しています。
これは後期ローマ時代のもので大きさは2.44mで、神殿の方向を向いています。結論として、この墓室の建物は、第二神殿(ヘロデ王の神殿)が崩壊した後の1世紀中に建てらたシナゴーグであるとされています。 -
第三次中東戦争までは、ダビデ廟はイスラエルで最も神聖なユダヤ教聖地だと考えられていました。
1948年のイスラエル独立と第一時中東戦争の時、シオンの丘はヨルダン軍とイスラエル軍の激震地となりました。
1949年の停戦合意で、旧市街はヨルダン領となり、城壁の外に無人緩衝地帯が設けられましたが、ダビデの墓のモスクはぎりぎりイスラエル側になったのです。そのため、ユダヤ人は旧市街の嘆きの壁に祈りに行くことができなくなっていまったのです。ただ、ダビデの墓までは来ることができました。
そのため、ユダヤ人のとって最も重要な聖地となったのです。
最近はパレスチナ人キリスト教徒とユダヤ教徒活動家の間で、緊張が続いています。 -
鶏鳴教会に向かっています。
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左のオレンジ色の屋根の建物には、ビザンチン時代の中世のエルサレムの町の模型があり、展示されています。
そして、その奥に見えるのが鶏鳴教会です。 -
鶏鳴教会とパノラマスポットの案内です。
鶏鳴教会の横に、なつめやしの木がありますが、実は受難週の初めの日、棕櫚の日曜日(勝利の入城)で人々が、なつめやしの木の枝を手にしてイエスを歓迎します。
ただ、その週の木曜日、イエスは死刑判決を受けました。 -
St. Peter in Gallicantu Church(鶏鳴教会)
この教会は祭祀カヤパの屋敷の跡です。
カヤパは18年頃に祭祀に任命され、ローマ総督の任命で大祭司になりました。
この当時のユダヤ社会では、ハスモン朝以来の伝統で、大祭司が王と同じような政治的な実権を握っていました。
ゲッセマネ付近で逮捕されたイエスが、ケデロンの谷を通り、ここ大祭司の官邸に連行されてきました。(おそらく人目につかないよう暗闇に乗じて連行されたと思われます。)
そしてカヤパの舅であるアンナスによって予備の審問が行われましたが、イエスは答えず、結果的に予備審問は無意味に終わりました。
その後、イエスは地下の牢獄に留置され、最後の一晩を過ごしました。
ここから見えるのは、イエスが地下牢に幽閉され、立っている状態のようです。祭祀カヤパの屋敷跡 by noelさん鶏鳴教会 寺院・教会
-
ファサード上部です。
見えにくいのですが、十字架の上に、この教会のシンボルでもある鶏がいます。
ちなみに過越しの祭りの2日前、ここで律法学者、長老たち、祭司長たちが集まり、イエスが神を冒涜した容疑を立証しようとしていました。(簡単に言えばイエスを騙して殺そうと目論んでいました。)そんな場所でもあるようです。
この集まりは「サンヘドリン」と言って、当時のユダヤの宗教、政治的自治組織でした。
マタイの26章 -
扉に絵が描かれています。
比較的新しいので塗り直したようです。
ここには、イエスがゲッセマネで捕えられて、大祭司カヤパの邸宅に連れてこられて審問された時のことが描かれています。
ペテロは捕らえられたイエスの後を、離れて遠くからついて来ていたようです。
ペテロは、イエスの事を知っているかと問い詰められました。
知らないと、イエスの事を否定しました。
そして1回だけでなく、その後も否定し、結果的には、3回もイエス否定しました。
わかりにくいのですが、イエスはこの絵では指を3本たてています。
つまりペテロが3回否定することを示しています。
そして、ペテロが否定した時、鶏が鳴きました。 -
ステンドグラスの横の壁には、ビザンチン時代のモザイク画が描かれています。
-
こちらは、おそらく5世紀の教会の床の一部かと思われます。
-
礼拝堂の様子です。
ブルーの美しい祭壇です。
ここに描かれているのは、カヤパ邸で、尋問を受けている縛られたイエスのようです。
