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本来ならサルトには前日に行く予定でした。<br />時間の関係で旅程が変更になりました。<br />ただ、この日はイスラエルへの国境を越えなければなりません。<br /><br />サルトは2019年に世界遺産に指定されています。<br />The Place of Tolerance and Urban Hospitality(寛容と都市的ホスピタリティの場)です。<br />ゲストハウスや社会福祉制度などのおもてなしの文化が発展しました。<br />また、イスラム教徒とキリスト教徒が互いに寛容な関係を保持しています。<br /><br />19世紀末から20世紀当初に通商の要路として、栄えた古都です。<br />また、山口県の萩市をモデルとして支援しています。<br />ヨルダンで最初の学校ができたのも、サルトです。<br /><br />なお、ガイドのサムさんの故郷でもあります。<br />どんな所か情報が少ない中、向かいました。<br /><br />そしてその後は、古代ローマのジェラシュ遺跡です。<br />この遺跡は保存状態も良く、東のポンペイとも呼ばれるほどの遺跡があります。特にハドリアヌスの凱旋門やヒッポドロームなどなど楽しみにして出かけました、<br /><br />【旅程】<br /><br />8月2日(水)<br />NRT 成田発 22時30分→DXB ドバイ着 <br />8月3日 4時10分着(EK0319便 エミレーツ航空)<br />↓<br />8月3日(木)<br />ドバイ空港 5時20分<br />ジュメイラ・パブリックビーチ 5時50分<br />ブルジュ・アル・アラブ・ジュメイラ 6時15分<br />ドバイ・フレーム 6時45分<br />ドバイ・モール 7時10分<br />ブルジュ・カリファ(ハリファ) 8時00分<br />ドバイ・モール 9時00分<br />ドバイ水族館 10時15分<br />↓<br />ドバイ国際空港 11時00分<br />↓<br />DXB ドバイ 14時05分発→AMM アンマン 16時00分<br />(EK903便 エミレーツ航空) <br />↓<br />アンマン国際空港 17時15分  <br />ペトラ(エドム・ペトラ) 20時10分 <br />エル・ハズネ(ペトラ・バイ・ナイト) 21時00分 <br />ホテル 22時30分 <br /><br />8月4日(金)<br />ホテル発 9時00分 <br />ペトラ遺跡 <br />シーク 9時30分 <br />エル・ハズネ 10時20分 <br />ローマ遺跡 11時10分 <br />ランチ(Basin Restrant)12時00分 <br />エド・ディル 13時40分 <br />カフェ 13時45分 <br />ビューポイント 14時10分 <br />ペトラ博物館 16時10分 <br />ホテル 17時15分<br /><br />8月5日(土)<br />ホテル発 7時30分<br />モーゼの泉 7時45分<br />ネポ山 11時25分<br />マタバ 聖ジョージ教会 12時40分<br />ランチ Haret Jdoudna Restaurant &amp; craft shops 13時00分<br />アンマン アブドラ一世モスク 15時15分<br />ヨルダン博物館 16時05分<br />シタデル 17時15分<br />リージェンシー・パレス・ホテル 17時45分<br /><br />8月6日(日)<br />ホテル発 7時00分 ●<br />サルト旧市街 7時35分 ●<br />ジェラシュ遺跡 9時10分 ●<br />↓<br />ヨルダン出国 11時45分 ●<br />イスラエルへ入国 13時00分<br />↓<br />ティベリア ランチ 14時05分<br />山上の垂訓教会 15時05分<br />パンと魚の奇跡の教会 15時45分<br />シナゴーグ 16時10分<br />カペナーム 16時40分<br />プリマ・ガリル・ホテル 17時10分<br /><br />8月7日(月)<br />ホテル発 7時30分<br />ナザレ<br />カナの婚礼教会 8時00分<br />マリアの井戸 8時55分<br />受胎告知教会 9時20分<br />聖ヨセフ教会 9時45分<br />ヨルダン渓谷 12時00分<br />ランチ エリコ Temptation Restaurant 12時45分<br />死海 14時35分<br />エルサレム プリマ・パーク・ホテル 17時20分<br /><br />8月8(火)<br />ホテル発 7時00分<br />神殿の丘 7時30分<br />岩のドーム 7時50分<br />嘆きの壁 8時30分<br />シナゴーグ 8時55分<br />ヴィア・ドロローサ 9時10分<br />聖墳墓教会 10時15分<br />アルメニア教会 10時45分<br />シリア教会 11時15分<br />ランチ Armenian Restaurant Bar「Bulghourji」11時45分<br />シオン門 13時00分<br />ダビデの墓 13時10分<br />鶏鳴教会 13時25分<br /><br />ベツレヘム<br />生誕教会 15時10分<br />ホテル 17時00分<br /><br />8月9日(水)<br />ホテル発 9時00分<br />オリーブ山 9時40分<br />主の泣かれた教会 10時00分<br />ゲッセマネの園 10時20分<br />万国民教会 10時25分<br />ベドウィンのテント 11時05分<br /><br />テルアビブ<br />ランチ 13時10分<br />港 14時00分<br />バウハウス時代の建築 14時35分 <br />↓<br />TLV テルアビブ空港 19時50分発→<br />DXBドバイ空港 23時59分着(EK932便 エミレーツ航空)<br />↓<br />8月10日(木)<br />DXBドバイ空港 2時40分発→NRT成田空港 17時35分着<br />(EK0318便)<br />

Salt & Jerash 2023 ⑦ サルト&ジェラシュ遺跡 (Dubai~Jordan~Israel)

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2023/08/02 - 2023/08/10

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noel

noelさん

この旅行記のスケジュール

2023/08/06

  • リージェンシー・パレス・ホテル発 7時00分 → サルト着 7時35分

  • サルト 8時00分頃発 → ジェラッシュ遺跡着 9時00分頃

  • ハドリアヌスの凱旋門 9時15分頃 → ヒッポドローム 9時17分頃

  • ヒッポドローム 9時22分頃 → 遺跡入口南門 9時25分頃

  • 遺跡入口南門 9時25分頃 → フォルム 9時30分頃

  • フォルム 9時33分頃 → 南劇場 9時37分頃

  • 南劇場 9時45分頃 → ゼウス神殿 9時50分頃

  • ゼウス神殿付近 9時55分 → 駐車場 10時10分頃

  • ジェラッシュ遺跡 10時15分頃 → イスラエル国境 11時45分

この旅行記スケジュールを元に

本来ならサルトには前日に行く予定でした。
時間の関係で旅程が変更になりました。
ただ、この日はイスラエルへの国境を越えなければなりません。

サルトは2019年に世界遺産に指定されています。
The Place of Tolerance and Urban Hospitality(寛容と都市的ホスピタリティの場)です。
ゲストハウスや社会福祉制度などのおもてなしの文化が発展しました。
また、イスラム教徒とキリスト教徒が互いに寛容な関係を保持しています。

19世紀末から20世紀当初に通商の要路として、栄えた古都です。
また、山口県の萩市をモデルとして支援しています。
ヨルダンで最初の学校ができたのも、サルトです。

なお、ガイドのサムさんの故郷でもあります。
どんな所か情報が少ない中、向かいました。

そしてその後は、古代ローマのジェラシュ遺跡です。
この遺跡は保存状態も良く、東のポンペイとも呼ばれるほどの遺跡があります。特にハドリアヌスの凱旋門やヒッポドロームなどなど楽しみにして出かけました、

【旅程】

8月2日(水)
NRT 成田発 22時30分→DXB ドバイ着 
8月3日 4時10分着(EK0319便 エミレーツ航空)

8月3日(木)
ドバイ空港 5時20分
ジュメイラ・パブリックビーチ 5時50分
ブルジュ・アル・アラブ・ジュメイラ 6時15分
ドバイ・フレーム 6時45分
ドバイ・モール 7時10分
ブルジュ・カリファ(ハリファ) 8時00分
ドバイ・モール 9時00分
ドバイ水族館 10時15分

ドバイ国際空港 11時00分

DXB ドバイ 14時05分発→AMM アンマン 16時00分
(EK903便 エミレーツ航空) 

アンマン国際空港 17時15分  
ペトラ(エドム・ペトラ) 20時10分 
エル・ハズネ(ペトラ・バイ・ナイト) 21時00分 
ホテル 22時30分 

8月4日(金)
ホテル発 9時00分 
ペトラ遺跡 
シーク 9時30分 
エル・ハズネ 10時20分 
ローマ遺跡 11時10分 
ランチ(Basin Restrant)12時00分 
エド・ディル 13時40分 
カフェ 13時45分 
ビューポイント 14時10分 
ペトラ博物館 16時10分 
ホテル 17時15分

8月5日(土)
ホテル発 7時30分
モーゼの泉 7時45分
ネポ山 11時25分
マタバ 聖ジョージ教会 12時40分
ランチ Haret Jdoudna Restaurant & craft shops 13時00分
アンマン アブドラ一世モスク 15時15分
ヨルダン博物館 16時05分
シタデル 17時15分
リージェンシー・パレス・ホテル 17時45分

