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令和3年4月下旬に広島県三次市を訪れた。その昔何度か滞在した良き思い出のある街である。<br />何十年ぶりかの滞在であったが、昔の記憶は驚くほど残っていなかった。初めての訪問のような新鮮な気持ちで街を歩いてみた。<br /><br />その昔三次を訪れたとき、この町が「城下町」であることを私は知らなかった。この旅行記のタイトルがなぜ「 」付きの城下町なのか?<br />詳しくは本文をご覧あれ。<br />(2021.05.02作成開始)

山あいの「城下町」三次~寺社と廃線跡を訪ねて~

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2021/04/23 - 2021/04/25

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さっとん姉

さっとん姉さん

この旅行記のスケジュール

2021/04/25

この旅行記スケジュールを元に

令和3年4月下旬に広島県三次市を訪れた。その昔何度か滞在した良き思い出のある街である。
何十年ぶりかの滞在であったが、昔の記憶は驚くほど残っていなかった。初めての訪問のような新鮮な気持ちで街を歩いてみた。

その昔三次を訪れたとき、この町が「城下町」であることを私は知らなかった。この旅行記のタイトルがなぜ「 」付きの城下町なのか?
詳しくは本文をご覧あれ。
(2021.05.02作成開始)

  • 令和3年4月下旬。島根県からの帰途、広島県の三次市に滞在した。<br />備後落合で乗車した列車は16時過ぎにJR三次駅に到着した。

    令和3年4月下旬。島根県からの帰途、広島県の三次市に滞在した。
    備後落合で乗車した列車は16時過ぎにJR三次駅に到着した。

    三次駅

  • 駅前の「三次鵜飼のモニュメント」。比較的新しい。<br />私が前回来たときにはもちろんなかった。

    駅前の「三次鵜飼のモニュメント」。比較的新しい。
    私が前回来たときにはもちろんなかった。

  • そばにあるプレートでは今の三次の売りをアピールしている。<br />私が以前滞在した時には、三つの川が合流する山間の街、霧の街、鵜飼の街といったイメージが強かった。<br />現在は「妖怪」を強く推していることを初めて知った。

    そばにあるプレートでは今の三次の売りをアピールしている。
    私が以前滞在した時には、三つの川が合流する山間の街、霧の街、鵜飼の街といったイメージが強かった。
    現在は「妖怪」を強く推していることを初めて知った。

  • 駅から少し離れた場所にあるホテルに宿泊する。

    駅から少し離れた場所にあるホテルに宿泊する。

    ホテルアルファーワン三次 宿・ホテル

  • シングルの部屋は狭いが清潔で必要なものは揃っている。<br />翌日は日帰りで安芸高田市にある吉田郡山城跡(郡山城跡)を訪れた。

    シングルの部屋は狭いが清潔で必要なものは揃っている。
    翌日は日帰りで安芸高田市にある吉田郡山城跡(郡山城跡)を訪れた。

  • 安芸高田市からの帰りに三次駅前にある観光協会に寄り、翌日の市内観光に備えてパンフレット類を入手した。

    安芸高田市からの帰りに三次駅前にある観光協会に寄り、翌日の市内観光に備えてパンフレット類を入手した。

    三次市観光協会 名所・史跡

  • 三泊目の朝。ホテルの1階にある居酒屋(夕方からの営業のみ)の店舗が朝食会場である。<br />宿泊は食事なしで予約していたが、前日にフロントで翌日の朝食クーポンを税込700円で購入した。<br /><br />コロナ対策で弁当スタイルだが、温かいご飯と味噌汁、生卵がつく。

    三泊目の朝。ホテルの1階にある居酒屋(夕方からの営業のみ)の店舗が朝食会場である。
    宿泊は食事なしで予約していたが、前日にフロントで翌日の朝食クーポンを税込700円で購入した。

    コロナ対策で弁当スタイルだが、温かいご飯と味噌汁、生卵がつく。

  • ホテルに1台だけある無料貸出しの自転車。先着順である。<br />09時10分までにフロントへ行き、自転車を借りる。<br />天気予報は晴れ時々曇で降水確率は低い。

    ホテルに1台だけある無料貸出しの自転車。先着順である。
    09時10分までにフロントへ行き、自転車を借りる。
    天気予報は晴れ時々曇で降水確率は低い。

  • とりあえず駅前通りを北へ向う。<br />途中で立派な山門を構えた寺があるので立ち寄る。<br />是佛山覚善寺という。浄土真宗本願寺派である。解説板の類は見当たらない。<br />後でネットで調べると戦国時代末期~江戸時代前半期に創建された古刹である。