この場面で、ガリラヤ訛もあり、ペテロがイエスと一緒にいたことを告げられると、ペテロは、また否定しました。これで3度否定しました。そして鶏が泣きました。
すると、その様子を、イエスは振り向いて見つめました。 -
これはゲッセマネの祈りの場面でしょうか。
それともイエスの変容でしょうか。 -
こちらは左にピラト、そしてイエス、右にいるのはローマ兵のようです。
-
イエスの復活の場面でしょうか。
-
最後の晩餐の場面のようです。
-
イエスの昇天の場面でしょうか。
-
これは、ただの十字架ではありません。
天井に描かれたステンドグラスの十字架です。
光の効果を計算し尽くしたかのような美しさです。 -
イエスの判決の場面でしょうか。
他にも繋がれている罪人がいます。
バラバはイエスの代わりに釈放されました。
残りの2人は、デュスマスとゲスタスかもしれません。 -
ビザンチンのモザイクのようです。
-
イエス(右)とペテロ(左)のようです。
画面の後方にはイエスを否定しているペテロが描かれているようです。
また、柱の上には鶏が描かれています。 -
上から下を覗いて見ています。
イエスが囚われていた牢獄です。
イエス始め、捕らえられた罪人は、ここから地下牢に吊り下げられました。
結構深いので、登ってくるのは困難です。 -
教会内部の様子です。
シンプルな構造になっています。
大きな十字架と窓にはステンドグラスがはめ込まれています。 -
祭壇画です。
イエスが地下牢で最後の夜を過ごしている場面のようです。 -
ここは上のチャペルですが、ちょうどこの下に穴が開けられています。
夜明けがくると、祭司長たちや長老たちは、イエスを死刑にするため協議しました。
そしてイエスを縛って連れ出し、ローマ総督であるピラトに身柄を引き渡しました。 -
このステンドグラスの左下に階段があり、降りて行くと地下洞窟(聖なる穴)です。
-
聖なる場所の位置などの解説です。
-
この地下洞窟(牢獄)は1908年に発見されました。
イエスを監視していた者たちは、イエスをからかい、鞭打ちしました。そして目隠しをして「当ててみろ、お前を打ったのは誰だ。」と聞きました。
ルカの福音書22章
ここには対称に穴があけられたこのポーチは、ここが拷問の場所であったことを示していたようです。
上の2つの穴は腕を縛るため、側部の2つの穴は足を固定するためのものでした。
つまり、手足を全く動かせず、抵抗できない状態にして、鞭打ちを行ったことになります。 -
ガラス窓を通して、下を覗いてみます。
-
奥に階段があって降りることができます。
勿論、イエスの時代にはありません。
ビザンチン時代に作られました。
1世紀前後、このカヤパ邸のような裕福な家には、地下にいくつか穴があったようです。
これらの穴は、貯水槽であったり、地下倉庫などとしても使われていたようです。
また、沐浴をするために使われたケースもあるようです。
特にカヤパ邸は公邸であったとすれば、律法違反の供物等を保存するための倉庫として使われたことは推測できます。
併せて罪人を一時的に留置する場所であったとしても納得できます。 -
イエスが鎖に繋がれて、天井を見上げています。
キリスト教徒でなくても、イエスの苦悩がよくわかります。 -
階段の上から下を見た様子です。
-
ビザンチン十字架が刻まれています。
-
この隅には詩編88編が置いてあります。
これは悲しみの詩編と言われています。様々な言語で書いています。
私の祈りがあなたの御前に届きますように。どうか私の叫びに耳を傾けてください。
あなたは私を最も深い穴に置かれました。暗い所に深い淵に。
あなたは私から愛する者や友を遠ざけられました。 -
地下の牢獄から上を見上げた様子です。
一筋の明かりだけしか見えません。
おそらく夜ば真っ暗だったでしょう。 -
手前には遺跡のような石が見えますが、その先には洗濯物が干していたり、更に先は樹々がちらほら見えるものの、岩肌の見えるような土地もあるようです。
-
ペテロ否認の銅像のモニュメントです。
