2017/09/26 - 2017/10/03
191位(同エリア590件中)
ポポポさん
この旅行記スケジュールを元に
10月2日旅行最終日です.
ウルゲンチから空路タシケントに飛び、半日でタシケントを観光しました。
タシケントの一番の目的はヤッカサライにある日本人墓地(ファージーロフ・オタ)への墓参です。終戦後ソ連に抑留された60万人の日本人捕虜のうち25119人がウズベキスタンに抑留されました。そのうち9760人はタシケントへ移送され数年に渡り都市建設という強制労働に従事させられました。
主な労働場所はナヴォイ・オペラ劇場、電線工場、運河建設、住宅建設、道路・鉄道建設でした。
そのうちタシケントで亡くなった日本人のうち79名がここに埋葬されています。
ウズベキスタンに連行された25119人は13か所の収容所に分けられ過酷な労働を強いられました。道路、工場、運河、発電所、炭鉱、学校などの社会基盤の建設にあたりました。
厳しい気候条件、十分な食料を与えられない収容所生活、危険な仕事などの結果僅か2年の間に813名(2013年9月現在884名)もの日本人抑留者がウズベキスタンで命を落としました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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10月2日、旅行最終日です。
本日は早朝7時15分にウルゲンチのホテルを出発、ウルゲンチからタシケントまで飛行機で移動します。
タシケント市内のレストランで昼食、その後半日で市内観光をし当日夜タシケントを発つ予定なのでかなりハードな旅程でした。
写真は早朝のウルゲンチ市内の様子。 -
バスはウルゲンチ空港に向かっています。
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ウルゲンチ空港が見えてきました。
空港は写真撮影禁止なのでバスの車窓からパチリ。ヒヴァ観光の表玄関 by ポポポさんウルゲンチ国際空港 (UGC) 空港
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バスを降りて遠くから写したウルゲンチ空港。
空港敷地に入るところでまず保安検査場がありました。空港はフェンスで囲まれていて一般の人はこの中には入れません。そのため送迎はこのフェンスの所で行われています。
入口の所でスーツケースの保安検査があり、空港建物の中でさらに保安検査が2回、最後に手荷物検査があり何と4回も保安検査がありました。
最後の4回目が手荷物検査なので、4回目の検査までに液体物は処分すればよかったです。
担当官は無表情、というよりはブスっとした表情で態度は高圧的でした。全てにおいて時間がかかります。空港職員は特権階級のような態度でソ連時代の対応がまだ抜けきらないようでした。
これが2017年の対応の様子。今年は観光ビザも無くなり、職員の対応も高圧的な姿勢から物腰も柔らかく親切になったと4トラメンバーさんの旅行記に書いてありました。
ウズベキスタンの公務員は接遇改善の過渡期にあるようです。ヒヴァ観光の表玄関 by ポポポさんウルゲンチ国際空港 (UGC) 空港
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9時35分、ウルゲンチ空港を離陸。
ヒヴァ観光の表玄関 by ポポポさんウルゲンチ国際空港 (UGC) 空港
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眼下には整地された畑地と均一化された家屋の集落が見えます。
ソ連時代計画的に開発された農村のようです。 -
この辺りの畑地は広範囲に灌漑されていました。
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ウルゲンチ市街を抜けてしばらくすると大河が見えてきました。これがアムダリア川。
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アムダリア川を過ぎると眼下には一面の砂漠地帯が現れました。
キジルクム砂漠です。ひよっとしてカラが見えるんじゃないかと思い、目を皿のようにして見ましたがみつかりませんでした。キジルクム砂漠 砂漠・荒野
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ウルゲンチからタシケントまで飛行機で1時間半の旅、ここでサマルカンドと日本との関わりについて少し予備知識を入れておきましょう。
ウズベキスタンは親日国といわれています。何故遠く離れた歴史的関りの少ない中央アジアの国が何故親日なのでしょうか?