    とりあえず駅前通りを北へ向う。
    途中で立派な山門を構えた寺があるので立ち寄る。
    是佛山覚善寺という。浄土真宗本願寺派である。解説板の類は見当たらない。
    後でネットで調べると戦国時代末期~江戸時代前半期に創建された古刹である。

  • 境内には親鸞聖人の像が建っている。

    境内には親鸞聖人の像が建っている。

  • 本堂の脇の地面に鬼瓦などが陳列されている。かなり立派である。建て替え前に使われていたものであろうか。明治四拾三年四月と銘に記されている。

    本堂の脇の地面に鬼瓦などが陳列されている。かなり立派である。建て替え前に使われていたものであろうか。明治四拾三年四月と銘に記されている。

  • 覚善寺から南に少し戻り、やや細い道を西へ行く。後でGoogle Mapを見たら「石見銀山街道」と記されている。古い歴史のある道のようである。<br />その道に面して立派な楼門を持つ寺院が建っている。

    覚善寺から南に少し戻り、やや細い道を西へ行く。後でGoogle Mapを見たら「石見銀山街道」と記されている。古い歴史のある道のようである。
    その道に面して立派な楼門を持つ寺院が建っている。

  • (写真は境内側から見た楼門。)<br />浄土真宗本願寺派の西覚寺という。やはり解説板の類は見当たらない。<br />ネットによると元禄8(1695)年創建とのこと。

    (写真は境内側から見た楼門。)
    浄土真宗本願寺派の西覚寺という。やはり解説板の類は見当たらない。
    ネットによると元禄8(1695)年創建とのこと。

  • 西覚寺の本堂。

    西覚寺の本堂。

  • 石見銀山街道は西覚寺の前を過ぎて西へ行くとすぐに西城川(写真の右上)と馬洗川(右下)合流点より少し下流の土手(次の写真の左)にぶつかる。<br />合流した川は少し先で西から流れてくる江の川に更に合流し、彎曲しながら三次盆地を西北の方角に流れ島根県側で日本海に注ぐ。<br />三次市内の中心部で三本の川が巴の形で複雑に合流している。今は立派な橋が何本も架けられているが、かつては石見銀山街道は渡し船で川を渡り北上していたのかもしれない。<br /><br />ちなみに上の写真に写っている川が有名な三次の鵜飼が行われる場所であり、手前側の土手の下に鵜飼を見学する船の乗船場が設けられている。

    石見銀山街道は西覚寺の前を過ぎて西へ行くとすぐに西城川(写真の右上)と馬洗川(右下)合流点より少し下流の土手(次の写真の左)にぶつかる。
    合流した川は少し先で西から流れてくる江の川に更に合流し、彎曲しながら三次盆地を西北の方角に流れ島根県側で日本海に注ぐ。
    三次市内の中心部で三本の川が巴の形で複雑に合流している。今は立派な橋が何本も架けられているが、かつては石見銀山街道は渡し船で川を渡り北上していたのかもしれない。

    ちなみに上の写真に写っている川が有名な三次の鵜飼が行われる場所であり、手前側の土手の下に鵜飼を見学する船の乗船場が設けられている。

  • 奥に見える赤い橋が巴橋。西城川と馬洗川は巴橋の少し先で江の川に合流する。<br />巴橋を中心とした川のある風景が三次市のシンボル的な風景の一つである。私が遠い昔この街を訪れたときの記憶も、川のある風景が最も強く印象に残っている。

    奥に見える赤い橋が巴橋。西城川と馬洗川は巴橋の少し先で江の川に合流する。
    巴橋を中心とした川のある風景が三次市のシンボル的な風景の一つである。私が遠い昔この街を訪れたときの記憶も、川のある風景が最も強く印象に残っている。

  • このあと馬洗川に架かる人と自転車のみ通行できる橋を渡り馬洗川の左岸(上流から下流を見て左側)へ渡る。<br />上の写真はその橋の上からの下流方向にある巴橋方面の眺め。

    このあと馬洗川に架かる人と自転車のみ通行できる橋を渡り馬洗川の左岸(上流から下流を見て左側)へ渡る。
    上の写真はその橋の上からの下流方向にある巴橋方面の眺め。

  • 西城川左岸に渡り土手に沿って上流方向へ。奥に旭橋が見えている。<br />その橋の右側の少し奥に今日の最初の目的地がある。

    西城川左岸に渡り土手に沿って上流方向へ。奥に旭橋が見えている。
    その橋の右側の少し奥に今日の最初の目的地がある。

  • 目的地はこの建物である。西城川の左岸の少し高い場所に建つ宿泊施設であり現在も営業している。<br />以前は別の建物が建っていた記憶がある。その昔私はこの宿泊施設に最低2回はお世話になった。今回の三次滞在中にどうしてもこの建物を見に行きたかったのである。