イエスが捕えられ、ここカヤパ邸に連行され審問された時、ペテロは3人にイエスの仲間かと問い詰められ、3回とも否定した時の様子です。実は柱の上に鶏がいるのですが、木の葉に隠れて撮れてませんでした。(-_-;)
手前の女性は召使の女性です。
ペテロはその左隣です。それ以外は他の人です。
台座にはラテン語で「私はあの人を知らない。」とペテロが言った言葉が記されています。 -
階段の横の壁にはレリーフがありました。
このレリーフは最後の晩餐をした後に、ゲッセマネに祈りに行くために、イエスが弟子達と一緒に、石段を降りている様子のようです。 -
こちらのレリーフはイエスが連行される場面のようです。
-
手前には遺跡のような石がたくさんありました。
また、遠くには少しだけ木々が見えますが、岩肌が見えるような何もない土地もあるようです。 -
横から撮影したので、わかりにくのですが、これは石段です。
この石段はイエスが実際に歩かれたと言われています。
あるいはペテロが歩いたとも言われてます。
この先に最後の晩餐の場所がありますので、イエスや弟子たちは、エルサレム滞在中、この階段を何度か歩いたと思われています。
昔は自由にこの石段を歩いたり、立ち入ることができましたが、現在は入れません。 -
教会からは旧市街が一望できます。
神殿の丘の黄金に輝く岩のドームが見えます。 -
城壁が見えます。
そして左側付近にはアル・アクサー・モスクらしきものが見えます。
城壁外の右には金色の玉ねぎ型のドームらしきものが見えますので、おそらくロシア正教のマグダラのマリア教会かと思います。
つまり右方向はケデロンの谷かと・・・。
自分で撮っておきながら、他の人が写らないように適当に撮っていたため、確信が持てません。(-_-;) -
こちらは目につく遺跡が見当たりません。
普通の住居がたくさんあります。
おそらく新市街方向ではないかと思います。 -
かなり長い旅行記になってしまいました。
それでもエルサレムは、まだ続きます。
この日は、この後ベツレヘムに移動しました。
そして、今回の旅行の最終日は、エルサレムの城壁外を観光します。
長いことご覧頂き、お疲れ様でした。
そして、ありがとうございました。m(__)m
2023年夏の旅も、旅行記は残り3つになりました。
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この旅行記へのコメント (6)
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- bitoさん 2025/02/07 10:04:01
- 凄い!愛が感じられる旅行記ですね
- noelさま
初めてコメントさせていただきます。
私は、ハマスによる奇襲の前後にイスラエルに滞在していました。トランプ政権が発足して以降、今後のイスラエルの展望がみえてきたことをきっかけに、封印していたイスラエル滞在中の旅行記を仕上げたところで、noelさまの旅行記を知りました。
その詳細な記述に思わず見入ってしまいました。予定していた他の地域には行けず、旧市街をくまなく回っていたため、一つ一つの写真がとても懐かしく、また為になる内容が盛りだくさんで、朝から没入してしまいました。
ベツレヘムや他の旅行記も、時間を見つけて拝読させていただきたいと思います。イスラエルをこよなく愛されているnoelさまのお気持ちが伝わってきました。
ありがとうございました。
- noelさん からの返信 2025/02/07 22:46:28
- RE: 凄い!愛が感じられる旅行記ですね
- bitoさま、こんばんは
はじめまして
コメントありがとうございます。
> 私は、ハマスによる奇襲の前後にイスラエルに滞在していました。
1番大変な時期にイスラエルに滞在されていたんですね。
本当に大変だったことでしょう。
私などは、今思えば、コロナ明けで、しかもギリギリの時期だったため、テロの心配は払拭できないものの、観光客も通常より少なく、暑さを除けば、かなり快適な旅ができたと思っています。
