2008/11/05 - 2008/11/06
48位(同エリア112件中)
さっくんさん
二つの石窟を観光し終えた私ですが、その拠点となった街アウランガーバードで、私はもう少し訪れたい場所がありました。
これまでも少々シリアスな問題に言及する箇所は幾度かありましたが、今回は最終回でもあり、かなり踏み込んで言及しています。苦手な方はブラウザバックお願いします。
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大抵のツアーはエローラとアジャンターと言う二つの石窟寺院を見終えると此処を去ってしまいます。留まっても宿泊の為に拠点となるアウランガーバードに宿泊する程度です。
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しかし私はこのアイランガーバードと言う街にも興味がありました。~バードと言う地名は此処周辺のムスリムにとって「~の街」と言う意味で、従って~バードと着く地名はインドにあってムスリムが多く暮らす街です。
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もしかすると、続けて私の記事を読んで頂いている方の中に、もしかするとピンと来られた方もいるやもしれません。
アウランガーバード…。そう、6代皇帝アウラングゼーブの名を冠した街なのです。きっと彼に因んだ史跡がある筈です。 -
この街で気づいた事、それはムスリムの女性の多くが、しっかりと漆黒のベールを身に纏っている確率が多かった事です。インドではムスリムは少数派ですが、彼女達の出で立ちがそうなるのは、少数派と言う事柄が起因しているのではないかと思います。他のムスリムが少数派の地域でも同様な現象が見られましたが、それはイスラームに限らず、少数派と呼ばれる人々は、自分達のアイデンティティを守る為、民族意識や宗教意識が高くなる為ではないでしょうか?
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ビビー・カー・マクバラーを訪れました。6代皇帝アウラングゼーブの妻ディルラース・バーヌー・ベーグムの霊廟です。彼等の息子アーザム・シャーにより建立されました。
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アウラングゼーブはガチのムスリムであり、華美な霊廟を好まず、本人さえ霊廟は作らせませんでしたが、息子としては、せめて母親くらい霊廟に眠らせてあげたかったのでしょう。
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しかしタージ・マハル当時程の財政力は既に無く、この様な規模となった訳ですが、デザインをタージ・マハルを拝借したのは悪手だったと思うのです。どうしてもタージ・マハルと比べられてしまい、偽タージ・マハルだの、貧乏人のタージ・マハルだの、散々な言われ様です。
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確かに大きさも一回りも二回りも小さいですし、総大理石で造られたタージ・マハルに比べ、此方は多くを漆喰を使う事で白さを出しています。栄枯盛衰を感じてしまうのは仕方ない事でしょう。
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只、大切な人を偲ぶ気持ちは霊廟の大きさ出入り無いとも思うのです!
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道中見かけたヒンズー教寺院です。
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こじんまりとしていますが、美しい寺院でした。
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続いて訪れたのは、郊外のフルダーバードと呼ばれる場所でイスラームの聖者が数多く眠る場所です。此処に6代皇帝アウラングゼーブが空を覆うものも無く、ひっそりと眠っています。
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何故彼は霊廟を築かなかったのでしょう?
絢爛過ぎる霊廟建築を続けようとした父を幽閉して権力の座に就いたから、霊廟を築く訳にはいかなかったのかもしれません。或いは豪華な霊廟を築き国勢を傾けた父への反面教師の意味もあったかもしれません。 -
でも、それ以上に彼がストイックなムスリムだった事が最大な要因だったと思います。本来質実剛健を由とするイスラームは華美な霊廟は築きません。歴代の霊廟を眺めつつ此処を訪れれば、その余りにも質素さに驚かされますが、アウラングゼーブのそんなストイックさ、私は好きです。
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ムンバイ迄は寝台列車です。インドの鉄道には悲喜交々色々思い出があります。十年前のインドの旅、初回の三等客車で余りにも悲惨な一夜だったので、二度目は二等寝台予約したんです。でもいざ乗車となると、全てヒンズー語でどの客車か解りません。そこで乗ってから探そうと軽率に乗車したのが悪夢の始まりでした。
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当時のインドの客車は客車同士の移動が出来ない構造だったのです。でも幸か不幸か列車は徐行と停止を繰り返しています。私は停止したタイミングで客車のドアを開き地面に降りて、ダッシュで次の車両に飛び乗ってドアを開き~を繰り返し、しらみ潰しの寝台探しが始まりました。そんな事を数回繰り返していたのですが、一向に開かない扉がありました。郵便車で鍵がかかっていたのです。そんなタイミングに限って列車は快調に走ります。列車の手摺を頼りに、私をぶら下げた列車は快適に走ります。そう言えば私の憧れのハリソン・フォードも映画でこんな事してた様な…。
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そんな事を繰り返し、漸く私は私の寝台を発見しました。でも、もう其処には幼い子供二人連れたインド人のお母さんが…。自称和製インディアナ・ジョーンズが母子を追い出すわけいかないじゃないですか…。
そんな訳で今回初めてインドの寝台で眠りにつく事が叶ったのでした。 -
ムンバイはイギリスの影響が色濃く残る、ある意味一番インドらしく無い街でした。
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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅は世界遺産の駅です。
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チャトラパティ シバジ マハラジ バストゥ サングラハラヤは旧名がプリンス・オブ・ウェールズ博物館という名前のムンバイで一番有名な博物館です。
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ムガル帝国は5代シャー・ジャハーンのタージ・マハル建造等で財政が傾きました。6代アウラングゼーブは実力ある皇帝で、傾いた財政事情をものともせず、ムガル帝国の領土を帝国史上最大のものにします。
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しかしアウラングゼーブはストイックなムスリムだった故、3代アクバルから続いた、インドを統治する秘訣であった融和路線を解いてしまいました。それでも彼がいた頃は問題はありませんでしたが、彼亡き後ムガル帝国は財政難とヒンズー勢力の反乱により、坂道を転がり落ちる様に衰退していきます。
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しかし、衰えたムガル帝国から権力の座をもぎ取ったのはヒンズー勢力では無くまたもや外野の勢力、東インド会社、即ちイギリスでした。
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その後もムガル帝国は細々と存続しますがセポイの乱の失敗により、名実共に滅亡しました。
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街で青年に出逢いました。ビシッと決めた高価そうなスーツで決めたビジネスマンでしょうか?