確かにナヴォイ・オペラ劇場建設に従事した日本人抑留者の働きぶりや態度がウズベク人に少なからず影響を与えたことは存じていましたがそれだけでは無さそうです。
旅行中ガイドさんから「何でもいいので質問あれば教えてほしい。」と言われました。
私が質問したのは「ウズベキスタンは親日国と言われますがどうして親日なのですか?ナヴォイ劇場にまつわる話以外であれば教えてほしい。」でした。
ガイドさんの回答は私が想像していたものとは全く違っていました。
日本人抑留者はナヴァイ劇場に限らず辺鄙な場所で水力発電所や運河などの建設に従事された方もいらっしゃいました。大変過酷な環境下で健康を維持することができず亡くなられた方もいらっしゃいます。
それでも日本人の誇りを失わず、最後まで与えられた任務を果たそうと頑張る姿はウズベク人の現場監督の涙をさそったそうです。このような話があるのかなと私なりに想像していましたが、ガイドさんの話は全く違っていました。
「我々ウズベク人がより親日になれたのは中山大使(中山恭子前ウズベキスタン特命全権大使、現参議院議員)がウズベキスタンに来られたからです。中山大使のお陰で様々な支援を日本から受けることができました。大臣はウズベキスタンに沢山の日本の桜を植えられました。お陰で桜の季節には毎年美しい花が咲きます。
我々ウズベク人は桜と伴にいつまでも中山大使のことは忘れません。中山大使はウズベキスタンの恩人です。ですから我々は日本人を大変尊敬しています。」
とのことでした。
中山大使がウズベキスタンの人々に灯した友好の灯りは今も燃え続けていました。
ガイドさんが話していた桜の話は「ウズベキスタンの桜」として有名な話です。
中山恭子元大使もご自身の著書「ウズベキスタンの桜」で経緯を詳しく書かれています。
野原のような殺風景な日本人墓地に立った時、お亡くなりになった方々の霊をお慰めするためにここに桜を植えたいと中山大臣は強く思われたそうです。
このくだりは日本人墓地の所で詳しく説明したいとおもいます。
.キジルクム砂漠 砂漠・荒野
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さてここ10年間、日本はウズベキスタンの経済援助国として1番の実績を誇って来ましたが最近陰りがみえはじめました。
中国の攻勢が活発化してきたのです。ウズベキスタンは内陸国なので製品や原材料の輸出入に際しては陸上輸送の方がはるかにコストが安く、しかも早く輸送できるというメリットがあります。
中国は習近平が提唱する「一帯一路」、現代のシルクロードと銘打って果敢に攻勢を仕掛けているようです。
現にウズベキスタン内の中国企業は日本企業に比べるとは遥かに多いのです。
日本企業にとってもコスト面でペイしないため深くは浸透していないようです。
ガイドさんの話でも、今後は経済面では中国、精神面・文化面では日本と結びつきを強くすると言っていました。
これが国家の基本方針だそうです。初代カリモフ大統領は独裁者と言われましたが大変な親日家でした。そのためカリモフ大統領の後大統領となったミルズィヤエフ氏が路線変更したのかもしれませんね。
いずれにしても又もや中国に仲間を奪われそうです。 -
写真はすでにタシケント上空です。空港まではあと少しの模様。
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高度が下がり始めました。
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タシケント空港に到着。
タシュケント国際空港 (TAS) 空港
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タシケント空港滑走路から見た様子。
タシュケント国際空港 (TAS) 空港
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タシケント空港です。
空港内の写真は一切撮れないので、先に飛行機から撮っておきました。タシュケント国際空港 (TAS) 空港
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空港の外から撮った空港ビルの様子。
ウルゲンチと同じくこの空港も保安検査がうるさかった。タシュケント国際空港 (TAS) 空港
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タシケントに到着したら、まずは腹ごしらえ。
市内のレストランで昼食を頂きました。レストランのじが読めない。何て書いてあるんだろうか?。右端には「KOREAN」レストランと書いてある。
ええーっ、朝鮮料理店?まさか。 -
店内の様子。朝鮮料理店ではなさそうです。
日程表にはカゾンケバフと書いてあったのでウズベキスタン料理店のはず。
我々の他に来店客はいない。今日は貸切ですよ。 -
店内の様子です。
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豆料理とブロッコリーの炒め物。ウズベキスタンで出される野菜料理はどれも美味しいのです。
不味いといった記憶がありません。この料理もGOODでした。 -
前菜はラグマン。ラグマンはスープの無いタイプもあるんですがどちらも美味しいです。
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メインはカゾンケバス。肉とジャガイモの炒め料理です。
見た目は今一でしたが味は確かでした。美味しい。
デザートはアイスクリームだったと記憶していますが写真はありません。 -
レストランは一階でしたが入り口の壁には「GAME CLUB」の看板もあるので、この建物は共同店舗になっているようでした。
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食事の後に訪れたのがヤッカサライの日本人墓地です。
日本人墓地はヤッカサライのムスリム公営墓地の一番奥の一画にあります。
写真は公営墓地の入口にあるモスク。墓地はモスクの左隅にある道を真っ直ぐ奥に進んで行くと突き当りにありました。