8月6日(日)
ホテル発 7時00分 ●
サルト旧市街 7時35分 ●
ジェラシュ遺跡 9時10分 ●

ヨルダン出国 11時45分 ●
イスラエルへ入国 13時00分

ティベリア ランチ 14時05分
山上の垂訓教会 15時05分
パンと魚の奇跡の教会 15時45分
シナゴーグ 16時10分
カペナーム 16時40分
プリマ・ガリル・ホテル 17時10分

8月7日(月)
ホテル発 7時30分
ナザレ
カナの婚礼教会 8時00分
マリアの井戸 8時55分
受胎告知教会 9時20分
聖ヨセフ教会 9時45分
ヨルダン渓谷 12時00分
ランチ エリコ Temptation Restaurant 12時45分
死海 14時35分
エルサレム プリマ・パーク・ホテル 17時20分

8月8(火)
ホテル発 7時00分
神殿の丘 7時30分
岩のドーム 7時50分
嘆きの壁 8時30分
シナゴーグ 8時55分
ヴィア・ドロローサ 9時10分
聖墳墓教会 10時15分
アルメニア教会 10時45分
シリア教会 11時15分
ランチ Armenian Restaurant Bar「Bulghourji」11時45分
シオン門 13時00分
ダビデの墓 13時10分
鶏鳴教会 13時25分

ベツレヘム
生誕教会 15時10分
ホテル 17時00分

8月9日(水)
ホテル発 9時00分
オリーブ山 9時40分
主の泣かれた教会 10時00分
ゲッセマネの園 10時20分
万国民教会 10時25分
ベドウィンのテント 11時05分

テルアビブ
ランチ 13時10分
港 14時00分
バウハウス時代の建築 14時35分 

TLV テルアビブ空港 19時50分発→
DXBドバイ空港 23時59分着(EK932便 エミレーツ航空)

8月10日(木)
DXBドバイ空港 2時40分発→NRT成田空港 17時35分着
(EK0318便)

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
交通
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
団体旅行
利用旅行会社
クラブツーリズム

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  • 8月6日(日)の朝です。<br />リージェンシー・パレス・ホテルの朝食です。

    8月6日(日)の朝です。
    リージェンシー・パレス・ホテルの朝食です。

  • ドリンク、シリアル類

    ドリンク、シリアル類

  • 品数は豊富でした。

    品数は豊富でした。

  • ただ、なんとなくいつもと変わらないようなチョイス。(-_-;)

    ただ、なんとなくいつもと変わらないようなチョイス。(-_-;)

  • 少し多めにしました。<br />国境越えに時間がかかって、ランチが遅くなるといけないので・・・。

    少し多めにしました。
    国境越えに時間がかかって、ランチが遅くなるといけないので・・・。

  • ヨルダンの最後の食事なので、これも選んでみました。<br /><br />朝食後は世界遺産のサルトに向かいます。

    ヨルダンの最後の食事なので、これも選んでみました。

    朝食後は世界遺産のサルトに向かいます。

  • サルトは、アンマンからそれほど遠くはありません。<br />ホテルを出て、ほぼ30分で着きました。<br />ただ日曜日の朝の7時30分って、ちょっと早すぎのような気もします。<br />なんだか、まだ街も目覚めていないような雰囲気。<br />丘の上に家々が並んでします。<br />サルトは3つの丘に囲まれています。

    サルトは、アンマンからそれほど遠くはありません。
    ホテルを出て、ほぼ30分で着きました。
    ただ日曜日の朝の7時30分って、ちょっと早すぎのような気もします。
    なんだか、まだ街も目覚めていないような雰囲気。
    丘の上に家々が並んでします。
    サルトは3つの丘に囲まれています。

  • サルトを全て見たわけではありませんが、古い街です。

    サルトを全て見たわけではありませんが、古い街です。

  • 楕円形の西瓜です。

    楕円形の西瓜です。

  • なんだか年季の入ったテントです。<br />一応ここがメインストリートでスークのようです。<br />

    なんだか年季の入ったテントです。
    一応ここがメインストリートでスークのようです。

  • せっかくの世界遺産なので、石畳を少し磨いてくれると嬉しいです。

    せっかくの世界遺産なので、石畳を少し磨いてくれると嬉しいです。

  • 素朴な感じのお店です。

    素朴な感じのお店です。

  • 石造りのようですが、壁が剥がれてしまってます。<br />玄関先にねこちゃんが。<br />

    石造りのようですが、壁が剥がれてしまってます。
    玄関先にねこちゃんが。

  • しっかり鍵がかけられています。

    しっかり鍵がかけられています。

  • 朝早いため、一部のお店しか開いていません。

    朝早いため、一部のお店しか開いていません。

  • ミナレットらしきものが見えます。

    ミナレットらしきものが見えます。

  • 広い通りに出てきました。<br />サルトはオスマン帝国末期からの石造建築の古い街です。

    広い通りに出てきました。
    サルトはオスマン帝国末期からの石造建築の古い街です。

  • House of Abu Jabel <br />(アブ・ジャーベルの邸宅)<br /><br />長いアーチ状の窓が特徴的です。<br />昔は白かったそうです。<br />1892年に建築され1905年に完成しました。<br />3階建ての建物です。<br />商人の邸宅の1つです。<br />様々な建築様式が盛り込まれています。<br />現在は歴史博物館になっています。

    House of Abu Jabel
    (アブ・ジャーベルの邸宅)

    長いアーチ状の窓が特徴的です。
    昔は白かったそうです。
    1892年に建築され1905年に完成しました。
    3階建ての建物です。
    商人の邸宅の1つです。
    様々な建築様式が盛り込まれています。
    現在は歴史博物館になっています。

  • 実はガイドさんは、自分の故郷ということもあってか、せっかくなので、博物館も見学していきましょう、と勧めてくれていました。<br />私は見たかったので、添乗員さんとのやりとりを、静かに見守っていました。<br />ただ、この日はイスラエルへの国境を越えなければなりません。<br />そんなわけで、先を急ぐので入館することは叶いませんでした。(-_-;)

    実はガイドさんは、自分の故郷ということもあってか、せっかくなので、博物館も見学していきましょう、と勧めてくれていました。
    私は見たかったので、添乗員さんとのやりとりを、静かに見守っていました。
    ただ、この日はイスラエルへの国境を越えなければなりません。
    そんなわけで、先を急ぐので入館することは叶いませんでした。(-_-;)

  • サルトには「ハマム通り」などがあるように、古代ローマ時代の浴場の遺跡があります。

    サルトには「ハマム通り」などがあるように、古代ローマ時代の浴場の遺跡があります。

  • 見えにくいのですが、このビルの上部には、ヨルダン王国のフセイン皇太子とラジワ妃の祝賀の写真が掲示されています。ヨルダンのあちこちで見かけました。

    見えにくいのですが、このビルの上部には、ヨルダン王国のフセイン皇太子とラジワ妃の祝賀の写真が掲示されています。ヨルダンのあちこちで見かけました。

  • 先ほどのアブ・ジャーベルの邸宅には、フレスコ画の天井があるようです。<br />フレスコ画は、イタリアの芸術家によって描かれたものです。<br />オスマン帝国時代の邸宅でした。<br />やっぱり見たかったです。

    先ほどのアブ・ジャーベルの邸宅には、フレスコ画の天井があるようです。
    フレスコ画は、イタリアの芸術家によって描かれたものです。
    オスマン帝国時代の邸宅でした。
    やっぱり見たかったです。

  • サルトの歴史は古く、マケドニア軍によって建設されたました。<br />かのアレクサンドロス大王の治世下中でした。

    サルトの歴史は古く、マケドニア軍によって建設されたました。
    かのアレクサンドロス大王の治世下中でした。

  • 朝日がまぶしいです。

    朝日がまぶしいです。

  • やしの木の向こうに見える丘が美しいです。<br />サルトは3つの丘の曲がり角に建てられました。<br />

    やしの木の向こうに見える丘が美しいです。
    サルトは3つの丘の曲がり角に建てられました。

  • 3つの丘のうちの1つの「ジャバル・アル・カラ」は、要塞の跡地です。<br />13世紀に建設されました。

    3つの丘のうちの1つの「ジャバル・アル・カラ」は、要塞の跡地です。
    13世紀に建設されました。

  • ローマ帝国が支配した時期もあります。<br />Saitus(サルトゥス)という名前で知られました。これはラテン語で森林を意味する言葉です。<br />「サルト」の名前は、この「サルトゥス」に由来しています。<br />最初は塩と関係があるのかと思いました。<br />

    ローマ帝国が支配した時期もあります。
    Saitus(サルトゥス)という名前で知られました。これはラテン語で森林を意味する言葉です。
    「サルト」の名前は、この「サルトゥス」に由来しています。
    最初は塩と関係があるのかと思いました。

