2019/07/12 - 2019/07/19
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ミズ旅撮る人さん
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「通常のドイツツアーでは訪れることの少ない街へご案内」
この一言で、北ドイツのツアーに参加しました。
7回目も、首都ベルリンです。
前編では、ツアーではあまり立ち寄らないヴィルヘルム皇帝記念教会と、
ベルリン大聖堂を訪れました。
後編では、「イーストサイドギャラリー」、所謂「ベルリンの壁」と
「テロのトポグラフィー」、そして「チェックポイント・チャーリー」を巡って、OST(東)ドイツの負の遺産を見て行きます。
その後、ブランデンブルク門を見て市内観光は終了します。
午後からは、新旧のサンスーシー宮殿に行きますが、それは次回にします。
サンスーシー宮殿からベルリンに戻って、
また個人的にウンターデンリンデン通りに遊びに行きました。
ここには、憧れのニベアハウスがあり、思う存分買って来ました。
まさかニベアにこんなに商品があるとは、お財布が悲鳴を上げそう。
そして、アンペルマンショップにも立ち寄りました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
PR
-
旧東ドイツのホルツマルクト通り(Holzmarktstrase)を走っています。
「Radialsystem」というイベント会場です。
古い雰囲気のいい建物を上手く使っています。 -
エネルギーフォーラム(EnergieForum Berlin)の建物も
「オスト(東)」の風情があります。 -
さあ、「ベルリンの壁」が見えて来ました。
-
「イーストサイドギャラリー」と名付けられた、かつての「壁」は、
今では芸術家たちの作品を披露する場になっています。
ギャラリーの横をバスは走るのですが、壁は大きく近すぎるので、
いつもブレてしまいます。イーストサイドギャラリー 博物館・美術館・ギャラリー
-
バスを降りてから、改めて撮りましょう。
-
バスは少し離れたビル街で私達を下ろし、てくてく歩いて来ました。
また、あの青いガス管がありますね。地面に埋めない主義なんですね。 -
「ベルリンの壁」の上を電車が走っている・・・訳ではないですが、
このように見える場所がありました。 -
日本人には、まず最初に紹介しやすいのが、
「日本地区への迂回路」でしょう。
現地ガイドの説明では、東西ドイツが統合された当時、西欧では
電化製品は、パーツ毎に売られていて使えるようにするのが面倒でした。
そこへ完成品がそのまま手に入る日本製品が登場し、
旧東欧諸国は日本製品に飛び付いたのです。
「西」の先進的文化は、妙なことに「日本発」であったため、
「迂回路」と表現されることになりました。
今でもヨーロッパでは、家の内装も自分で行うのが普通の国があり、
トイレやキッチンのパーツを普通にDIYで買って来て、
取り付けるそうですね。 -
首都ベルリンは、第二次世界大戦の戦勝国4か国で分断されました。
東側はソ連、西側は北からフランス・イギリス・アメリカと
3つに分けられて統治されました。
ソ連は、ベルリンをすべて掌握するために、西ベルリンへの陸上輸送を
すべて閉鎖する「ベルリン封鎖」を行いましたが、
連合国が援助物資を空輸したため、封鎖は成功しませんでした。
1961年8月12日の夜、突如として「ベルリンの壁」は
建設されました。
以後、壁は東側と西側に二重に建てられ、監視塔なども設置されました。
壁を突破しようとして亡くなった人は200人余りに上ると
言われています。 -
1945年に分断された東西ドイツは、45年を経て統一されます。
1989年8月19日に、「汎ヨーロッパ・ピクニック」計画が
挙行されました。
ハンガリーがオーストリアとの国境にあるショプロン(Sopron)という町で、ピクニックに事寄せて、600人もの東ドイツ国民を
西側に脱出させたのです。
更にハンガリーは、9月にオーストリアとの国境を開放し、