日本墓地に行く途中にはムスリムの方たちの墓が沢山あります。生前の写真の姿を刻んだ墓が多いのには驚きました。 -
ヤッカサライの日本人墓地です。この墓地を見た瞬間、「さぞかし辛く苦しかった事でしょう。日本が恋しかったことでしょう。」と、ここに眠る抑留者の方々に思いを馳せると目頭が熱くなりました。
墓地の敷地内に79基の墓石が整然と並べてありました。
現在この墓地はウズベキスタン人の墓守さんによって維持管理されています。
我々がこの墓地を訪れたときは墓守さんと2人の女性(中年の女性と若い女性)が墓の周辺の落ち葉を掃き清めていらっしゃいました。
この墓地に最初に日本人を埋葬したのは現在の墓守(ファジーロフさん)のお爺さんでした。ヤッカサライ墓地の裏手で鉄道敷設の強制労働に従事していた日本人が病気になり近くの病院に入院したものの亡くなったそうです。
その日本人を彼の祖父がここに埋葬して以来、ここに日本人が埋葬されるようになりました。お爺さんは以降この墓地を管理するようになったそうです。
その墓守をお父さんが引き継ぎ、そして今はファジーロフさんが引き継いでいるそうです。
この墓地にはナボイ劇場の建築に従事し建築途上で亡くなった永尾清さんと野村浅一も埋葬されています。
永尾清さんは高所作業中に落下して死亡、野村浅一さんは外出中に記者に轢かれて死亡したそうです。
日本人墓地の周囲に植えてあるのが日本から持ち込まれて植樹された「ウズベキスタンの桜」です。
中山恭子特命全権大使とご主人の中山成彬議員(当時日本・ウズベキスタン自民党友好議連事務局長)のご尽力によってここに植えられました。
「ウズベキスタンの桜」はウズベキスタン内の13か所の全ての日本人墓地に植樹されました。
中山恭子大使が日本人墓地に桜を植えたいと強く思われたのは、大使がベガバード市の日本人墓地を初めて訪れた時の事です。あまりにも殺風景な日本人墓地の景色を見た時だったと著書「ウズベキスタンの桜には書いてありました。
ここにその一部を引用させていただきます。
「墓地整備の話が少しずつ進んでいる最中でも、ベガバード市の墓地を初めて訪ねた時の寂しい光景を忘れることはありませんでした。
亡くなった当時、ほとんどが20代、30代の若者でした。何とかして日本に帰ろうと耐えていたことでしょう。日本を思って毎日を過ごしていたに違いありません。帰郷が叶わず50数年間訪ねる人もないまま、日本から遠く離れたウズベキスタンの地で眠っているのです。
周囲の墓地には木が大きく育ち墓を守っています。野原のような殺風景な日本人墓地に立った時、ここに桜を植えたいと強く思いました。
春になれば綺麗な花を咲かせてくれるだろう。何年か経てば太い枝が墓を覆ってくれるだろう。きっと異国の地に眠る霊達も喜んでくれるに違いない。自己満足にすぎないかもしれないが、桜の木を植えられないだろうかと考えました。」
また元抑留者から「必ず日本に帰ってもう一度桜を見よう!」と励まし合って劣悪な環境で働いたことを聞いておられ、見果てぬ故郷を思い帰国を果たせなかった抑留者のために果たせなかった夢をかなえたいと思われたのです。
そして日本人墓地に桜を植える活動が始まりました。
折しもタシケント市長から「建設中のタシケント市の中央公園(現在さくら公園と呼ばれているそうです。)を日本の桜で埋められないだろうか」との提案があり一挙に植樹の規模が拡大しました。
結局27種類、1300本の桜と、梅と桃が100本、合計1400本の苗木が植えられました。
この大規模な桜の植樹はウズベキスタンの国家事業となり、多くの日本人の専門家やJICAやボランティアの在留邦人方々とウズベキスタン全国の人々に支えられて成し遂げられました。土壌や気候が違うウズベキスタンに植樹する作業は大変なご苦労がありましたが、そのあたりは中山大使の著書「ウズベキスタンの桜」に詳しく
書かれていますので興味のある人は著書を読んでみてください。
なお余談ですがウズベキスタンではこれらの桜の木を守るために桜守を置いているそうです。感動と感謝の場所。 by ポポポさん日本人墓地 モニュメント・記念碑
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この方が現在の墓守をなさっているファジーロフさんです。お父様はミラキル・ファジーロフさん、50年以上も前から日本人墓地の墓守を続けてこられた功績によりカリモフ大統領からヤッカサライ日本人墓地を「ファジーロフ・オタ」日本人墓地と命名された方です。
29年11月秋の叙勲では日本人抑留者の歴史的保存と日本人墓地の保全に寄与したことにより政府から旭日単光章が送られました。
日本人墓地の墓守を三代続けてこられ、現在は写真のお孫さんがされているそうです。
有難くて感謝の言葉もありませんでした。 -
ウズベキスタンには13カ所の日本人墓地があります。当時は全てがこのように整備された墓地では無く大多数が原野のような荒れ果てた場所でした。
1955年ソ連政府から1共和国につき日本人墓地は2か所と決められ、それ以外は潰して更地にするようにとの指令がモスクワから出されました。
これはソ連が捕虜使役でナボイ劇場や各発電所が造られインフラ整備がなされたことを隠蔽するためでした。
ウズベキスタンではその指令の下コーカンドとカガンの2か所が日本人墓地として整備され墓守を置いて大事に守ってくれました。さらにウズベキスタンの人々はその他の墓地ではソ連の指令を無視して「ここは日本人が眠っているのだから」と、墓は建てられないものの盛り土状態の墓の所在がわかるように草刈りなどをして墓地を守ってくれました。
独立後の2000年に中山大臣が訪れたベカバードの日本人墓地は原野の中に盛り土があり、これが墓だとやっと分かる程度の状況だったそうです。頭の辺りには葉書代の大きさの鉄板が刺してありそこには記号と6桁の数字が彫ってあったそうですが、ヤッカサライ墓地の墓にも名前は彫られていません。いくつかの墓に記号と番号が小さく彫られてあるのみでした。そのためどなたの墓なのかは分かりません。
中山大使は日本人墓地の現状を見て夫の中山成彬氏と相談、墓地を整備することを決意されました。2001年中山成彬衆議院議員が中心となって「日本人墓地整備と鎮魂の碑建設発起人の会」が設立され日本全国で募金活動が始まりました。