  • サルトはヨルダンの中でも、土地が肥えています。<br />特にペトラ周辺は、緑が全くない荒野でした。<br />サルトでは、オリーブ、トマト、葡萄、桃などの野菜や果物などの農産物があります。<br />また、この他にもたばこの栽培もされています。

    サルトはヨルダンの中でも、土地が肥えています。
    特にペトラ周辺は、緑が全くない荒野でした。
    サルトでは、オリーブ、トマト、葡萄、桃などの野菜や果物などの農産物があります。
    また、この他にもたばこの栽培もされています。

  • モスク<br />ハマム通りの端にあるこのモスクは20世紀の第1四半期にハッジ・スレイマン・アブアルハサン(石工)によって建てられました。

    モスク
    ハマム通りの端にあるこのモスクは20世紀の第1四半期にハッジ・スレイマン・アブアルハサン(石工)によって建てられました。

  • 東ローマ帝国時代には主教が置かれていたこともあります。<br />サルトはヨルダン川東岸の主要な集落と見なされていました。<br />ただ、この集落はモンゴル人によって破壊されてしまいました。<br />ただ、マムルーク朝のスルタン・バイバルス(1,260年-1,277年)の治世に再建されました。

    東ローマ帝国時代には主教が置かれていたこともあります。
    サルトはヨルダン川東岸の主要な集落と見なされていました。
    ただ、この集落はモンゴル人によって破壊されてしまいました。
    ただ、マムルーク朝のスルタン・バイバルス(1,260年-1,277年)の治世に再建されました。

  • サルトは、東部の砂漠と西部の砂漠をつなぐ重要な交易拠点となっていました。<br />サルトは、この地域の多くの支配者にとって重要な場所だったのです。

    サルトは、東部の砂漠と西部の砂漠をつなぐ重要な交易拠点となっていました。
    サルトは、この地域の多くの支配者にとって重要な場所だったのです。

  • 今回は行きませんがモーゼの弟子である預言者ヨシュアの祠があります。<br />西にあるモスク内に、ヨシュアの神殿があります。<br />ヨシュアはモーゼのあとを継いで、パレスチナの地を征服するために、バニ・イスラエルの部族の軍隊を率いました。

    今回は行きませんがモーゼの弟子である預言者ヨシュアの祠があります。
    西にあるモスク内に、ヨシュアの神殿があります。
    ヨシュアはモーゼのあとを継いで、パレスチナの地を征服するために、バニ・イスラエルの部族の軍隊を率いました。

  • 高台にミナレットのようなものが見えます。<br />グレート・モスクでしょうか。<br />アッバース朝期に建てられた市内最古のモスクで、世界中の宗教学者の中心地となっていました。

    高台にミナレットのようなものが見えます。
    グレート・モスクでしょうか。
    アッバース朝期に建てられた市内最古のモスクで、世界中の宗教学者の中心地となっていました。

  • サルトは古代の貿易都市でもあります。<br />アンマンからエルサレムに通じる古代の幹線道路沿いに位置しています。<br /><br />短い時間でしたが、サルトの観光を終えて、次はローマ遺跡に向かいます。

    サルトは古代の貿易都市でもあります。
    アンマンからエルサレムに通じる古代の幹線道路沿いに位置しています。

    短い時間でしたが、サルトの観光を終えて、次はローマ遺跡に向かいます。

  • ジェラシュ遺跡にやってきました。<br />南門から入場します。<br /><br />ジェラシュは、「東のポンペイ」「1000本の列柱の街」と呼ばれています。

    ジェラシュ遺跡にやってきました。
    南門から入場します。

    ジェラシュは、「東のポンペイ」「1000本の列柱の街」と呼ばれています。

  • ハドリアヌスの凱旋門<br /><br />129~130年の冬、ローマ皇帝ハドリアヌスがこの都市を訪問した際、この都市の住民が敬意を表して建てました。<br />幅37m、高さ21m、奥行さ約9mを超え、この種のものとしてはローマ帝国最大級の三重アーチ型の門です。<br />周囲に転がっていた破片は考古学者によって特定できたため、記念碑を復元することができました。<br /><br />ちなみに当時は、ジェラシュではなく、「ゲラサ」と呼ばれていました。<br />ゲラサは、デカポリスの10の町の1つです。<br />デカポリスとは、ヨルダン川両岸のパレスチナにおけるギリシャの10の植民地のことです。<br />ガダラ、カナタ、スキトポリス、ダマスコ、ディオン、ヒッポス、フィラデルフィア、ペラ、ラファナ、ゲラサの10の町をさします。<br /><br />ハドリアヌスは121年頃に、属州の安定化を目指して、視察の旅をしました。<br />ガリア、ゲルマニア、ブリタニア、ヒスパニア、シリア、アナトリア、ダキア、ギリシア、シチリア島を巡り、ローマへと帰還しました。<br />さらに128年に再びアフリカ、ギリシア、アナトリア、エジプト、パレスチナを旅して134年にローマに帰還しました。<br />この旅の間に、ここに立ち寄りました。<br /><br />ハドリアヌスの建造物は、今までにもいくつか見てます。<br />あの時代、これだけの視察を果たして、凄いトラベラーでもあります。

    ハドリアヌスの凱旋門

    129~130年の冬、ローマ皇帝ハドリアヌスがこの都市を訪問した際、この都市の住民が敬意を表して建てました。
    幅37m、高さ21m、奥行さ約9mを超え、この種のものとしてはローマ帝国最大級の三重アーチ型の門です。
    周囲に転がっていた破片は考古学者によって特定できたため、記念碑を復元することができました。

    ちなみに当時は、ジェラシュではなく、「ゲラサ」と呼ばれていました。
    ゲラサは、デカポリスの10の町の1つです。
    デカポリスとは、ヨルダン川両岸のパレスチナにおけるギリシャの10の植民地のことです。
    ガダラ、カナタ、スキトポリス、ダマスコ、ディオン、ヒッポス、フィラデルフィア、ペラ、ラファナ、ゲラサの10の町をさします。

    ハドリアヌスは121年頃に、属州の安定化を目指して、視察の旅をしました。
    ガリア、ゲルマニア、ブリタニア、ヒスパニア、シリア、アナトリア、ダキア、ギリシア、シチリア島を巡り、ローマへと帰還しました。
    さらに128年に再びアフリカ、ギリシア、アナトリア、エジプト、パレスチナを旅して134年にローマに帰還しました。
    この旅の間に、ここに立ち寄りました。

    ハドリアヌスの建造物は、今までにもいくつか見てます。
    あの時代、これだけの視察を果たして、凄いトラベラーでもあります。

  • 4本の巨大な柱が台座の上に立っています。<br />高さ2.2m、幅2.25m、奥行1.2mです。<br /><br />ファサードは南側(外側)と北側(街に面した内側)は、全く同じではありませんが、非常に似ています。

    4本の巨大な柱が台座の上に立っています。
    高さ2.2m、幅2.25m、奥行1.2mです。

    ファサードは南側(外側)と北側(街に面した内側)は、全く同じではありませんが、非常に似ています。

  • アカンサスの葉の花輪が柱のシャフトを囲んでいます。<br />また、アカンサスの葉が付いたコリント式の柱頭があります。<br />こちらには木製の扉があったようです。

    アカンサスの葉の花輪が柱のシャフトを囲んでいます。
    また、アカンサスの葉が付いたコリント式の柱頭があります。
    こちらには木製の扉があったようです。

  • ヒッポドロームの反対側です。<br />こちらにはマリアノス教会があります。<br />保存状態の良い碑文のおかげで、マリアノス司教の任期中の570年に建てられたことがわかっています。<br />ヘレニズム時代後期からローマ時代初期にかけて、この場所には採石場と墓地がありました。<br />ハドリアヌス帝が訪れ、都市の拡張と新しい南地区の計画を策定したときに、閉鎖されてしまいました。<br /><br />マリアノス教会は、1世紀と2世紀にさかのぼるいくつかの地下墓地の中に立っており、おそらく6世紀と7世紀に道路の反対側にあるヒッポドロームの遺跡に定住した職人、陶芸家、染色業者とその家族たちによって、または彼らのために建てられました。

    ヒッポドロームの反対側です。
    こちらにはマリアノス教会があります。
    保存状態の良い碑文のおかげで、マリアノス司教の任期中の570年に建てられたことがわかっています。
    ヘレニズム時代後期からローマ時代初期にかけて、この場所には採石場と墓地がありました。
    ハドリアヌス帝が訪れ、都市の拡張と新しい南地区の計画を策定したときに、閉鎖されてしまいました。

    マリアノス教会は、1世紀と2世紀にさかのぼるいくつかの地下墓地の中に立っており、おそらく6世紀と7世紀に道路の反対側にあるヒッポドロームの遺跡に定住した職人、陶芸家、染色業者とその家族たちによって、または彼らのために建てられました。