    目的地はこの建物である。西城川の左岸の少し高い場所に建つ宿泊施設であり現在も営業している。
    以前は別の建物が建っていた記憶がある。その昔私はこの宿泊施設に最低2回はお世話になった。今回の三次滞在中にどうしてもこの建物を見に行きたかったのである。

  • 旭橋を渡り西城川右岸へ。江戸時代の城下町だった時の三次の中心部である。<br />数十年前に私が三次を訪れた時にはこの辺りの町並みは整備されていなかったはずだ。そうであれば一度は訪れたであろうから。<br />しかし、現在は観光案内所で配布されている地図にも石畳のある歴史的な町並みが訪れるべき観光スポットとして強く推されている。

    旭橋を渡り西城川右岸へ。江戸時代の城下町だった時の三次の中心部である。
    数十年前に私が三次を訪れた時にはこの辺りの町並みは整備されていなかったはずだ。そうであれば一度は訪れたであろうから。
    しかし、現在は観光案内所で配布されている地図にも石畳のある歴史的な町並みが訪れるべき観光スポットとして強く推されている。

  • 石畳の両側に映画のセットのような歴史的な街並みがある。観光地図には「歴みち石畳通り」と記されている。<br />上の写真は西城川の左岸から右岸へ旭橋を渡った直後に南の方向を見て撮影。

    石畳の両側に映画のセットのような歴史的な街並みがある。観光地図には「歴みち石畳通り」と記されている。
    上の写真は西城川の左岸から右岸へ旭橋を渡った直後に南の方向を見て撮影。

  • 現在の歴みち石畳通りは旭橋を通る東西方向の道によって分断され、なおかつ東西に数十メートルずれている。観光地図には「筋違い道路」と記されている。敵の侵入を前提とした城下町としての防御の工夫の一つである。<br /><br />上の写真は北側の歴みち石畳通りの入口付近から北の方向を見たもの。

    現在の歴みち石畳通りは旭橋を通る東西方向の道によって分断され、なおかつ東西に数十メートルずれている。観光地図には「筋違い道路」と記されている。敵の侵入を前提とした城下町としての防御の工夫の一つである。

    上の写真は北側の歴みち石畳通りの入口付近から北の方向を見たもの。

  • 少し北へ進むと面白い場所に出る。この部分の道の形状は「鍵型道路」と呼ばれている。これも城下町としての防御の工夫である。

    少し北へ進むと面白い場所に出る。この部分の道の形状は「鍵型道路」と呼ばれている。これも城下町としての防御の工夫である。

  • 前の写真の右側にある寺院の前に立つ解説板。

    前の写真の右側にある寺院の前に立つ解説板。

  • 鍵型道路の屈曲部に立つ三勝寺の薬医門(やくいもん)。<br />以下はネット情報から。<br />https://www.miyoshi-dmo.jp/sansyoji/<br /><br />矢をくいとめるという意味が込められた、武家仕様の門である。元々は比熊山城※の門として建てられたもので、三次浅野藩の初代藩主、浅野長治が三勝寺をこの場所に移す時に贈られた。寺の山門とは造りが違うため、裏返しに立てられている。<br /><br />※比熊山城(ひぐまやまじょう)は広島県三次市上里にあった城。比叡尾山城より拠点を移した三吉氏(鎌倉初期~関ヶ原の戦いの三次の領主)の居城。天正19(1591)年築城、慶長5(1600)年廃城。<br /><br />三勝寺を訪れたときは「裏返しに立てられていること」には気がつかなかった。

    鍵型道路の屈曲部に立つ三勝寺の薬医門(やくいもん)。
    以下はネット情報から。
    https://www.miyoshi-dmo.jp/sansyoji/

    矢をくいとめるという意味が込められた、武家仕様の門である。元々は比熊山城※の門として建てられたもので、三次浅野藩の初代藩主、浅野長治が三勝寺をこの場所に移す時に贈られた。寺の山門とは造りが違うため、裏返しに立てられている。

    ※比熊山城(ひぐまやまじょう)は広島県三次市上里にあった城。比叡尾山城より拠点を移した三吉氏(鎌倉初期~関ヶ原の戦いの三次の領主)の居城。天正19(1591)年築城、慶長5(1600)年廃城。