すでに墓地整備の経験がある福島県ウズベキスタン文化経済交流協会やウズベキスタン大使館員、元抑留者の方々などの協力をいただき、募金も2千万円集まって墓地整備の目途が付いたところで中山恭子大使がウズベキスタン政府に日本人墓地の整備をしたいとお願いされました。するとスタルノフ首相(当時)からすぐに答えが返ってきたそうです。
「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任をもって行う。これまで出来ていなかったことは大変恥ずかしい。早速整備作業に取り掛かります。」
その言葉通り対外経済関係者が中心となって墓地整備の作業が始まりました。道路の敷設や階段の設置、それぞれの住民の方が集まり石の切り出しや磨き、砂利敷きや垣根作りなど丁寧な作業が行われウズベキスタンの人々の善意により全ての日本人墓地の整備が完了しました。
中山大使は整備に必要な費用は全て負担するつもりいたそうですが経費のことを話そうとしてもウズベキスタン政府には全く受け付けて貰えなかったそうです。
(「ウズベキスタンの桜」から引用)
こうして2002年5月、ウズベキスタンの全ての日本人墓地が整備され墓参ができるようになりました。
なお墓地整備には日本全国から2千万円の善意が寄せられましたが、墓地整備にかかる費用はウズベキスタン側が受け取らないので、13カ所の日本人墓地がある地域の学校に日本製のコンピューターが教育機材として寄付されました。
その他は鎮魂の碑や抑留者記念碑、そしてウズベキスタンで植樹された桜の苗木などに使われたそうです。感動と感謝の場所。 by ポポポさん日本人墓地 モニュメント・記念碑
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この様にしてすべての日本人墓地が整備されたのですが、ヤッカサライ日本人墓地はそれ以前に日ソ親善協会福島県支部によって1973年から墓地整備と慰霊碑建立事業が開始され1990年5月に「永遠の平和と友好不戦の誓い」の碑が設置されました。
この碑文に刻まれた「不戦」という文字は当時のソ連から反対され簡単には合意に至らなかったそうです。なぜならこの時期ソ連はウズベキスタンと隣接するアフガニスタンと緊張状態にあったからです。
独立後の1995年には5年前に整備されたヤッカサライ墓地内が再訪した福島県ウズベキスタン文化経済交流協会の手によって再整備されました。13墓地名と埋葬者を刻んだモニュメントが建立され、国内13カ所の墓地の土が持ち寄られて日本人合同の鎮魂碑が建てられました。
そのためこの墓地ではウズベキスタン国内の全ての墓地を想起することができるようになりました。
この時設置されたのが写真の「永遠の平和と友好の誓いの碑」です。1995年10月福島県ウズベキスタン文化経済交流協会(元日ソ親善協会福島県支部)の手によって立てられました。碑の大理石が光って文字が読み難いのですが次のように書かれています。
「第2次世界大戦終結50周年を記念しウズベキスタン共和国内日本人墓地の鎮魂の碑を日本とウズベキスタンの協力により建立する 1995年10月1日」
また、前年の1994年にはアングレンの日本人墓地が福島県ウズベキスタン文化経済交流協会によって整備されています。感動と感謝の場所。 by ポポポさん日本人墓地 モニュメント・記念碑
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各地の日本人墓地鎮魂碑。
タシケント 埋葬者ヤッカサライ墓地79名、タシケント地区墓地8名感動と感謝の場所。 by ポポポさん日本人墓地 モニュメント・記念碑
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アングレン 埋葬者133名。
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フェルガナ 埋葬者2名
ガイドさんの話ではここは辺鄙な場所で水力発電所が建設されたそうです。この様に辺鄙な場所の発電所や灌漑施設、ため池工事などで亡くなられた方が多いのだそうです。
タシケントのような都会ならまだしも、過酷な自然環境で食糧も十分ではなかったそうです。「過酷に働かされた工事でも決して手抜きをせず真面目に仕上げてしまう日本人。昨日は具合が悪そうだったけど笑顔を向けてくれた日本人が今日は来ていない。どうしたのかと聞くと栄養失調で昨夜亡くなったと言う。それほどまでに過酷な状況にあってもきちんと仕事をしてくれた日本人。だから今でもウズベキスタンの母たちは子供に日本人のようになりなさいと教えている。」水力発電所建設現場で一緒に日本人と働いたウズベク人の元現場監督が涙ながらに語ったとして伝えられている話です。当時の現場では大変なご苦労があったことでしょう。 -
ボスタンディクスキー 埋葬者13名
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ベガワート 埋葬者146名
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チュアマ 埋葬者32名
日本人墓地は13カ所あるのでまだまだ鎮魂碑はあるのですが、写真は一部の鎮魂碑しか撮りませんでした。 -
そしてこれが13カ所の日本人墓地の土が持ち寄られて作られた日本人合同の鎮魂碑です。
これらの鎮魂碑は全て福島県ウズベキスタン文化経済交流教会の支援により整備され建てらました。
ウズベキスタンにある日本人墓地の整備の動きが始まったのは2000年に山中大使がベガバードの日本人墓地を視察して以降です。
それまで日本政府は日本人墓地については一切関知していません。結局民間主導による墓地整備と鎮魂碑の建立となったのは何故でしょうか。
当時は冷戦時代。日ソの政府機関がこれらの問題に消極的でした。シベリア抑留問題を掘り起こすと日ソ双方に重い責任が生じるため、戦後一貫してタブー視しこの問題を避けてきたと考えられています。こうした国家同士の厚い壁に阻まれて日本側には全抑留者や死亡者の名簿が無い上に、遺骨の対日送還は実現せず墓参も限られた地域しか認められませんでした。
ではなぜ日ソ親善協会福島県支部が墓地整備と鎮魂の碑建立の中核となりえたのでしょうか?