東ドイツ国民がハンガリー経由で西側に脱出出来るようになりました。
その数が20万人にも上るようになり、ついに
1989年11月9日、社会主義統一党中央委員会の
ギュンター・シャボウスキー政治局員は記者会見の際、
「東ドイツ国民は全ての国境地点から出国を認められる」という
発表がなされ、その時期を「すぐに」としてしまったため、
その日のうちに「壁」は崩壊しました。 -
12月19日には、西ドイツのコール首相が
東ドイツを初めて訪問します。
翌1990年1月15日、デモ隊が東ベルリンの国家保安省本部を襲撃、
28日には東ドイツの党の代表が暫定政府の設立に合意しました。
その後、各国との折衝が行われ、
8月31日、東ベルリンで東西ドイツの統一条約が調印されます。
9月24日、東ドイツがワルシャワ条約機構から脱退。
10月3日、ベルリンに対する連合国のすべての権利は失効し、
ドイツは完全に一つの国家となりました。
この日は、「ドイツ統一記念日」となっています。
当時、私は「歴史が動く瞬間」を目の当たりにして、
今でも身震いがする思いです。 -
1991年連邦議会に於ける「ベルリン移転決議」を受け、
1999年9月1日に西ドイツのボンから、
ベルリンへ首都が移転されました。
移転費用は約200億マルク(1兆1千億円)で、
すべてをベルリンに移すのではなく、
ボンと分散する「混合モデル」が採用されました。
また、ボンに対しては「ベルリン・ボン法」によって、
ボン以外の都市にあった行政機関などをボンに移転させ、
ボンには28億マルク(1555億円)の補償が支払われました。
1999年にベルリン市州政府が行ったアンケート結果によると、
83%の国民がベルリンへの首都機能移転を成功だと答えています。
(国土交通省HPより) -
1989年11月9日に東西ドイツ間が自由に行き来できるように
なりました。
それから数日のうちに、ベルリン市民がベルリンの壁を
少しずつ壊し始めました。
その壁に、翌年ドイツ、フランス、スウェーデンなど、
世界各国から集まった芸術家が、自分たちが想う東西ドイツの歴史、
社会主義の厳しさを絵で表現して行きました。
やがて取り壊される筈でしたが、これらの作品が注目されるようになり、
「イーストサイド・ギャラリー」となって、残されることになりました。 -
21か国から118人のアーティストたちが描いたというギャラリー。
全長は約1kmあるのですが、日本のツアーでは、
どうしてもこの場所に来てしまいます。
それは「日本地区への迂回路」があるせいでもありますが、
とっても有名な絵があるからです。 -
ドミトリー・ヴルーベリの「神よ、この死に至る愛の中で我を生き延び
させ給え(My God, Help Me to Survive This Deadly Love)」
こちらの絵は、当時の東ドイツ首相ホーネッカーと
ソビエト連邦最高指導者ブレジネフ書記長で、
東ドイツ建国記念式典の際の写真をそのまま模写したものです。 -
絵の下には(赤い文字はたぶんロシア語で、
その下に黒字でドイツ語があります)、
Mein Gott, hilf mir, diese todliche Liebe zu uberleben
「神様、この悲惨な愛を乗り越えるのにお手をお貸しください」と
書かれています。
今後(東ドイツ建国後)は、自由な社会は望めないだろうという
絶望感を表しています。 -
今、ベルリンの市内観光をしていても、
どこがかつての東ドイツの部分なのかわかりません。
バスの運転手も、この辺はそうだったろうという
推測しか出来ないそうです。
(もちろん「壁博物館」などでは、東西ベルリンの地図などが
見られます) -
頭の上には、ベルリンを分割統治した国の象徴が描かれています。
中央がブランデンブルク門で、右にエッフェル塔、左にロンドン塔、
その隣が「赤の広場」で、左端はマンハッタンでしょう。 -
手首に書かれている「DDR」は、ドイツ民主共和国
( Deutsche Demokratische Republik)、旧東ドイツの正式名称です。 -