    三勝寺を訪れたときは「裏返しに立てられていること」には気がつかなかった。

  • 写真は、このあと訪れた尾関山公園の駐車場入口から北を見ている。比熊山城跡のある山の南側が見えている。

    写真は、このあと訪れた尾関山公園の駐車場入口から北を見ている。比熊山城跡のある山の南側が見えている。

    比熊山 自然・景勝地

  • 比熊山城跡(城址)と江戸期の三次の町の中心部(西の江の川と東の西城川に挟まれた土地)の位置関係は上の地図の通り。<br /><br />戦国末期の三次は期間はごく短いが比熊山城の城下町であった。<br />比熊山城が廃城になった後、三吉氏に代わり三次の領主となった尾関正勝(福島正則の重臣)は積山城※を築いた。<br />※のちに尾関山城と呼ばれる。現在の尾関山公園のある一帯(上の地図の緑色)にあった。

    比熊山城跡(城址)と江戸期の三次の町の中心部(西の江の川と東の西城川に挟まれた土地)の位置関係は上の地図の通り。

    戦国末期の三次は期間はごく短いが比熊山城の城下町であった。
    比熊山城が廃城になった後、三吉氏に代わり三次の領主となった尾関正勝(福島正則の重臣)は積山城※を築いた。
    ※のちに尾関山城と呼ばれる。現在の尾関山公園のある一帯(上の地図の緑色)にあった。

  • (公園の駐車場入口に比熊山城跡について詳しい解説板が建っている。)<br /><br />福島正則が改易になり、代わりに浅野長晟が広島藩の初代藩主となった。その庶長子(側室の子)として生まれた浅野長治(あさのながはる)は父長晟の死後寛永9(1632)年に父の遺領のうち備後国三次郡と恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となった。長治は尾関山に下屋敷を構え、三次の町を総郭型の城下町として整備した。<br />今日、浅野長治は三次藩の基礎を築いた名君と評価されている。

    (公園の駐車場入口に比熊山城跡について詳しい解説板が建っている。)

    福島正則が改易になり、代わりに浅野長晟が広島藩の初代藩主となった。その庶長子(側室の子)として生まれた浅野長治(あさのながはる)は父長晟の死後寛永9(1632)年に父の遺領のうち備後国三次郡と恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となった。長治は尾関山に下屋敷を構え、三次の町を総郭型の城下町として整備した。
    今日、浅野長治は三次藩の基礎を築いた名君と評価されている。

  • (図を拡大したもの。城の構造がよく分かる。)<br /><br />浅野長治は居所として城下町に陣屋※を築いた。3枚前の地図の中の「三次社倉」と表示されている場所である。<br />※大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷。一国一城令により備後の国には三原城のみで三次に城を築くことは許されなかった。<br /><br />三次藩は長治以降は長照、長澄、長経と続いたが、享保4(1719)年4月に長経がわずか11歳で早世したため所領は広島藩に還付された。同年10月、長経の弟長寔が再び5万石を分与されて三次藩が再興されたが、翌5年にわずか8歳で没したため三次藩は再び廃藩となり広島藩領となった。<br /><br />長々と城と三次の領主について書いてきたが、この旅行記のタイトルを括弧付きの城下町とした理由がこれで明らかになるのではないだろうか。<br />数十年前初めて三次を訪れた時の私はこの町が城下町だと認識していなかった。それは半分正しく、半分誤りだったのである。

    (図を拡大したもの。城の構造がよく分かる。)

    浅野長治は居所として城下町に陣屋※を築いた。3枚前の地図の中の「三次社倉」と表示されている場所である。
    ※大名領(藩)の藩庁が置かれた屋敷。一国一城令により備後の国には三原城のみで三次に城を築くことは許されなかった。

    三次藩は長治以降は長照、長澄、長経と続いたが、享保4(1719)年4月に長経がわずか11歳で早世したため所領は広島藩に還付された。同年10月、長経の弟長寔が再び5万石を分与されて三次藩が再興されたが、翌5年にわずか8歳で没したため三次藩は再び廃藩となり広島藩領となった。

    長々と城と三次の領主について書いてきたが、この旅行記のタイトルを括弧付きの城下町とした理由がこれで明らかになるのではないだろうか。
    数十年前初めて三次を訪れた時の私はこの町が城下町だと認識していなかった。それは半分正しく、半分誤りだったのである。