  • この壁の向こうにヒッポドロームがあります。<br />ハドリアヌスの凱旋門の先の遊歩道の先、左側にあります。<br />

    この壁の向こうにヒッポドロームがあります。
    ハドリアヌスの凱旋門の先の遊歩道の先、左側にあります。

  • 発掘・再建した考古学者によると、現在知られている48棟のローマ時代のヒッポドロームの中では最も小さいのですが、機能的・技術的要素において最も保存状態が良いそうです。

    発掘・再建した考古学者によると、現在知られている48棟のローマ時代のヒッポドロームの中では最も小さいのですが、機能的・技術的要素において最も保存状態が良いそうです。

  • 左側の壁の内側がヒッポドロームです。

    左側の壁の内側がヒッポドロームです。

  • RACEショーを見ることができます。<br />ローマ軍とチャリオット・エクスペリエンス言う事で、レースショーが見られます。<br />戦車競走、剣闘士の戦い、「ローマ」兵士の行進は、歴史的な衣装で行われます。<br />ショーには、完全に装備した 24人の軍団兵が戦闘編成と戦術を示すパフォーマンスが含まれています。 この物語はローマ軍の歴史とその伝統と習慣を説明しています。 剣闘士の戦いや戦車レースが見られるのは凄いです。古代にタイムスリップしたような気分になりそうです。<br />2005年から開催されているようです。コロナ後はどうなったのか、確認はしていません。<br />競技は中東最大の定期公演で、しかも世界で唯一の大規模なローマの再現公演なのだそうです。

    RACEショーを見ることができます。
    ローマ軍とチャリオット・エクスペリエンス言う事で、レースショーが見られます。
    戦車競走、剣闘士の戦い、「ローマ」兵士の行進は、歴史的な衣装で行われます。
    ショーには、完全に装備した 24人の軍団兵が戦闘編成と戦術を示すパフォーマンスが含まれています。 この物語はローマ軍の歴史とその伝統と習慣を説明しています。 剣闘士の戦いや戦車レースが見られるのは凄いです。古代にタイムスリップしたような気分になりそうです。
    2005年から開催されているようです。コロナ後はどうなったのか、確認はしていません。
    競技は中東最大の定期公演で、しかも世界で唯一の大規模なローマの再現公演なのだそうです。

  • ヒッポドロームとは、古代ギリシャ・ローマで、競馬・戦車競走の競技場のことです。<br />映画「ベンハー」の競技シーンは有名です。<br />今までにトルコのイスタンブールでも見ました。

    ヒッポドロームとは、古代ギリシャ・ローマで、競馬・戦車競走の競技場のことです。
    映画「ベンハー」の競技シーンは有名です。
    今までにトルコのイスタンブールでも見ました。

  • ヒッポドローム<br /><br />220~749年<br />南の墓地付近に都市を拡張するというハドリアヌス帝の計画が頓挫し、自由に競馬場を建設できるようになりました。

    ヒッポドローム

    220~749年
    南の墓地付近に都市を拡張するというハドリアヌス帝の計画が頓挫し、自由に競馬場を建設できるようになりました。

  • カヴェア(観客席)とアリーナ<br /><br />16列または17列の座席を備えていました。<br />最大15,000人の観客を収容することができます。<br />全長約650mの石垣のうち、石積みの約3分の2は様々な高さで保存されており、残りの3分の1は基礎のみが見つかっています。

    カヴェア(観客席)とアリーナ

    16列または17列の座席を備えていました。
    最大15,000人の観客を収容することができます。
    全長約650mの石垣のうち、石積みの約3分の2は様々な高さで保存されており、残りの3分の1は基礎のみが見つかっています。

  • カルセレス(スターティングボックス)<br /><br />左側のボックスからスタートをして、右側のボックスがゴールです。<br /><br />ヒッポドロームの南側にある10基のアーチ型のカルセレスでは、それぞれのチームの奉献祭壇が立っており、戦車はゲートが開くまでレースの開始を待たなければなりませんでした。<br />カルセレスは749年の地震で破壊されましたが、掘削機によって構造を冠するコーニスまで詳細に再建することができました。<br />ゲートがしっかり残されて、昔の様子を思い浮かべることができます。

    カルセレス(スターティングボックス)

    左側のボックスからスタートをして、右側のボックスがゴールです。

    ヒッポドロームの南側にある10基のアーチ型のカルセレスでは、それぞれのチームの奉献祭壇が立っており、戦車はゲートが開くまでレースの開始を待たなければなりませんでした。
    カルセレスは749年の地震で破壊されましたが、掘削機によって構造を冠するコーニスまで詳細に再建することができました。
    ゲートがしっかり残されて、昔の様子を思い浮かべることができます。

  • アリーナの真ん中にスピナ(背骨)として木製の足場があり、その周りを競馬場が通っていました。<br />古代では、その境界を7周しなければなりませんでした。<br /><br />3世紀末、遅くとも4世紀初頭には、戦車競走はヒッポドロームでは行われなくなっていました。竣工後まもなく、基礎が不十分で、レースによる重い負荷に耐えられず、一部の損傷が明らかになったためです。<br />

    アリーナの真ん中にスピナ(背骨)として木製の足場があり、その周りを競馬場が通っていました。
    古代では、その境界を7周しなければなりませんでした。

    3世紀末、遅くとも4世紀初頭には、戦車競走はヒッポドロームでは行われなくなっていました。竣工後まもなく、基礎が不十分で、レースによる重い負荷に耐えられず、一部の損傷が明らかになったためです。

  • ヒッポドロームが廃れた後、ここは陶器工房、皮なめし工場、その他の商売は洞窟の下の金庫室に落ち着きました。<br />窯、作業場の設備、陶器の廃棄物の多くの残骸、簡素なシェルターも発見されています。<br />ヒッポドロームは当時の都市の工業地帯であり、ゲラサはビザンチン時代にデカポリスの都市の中でおそらく最大の陶器生産の中心地に発展しました。<br /><br />3つの部屋はモザイクの床で覆われており、碑文が示すように、執事エリアスがそこに住んでいました。<br />

    ヒッポドロームが廃れた後、ここは陶器工房、皮なめし工場、その他の商売は洞窟の下の金庫室に落ち着きました。
    窯、作業場の設備、陶器の廃棄物の多くの残骸、簡素なシェルターも発見されています。
    ヒッポドロームは当時の都市の工業地帯であり、ゲラサはビザンチン時代にデカポリスの都市の中でおそらく最大の陶器生産の中心地に発展しました。

    3つの部屋はモザイクの床で覆われており、碑文が示すように、執事エリアスがそこに住んでいました。

  • ササン朝が614年にゲラサを征服した時、彼らは馬術のゲームのためにアリーナを使用しました。<br />ただ629年、彼らはビザンチン帝国の支配者ヘラクレイオスの軍隊に敗北し、追放されました。<br /><br />7世紀初頭、最後の利用者がヒッポドロームを去りました。<br />その後、墓地となり、7世紀半ば頃に200人以上のペストの犠牲者が洞窟の2つの部屋に大量に埋葬されました。

    ササン朝が614年にゲラサを征服した時、彼らは馬術のゲームのためにアリーナを使用しました。
    ただ629年、彼らはビザンチン帝国の支配者ヘラクレイオスの軍隊に敗北し、追放されました。

    7世紀初頭、最後の利用者がヒッポドロームを去りました。
    その後、墓地となり、7世紀半ば頃に200人以上のペストの犠牲者が洞窟の2つの部屋に大量に埋葬されました。

  • 4世紀以降、建物の損傷した部分は、城壁やその他の建物を修理するための採石場にして機能していました。ただ、659-60年の地震で破壊されてしまいました。<br />その後、749年に再び大地震が起こり、最後に残った部分が崩壊し、ヒッポドロームは廃れてしまいました。

    4世紀以降、建物の損傷した部分は、城壁やその他の建物を修理するための採石場にして機能していました。ただ、659-60年の地震で破壊されてしまいました。
    その後、749年に再び大地震が起こり、最後に残った部分が崩壊し、ヒッポドロームは廃れてしまいました。

  • ローマのヒッポドロームは以下のようにあります。<br /><br />アフロディシアス<br />カイザリア・マリティマ<br />チルコ・マッシモ<br />ゲラサ<br />ベリトス<br />コンスタンティノープル<br />テサロニケ<br />タイヤ<br />メリダ<br />フィリッポポリス<br />Miróbriga (Mirobriga Celticorum)

    ローマのヒッポドロームは以下のようにあります。

    アフロディシアス
    カイザリア・マリティマ
    チルコ・マッシモ
    ゲラサ
    ベリトス
    コンスタンティノープル
    テサロニケ
    タイヤ
    メリダ
    フィリッポポリス
    Miróbriga (Mirobriga Celticorum)