「ベルリンの壁」というと、ここを一番に考えてしまいますが、
ここはあくまでもギャラリーです。
本来の二重の壁や緩衝地帯がそのまま保存されている場所があります。
「ゲーデンスケッテ・ベルリナー・マウアー
(Gedenkstatte Berliner Mauer )」で、
Sバーンの「ベルリン北(Berlin Nordbahnhof)」駅の近くです。 -
「壁」の観光では、観光客の方がおもしろいです。
-
左側にも壁があります。
本来は、真ん中に緩衝地帯を設けて、このようになっていました。
しかし、ギャラリーのあるこの地域はシュプレー川に沿っているため、
西側の壁は作られませんでした。
ここにある西側の壁は、二重壁を再現するために切り取って、
設置したものです。 -
近隣の土産物店では、こうしたグッズが売られています。
これ、欲しい人がいるのかなあ? -
さて、これは2013年12月の写真です。
「日本地区への迂回路」がひどいことになっています。 -
壁の風化・劣化という以前に、
観光客のいたずら書きがまんべんなく書き込まれ、
保存する価値すら失いそうになっています。 -
2009年から、ベルリンの壁崩壊20周年を記念して、
ギャラリーの改修が200万ユーロをかけて行われました。
穴を埋め、蒸気を当てて塗料を取り除いた後、壁画が修復されました。
アーティスト118人のうち、8人は過去の自分の作品を複製することを拒否しましたが、それ以外は再び元の姿を取り戻しました。
ところが2013年には、高級ホテル建設のため、壁の23m、壁画3枚が開発業者によって取り壊されました。 -
ここの壁の絵がありません。修復を応諾しなかった部分でしょう。
新たな作品が、ここを飾るといいですね。
背後に見える2本の塔は、オーバーバウム橋(Oberbaumbrucke)に
付いています。
1895年に建設された2層構造の橋で、上はUバーンが走り、
下は車道になっています。
花崗岩とレンガ造りのファサードのある7つのアーチの橋には、
中世を模した塔が2本立っています。
この橋は、ドイツ分断の時代には、東西ベルリンの国境検問所でした。 -
シュパンダウアー通り(Spandauer Str.)を通って、
「赤の市庁舎」に来ました。
「赤の市庁舎」については、前編で書いたので割愛します。 -
ベルリンテレビ塔は、東ドイツ時代の1969年に建てられました。
高さは368mあり、207mのところに回転式のレストランが
あります。1時間で一周します。消防法のため、キッチンは1階にあり、
料理は、はるばる運ばれて来るのだそうです。
入場料は13ユーロと、こちらも高い。テレビ塔 建造物
-
ヴィルヘルム通りに建つイギリス大使館です。
1本向こうの道路がウンターデンリンデン通りで、
左側に行くとブランデンブルク門があります。 -
「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑
(Denkmal fur die ermordeten Juden Europas )」がありました。
1万9千㎡に2711基の石が置かれています。大きさはまちまちで、
数にも意味はないそうです。2005年に完成しました。
地下に情報センターがあって、強制収容所で亡くなった人の情報を
展示しています。
総工費2760万ユーロをすべて国費で賄っています。
ドイツの贖罪の潔さは、日本も見習うべきですね。
原爆記念館にアメリカ大統領に来いと言う前に、
日本の首相が、迷惑をかけた国々に謝罪に行くべきでしょう。
天皇陛下はそれを長年なさって来ました。
1970年、西ドイツのブラント首相(当時)が第2次大戦の謝罪を
込めて、ポーランドのユダヤ人慰霊碑前でひざまずいたのは、
衝撃的でした。虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑 (ホロコースト記念碑) モニュメント・記念碑
-
ポツダム広場です。低い建物がソニーセンタービルです。
中にはフィルム博物館や、レゴランドもある複合施設です。