  • 比熊山城が城として機能した期間はごくわずかだが、全山に遺構が残っているとのこと。

    比熊山城が城として機能した期間はごくわずかだが、全山に遺構が残っているとのこと。

  • やや古い城跡への案内図。「現在登山は困難です」とある。

    やや古い城跡への案内図。「現在登山は困難です」とある。

  • 時系列を戻す。写真は三勝寺の本堂。<br />市重要文化財・木造釈迦如来坐像が安置されているとのことだが非公開のようだ。

    時系列を戻す。写真は三勝寺の本堂。
    市重要文化財・木造釈迦如来坐像が安置されているとのことだが非公開のようだ。

  • 三勝寺の前から歴みち石畳通りを少し北へ行くと右手に大きな建物と煙突が見えて来る。

    三勝寺の前から歴みち石畳通りを少し北へ行くと右手に大きな建物と煙突が見えて来る。

  • 「万寿乃井」という銘柄の酒蔵跡である。<br />解説によると、私が前回三次を訪れたときにはまだ営業していた。しかし、この建物の前を訪れたりした記憶は皆無である。

    「万寿乃井」という銘柄の酒蔵跡である。
    解説によると、私が前回三次を訪れたときにはまだ営業していた。しかし、この建物の前を訪れたりした記憶は皆無である。

  • 酒蔵跡の前から北を見る。家々によく手が入れられている。

    酒蔵跡の前から北を見る。家々によく手が入れられている。

  • 石畳沿いの古い造りの家屋に防火のための「卯建(うだつ)」が多く設けられていることを解説する案内板。<br />建築スタイルへの興味の乏しい私は、迂闊にも卯建の写真を取り損ねてしまったとさ。<br /><br />関心ある方はネットに貼られている画像をどうぞ。

    石畳沿いの古い造りの家屋に防火のための「卯建(うだつ)」が多く設けられていることを解説する案内板。
    建築スタイルへの興味の乏しい私は、迂闊にも卯建の写真を取り損ねてしまったとさ。

    関心ある方はネットに貼られている画像をどうぞ。

  • 石畳通りの北端から少し北にある太歳神社(ださいじんじゃ)。比熊山城跡のある山の東の山裾に建つ。大同3(808)年の創建とのこと。<br />石段の上にある社に参拝する。この太歳神社は観光協会で貰った地図には「もののけスポット」と記されているが、具体的ないわれは分からない。

    石畳通りの北端から少し北にある太歳神社(ださいじんじゃ)。比熊山城跡のある山の東の山裾に建つ。大同3(808)年の創建とのこと。
    石段の上にある社に参拝する。この太歳神社は観光協会で貰った地図には「もののけスポット」と記されているが、具体的ないわれは分からない。

  • 石畳道を離れて尾関山公園を目指して西の方角へ。<br />もう一つのもののけスポット、臨済宗の西江寺(西江禅寺)を訪れる。

    石畳道を離れて尾関山公園を目指して西の方角へ。
    もう一つのもののけスポット、臨済宗の西江寺(西江禅寺)を訪れる。

  • 本堂の前へ行くが何の変哲もない寺である。

    本堂の前へ行くが何の変哲もない寺である。

  • 解説板によると、三吉広高(戦国末期に三次を領有した武将。居城を比叡尾山城から比熊山城に移した)と尾関正勝(福島正則の重臣。三次地方を領有して積山城《のちに尾関山城と呼ばれる》を築城)両名の墓が境内にあるとのこと。<br />しかし、私はもののけスポットの方に気を取られ両名の墓を探すことを失念した。残念。

    解説板によると、三吉広高(戦国末期に三次を領有した武将。居城を比叡尾山城から比熊山城に移した)と尾関正勝(福島正則の重臣。三次地方を領有して積山城《のちに尾関山城と呼ばれる》を築城)両名の墓が境内にあるとのこと。
    しかし、私はもののけスポットの方に気を取られ両名の墓を探すことを失念した。残念。

  • 境内の道路と同じ高さの場所に物怪展示館との看板を掲げた建物がある。残念ながら閉まっていて見学出来ない。

    境内の道路と同じ高さの場所に物怪展示館との看板を掲げた建物がある。残念ながら閉まっていて見学出来ない。

  • 少し先へ行くと日蓮宗の妙栄寺がある。

    少し先へ行くと日蓮宗の妙栄寺がある。

  • 浅野長治公によって建立された。

    浅野長治公によって建立された。

  • 妙栄寺の西に二つの寺院がある。<br />写真は真言宗の吉祥院。今から1200年以上前に創建された三次で一番の古刹である。<br />かつては大伽藍を誇っていたが度重なる戦禍で建物が焼失。現在も仮本堂の状態である。<br />

    妙栄寺の西に二つの寺院がある。
    写真は真言宗の吉祥院。今から1200年以上前に創建された三次で一番の古刹である。
    かつては大伽藍を誇っていたが度重なる戦禍で建物が焼失。現在も仮本堂の状態である。