これは中山恭子大使の著書「ウズベキスタンの桜」に書かれていましたので紹介しておきます。
福島県ウズベキスタン文化経済交流協会(旧日ソ親善協会福島県支部)は会長の伊藤司氏が福島医科大学の学長をされていた頃、ウズベキスタンから親善大使として福島県を訪問したアサドフ・ダミン、ウズベキスタン保健省副大臣(当時)から医療交流の要請を受け、タシケント市から医師の研修受け入れを行ったことがきっかけで設立された団体です。
交流は1979年に始まり、1983年には「交流に関する議定書」を締結し親善使節の相互交換、留学生の受け入れ、医療関係者の交流などを行うとともに、ウズベキスタンにある日本人墓地埋葬者の遺族調査や墓参を続けてきたそうです。
1983年交流協会の訪問団がタシケントに訪問した際に市内のヤッカサライに日本人墓地があることが判明。墓地を訪れると、墓地は荒廃し誰が埋葬されているのか全く分からない状態だったそうです。
帰国後にタシケントとアングレンにある埋葬者名簿を入手し、タシケントの日本人墓地に慰霊碑を建立することを決意しました。ウズベキスタン対外友好文化交流団体連合会に鎮魂の碑建立の協力を要請し承諾を得ると墓地整備と慰霊碑建立事業が開始されました。
両国の協力者と信頼関係を深めながら伴に障害を乗り越え1990年5月に慰霊碑の除幕式が行われました。
この間ソ連大使館に協力を打診するも拒否され、日本の厚生省に働きかけを行ったが全く興味を示してもらえず、資金調達など自分たちの団体のみで事業を実施しなければならず大変なご苦労があったそうです。
整備されたヤッカサライ墓地を見るとウズベキスタンの日本人墓地整備の先駆けとなられた福島県ウズベキスタン文化経済交流協会の方々の熱意と行動力には頭が下がりました。感動と感謝の場所。 by ポポポさん日本人墓地 モニュメント・記念碑
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1995年5月23日日ソ親善教会福島県支部が建てた「永遠の平和と友好 不戦の誓いの碑」です。この碑の裏側にはここに埋葬されている79名の氏名と出身地が刻まれています。79名の方の出身地は日本のはぼ全県に渡っていました。
鎮魂の碑の文字も裏側の埋葬者のお名前も劣化のため文字が薄くなり判別しにくくなっていました。
裏側の埋葬者のお名前は個人情報でもあるので写真に撮るのは止めました。
さて我々は「鎮魂の碑」に花を手向け、順番に一人一人が線香をお供えして合掌礼拝いたしました。
ある方は日本から持参した日本酒を差し上げていらっしゃいました。
写真は「鎮魂の碑」に献花し、合掌礼拝しているツアーの皆さんです。
一度に何人も線香はお供えできないので順番を待つ方は埋葬者の氏名を確認したり、墓地の周囲を回られたりしていました。感動と感謝の場所。 by ポポポさん日本人墓地 モニュメント・記念碑
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ツアーの方の礼拝が続いています。
「永遠の平和と友好 不戦の誓いの碑」は日本の方角に向かって合掌しているように作られているそうです。 -
ツアーメンバー全員で合掌礼拝が終わる頃、メンバーの女性から般若心経を皆で読誦したいとの申し出がありました。
反対する者は一人もいません。今回のメンバーは老人クラブのような年齢の方ばかりです。ですから参加者の内多くの方は般若心経は諳んじておられました。
かく言う私もその一人です。最近は般若心経を読経する機会も少なくなったのでいささか忘れかけた部分もありましたが、大丈夫でした。
皆さんと声を揃えて読経を始めると自然と口から経文がよどみなく出てきました。 -
こうして般若心経を2巻を皆で声高らかに読経させていただくことができました。
不本意にも異国の地に抑留され、帰国の希望が叶わぬままお亡くなりになられた79名の皆様。望郷の念止み難く、願いが叶わぬまま異国の土となられても、皆様の日々の規律正しく勤勉で律儀な生活態度がウズベキスタンの人々に深い感銘を与え、今日の日本に対する信頼形成にどれほど貢献されたことでしょうか。
皆様に心から敬意を表し、感謝したいと思います。-合掌ー感動と感謝の場所。 by ポポポさん日本人墓地 モニュメント・記念碑
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ツアーに参加され日本人墓地を訪れた皆さんは一人一人墓守のファジーロフさんに「ありがとうございました。これからもここに眠る皆さんのこと、よろしくお願いします。」と声を掛けて立ち去っていかれました。
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公営墓地入り口のモスク周辺の様子。
この後実際はウズベキスタン工芸博物館を観光したのですが、日本人墓地と関連があるナボイ・オペラ・バレエ劇場を先に紹介しまう。
バスに乗車ししばらくするとナボイ劇場に到着しました。 -
ナボイ・オペラ・バレエ劇場です。正式名称は「アリシェル・ナボイ劇場」、客席1400を有する3階建てのビザンチン風建築のオペラ劇場です。
ソ連時代にはモスクワ・レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)・キエフのオペラハウスと併せて4大劇場の一つでした。
この劇場を僅か2年で完成させるようソ連から命令され、日本人捕虜457名が劇場建築の強制労働に従事させられました。
そして1947年9月に劇場は完成。10月に内覧会が行われ、同年11月アリシェル・ナボイ生誕500年を記念して初公開されました。