  • ちょっと見えにくいのですが、この先の地図です。

    ちょっと見えにくいのですが、この先の地図です。

  • 左側の方には遺跡の石がゴロゴロしています。

    左側の方には遺跡の石がゴロゴロしています。

  • さて、南門方向に向かっています。<br />遮るものがないので暑いです。

    さて、南門方向に向かっています。
    遮るものがないので暑いです。

  • 敷石は古代ローマ時代のものでは、なさそうです。<br />

    敷石は古代ローマ時代のものでは、なさそうです。

  • 私はJerashと書きましたが、Jarashとも呼ばれています。<br />ちなみにレストハウスやレストランがあるようです。

    私はJerashと書きましたが、Jarashとも呼ばれています。
    ちなみにレストハウスやレストランがあるようです。

  • 左の高台に神殿が見えます。

    左の高台に神殿が見えます。

  • 左はビジターセンター、先ほど行ったヒッポドローム<br />右は南劇場、ハンドクラフトビレッジ

    左はビジターセンター、先ほど行ったヒッポドローム
    右は南劇場、ハンドクラフトビレッジ

  • South Gate(南門)です。<br /><br />ハドリアヌス帝の発案で新しい南側地区が計画されたこの建物は、凱旋門に似ています。<br />この南門はハドリアヌス帝の凱旋門の原型のようなものである可能性があります。これは建物の基本構造に表れており、中央の高い通路と、その上に窓のような壁龕がある2つの小さな側門、そして南門の場合はそこから城壁に通じる階段が外庸にあります。

    South Gate(南門)です。

    ハドリアヌス帝の発案で新しい南側地区が計画されたこの建物は、凱旋門に似ています。
    この南門はハドリアヌス帝の凱旋門の原型のようなものである可能性があります。これは建物の基本構造に表れており、中央の高い通路と、その上に窓のような壁龕がある2つの小さな側門、そして南門の場合はそこから城壁に通じる階段が外庸にあります。

  • ハドリアヌスの凱旋門に重ねられた4分の3の柱のように、南門の半柱はコリント式の柱頭で飾られ、その柱軸もアッティカの土台の上に立っており、アカンサスの葉の花輪で囲まれています。<br />南門でも、3つの通路は柱で囲まれ、上部はアカンサスの葉とフリーズのような装飾が施されたモールディングで仕上げられ、バレル・ヴォールトに面した半円形のアーチを支えています。

    ハドリアヌスの凱旋門に重ねられた4分の3の柱のように、南門の半柱はコリント式の柱頭で飾られ、その柱軸もアッティカの土台の上に立っており、アカンサスの葉の花輪で囲まれています。
    南門でも、3つの通路は柱で囲まれ、上部はアカンサスの葉とフリーズのような装飾が施されたモールディングで仕上げられ、バレル・ヴォールトに面した半円形のアーチを支えています。

  • 南門が建設されるまで、丸天井はゲラサの南の入り口でした。<br />ゼウス神殿のふもとにあるフィラデルフィア(現在のアンマン)への交通量の多い道路は、古代には活気にあふれており、特に門の建設後は、重要な市場がここに発展しました。

    南門が建設されるまで、丸天井はゲラサの南の入り口でした。
    ゼウス神殿のふもとにあるフィラデルフィア(現在のアンマン)への交通量の多い道路は、古代には活気にあふれており、特に門の建設後は、重要な市場がここに発展しました。

  • 110年頃、ゲラサの南の入口の前、つまり当時の市域の外、フィラデルフィア(アンマン)への道の東側に、15の工房と店を備えたスークが建てられました。<br />南門はその後に建てられましたが、これは最南端の工房の基礎が門の下にあることからもわかります。ここで働いていた職人には、大工、陶工、そして少なくとも1人の青銅鋳物師が含まれていました。<br /><br />3世紀末の火災と略奪で、東スークも破壊されましたが、すぐに再建されました。ただ、3世紀から4世紀への変わり目に、計画された道路の変更ルートのために平らにされたため、短期間しか使用できませんでした。新しい道路は、オーバルプラザと南門の間を直接繋ぎました。<br />749年に壊滅的な地震が街を破壊したとき、このスークもその犠牲になりました。

    110年頃、ゲラサの南の入口の前、つまり当時の市域の外、フィラデルフィア(アンマン)への道の東側に、15の工房と店を備えたスークが建てられました。
    南門はその後に建てられましたが、これは最南端の工房の基礎が門の下にあることからもわかります。ここで働いていた職人には、大工、陶工、そして少なくとも1人の青銅鋳物師が含まれていました。

    3世紀末の火災と略奪で、東スークも破壊されましたが、すぐに再建されました。ただ、3世紀から4世紀への変わり目に、計画された道路の変更ルートのために平らにされたため、短期間しか使用できませんでした。新しい道路は、オーバルプラザと南門の間を直接繋ぎました。
    749年に壊滅的な地震が街を破壊したとき、このスークもその犠牲になりました。

  • 南劇場<br />↑ゼウス神殿です。<br />

    南劇場
    ↑ゼウス神殿です。

  • ヨルダンのお気に入りのリストで、ペトラに僅差で2番目にランクされているのがジェラシュです。過去70年間にわたって発掘、修復されるまで、何世紀にもわたって砂の中に埋もれていたジェラシュは、舗装された柱廊のある通り、そびえ立つ丘の上の寺院、大劇場、広々とした公共広場、浴場、噴水、そして塔や門、城壁があります。ジェラシュは、ギリシャとローマの下に、東洋と西洋の微妙な融合を保っています。その建築、宗教、言語は、地中海のギリシャ・ローマ世界とアラブ・オリエントの古代の伝統という2つの強力な文化が絡み合い、共存する過程を反映しています。<br /><br />ジェラシュは、丘陵地帯と肥沃な盆地に囲まれた平原に位置しています。BC63年にポンペイウス将軍によって征服され、ローマの支配下に入り、デカポリス同盟のローマの10大都市の1つとなりました。<br /><br />この都市の黄金時代はローマの統治下にあり、当時はゲラサとして知られていました。現在、この場所は世界で最も保存状態の良いローマの地方都市の1つであると一般に認められています。<br /><br />Oval Forum(オーバル・フォルム)<br /><br />広々とした広場は90mx80mで、広い歩道と1世紀のイオニア式柱頭の列柱に囲まれています。中央に祭壇が2つあり、7世紀に噴水が追加されました。<br />この四角い構造物は現在、ジェラシュ祭の聖火を運ぶために最近建てられた中央の柱を支えています。

    ヨルダンのお気に入りのリストで、ペトラに僅差で2番目にランクされているのがジェラシュです。過去70年間にわたって発掘、修復されるまで、何世紀にもわたって砂の中に埋もれていたジェラシュは、舗装された柱廊のある通り、そびえ立つ丘の上の寺院、大劇場、広々とした公共広場、浴場、噴水、そして塔や門、城壁があります。ジェラシュは、ギリシャとローマの下に、東洋と西洋の微妙な融合を保っています。その建築、宗教、言語は、地中海のギリシャ・ローマ世界とアラブ・オリエントの古代の伝統という2つの強力な文化が絡み合い、共存する過程を反映しています。

    ジェラシュは、丘陵地帯と肥沃な盆地に囲まれた平原に位置しています。BC63年にポンペイウス将軍によって征服され、ローマの支配下に入り、デカポリス同盟のローマの10大都市の1つとなりました。

    この都市の黄金時代はローマの統治下にあり、当時はゲラサとして知られていました。現在、この場所は世界で最も保存状態の良いローマの地方都市の1つであると一般に認められています。

    Oval Forum(オーバル・フォルム)

    広々とした広場は90mx80mで、広い歩道と1世紀のイオニア式柱頭の列柱に囲まれています。中央に祭壇が2つあり、7世紀に噴水が追加されました。
    この四角い構造物は現在、ジェラシュ祭の聖火を運ぶために最近建てられた中央の柱を支えています。

  • 広場には2つの小さな記念碑が立っていました。<br />彫像の台座の1つには、近代になって柱が置かれました。<br />2番目の小さな台座には、4本の柱が彫像を額装していたと言われています。

    広場には2つの小さな記念碑が立っていました。
    彫像の台座の1つには、近代になって柱が置かれました。
    2番目の小さな台座には、4本の柱が彫像を額装していたと言われています。

  • イオニア式柱頭の柱の間の距離は2.75mです。<br />西側の列柱廊にのみ、3.65mと3.55mの2つの幅の広い列間があります。<br />

    イオニア式柱頭の柱の間の距離は2.75mです。
    西側の列柱廊にのみ、3.65mと3.55mの2つの幅の広い列間があります。

  • 東の列柱はテメノスの階段に直接通じています。<br />広場の列柱の後ろには、おそらく店があったでしょう。

    東の列柱はテメノスの階段に直接通じています。
    広場の列柱の後ろには、おそらく店があったでしょう。

  • 優雅な曲線の列柱は、ゼウスの聖域を中央として配置しています。<br />

    優雅な曲線の列柱は、ゼウスの聖域を中央として配置しています。

  • ゼウス・オリンピオスの聖域<br /><br />南門のすぐ先の左に、巨大な下部構造の上に、ゼウス神殿が見えます。<br />クリプトポルティカスの高い柱のある石積みは、その背後に長さ約90mの樽型ヴォールトがあり、長さ100m、幅50mのテラスを支えています。そしてその上に聖域の神聖なエリア(テメノス)があります。<br />突き出た半柱を持つテメノスの外壁の遺跡です。