  • 寺の裏山に朱塗りの土台に支えられた建物があるので行ってみる。

    寺の裏山に朱塗りの土台に支えられた建物があるので行ってみる。

  • 「大師堂」との銘が掲げられている。崖に向かって張り出した建物前の床が傷んでいて先端部は立入禁止。<br />その手前から三次の町を眺める。

    「大師堂」との銘が掲げられている。崖に向かって張り出した建物前の床が傷んでいて先端部は立入禁止。
    その手前から三次の町を眺める。

  • 大師堂へ行く途中。この寺の裏から比熊山の山頂へ登れるようである。

    大師堂へ行く途中。この寺の裏から比熊山の山頂へ登れるようである。

  • 臨済宗の鳳源寺。今日ここまで見てきた寺院の中で一番立派である。

    臨済宗の鳳源寺。今日ここまで見てきた寺院の中で一番立派である。

    鳳源寺 寺・神社・教会

  • 本堂。<br />鳳源寺は三次藩祖浅野長治公により先祖の菩提を弔うため寛永10(1633)年に創建された。

    本堂。
    鳳源寺は三次藩祖浅野長治公により先祖の菩提を弔うため寛永10(1633)年に創建された。

  • 境内に立つ案内板。<br />浅野氏は豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主。<br />三次の浅野家と赤穂浪士で有名な播磨の赤穂藩の浅野家はともに広島藩の浅野家を本家とし、両者の間に深い結びつきがあった。

    境内に立つ案内板。
    浅野氏は豊臣秀吉の正室・北政所の養家。宗家は安芸広島藩主。
    三次の浅野家と赤穂浪士で有名な播磨の赤穂藩の浅野家はともに広島藩の浅野家を本家とし、両者の間に深い結びつきがあった。

  • 境内に建てられている浅野長治公の像。<br />ちなみに長治公の墓所はこの寺の境内ではなく、北西の比熊山麓を少し登った場所にある。

    境内に建てられている浅野長治公の像。
    ちなみに長治公の墓所はこの寺の境内ではなく、北西の比熊山麓を少し登った場所にある。

  • 境内に赤穂浪士に関係するものがいくつか残る。<br />この像は浅野内匠頭長矩の正室・阿久利姫(1669~1714)。<br />阿久利姫は浅野長治の側室の息女で7歳まで三次で生活し14歳で長矩(16歳)に輿入れした。

    境内に赤穂浪士に関係するものがいくつか残る。
    この像は浅野内匠頭長矩の正室・阿久利姫(1669~1714)。
    阿久利姫は浅野長治の側室の息女で7歳まで三次で生活し14歳で長矩(16歳)に輿入れした。

  • 瑤泉院遺髪塔。<br /><br />阿久利姫は刃傷事件の後は落飾して寿昌院(のちに瑤泉院《ようぜんいん》)と称した。<br />45歳で没した後、その遺髪が郷里のこの寺に安置された。

    瑤泉院遺髪塔。

    阿久利姫は刃傷事件の後は落飾して寿昌院(のちに瑤泉院《ようぜんいん》)と称した。
    45歳で没した後、その遺髪が郷里のこの寺に安置された。

  • 大石内蔵助の手植えとされる枝垂桜。立派な古木である。

    大石内蔵助の手植えとされる枝垂桜。立派な古木である。

  • 尾関山公園へ。<br />この旅行記の前の方で紹介した比熊山城跡についての解説板の内容をじっくり検討し、城跡へ行くことは止めた。<br />前日に安芸高田市にある毛利氏の郡山城跡の山を長時間歩き回った疲れが足腰に残っているので、無理をしないことにする。

    尾関山公園へ。
    この旅行記の前の方で紹介した比熊山城跡についての解説板の内容をじっくり検討し、城跡へ行くことは止めた。
    前日に安芸高田市にある毛利氏の郡山城跡の山を長時間歩き回った疲れが足腰に残っているので、無理をしないことにする。

    尾関山公園 公園・植物園

  • 駐車場の端に建てられている阿久利姫の像。<br />鳳源寺境内のものとよく似ているが手の形が異なっている。

    駐車場の端に建てられている阿久利姫の像。
    鳳源寺境内のものとよく似ているが手の形が異なっている。

  • 尾関山公園の中心は小高い丘になっている。最高部へ行く途中で石垣の遺構のようなものを目にする。

    尾関山公園の中心は小高い丘になっている。最高部へ行く途中で石垣の遺構のようなものを目にする。

  • なだらかな坂道の途中に立つ「三次小唄歌碑」。<br />昭和初めの地方小唄ブーム(朝ドラ「エール」でも取り上げられた)の中、三次小唄は昭和5(1930)年に作られたとのこと。