アインシュタインの舌を出した巨大な頭部がレゴで作られています。
手前にあるのは、「ベルリンの壁」の一部です。
かつてポツダム広場は壁が縦断していました。
ソニーは、壁崩壊の直前に廉価でこの土地を取得し、
ソニーセンターを建設したのだそうです。ポツダム広場 広場・公園
-
「ベルリンの壁」のあった跡です。
ニーダーキルヒナー通り(Niederkirchnerstrase)に来ています。 -
奥の建物は、ドイツ帝国の航空省の本部でした。
1950年から東ドイツの庁舎となり、統一後に改装されて、
現在は財務省と連邦議会の一部になっています。 -
第二次世界大戦時代、ヒットラーの秘密警察(ゲシュタポ)と
親衛隊(SS)そして国家保安本部(SD)のあった場所に、
「テロのトポグラフィー」という施設が作られました。
空襲で大きな損傷を受けた建物は、1956年に取り壊されましたが、
2010年にナチスによる暴力支配の歴史を伝える情報センターとして
開館しました。テロのトポグラフィー 博物館・美術館・ギャラリー
-
東西ドイツ統一後に跡地の発掘調査が行われた際に発見された、
ゲシュタポ本部の地下牢の一部が見学できるようになっています。 -
「テロのトポグラフィー」は、
ナチス政権の非行の数々の記録をきちんと後世に残し、
歴史を繰り返さないためドキュメントセンターとしての役割のため、
敢えてシンプルで透明性を重視したデザインになっています。 -
ヒトラーの横に立つのは、ゲーリング空相かな?
-
頭を剃られて連行されるユダヤ人女性たち。
-
「鉤十字(ハーケンクロイツ)」の夥しい列。
-
ヒトラーに殺到して握手を求める女性たち。
-
公開処刑。
こうした写真を隠さずに公開するドイツの勇気には、
感嘆するものがあります。 -
人間が、こういう事をやるんだなと、恐らく人間しかやらない事なんだと、旧日本軍を思いながら、考えてしまう。
戦争中、旧日本軍はどれだけのことをしたんだろうか。
日本人は誰も知らない。 -
展示は、ナチスが形成されていく経過や、
ホロコーストを行った経緯について、
多くの写真を中心に説明しています。 -
悪名高いアウシュビッツは、ユダヤ人を大量虐殺した強制収容所です。
占領していたヨーロッパ全域から、ポーランドにいくつか建設された
絶滅収容所に移送されました。
ベルリン西部のグルーネヴァルト駅から、
1941年10月に最初の移送が行われました。
17番線のホームが専用となっていて、現在その線路には
鉄のプレートが敷き詰められて、移送日と移送先が刻まれています。 -
1940年ポーランドからリトアニアに逃げて来たユダヤ人たちが、
カウナスにあった日本領事館へビザの発給を求めて押し寄せました。
1933年ヒトラーが発した「ユダヤ人排斥運動」により
ドイツ・オーストリア・チェコスロヴァキアからポーランドに
逃げ込んでいたユダヤ人たちは、ソ連のポーランド侵攻により、
1939年に「ヴィリニュス返還協定」が締結されたため、ポーランドとリトアニアの国境が消滅したため、リトアニアにやって来たのでした。
日本領事だった杉原千畝(ちうね)は、日本国政府の意向に逆らって、
1ヵ月の間ビザを発給し続けました。その数は2,139通になりました。
日本通過ビザを手に入れたユダヤ人たちは、ソ連をシベリア鉄道で
横断し、日本国内を通過して、オーストラリアやアメリカ・カナダ・
南米・中国・インドネシアにまで避難して行きました。
同じようにビザを発給してユダヤ人を救った外交官たちがいます。
リトアニアでオランダ領事代理だったヤン・ズヴァルディクは
準ビザを発給しました。
フランス・ボルドーに駐在していたポルトガル総領事の
アリスティーデス・デ・ソウサ・メンデスは
ポルトガル政府が難民の入国を禁止しますが、
1万人のユダヤ人にビザを発給、スペイン国境を通過させました。
ギリシャのロードス島駐在のトルコ領事セラハティン・ウルクーメンは、
ロードス島の1,700人のユダヤ人が収容所に送られた際に、
42人のトルコ国籍のユダヤ人たちを救出しました。
ウィーン駐在の中国総領事何鳳山は、オーストリアがナチスドイツに