    ゼウス・オリンピオスの聖域

    南門のすぐ先の左に、巨大な下部構造の上に、ゼウス神殿が見えます。
    クリプトポルティカスの高い柱のある石積みは、その背後に長さ約90mの樽型ヴォールトがあり、長さ100m、幅50mのテラスを支えています。そしてその上に聖域の神聖なエリア(テメノス)があります。
    突き出た半柱を持つテメノスの外壁の遺跡です。

  • 最上階のテラスにあるゼウス・オリンピオスに捧げられた神殿は、初期のローマ神殿の跡地に建てられ、162年から163年に完成し奉献されました。<br />これは、41x28mの基壇にあるペリプテロスであり、最もよく知られているタイプの古代寺院です。<br />地下室(メインの内側の部屋)は柱で区切られた外側のギャラリーに囲まれています。前側と裏側にコリント式の柱頭を持つ8本の柱があり、2つの長辺にそれぞれ12本の柱があり、それぞれ高さは15m近くありました。<br />下のテラスからは、2つの踊り場のある階段が上へと続いていましたが、これは寺院と同じくらい広くなっていました。<br /><br />5世紀半ばから、ビザンチン時代には、聖域はキリスト教の修道士のための修道院となりました。。その後は、農民や職人が住んでいました。<br />749年の地震で、この建物も大部分が破壊されたため、放棄されてしまいました。そして12世紀には、この複合施設は十字軍の小さな部隊によって短期間占領されたと言われています。

    最上階のテラスにあるゼウス・オリンピオスに捧げられた神殿は、初期のローマ神殿の跡地に建てられ、162年から163年に完成し奉献されました。
    これは、41x28mの基壇にあるペリプテロスであり、最もよく知られているタイプの古代寺院です。
    地下室(メインの内側の部屋)は柱で区切られた外側のギャラリーに囲まれています。前側と裏側にコリント式の柱頭を持つ8本の柱があり、2つの長辺にそれぞれ12本の柱があり、それぞれ高さは15m近くありました。
    下のテラスからは、2つの踊り場のある階段が上へと続いていましたが、これは寺院と同じくらい広くなっていました。

    5世紀半ばから、ビザンチン時代には、聖域はキリスト教の修道士のための修道院となりました。。その後は、農民や職人が住んでいました。
    749年の地震で、この建物も大部分が破壊されたため、放棄されてしまいました。そして12世紀には、この複合施設は十字軍の小さな部隊によって短期間占領されたと言われています。

  • 右方向にはアルテミス神殿があります。

    右方向にはアルテミス神殿があります。

  • こちらに見えるのは、赤胡椒(ピンクペッパー)の木です。<br />確かそう説明していたと思います。<br />黒だったら、ごめんなさい。m(__)m

    こちらに見えるのは、赤胡椒(ピンクペッパー)の木です。
    確かそう説明していたと思います。
    黒だったら、ごめんなさい。m(__)m

  • つぶつぶの実が赤いです。<br />右横の後方に見える石積みの遺跡らしき物が、気になります。

    つぶつぶの実が赤いです。
    右横の後方に見える石積みの遺跡らしき物が、気になります。

  • 南劇場へ向かいます。<br />中は結構暗いです。

    南劇場へ向かいます。
    中は結構暗いです。

  • こちらに出てきました。

    こちらに出てきました。

  • 南劇場です。<br /><br />ドミティアヌス帝の治世、90年から92年の間に建てられた南劇場は、3,000人以上の観客を収容できます。<br /> 華やかな舞台の 1層目は、もともと2階建てでしたが、再建され、現在でも使用されています。<br /><br />古代ゲラサの3つの劇場の中で最大かつ最古です。<br />他には、北劇場と、遺跡の北約1.7kmにあるビルケテインにある劇場があります。南劇場は、同じ丘の西側にあるゼウスの聖域のすぐ隣に建てられ、宗教的な目的も果たした可能性があります。住民は1,950年代までここから石をかき集めて家を建てていました。<br />ただ、非常によく保存されていました。<br />また、上段の席からは遺跡の素晴らしい景色を眺めることができます。

    南劇場です。

    ドミティアヌス帝の治世、90年から92年の間に建てられた南劇場は、3,000人以上の観客を収容できます。
    華やかな舞台の 1層目は、もともと2階建てでしたが、再建され、現在でも使用されています。

    古代ゲラサの3つの劇場の中で最大かつ最古です。
    他には、北劇場と、遺跡の北約1.7kmにあるビルケテインにある劇場があります。南劇場は、同じ丘の西側にあるゼウスの聖域のすぐ隣に建てられ、宗教的な目的も果たした可能性があります。住民は1,950年代までここから石をかき集めて家を建てていました。
    ただ、非常によく保存されていました。
    また、上段の席からは遺跡の素晴らしい景色を眺めることができます。

  • 劇場の優れた音響効果により、オーケストラフロアの中央にあるスピーカーの音量を上げることなく全体に響き渡ります。<br />2つのアーチ型の通路がオーケストラに通じており、劇場の後方にある4つの通路からは座席の上列にアクセスできます。

    劇場の優れた音響効果により、オーケストラフロアの中央にあるスピーカーの音量を上げることなく全体に響き渡ります。
    2つのアーチ型の通路がオーケストラに通じており、劇場の後方にある4つの通路からは座席の上列にアクセスできます。

  • 南劇場の総幅は76mで、オーケストラから最上段の保存席までは16m強です。<br />洞窟(半円形の謁見エリア)は、麓の丘に部分的に彫られており、客が太陽の光で眩しくならないように北を向いています。

    南劇場の総幅は76mで、オーケストラから最上段の保存席までは16m強です。
    洞窟(半円形の謁見エリア)は、麓の丘に部分的に彫られており、客が太陽の光で眩しくならないように北を向いています。

  • 南劇場は、いくつかの碑文によって非常に正確に年代がわかります。<br />これらは、ローマ皇帝ドミティアヌス(81-96年)の治世中、90年頃に建物が建築されたことを示していますが、後の碑文は建設のそれぞれの時点での進捗状況を示しています。それによると、おそらくまだ完成していないようです。<br />ゲラサの裕福な市民が劇場の資金を調達し、寄付されたことが明らかになっています。

    南劇場は、いくつかの碑文によって非常に正確に年代がわかります。
    これらは、ローマ皇帝ドミティアヌス(81-96年)の治世中、90年頃に建物が建築されたことを示していますが、後の碑文は建設のそれぞれの時点での進捗状況を示しています。それによると、おそらくまだ完成していないようです。
    ゲラサの裕福な市民が劇場の資金を調達し、寄付されたことが明らかになっています。

  • バグパイプ奏者の方です。<br />昨日、アンマンのホテルでの結婚披露パーティの際に、たまたまバグパイプの演奏を目にしました。お陰で、驚きはしませんでしたが、それでも、ローマ遺跡とバグパイプという組み合わせは、普通は想像できません。歴史を振り返ると納得ですが。<br />太鼓2人とバグパイプのリズムは独特です。

    バグパイプ奏者の方です。
    昨日、アンマンのホテルでの結婚披露パーティの際に、たまたまバグパイプの演奏を目にしました。お陰で、驚きはしませんでしたが、それでも、ローマ遺跡とバグパイプという組み合わせは、普通は想像できません。歴史を振り返ると納得ですが。
    太鼓2人とバグパイプのリズムは独特です。

  • ここは音響がいいので、いい音色が響きます。<br /><br />オーケストラと下段の客席の間の指揮台の壁に刻まれた献辞には、ディオニュシオスの息子である退役軍人(および評議員)ティトゥス・フラウィウス・エペが、ケルキス(くさび形の座席ブロックの1つであるローマのクネウスに相当)の建設のために故郷に3,000ドラクマを支払ったと記されています。

    ここは音響がいいので、いい音色が響きます。

    オーケストラと下段の客席の間の指揮台の壁に刻まれた献辞には、ディオニュシオスの息子である退役軍人(および評議員)ティトゥス・フラウィウス・エペが、ケルキス(くさび形の座席ブロックの1つであるローマのクネウスに相当)の建設のために故郷に3,000ドラクマを支払ったと記されています。

  • この先に遠目ではありますが、列柱通りが見えます。<br />この列柱通りは、中近東で最も保存状態の良いものです。<br />その向きは厳密なギリシャ・ローマのスキームから逸脱してはいますが、主軸には通常の物が用いられています。<br />中央の南北接続にはカルド、南と北に直角にカルドを横切る2つの主要な横断道路にはデクマヌスがあります。<br /><br />※ カルドとは、古代ローマなどの広い南北の大通りの事です。