    なだらかな坂道の途中に立つ「三次小唄歌碑」。
    昭和初めの地方小唄ブーム(朝ドラ「エール」でも取り上げられた)の中、三次小唄は昭和5(1930)年に作られたとのこと。

  • 見晴らしの良い場所から江の川に架かる旧三江(さんこう)線※の鉄橋が見えている。<br />※島根県江津市の江津駅から広島県三次市の三次駅までを結んでいた。2018(平成30)年3月31日をもって旅客営業を終了し、翌4月1日付で全線廃止となった。

    見晴らしの良い場所から江の川に架かる旧三江(さんこう)線※の鉄橋が見えている。
    ※島根県江津市の江津駅から広島県三次市の三次駅までを結んでいた。2018(平成30)年3月31日をもって旅客営業を終了し、翌4月1日付で全線廃止となった。

  • 旧三江線の路線図。<br />その昔三次を訪れた私は、一度はこの三江線に乗って三次から江津へ行ったことがある。

    旧三江線の路線図。
    その昔三次を訪れた私は、一度はこの三江線に乗って三次から江津へ行ったことがある。

  • 丘の上の展望台に上る。

    丘の上の展望台に上る。

  • 比熊山城跡のある山が正面に見える。山頂まで登るのはけっこう大変そうである。

    比熊山城跡のある山が正面に見える。山頂まで登るのはけっこう大変そうである。

  • 左手は三次市街。三江線の廃線跡を見渡せる。

    左手は三次市街。三江線の廃線跡を見渡せる。

  • 尾関山公園からイラスト地図に掲載されている旧尾関山駅へ向かう。<br />途中の道を跨いでいる廃線跡の低い土手を登れる箇所がある。写真は登って廃線跡の上から撮影した尾関山を貫通するトンネルの入口。<br />トンネルは山の中で西へカーブして尾関山を抜けて直ぐに江の川を渡る鉄橋(五つ前の写真)へ至る。

    尾関山公園からイラスト地図に掲載されている旧尾関山駅へ向かう。
    途中の道を跨いでいる廃線跡の低い土手を登れる箇所がある。写真は登って廃線跡の上から撮影した尾関山を貫通するトンネルの入口。
    トンネルは山の中で西へカーブして尾関山を抜けて直ぐに江の川を渡る鉄橋(五つ前の写真)へ至る。

  • 旧尾関山駅。駅舎の中には入れない。

    旧尾関山駅。駅舎の中には入れない。

    尾関山駅

  • 先ほど見たトンネル入口の方向。右上に比熊山が見える。

    先ほど見たトンネル入口の方向。右上に比熊山が見える。

  • 三次駅の方向。ホームも線路もまださほど傷んでいないようだ。

    三次駅の方向。ホームも線路もまださほど傷んでいないようだ。

  • 表紙の写真とほぼ同じ。ホームの端から市街地の方向を撮ったもの。

    表紙の写真とほぼ同じ。ホームの端から市街地の方向を撮ったもの。

  • 尾関山と江の川の間に遊歩道がある。自転車も通行出来る。

    尾関山と江の川の間に遊歩道がある。自転車も通行出来る。

  • 時間をかけて探したものの、どれがカブト岩なのか分からなかった。

    時間をかけて探したものの、どれがカブト岩なのか分からなかった。

  • さらに行くと観光地図にも記されているキリシタン灯籠がある。<br />同じものは過去に大分県中津市の寺院でも見たことがある。

    さらに行くと観光地図にも記されているキリシタン灯籠がある。
    同じものは過去に大分県中津市の寺院でも見たことがある。

  • 詳しい解説板。<br />ネット情報では<br />『織部灯籠とは、戦国武将で茶人でもあった古田織部(1544~1615)が創案した灯籠の形であるといわれている。<br />四角柱の竿石の上部が十字架様に張りだし、地面に直接埋め込んで建てるのが主な特徴で、竿石の形や彫像から、キリシタン灯籠とも呼ばれている。』

    詳しい解説板。
    ネット情報では
    『織部灯籠とは、戦国武将で茶人でもあった古田織部(1544~1615)が創案した灯籠の形であるといわれている。
    四角柱の竿石の上部が十字架様に張りだし、地面に直接埋め込んで建てるのが主な特徴で、竿石の形や彫像から、キリシタン灯籠とも呼ばれている。』