併合された際に、ユダヤ人に1,900通のビザを独断で発行しました。
ハンガリー・ブダペスト駐在のスイス領事チャールズ・カール・
ルッツは、ユダヤ人のために保護状を考案し、
中立国の外交官として初めて数千人のユダヤ人を助けました。
イスラエル政府は、ユダヤ人に救いの手を差し伸べた各国の人々に
「諸国民の正義の人」賞を贈っています。
2014年までに贈られた人の多い国順では、
ポーランドが6,454名と最も多く、次いでオランダが5,351名、
フランス3,760名、ウクライナ2,472名、ベルギー1,665名、
リトアニア871名、ハンガリー810名と続き、ドイツは553名、
日本は杉原千畝唯一人です。
総勢25,271名もの「正義の人」がいました。
(岐阜県にある杉原千畝記念館HPより抜粋) -
東西ベルリンの地図です。
右側の色の濃いのがソ連の統治する東ベルリン、
左側は南北に3つに分断され、イギリス・フランス・アメリカが
統治しました。
このベルリンは、丸ごと東ドイツの領域にありました。
つまり連合国の西ベルリンは西ドイツの飛び地だったのです。 -
「テロのトポグラフィー」のすぐそばに気球がありました。
Welt Balloonの気球で、150mとかなり高くまで上がるので、
ベルリンの中心で地平線まで見渡すことが出来ます。遊覧気球 ヴェルト バルーン アクティビティ・乗り物体験
-
同じ敷地に、黄色い車が展示されています。
郵便局のホルンマークの付いた車は、
東ドイツ時代の一般大衆車「トラバント(トラビ)」です。 -
「TrabiWorld Berlin」と言う会社が
「トラビ・サファリ」の観光ツアーを開催しています。
トラビを実際に自分で運転して、市内観光をするもので、
1時間2人で80ユーロから(2013年現在)。 -
これはちょっと運転が難しいなあ。でも、トラビは運転してみたい。
ガイドが先導して、その後をついて行くだけなので、
慣れない外国でも運転は出来そう。
もちろん、国外運転免許証は必要です。 -
2013年にブランデンブルク門のそばで見た
トラビ・サファリの車です。 -
5~6台のトラビが連なって、ゆっくり走って行きました。
これ、絶対におもしろいと思います。 -
近くにはトラビ博物館(Trabi-Museum)なるものもありました。
-
チェックポイント・チャーリーです。
1961~1990年に存在した国境検問所でした。
チャーリーは、「3番目・C」という意味です。無線用語です。
現在ある小屋はアメリカ側のものです。
大きな顔写真は、東側から見ると、このようにアメリカ兵の顔、
西側からはソビエト兵士の顔になっています。
検問所のすぐ脇にKFCとMcが見えるのは、
アメリカ地区だったからでしょうか・・・
因みに、Mcの手前にはアインシュタイン・カフェがあります。チェックポイントチャーリー 散歩・街歩き
-
検問所にいるアメリカ兵のコスチュームの彼らは、商売なので、
一緒に記念撮影をするのは有料になります。
背後には「壁博物館(Museum Haus am Checkpoint Charlie)」が
あります。壁博物館 (ハウス アム チェックピント チャーリー) 博物館・美術館・ギャラリー
-
チェックポイント・チャーリーの周辺は、
似たような施設が固まっています。
「THE WALL - asisi Panorama Berlin」 -
こちらは無料で気軽に入れるので、
ツアーの人はみんなこっちに行きました。
「BlackBox Cold War」ブラック ボックス 博物館・美術館・ギャラリー
-
チェックポイント・チャーリーの現役時代の写真。
右下に現在地と赤字で書いてあります。
まだ壁が建設される前の写真ですね。
この後、検問所の前を左右に壁が築かれました。 -
壁が出来て、進入路も複雑になっています。
-
アメリカ側から見た写真です。東ドイツからは厳重なチェックが行われましたが、
アメリカ側は特に必要なかったのでしょう。 -
車に隠れて脱出を試みた人。成功率はどれくらいだったんだろう?