彼は自慢気に語りました。
「どうですか?凄いでしょ!ムンバイの発展具合は!」 -
大人気ない事に私は「そうですね!」と相槌を送る大人の対応に時間がかかってしまいました。それはこれまで出逢ってきたローカーストの人々を思い返してしまったからです。
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カジュラホで出逢ったおじいさんは、この発展の恩恵を受けているのでしょうか?十年前の旅で警察に引き摺られていった少年は今、どの様に暮らしているのでしょうか?達者なら、今目の前に立っている好青年と同じ位の年齢の筈です。
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カースト制度は制度としては無くなりましたが、コミュニティの中では決して無くなってはいません。いや、既得権を失ったハイカーストによるローカーストへの嫌がらせは以前より悪質になったとも言えます。
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10年前はローカーストの人々の生活圏と、我々バックパッカーが泊まる宿は同じ場所にありました。例えばコルカタのサダル・ストリート等です。そこで出逢う悲惨な光景は、旅人の心をかきむしりました。そんな光景は文筆豊かな旅人、いやジャーナリストの沢木耕太郎氏の深夜特急でも言及されています。
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私がコルカタを訪れた頃は、未だ人力によるリキシャーが現役の頃で、痩せ細ったローカーストの老人が裸足で客を乗せたリキシャーを曳く姿は痛々しいものでした。
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それと街にいる物乞いの多くが、何らかの障害を抱えている事です。その確率が不自然に多いのです。そして年齢的に不自然な子供を抱えている物乞いも多く見かけました。
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これは耳にした都市伝説的な噂です。マフィアの様な組織があって、子供を誘拐、又は人身売買します。そしてその子をわざと障害を負わせます。そしてその子を物乞いにレンタルするのです。障害を負った子供を抱えていれば、バクシーシを貰える確率が増えます。マフィアはそうやって物乞いが稼いだ金を上納させるのだと言います。そして育った子供も障害を抱えて仕事に就けないから、彼等もまた物乞いになるのです。考えたくも無い噂ですが、その時私が見た、異様な数の障害を抱えた物乞い達はどう理解したら良いのでしょう?10年前のコルカタで見た風景を私は地獄絵図と書き残しています。
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しかし、インドの発展と共に地価も上昇し、ローカーストの人々は更に郊外に追いやられました。最早旅人が訪れる事の無い様な場所です。政府としても、「臭いものには蓋をする」様なもので、その方が都合良かったと思いますし、故意だった可能性もあります。どちらにせよ、問題が不可視化されていると言えます。
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インドの身分制度いや人種差別(カーストは肌の色も大きく関与しています。)は宗教由縁のもので、長年に渡ってインドのヒンズー教の人々のこころに植え付けられたものなので、南アフリカのアパルトヘイトの様な制度による人種差別より根深く、厄介な問題であると思います。
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タージ・マハル・ホテル。この20日後のムンバイ同時多発テロで炎上した光景を見た時は驚愕と共に、やっぱりと言う想いも少なからずありました。
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ムンバイにもインド門があります。
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10年前の旅は最後の最後まで呪われていました。適当に決めた帰国の日がよりによってホーリー祭だったのです。宿を出るなり珍しい観光客は格好の餌食です。彼方此方から色水入りの水風船が飛んできてあっという間に色男、と言うかレインボーマンです。こうなったら、やられてるばかりの私ではありません!
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結局空港で必死になって洗ったものの何故か緑色だけが中々落ちません。成田に到着した時、たまたまオーストラリアからの帰国便が近くのゲートに到着しました。華やかな衣装とDFSの大きな買い物袋のオーストラリア組と全身うっすら緑がかったバックパック背負い、疲れ切ったインドからの帰国組の落差は印象的でした。
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ジェイン・テンプルはジャイナ教寺院です。
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ハッジ・アリー霊廟
インドを旅して感じた事。原色のサリー、激辛のカレー、甘い死臭、突き刺す陽射し…何もかもヴィヴィッドでサイゲテリック。生きる喜びも、苦しみも、哀しみも、全てが生々しくて匂って、まとわりついて離れない…人と人の距離が離れ、人間関係が徐々に無機質なものへと変貌しつつある先進国の文化に浸っていた身には強烈過ぎる体験でもあり、考えさせられる事多々ある国でした。
今回は無事に帰国出来そうです。
最後までご覧になってくださり、ありがとうございます。
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