  • 廃線になった三江線の鉄橋。江の川を横断している。

    廃線になった三江線の鉄橋。江の川を横断している。

  • 少し下流からの眺め。

    少し下流からの眺め。

  • 三次で宿泊したホテルの部屋からも三江線の廃線跡を見ることができる。<br />上は広島と三次を結ぶ芸備線。その下に三江線の線路がまだ残されている。

    三次で宿泊したホテルの部屋からも三江線の廃線跡を見ることができる。
    上は広島と三次を結ぶ芸備線。その下に三江線の線路がまだ残されている。

  • 宿泊二日目に安芸高田市から戻るときに芸備線の列車から撮影した写真。<br />私の宿泊したホテルをバックに三江線の線路がはっきり見てとれる。<br /><br />今の私は鉄道マニアでも廃線マニアでもないが、旅先で鉄道の珍しい風景や思いがけず廃線跡に遭遇すると気持ちが高ぶる。

    宿泊二日目に安芸高田市から戻るときに芸備線の列車から撮影した写真。
    私の宿泊したホテルをバックに三江線の線路がはっきり見てとれる。

    今の私は鉄道マニアでも廃線マニアでもないが、旅先で鉄道の珍しい風景や思いがけず廃線跡に遭遇すると気持ちが高ぶる。

  • 自転車を走らせ、石畳道のある街の中心部へ戻る。<br />三次もののけミュージアムの前に出る。トイレを借りただけで見学はしなかった。

    自転車を走らせ、石畳道のある街の中心部へ戻る。
    三次もののけミュージアムの前に出る。トイレを借りただけで見学はしなかった。

    湯本豪一記念 日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム) 名所・史跡

  • 駐車場の隅になぜか蒸気機関車。ミュージアムがオープンする前から置かれていたのだろう。

    駐車場の隅になぜか蒸気機関車。ミュージアムがオープンする前から置かれていたのだろう。

  • 13時を過ぎていた。ランチは手頃な店がなく先延ばしにしていた。南側の石畳道に面したちょうど良い店を見つけた。

    13時を過ぎていた。ランチは手頃な店がなく先延ばしにしていた。南側の石畳道に面したちょうど良い店を見つけた。

  • 肉入りのうどん。ホッとする味である。

    肉入りのうどん。ホッとする味である。

  • しばらく進むと歴史を感じさせる建物が建っている。

    しばらく進むと歴史を感じさせる建物が建っている。

  • 現在は辻村寿三郎人形館となっている。<br />ここも見学することなくホテルへ戻ることにする。

    現在は辻村寿三郎人形館となっている。
    ここも見学することなくホテルへ戻ることにする。

  • 南側の石畳道の南端近くにある住吉神社。直前が馬洗川の土手である。<br />石畳道の南端も城下町の防御の工夫の一つとして西に曲がっている。<br />その場所を見たときは「道が変な具合に曲がっている」としか思わず写真も撮らなかった。少し悔やまれる。

    南側の石畳道の南端近くにある住吉神社。直前が馬洗川の土手である。
    石畳道の南端も城下町の防御の工夫の一つとして西に曲がっている。
    その場所を見たときは「道が変な具合に曲がっている」としか思わず写真も撮らなかった。少し悔やまれる。

  • 三次のシンボルとも言える巴橋(西城川と馬洗川が合流したすぐ下流に位置する)を渡る前にそのたもとから下流の方向を見ると、廃線となった三江線の鉄橋が見える。写真の右方向が旧尾関山駅である。<br /><br />この先大雨などによる川の増水で橋梁の破損がひどくなれば、鉄橋が撤去されることは間違いないであろう。

    三次のシンボルとも言える巴橋(西城川と馬洗川が合流したすぐ下流に位置する)を渡る前にそのたもとから下流の方向を見ると、廃線となった三江線の鉄橋が見える。写真の右方向が旧尾関山駅である。

    この先大雨などによる川の増水で橋梁の破損がひどくなれば、鉄橋が撤去されることは間違いないであろう。

  • 下流側から見た巴橋。前回の三次訪問時もこの橋の上から川を眺めたことはよく覚えている。

    下流側から見た巴橋。前回の三次訪問時もこの橋の上から川を眺めたことはよく覚えている。

  • 上流側。左が西城川、右が馬洗川である。

    上流側。左が西城川、右が馬洗川である。

  • ホテルに戻る途中、三江線の高架を見つけた。左が三次駅の方向である。<br /><br />自転車を使ったあてのない観光であったが、実に楽しい時間であった。<br />【了】

    ホテルに戻る途中、三江線の高架を見つけた。左が三次駅の方向である。

    自転車を使ったあてのない観光であったが、実に楽しい時間であった。
    【了】

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