トランプ政権が発足して以降、今後のイスラエルの展望がみえてきたことをきっかけに、封印していたイスラエル滞在中の旅行記を仕上げたところで、noelさまの旅行記を知りました。
政権交代して、イスラエルのみならず、かなり世界が変わりそうですね。
> その詳細な記述に思わず見入ってしまいました。
長すぎる旅行記で、読んでいただく方に申し訳なく思っています。
個人的な備忘録的な要素が多いのですみません。
> 予定していた他の地域には行けず、旧市街をくまなく回っていたため、一つ一つの写真がとても懐かしく、また為になる内容が盛りだくさんで、朝から没入してしまいました。
予定していて行けなかったのは本当に残念でした。
ただ、私などより、ゆっくりとご覧になった様子で、その点は羨ましく思います。
仮庵の祭りに行けたのは凄いことだと思います。
私の場合は超特急での観光でした。
しかも、そのため、無造作に撮った写真も多く、整理のために旅行記の投稿に時間がかかってしまいました。
> ベツレヘムや他の旅行記も、時間を見つけて拝読させていただきたいと思います。
ありがとうございます。
ベツレヘムにも行かれたんですね。
私の方こそ、今後ともよろしくお願いいたします。
noel
- bitoさん からの返信 2025/02/08 00:21:54
- RE: RE: 凄い!愛が感じられる旅行記ですね
- ご丁寧なご返事までいただき申し訳ないです。
またフォローもいただきすみませんっ。
> 私の方こそ、今後ともよろしくお願いいたします。
いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。
宗教については果てしなく奥深く、noelさんの記述がとても分かり易くてすんなりはいってきます。
旅行記と共に拝読させてください。
また、お互い、素敵な旅をされますように♪
bito
- noelさん からの返信 2025/02/09 21:07:43
- RE: RE: RE: 凄い!愛が感じられる旅行記ですね
- bitoさま
旅行記、拝見しましたが、アラート警報、ゲートの閉鎖、日本政府からの民間チャーター機でドバイへ・・・と緊迫したトンでもない状況、本当に大変でした。
有事のイスラエル記となりましたが、まずはご無事で良かったです。
本当にお疲れ様でした。
noel
-
- 浜ぎんこさん 2024/06/02 19:05:00
- こんに凄い方が、いるんですネ (^^)
- Hi..noel ちゃ~ん^^
Thank you very much.
怒涛の、325枚・投稿(パチパチ)
このサイトに登録して15年目ですが・・初めてです。
325枚すべてにコメントが。
多分、とんでもない時間が・・
時間もそうですが、よく1枚ずつコメントが入れられると頭が、下がります。
居住地・蒸し暑くなり、先週月曜日夕方から、エアコン入れです。
予定通り・今夜24時過ぎ or 朝6:30頃に1本投稿です。
noel ちゃんと違って、コメントほとんどありませんが
表題のトップ・コメントだけは、びっしりです^^
いつもいつも・・気にかけてもらって、大変うれしく思っています^^
Have a nice week..
・・HAMAGINKO・・
- noelさん からの返信 2024/06/02 21:28:45
- Re: こんに凄い方が、いるんですネ (^^)
- 浜ぎんこさん
ありがとうございます。
確かにトンでもない時間がかかりました。
家族にも言われてます。(-_-;)
なんだか深みにはまっているような気がします。
一応は、備忘録的な意味合いがありますが、結局は好きで書いてます。
元々調べるのも好きです。
読む人にとっては、辛いでしょう・・・・・。スミマセン
ところで浜ぎんこさんの旅行記も楽しみにしてますね!
ありがとうございました。
noel
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