-
赤線が「壁」で、右側が東ドイツ、左側が西ドイツです。
大きく白く削れた部分が、チェックポイント・チャーリーです。
その左上の削れた部分がブランデンブルク門です。
右側の川沿いに赤線のある部分が、イーストサイドギャラリーです。
赤線が川を横切っている部分がオーバーバウム橋で、
検問所がありました。 -
ベルリンの壁が、ここにも置かれています。
-
そして、売られています。
本物かどうかもわからないのに、こんな高額で買う人がいるんだろうか? -
一番わかりやすい東西ベルリンの地図。
チェックポイント・チャーリーの場所と
ブランデンブルク門が書き込まれています。 -
ミニスターガルテン(Ministergarten )。
この公園が面しているエーベルト通り(Ebertstrase)には、
ポツダム広場とブランデンブルク門を繋ぐ壁が続いていました。
当時の写真がずらっと並んでいます。
そして、何故か緑の巨大なアンペルマンが。 -
確かに帽子を被っているなあ。顔って見えない方がいいのね。
-
「ソビエト戦争記念碑(Sowjetisches Ehrenmal im Tiergarten )」
は、ブランデンブルク門のすぐ前のティーアガルテンの一角にあり、
1945年にベルリンの戦闘で亡くなった
ソビエト兵士を記念しています。
西側のイギリス統治の土地にあるのが不思議ですが、
東西統一の際の条約に維持することが盛り込まれているそうです。
本物のT-34戦車2輌が入り口を守っています。 -
ブランデンブルク門。東を向いているので、西側は裏になります。
かつて「ベルリンの壁」が崩壊した時に、東ドイツの人々が、
ここにあった壁を乗り越えて西側の人々と喜び合ったシーンが
思い出されます。 -
このエーベルト通りに「壁」はありました。一番最初に壊された壁です。
-
ブランデンブルク門の上には4頭立ての馬車クアドリガに乗った
勝利の女神ヴィクトリアの像があります。
新古典主義のラングハウスが造りました。
1806年にナポレオンに持ち去られましたが、
1814年に取り返しています。
ナポレオンへの仕返しに、1871年ドイツ帝国初代皇帝になった
ヴィルヘルム1世は、パリを占拠し、
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で戴冠式を挙げました。 -
前回ここに来た時はトラビのオンパレードでしたが、今回は馬車でした。
こんなに足先が太い馬もいるんですね。寒い国の馬かな? -
パリーザー・プラッツ(Pariser Platz)で、シャボン玉で遊ぶ子供たち。
後ろはアメリカ大使館です。 -
午後の観光はポツダムに移動してサンスーシー宮殿でした。
こちらは次回にします。
夕方ベルリンに戻って来て夕食をとり、ツアーはホテルに戻りますが、
せっかくなので、もう少しベルリン中心部でお買い物を楽しみたいと
思います。
写真はベルリーナー・キンドルヴァイセ。色付きのビールで、甘いです。4ユーロ。
日本でも「よい子の泡びいー」というのがありますね。
あれはノンアルコールですが。 -
昼食でしたが、ベルリン名物カリーブルストです。
いつでもポテトがいっぱいついて来ます。 -
夕食はミートボール。ハンバーグじゃないんです。大っきいなあ。
-
さて、夕食後にベルリン市内を移動中です。
こんな自動車を見掛けました。ちゃんと走っているのが、すごい。 -
次に見つけたのが、これ。犬専用のかご付き自転車。
元は子供用の椅子が付いていたところに、お手製で付けたようです。
ドイツ人は犬が好きだからなあ。 -
ベルヴュー宮殿(Schloss Bellevue)。
新古典主義の建物で、現在、ドイツ連邦共和国大統領の官邸と
なっています。ベルビュー宮殿 (ドイツ大統領官邸) 城・宮殿
-
国会議事堂(Reichstagsgebaude )。
こちら側からでは見えませんが、巨大なガラスドームが乗っています。
1933年に火災で中央部分が焼失し、放置されていたものを
東西統一後に修復を始め、1999年にドームが完成しました。
事前予約で見学することが出来ます。ドイツ連邦議会議事堂 現代・近代建築
-
不思議なアンペルマン。オレンジ色のは何?