    この先に遠目ではありますが、列柱通りが見えます。
    この列柱通りは、中近東で最も保存状態の良いものです。
    その向きは厳密なギリシャ・ローマのスキームから逸脱してはいますが、主軸には通常の物が用いられています。
    中央の南北接続にはカルド、南と北に直角にカルドを横切る2つの主要な横断道路にはデクマヌスがあります。

    ※ カルドとは、古代ローマなどの広い南北の大通りの事です。

  • 2世紀初頭まで、ゲラサの街路は、地形と交通ルートに基づいて、時間の経過とともに発展しました。<br />106年にトラヤヌス帝の下でナバテア王国が併合された後、ローマ帝国によって設立されたプロヴィンシア・アラビアの一部となるまで、計画的な拡張と再建は始まりませんでした。<br /><br />全長800mのカルドは、ヒッポダミアの図式のように正確に北から南に走っているのではなく、クリソルホアス(ゴールド川、現在のワディ・ジェラシュ)のために北北東にわずかにずれています。<br />北門から渓谷の西側にある部分的の急な丘に沿って、オーバル・プラザまで一直線に進み、その向こうに当時のゲラサの最も重要な崇拝の地であったゼウス・オリュンピオスの聖域へと続く商業の道へと発展していきました。

    2世紀初頭まで、ゲラサの街路は、地形と交通ルートに基づいて、時間の経過とともに発展しました。
    106年にトラヤヌス帝の下でナバテア王国が併合された後、ローマ帝国によって設立されたプロヴィンシア・アラビアの一部となるまで、計画的な拡張と再建は始まりませんでした。

    全長800mのカルドは、ヒッポダミアの図式のように正確に北から南に走っているのではなく、クリソルホアス(ゴールド川、現在のワディ・ジェラシュ)のために北北東にわずかにずれています。
    北門から渓谷の西側にある部分的の急な丘に沿って、オーバル・プラザまで一直線に進み、その向こうに当時のゲラサの最も重要な崇拝の地であったゼウス・オリュンピオスの聖域へと続く商業の道へと発展していきました。

  • わかりにくいのですが、この先のひと際高い列柱が、アルテミス神殿です。<br />12本の大きな柱があります。名前のとおり女神アルテミスに捧げられた神殿です。<br /><br />いくつかの碑文(最古のものは1世紀後半)は、大聖域が建設される前にアルテミスの宗教的な場所がゲラサに存在していたことを示していますが、その場所はわかりません。<br />以前に墓地がそこにあったようです。<br />アルテミスは都市の最も重要な神であったようです。

    わかりにくいのですが、この先のひと際高い列柱が、アルテミス神殿です。
    12本の大きな柱があります。名前のとおり女神アルテミスに捧げられた神殿です。

    いくつかの碑文(最古のものは1世紀後半)は、大聖域が建設される前にアルテミスの宗教的な場所がゲラサに存在していたことを示していますが、その場所はわかりません。
    以前に墓地がそこにあったようです。
    アルテミスは都市の最も重要な神であったようです。

  • アルテミス神殿をズームしました。

    アルテミス神殿をズームしました。

  • 残念ながら、北側のエリアには行けませんでした。<br />これがツアーの辛いところです。

    残念ながら、北側のエリアには行けませんでした。
    これがツアーの辛いところです。

  • 最後に、ゼウス神殿を眺めます。

    最後に、ゼウス神殿を眺めます。

  • ゼウスの聖域は、何世紀にもわたって、ゲラサの元の集落の中心に面した丘の東側に建てられました(現在の博物館がある場所)。<br />階段でつながった2つの段々になった階に分かれています。<br />上はポーチになっています。その柱の1本が残っていて、こちらから見えています。

    ゼウスの聖域は、何世紀にもわたって、ゲラサの元の集落の中心に面した丘の東側に建てられました(現在の博物館がある場所)。
    階段でつながった2つの段々になった階に分かれています。
    上はポーチになっています。その柱の1本が残っていて、こちらから見えています。

  • 450から455年、古代のゼウスの聖域がキリスト教の修道士によって修道院に改築されたとき、プラッカス司教は教会の建物や彼の名前で知られる温泉に再利用しました。<br /><br />全体的な写真を撮っていないため、わかりにくのですが、フォルムからゼウスの神殿に続きます。

    450から455年、古代のゼウスの聖域がキリスト教の修道士によって修道院に改築されたとき、プラッカス司教は教会の建物や彼の名前で知られる温泉に再利用しました。

    全体的な写真を撮っていないため、わかりにくのですが、フォルムからゼウスの神殿に続きます。

  • 列柱でしょうか。<br />まだまだたくさんありそうです。

    列柱でしょうか。
    まだまだたくさんありそうです。

  • 今度はハドリアヌスの凱旋門を反対側の方向から見ています。<br />

    今度はハドリアヌスの凱旋門を反対側の方向から見ています。

  • ヒッポドロームのスタート地点です。<br />裏側から見ています。<br />これが見納めです。<br />とりあえず、慌ただしく遺跡見学を終了しました。

    ヒッポドロームのスタート地点です。
    裏側から見ています。
    これが見納めです。
    とりあえず、慌ただしく遺跡見学を終了しました。

  • ヨルダンでの観光を全て終えて、イスラエルとの国境に向かっています。<br />な~んにもありません。<br />電線が垂れ下がっています。<br />

    ヨルダンでの観光を全て終えて、イスラエルとの国境に向かっています。
    な~んにもありません。
    電線が垂れ下がっています。

  • 白い家々や樹々が見えます。

    白い家々や樹々が見えます。

  • 荒野に時々家が点在してる感じです。

    荒野に時々家が点在してる感じです。

  • アラビア語で「カールのカフェテリア」の意味のようです。

    アラビア語で「カールのカフェテリア」の意味のようです。

  • 直進<br />Ash Shuna    Ash Shammliyya<br />右方向<br />Junha

    直進
    Ash Shuna Ash Shammliyya
    右方向
    Junha

  • ヨルダン渓谷<br />国境越えの表示が見えてきました。

    ヨルダン渓谷
    国境越えの表示が見えてきました。

  • 信号がありました。久しぶりの信号です。<br />その先に白い綺麗な建物が見えます。<br />建築中なのでしょうか・・。<br />European Bankの文字も見えます。

    信号がありました。久しぶりの信号です。
    その先に白い綺麗な建物が見えます。
    建築中なのでしょうか・・。
    European Bankの文字も見えます。

  • 木々が茂っています。

    木々が茂っています。

  • 右の方向には、Shouna(ショウナ)民間防衛センター(たぶん・・・・)<br />赤い表示に梯子車らしきマークがあります。

    右の方向には、Shouna(ショウナ)民間防衛センター(たぶん・・・・)
    赤い表示に梯子車らしきマークがあります。

  • 直進すると検問所です。<br />Jisr Ash Shaykh Husaynとは、シェイフ・フセインのことかと思います。<br />

    直進すると検問所です。
    Jisr Ash Shaykh Husaynとは、シェイフ・フセインのことかと思います。

  • ヨルダンとイスラエルの間の陸路の国境は全部で3か所あります。<br /><br />1 King Hussein Crossing(キング・フセイン)(アレンビー橋)<br />2 Sheikh Hussein Crossing(シェイフ・フセイン)(ヨルダン川)<br />3 Wadi Araba Crossing(ワディ・アラバ)アカバ<br /><br />1はアンマンから近いので、最も便利です。ただしかなり混むようです。

    ヨルダンとイスラエルの間の陸路の国境は全部で3か所あります。

    1 King Hussein Crossing(キング・フセイン)(アレンビー橋)
    2 Sheikh Hussein Crossing(シェイフ・フセイン)(ヨルダン川)
    3 Wadi Araba Crossing(ワディ・アラバ)アカバ

    1はアンマンから近いので、最も便利です。ただしかなり混むようです。

  • ちなみに出入国の時間は場所によって違うようです。<br />私が利用したSheikh Hussein Crossing(シェイフ・フセイン)では<br />日~木 6時30分から21時まで(ヨルダンからは20時まで)<br />金土 8時から19時まで<br /><br />この場所はアンマンから約90km離れています。<br /><br />

    ちなみに出入国の時間は場所によって違うようです。
    私が利用したSheikh Hussein Crossing(シェイフ・フセイン)では
    日~木 6時30分から21時まで(ヨルダンからは20時まで)
    金土 8時から19時まで