さて月日は流れて1966年4月26日、タシュケントをマグニチュード5.0の直下型地震が襲いました。町の3分の2に及ぶ78000棟の建物が倒壊しタシケントは瓦礫の町と化しましたが、ナボイ劇場は何一つ壊れることなく凛として悠然と立ち続けていました。
劇場は人々の避難所となりましたが、大地震に倒れなかったナボイ劇場の話は瞬く間に中央アジアを駆け巡り「日本人は優秀で真面目だ。日本人が建てたから倒れなかった。」という日本人伝説ができあがりました。
これは事実ですが劇場建設の過程で創られた話だと主張する人もいます。
近年放映されたテレビ番組ではこの伝説をさらに脚色していたので、出来るだけ事実に沿って紹介したいと思います。
まず劇場の名前についてですが、アリシェル・ナボイは人名です。
ティムール帝国時代の政治家で文学者、チャガタイ・トルコ語による多くの詩を創作し、ウズベク文学の祖と呼ばれている人です。
現在ウズベキスタン各地にナボイの名を冠する記念碑や公園が作られていますが、ナボイ劇場はこの名を冠した劇場なのです。日本人の誇り by ポポポさんナヴォイ オペラ バレエ劇場 劇場・ホール・ショー
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第二次世界大戦敗戦直後の1945年秋から2年間に渡って捕虜としてナボイ劇場の建設に携わったのは永田行夫(当時24歳)陸軍技術大尉率いる475名のタシケント第四ラーゲリー(収容所)隊でした。
永田隊は満洲に派遣されていた陸軍航空部隊の整備・修理部隊で当初は240名がタシケントに派遣されてきました。その後工事に適した工兵を主に選抜された増援部隊と、日大工学部建築科の夜学を卒業し関東軍経理部工務課に勤務していた若松律衛少尉(21歳)が工事全般の日本側総監督として派遣され総員475名になりました。
テレビでは建築の経験の無い航空整備士457名が苦労して建てた劇場と放映していましたが、実際は建築経験のある工兵と整備兵が建てた劇場でした。
ソ連側も2年の工期に間に合うように、工兵など建築に適した捕虜を選抜して増援部隊として送り込んできたのです。
実際増援部隊が派遣され、若松少尉が総監督になってからは、作業効率が格段に上がったそうです。
さて、ナボイ劇場はアレクセイ・シュチューセフが設計し、1917年11月の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていました。しかし、第二次世界大戦が始まったため土台(基礎)や一部の柱と壁が造られた状態で工事が中断してしまいました。
ソ連は革命30周年の1947年11月まで、僅か2年の工期でこの劇場を建築するよう命令したのでした。
永田隊長は「全員が健康で無事に日本に帰国し家族と再会すること」を目標として掲げました。
さらにナボイ劇場建設についても心構えとしては
○ソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけても最良のものを造りたい。
○後の世に笑われるような建築物にはしたくない。さすが日本人達の建設したものは出来が違うと言われる物にしたい。
でした。
しかし現地のウズベク人からは「ナチスと同じ鬼畜だ」と罵られ罵声をあびせられました。
唯一の楽しみの食事は黒パンなどの粗末な物ばかりで食べ盛りの若者には到底足りる量ではありません。さらにノルマが達成できない者は食事の量が減らされました。
永田隊長は全員が協力し気持ちを一つにしてほしいとお互いを思いやる和の心を訴え全員の食事の量を平等に配分するようソ連側に認めさせました。
強制労働させられている身分にもかかわらず、真剣に責任感を持って仕事に取り組む日本人にやがて現地のウズベク人は好意と尊敬の念を持ち始めます。
そしてウズベク人たちは食事を差し入れてくれるようになりました。ここであるエピソードを紹介します。テレビでもこのエピソードは放映されました。
ウズベキスタン中央銀行副頭取のアブドマナポフ氏は子供の頃日本人が働く姿を見たことがあるそうです。子供心にいつも疲れて帰って来る日本人抑留者を見て同情した氏は友人と一緒に何度となく収容所の庭先に自家製のナンや果物を差し入れに行きました。
すると数日後に必ず同じ場所にある物が置かれていたそうです。それは精巧に作られた手作りの玩具でした。
強制労働で疲れ切った抑留者という身分であったにもかかわらず、受けた恩に精一杯の謝意を表明しようとした日本人抑留者の行為は道徳的規範としてウズベク人の間で語り継がれるようになったそうです。
劇場の完成が間近に迫ったある日、永尾清さんが高所作業中に落下。即死でした。遺体は即座にソ連兵によって撤去されました。捕虜が強制労働の末に死亡したことは表沙汰にできない事だったのです。
ところが翌朝、そこには永尾さんの死を悼み花を手向けるウズベクの人々の姿がありました。
ウズベクの人は親から「日本人は規律正しい人だ。勤勉で物を作ることがとても上手な人だ。そしてお返しを忘れない律儀な人々だ。あなたも日本人のようになりなさい。」といって育てられるのだそうです。
我々のガイドさんも母親からそのように言われて育てられたと言っていました。 -
過酷な抑留生活のなか黙々と与えられた劇場建設という務めを果たし、1947年10月に劇場が完成しました。劇場建設に携わった生き残り抑留者の岩佐壮平(昨年92歳)さんは番組の中で地獄だったと証言されています。過酷な労働と食糧事情、栄養不良や差別などは正に生き地獄だったそうです。
抑留者のテレビ放映では日本人のみでこの劇場を建てたかのように描かれていましたが、実際はウズベク人も日本人抑留者と伴に建設に従事していました。劇場完成後2~3年の内に455名が無事日本に帰国しましたが、後に作られた劇場建設の記録映画には日本人捕虜の姿は一切描かれていませんでした。