トラムは走っていないし・・・ -
ウンターデンリンデン通りの真ん中で100番のバスを降りました。
すぐお向かいにアンペルマンショップが見えますが、
あちらは閉店時間が遅いので、
先にニベアハウスに向かいます。現在19時半です。ウンター デン リンデン 散歩・街歩き
-
ニベアハウス・ウンターデンリンデン店です。
市内観光をしていると必ずウンターデンリンデン通りを通るので、
気になっていました。
今日こそは、店に入ります。ニベアハウス (ウンターデンリンデン店) 専門店
-
外からも巨大なニベア・ボールが見えて、目を引きました。
-
でも、今はどうもないみたいです。
模様替えなのか、今度はニベア缶が積まれたオブジェらしい。 -
ニベア缶のサイズにも細かいバリエーションがあります。
横の棚には缶じゃない容器も。
こちらは丸っこくて可愛いので、配りものに〇 -
ニベア・グッズいっぱい。大きなバスタオルを買いました。
ドイツ製品らしい、厚くてしっかりした生地で、
日本ではまず見掛けないものです。
バスタオルとしてではなく、寒い時のひざ掛け、
いや全身すっぽり掛けられます。 -
ニベア缶のオブジェ。
ニベアがそれほど好きという訳ではなかったけれど、
ここに来たら、買いたいものがいっぱい! -
星座のついたニベア缶。
こういう物は、コロナ対策で片付けられてしまったのかも。
写真を缶の表面にプリントしてくれるサービスもありました。 -
夏のキャンペーン中で、20ユーロ以上買うとマイバッグをくれました。
-
福袋も売っていて、金額を忘れてしまいましたが、
中身はこれで、相当お得でした。 -
こんなものも買いました。
-
またいつか、ここに来られたらいいなあ。
-
さて、反対側のアンペルマンショップに行きます。
大人気のアンペルマンショップは、ベルリンだけで8か所もあります。
ウンターデンリンデン店とハッケシェヘーフェ店には
カフェも併設されています。 -
ウンターデンリンデンの店は、月~土は夜10時迄営業しています。
-
アンペルマンショップの中で一番規模の大きい店だそうなので、
ローテンブルクなどにある土産物店風の店とは、
展示内容がかなり違います。 -
ポストカードがいっぱい。右の後ろがカフェです。
-
ちょっと気持ち悪い・・・
-
カフェで使われているカップ。
-
何故か日本の信号機がある。
-
カフェを外から見ると、こんな外観。何故か中華料理店に見える。
-
こんな筈ではなかった。
店中しっかり見て来たのに、欲しいものが何もなかった。
以前買ったような商品がまったくなく、甚だ個人的見解ですが、
デザインがちっとも良くなかったです。デザイナーが変わったのかしら?
以前のグッズは温かみがあったけど、
今のはただアンペルマンが付いていればいいという感じ。
残念だなあ。 -
さあ、バスに乗って帰りましょう。
次回は、この日の午後に訪れた新旧のサンスーシー宮殿です。
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ベルリン(ドイツ) の旅行記
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旅行記グループ 2019年7月 北ドイツ周遊
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