    この場所はアンマンから約90km離れています。

  • この先は撮影禁止です。これがヨルダン最後の1枚です。<br /><br />私たちは、シェイフ・フセイン橋を渡ります。<br />キング・フセイン橋は混雑するため、こちらにしたようです。<br />混んでいると、3時間位かかるそうです。<br /><br />まず、バスの中に係員(警備の軍人)が入って来ます。<br />パスポートをチェックし、後部座席まで確認しました。<br />にっこり微笑むと、係員も笑顔で応じてくれました。<br />↓<br />スーツケースは勿論のこと、全ての荷物をバスから降ろします。<br />そしてヨルダン出国のためのセキュリティチェックを受けます。<br />こちらの保安検査の台は思った以上に高くて、スーツケースを持ち上げるのに大変でした。しかもスーツケースに入れてたドバイのお土産のバージュ・カリファの置物が銃に見えたようで、中を開けるように指示されてしまいました。(-_-;)<br />↓<br />出国手続きで、窓口で用紙を受領します。<br />↓<br />ちなみに少しだけお店もありました。簡単な食事ならできそうでした。トイレもあります。<br />↓<br />荷物を持って、ツアーのバスに乗ります。<br />(個人の場合はシャトルバスでイスラエル側に移動します。確か1.6JD必要です。)<br />↓<br />イスラエル側に移動してから・・。<br />こちらの方が物々しい雰囲気です。トラックが何台かチェックを受けていました。<br />その際、機関銃を向けていました。軍人も険しい顔をしています。<br />バスの中に銃をもった軍人が入って来ました。<br />パスポートを添乗員さんに渡して、チェックを受けました。ヨルダン側と同様に後部席までチェックしています。<br />↓<br />スーツケースや荷物を持ってバスを降ります。セキュリティチェックを受けますが、その前にいくつか質問されます。<br />・ 荷物は自分で梱包したのか<br />・ 荷物を預かっていないか等です。<br />荷物のチェックを受けます。この時、ツアーの中の何人かが、抜き打ちでスーツケースを開けるように指示されました。私は大丈夫でした。(ホッ!)<br />↓<br />入国手続きで、用紙をもらうのでなくさないように持っておきます。イスラエルの出国時まで必要です。パスポートにスタンプは押しませんでした。<br />↓<br />出国から入国まで、約1時間で終わりました。<br />ラッキーでした。やはりこちらの方が空いているようです。<br /><br />お世話になりました。<br />そして次はいよいよイスラエルです。

    この先は撮影禁止です。これがヨルダン最後の1枚です。

    私たちは、シェイフ・フセイン橋を渡ります。
    キング・フセイン橋は混雑するため、こちらにしたようです。
    混んでいると、3時間位かかるそうです。

    まず、バスの中に係員(警備の軍人)が入って来ます。
    パスポートをチェックし、後部座席まで確認しました。
    にっこり微笑むと、係員も笑顔で応じてくれました。

    スーツケースは勿論のこと、全ての荷物をバスから降ろします。
    そしてヨルダン出国のためのセキュリティチェックを受けます。
    こちらの保安検査の台は思った以上に高くて、スーツケースを持ち上げるのに大変でした。しかもスーツケースに入れてたドバイのお土産のバージュ・カリファの置物が銃に見えたようで、中を開けるように指示されてしまいました。(-_-;)

    出国手続きで、窓口で用紙を受領します。

    ちなみに少しだけお店もありました。簡単な食事ならできそうでした。トイレもあります。

    荷物を持って、ツアーのバスに乗ります。
    (個人の場合はシャトルバスでイスラエル側に移動します。確か1.6JD必要です。)

    イスラエル側に移動してから・・。
    こちらの方が物々しい雰囲気です。トラックが何台かチェックを受けていました。
    その際、機関銃を向けていました。軍人も険しい顔をしています。
    バスの中に銃をもった軍人が入って来ました。
    パスポートを添乗員さんに渡して、チェックを受けました。ヨルダン側と同様に後部席までチェックしています。

    スーツケースや荷物を持ってバスを降ります。セキュリティチェックを受けますが、その前にいくつか質問されます。
    ・ 荷物は自分で梱包したのか
    ・ 荷物を預かっていないか等です。
    荷物のチェックを受けます。この時、ツアーの中の何人かが、抜き打ちでスーツケースを開けるように指示されました。私は大丈夫でした。(ホッ!)

    入国手続きで、用紙をもらうのでなくさないように持っておきます。イスラエルの出国時まで必要です。パスポートにスタンプは押しませんでした。

    出国から入国まで、約1時間で終わりました。
    ラッキーでした。やはりこちらの方が空いているようです。

    お世話になりました。
    そして次はいよいよイスラエルです。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • sanaboさん 2024/02/12 23:51:59
    「ジェラシュ遺跡」
    noelさん、こんばんは~

    サルトという地名を初めて聞きましたが、世界遺産でもあり
    ガイドさんの故郷でもあったのですね。
    今は博物館になっているという「アブ・ジャーベルの邸宅」を
    noelさんとしてはご覧になりたかったですよね。
    やはり現地ガイドさんより添乗員さんの方が力関係で
    勝ってるのかな…。
    (勿論、時間配分を考慮してのご決断だったとは思いますけど)

    サルトはヨルダンの中でも肥沃な土地で、砂漠地帯を結ぶ
    重要な拠点だったのですね。
    市内最古のグレート・モスクは世界中の宗教学者にとって
    意味ある場所のようで、中を見てみたい気もしましたが
    観光客が安易に足を踏み入れることはできない
    神聖な場所なのでしょうか…

    そしていよいよ「ジェラシュ遺跡」ですね~(#^.^#)
    私は特に遺跡好きというわけではないのですが、noelさんの
    高揚感、ワクワク感が旅行記を通して私にも伝染してくるような…(笑)
    「東のポンペイ」と呼ばれていることからも
    その規模や重要性がいかなるものか分かりますね。

    1900年近く前に造られた立派な「ハドリアヌスの凱旋門」自体も
    驚きでしたが、その時代にローマ皇帝ハドリアヌスが視察の旅で
    中東からアフリカにまで跨る属州を巡った際に
    この地も訪れたと思うと感慨深いですね。
    ヒッポドロームや南劇場、ゼウス神殿などの様子や
    noelさんの詳しい歴史解説などもあり「ジェラシュ遺跡」を
    詳しく知ることができましたが、まだまだご覧になれなかった
    北側のエリアもあったのですね。
    noelさんが生まれ変わったら女性版インディジョーンズになって
    思う存分遺跡巡りができますように…と願っています(´艸`*)

    ところで、ヨルダンの出国検査、スーツケースの中まで
    チェックするとは厳しいですね~!
    どう見ても善良な日本人ツアーの人々なのに、何が出てくると
    思ってるのかしら?! やっぱりnoelさんの銃?(爆)

    今回も素晴らしい力作でしたね。お疲れさまでした。
    次回も楽しみにお待ちしていますね♪

    sanabo


    noel

    noelさん からの返信 2024/02/13 21:31:01
    Re: 「ジェラシュ遺跡」
    sanaboさん、こんばんは

    今回もありがとうございます。

    実は私もサルトのことは知りませんでした。
    2021年に登録されたばかりです。ツアーに参加しなければ知りませんでした。

    ツアーだと時々現地のガイドさんが、予定外のことを提案してくれます。
    今までにも何度か嬉しい寄り道がありました。
    ただ、添乗員さんにとっては、ちょっと煩わしいかもしれません。
    時間に余裕があればいいのですが・・・。
    今回はそうでもなかったので、ガイドさんの敗北となってしまいました。
    (-_-;)

    ただ、ツアー客の中には、忙しく観光するよりも、ゆっくりと過ごしたい方もいますので、難しいですね。

    グレート・モスク、気になりました。
    ただ、モスクの中には、異教徒は全く入れないこともあります。
    今回の旅行でもそんな場所がいくつかありました。

    ジェラシュ遺跡は、東のポンペイ・・・・と聞いただけで浮足立ってしまいました。
    特にハドリアヌスの凱旋門は、とても良い状態で残っていました。

    また、ハドリアヌスは、ローマ皇帝の中でも、視察などであちこち巡った皇帝です。
    車や電車や飛行機のない時代ですから、かなり時間を要したと思います。
    馬、馬車、あるいは船などで旅したことでしょう。
    今度、調べてみると面白いかもしれません・・・。

    ところでジェラシュは、ポンペイよりも遺跡内はわかりやすく感じました。
    とりあえずはヒッポドロームや劇場やゼウス神殿など見られたので満足です。ただ、アルテミス神殿も見たかった・・のは事実です。
    実はアルテミスとはあんまり縁がないのか、トルコのエフェソスでも見損なってます。(-_-;)

    ただ、屋根がついてないので、遺跡は夏は辛いです。

    sanaboさんのおっしゃるように、女性版インディジョーンズ、いいですね!
    生まれ変わったら、なりたいです。

    ところでスーツケース、ちょっとショックでした。
    ツアーだし日本人だし・・・と私も思いました。
    確かに私のスーツケース、金色の怪しげなお土産が入ってました。
    結構厳しかったです。
    通常でも、抜き打ちで、ツアー客の中の一人だけ、見られるらしいです。
    とりあえず、綺麗に梱包していて良かったです。(ホッ!)

    いつもありがとうございます。
    次回も頑張ります。
    sanaboさんの次回作も楽しみにしてます。

    noel

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