あくまでもソ連は日本人捕虜を強制労働させ劇場を造らせた事を隠蔽したのでした。日本人の誇り by ポポポさんナヴォイ オペラ バレエ劇場 劇場・ホール・ショー
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劇場の前には噴水が造られています。そして劇場の周りにはウズベキスタンの桜が・・・、あるはずですが見た範囲では確認できませんでした。
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この繊細な彫刻は日本人が作りました。
日本人の誇り by ポポポさんナヴォイ オペラ バレエ劇場 劇場・ホール・ショー
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この綺麗な天井の装飾も日本人抑留者が造ったものです。いや、ウズベク人と協力して造られたのかもしれません。
日本人の誇り by ポポポさんナヴォイ オペラ バレエ劇場 劇場・ホール・ショー
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ナボイ劇場の左側壁の様子です。
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アーチ式の回廊が美しい。
日本人の誇り by ポポポさんナヴォイ オペラ バレエ劇場 劇場・ホール・ショー
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劇場左側の壁にはロシア語、ウズベク語、英語、日本語でかかれたプレートが掲げてありました。
このプレートは1996年、ウズベキスタンの初代大統領であるカリモフ大統領がナボイ・オペラ劇場の建設に携わった日本人を称えるために設置したものです。日本人の誇り by ポポポさんナヴォイ オペラ バレエ劇場 劇場・ホール・ショー
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プレートには「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と記されています。
以前ここに掲げられたプレートはロシア語とウズベク語、そして英語で「日本人捕虜が建てたものである」と記されていました。
これを見た独立後のカリモフ大統領は「ウズベキスタンは日本と戦争をしたことがないし、日本人を捕虜にしたこともない」と指摘し、「捕虜」という言葉はふさわしくないと1996年に新たなプレートに作り替えられました。
カリモフ初代大統領は1966年4月26日、タシケントを地震が襲い市内の建物の2/3が崩壊しましたが日本人捕虜が建設したナボイ劇場は被害を受けず避難所としてウズベク人を救ったことを覚えておられ、日本人を恩人として評価されていたのです。
カリモフ初代大統領は独裁者と言われていましたが、実は親日家でした。それにはこんなエピソードが残されています。
1997年麻生太郎大臣が経済企画庁長官時代にウズベキスタンを訪問した際にカリモフ大統領と面談されました。その時大統領から次のような話がありました。
「私は幼い頃、毎週母親に日本人捕虜収容所に連れて行かれました。私には勤勉に働く日本人抑留者の姿が目に焼き付いており母親からは、日本人の兵隊はロシアの監視がなくても誰に見られていなくても働く。お前も大人になったら他人から見られていなくても勤勉に働くような人間になりなさい、と躾けられました。母親の言いつけを守ってきたお陰で大統領になることができたんです。」というエピソードを話されました。
だからこそ「日本人の兵隊はウズベキスタンの恩人だ。プレートに捕虜と書いてはならない。」と命令されたのでした。日本人の誇り by ポポポさんナヴォイ オペラ バレエ劇場 劇場・ホール・ショー
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この劇場が大地震にも耐え、日本人の確かな建築技術が証明されたのです。
日本人伝説やテレビ放映では日本人が手掛けたナボイ劇場のみが倒れなかったように取り扱われていますが、タシケントには他に日本人が手掛けた学校やアパートなどの建物があり、これらの建物も崩れませんでした。
そのため正しくはこれらの建物も含めて「日本人の建築技術は高い、日本の建物は堅固だ」との日本人伝説であるべきだと思います。 -
一方ナボイ劇場に起因する日本人伝説は脚色されたもので正しくないと反論する意見があります。
サマルカンド国立大学で教授を務めた胡口靖夫氏は、ナボイ劇場の建築に従事した日本人の「私らが昭和20年11月上旬頃に着いた時にはもう建物はほとんどでけていました。これは間違いありません。」という証言などから「日本人捕虜が建築に参加した時には、基礎はもちろん建物本体はほとんどできていた。日本人捕虜が行った作業の中心は左官・彫刻・寄木造りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の仕上げであったと結論づけており、「勤勉に働いた日本人が基礎からレンガを積み上げて建築した」とされるのは間違いだと批判しています。
また、大地震に劇場が絶えたのはアレクセイ・シュチューセフの設計が優れていたためで、何も日本人が律儀に勤勉に働いたからでは無いとする意見もあります。
胡口氏の主張は実際建設に携わった多くの抑留者の方や工事に参加したウズベク人や工事を見物していたウズベク人達の話とは異なっています。
またウズベキスタン政府の見解とも違います。
永田部隊が現地に到着した時点ではナボイ劇場は土台(基礎)が出来上がった状態で柱も壁もまだ一部しかできていませんでした。これが工事に携わった多くの方の見解です。
つまり劇場の躯体工事は完成しておらず天井も屋根もできていません。その状態から引き継いで作り上げた訳ですから、日本人が建てた劇場だと言っても何の不思議もありません。
胡口氏が主張する「建物はほとんどできていた」とは大きく食い違っています。
私なりに調べた結果では胡口氏の認識は誤りだと思います。
またいくら設計が優れていても手抜き工事をしていれば劇場は地震で崩れていたでしょう。設計が良かったから劇場が崩れなかったという説は論外だと思います。 -
今回のウズベキスタンの旅は、なぜウズベクの人が親日なのかその訳を知りたい旅でもありました。
旅行前に予め調べていたこと、そして現地で感じたこと、帰国後さらに調べた結果ウズベキスタンが何故親日になったのか、およそのところが分りました。
ウズベキスタンではかつての抑留者の方の一人一人の振る舞いがウズベクの人々に深い感銘を与え日本人というイメージが作られたのでしょう。
敗戦後この地で厳しい環境の中、強制労働に従事された日本人の方々が日々の生活を通じてウズベクの人々に影響を与え残した貴重なものが、今日の日本とウズベキスタンの信頼形成に大きく貢献しているといえるでしょう。
苦しい抑留生活のなかでも規律正しく、和を大切にやさしさを失わなかった日本人抑留者の方々に心から敬意を表し感謝したいとおもいます。
ウズベキスタン最後の観光は感動と感謝の時間でした。(実際の観光ではナボイ劇場が最後の観光地でした。)
最後日にタシケントの日本人墓地とナボイ劇場を回りましたが、本当に感動と感謝しかありませんでした。
これで今回の旅行記を終わります。次回はタシケント市内観光です。日本人の誇り by ポポポさんナヴォイ オペラ バレエ劇場 劇場・ホール・ショー
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この旅行記へのコメント (2)
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- スーポンドイツさん 2018/09/07 14:50:34
- 墓参
- 読み応えのある深い内容の旅行記に感動しました。
ワルシャワの時ように、またおひとりで墓参されたのかと思いましたが、まさか団体ツアーに含まれていたとは!お花はどこかで調達なさったのですね。慰霊とファジーロフさんへの感謝は伝わったことと思います。
1971年にソ連旅行をした時、シベリアへ墓参に行くという団体と途中まで一緒でした。柳行李を背負った寡婦とお話しし、胸が詰まった記憶があります。あれから40年以上経って直接関わりのある方は少なくなったはずですが、今回のツアーの皆さんの行動に日本人としてお礼を申し上げたくなりました。
涙もろくて感激型のポポポさんならではの、いい旅行記を有難うございました。
- ポポポさん からの返信 2018/09/08 11:30:11
- RE: 墓参
- 今日は、スーポンドイツ様。「いいね」の投票をいただき有難うございました。
時間がかかりましたがようやくウズベキスタンの旅行記が完了しました。
> 読み応えのある深い内容の旅行記に感動しました。
有難うございます。お褒めの言葉をいただき嬉しいです。タシケントの日本人墓地墓参とナボイ劇場は大変感動しました。その感動がお読みいただいた方々に伝わるようにと思いながら書き進めてきましたので、本当に嬉しいです。
そのためくどくて読み難い部分もあったのではないか思いますがご容赦ください。帰国後にかなり調べた所もあり、山中恭子さんの「ウズベキスタンの桜」もあれから読みました。
ウズベキスタンに桜らが植えられた理由や、桜が植えられる過程のことも詳しく分かり大変参考になりました。
> ワルシャワの時ように、またおひとりで墓参されたのかと思いましたが、まさか団体ツアーに含まれていたとは!お花はどこかで調達なさったのですね。慰霊とファジーロフさんへの感謝は伝わったことと思います。
日本人墓地観光は旅程に入っていました。阪急に限らず今はどの旅行会社のツアーでも入っているようです。
ただ、観光と捉えるのか墓参と捉えるのかは参加された方々の受け取り方だと思います。でもあの場所に立てば何方も墓参の気持ちになられると思います。
献花の花は添乗員さんや参加者の皆さんが個々に準備されました。我々は1号車のバスでしたが、墓地を去るときに2号車の皆さんとすれ違いました。2号車の皆さんも花を準備されていましたし3号車もたぶん花を手向ける方がいらっしゃるでしょうから、あの日日本人墓地は沢山の花で埋まったと思います。
> 1971年にソ連旅行をした時、シベリアへ墓参に行くという団体と途中まで一緒でした。柳行李を背負った寡婦とお話しし、胸が詰まった記憶があります。あれから40年以上経って直接関わりのある方は少なくなったはずですが、今回のツアーの皆さんの行動に日本人としてお礼を申し上げたくなりました。
線香と蝋燭はあるご婦人が持参されました。そのご婦人は一人参加だったので親しくさせていただきましたが、「墓参の時に般若心経をあげたいんだけどいいだろうか?」と相談を受けました。「それはいいことです。是非読経しましょう。我々が読経し始めたらご存知の方は唱和して下さるはずです。」と勧め、その場にいらした方々にも唱和してくださいとお願いしました。
ご高齢の方が多いツアーだったので多くの方が般若心経は諳んじていらっしゃいました。
般若心経の唱和の声は日本人墓地に眠る抑留者の方々の御霊に届いたとことでしょう。
> 涙もろくて感激型のポポポさんならではの、いい旅行記を有難うございました。
いつも拙い旅行記で恐縮しています。今後ともよろしくお願いいたします。
ポポポ
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