昭和高等女学校跡
名所・史跡
3.29
昭和高等女学校跡 クチコミ・アクセス・周辺情報
ピックアップ クチコミ
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満足度の高いクチコミ
女子実業教育を目的として設立された私立の高等女学校である。
5.0
- 旅行時期 2023/06
- by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
那覇市崇元寺町(現泊町)に山梨県出身の八巻太一によって設立された私立沖縄昭和高等女学校は、女子の実業教育を目的として昭和5... 続きを読む(1930)年に開学した。英文・和文のタイプライターや簿記、珠算の能力を手にした卒業生の評価は高く、ソテツ地獄と呼ばれた大恐慌の時代に於いても満鉄や後の実業家を輩出し、当時5割に満たなかった沖縄の中等学校進学率を憂い、とりわけ女子の進学や卒業後の社会に融通の効く教育の場を設けることを念頭に掲げて開学に至ったことは碑文にも書かれていることだ。 そんな学び舎にも戦争の波が押し寄せて来ることとなる。太平洋戦争が泥沼化する中で、沖縄戦が避けられないものとなる中で校舎は弾薬庫として接収され、隣接する崇元寺境内に仮校舎を構えるものの、学生は陣地構築等に動員され勉強どころではなくなってしまう。加えて十・十空襲後は軍医による看護教育を受けることとなり、沖縄戦開戦直前の昭和20(1945)年3月には4年生17名が第62師団野戦病院壕(ナゲーラ壕)に配属されることとなる。他の学徒隊同様前線から運ばれてくる多くの重傷を負った兵士達の世話を休む間もなく続けて行くが、負傷兵の数が増え過ぎて病院壕のキャパを超える。壕の外にまで並べられた兵士達に罵声を浴びたりすることにも耐えながら仕事をこなしていった。 しかし戦況は悪くなる一方で、第32軍司令部の南下と伴に移動し、識名壕や武富壕を経て米須の第62師団野戦病院本部壕へと転戦する。一人では歩けない兵士に肩を貸したり担架で担ぎながらの移動であった。しかし既に野戦病院としての機能を果たせなくなっていた6月8日に解散命令が学徒隊にも出されたが、米軍の接近を知り南下を止めて本部壕に戻ったようだ。米須・武富・伊原の壕を行ったり来たりしていたが、二度目の解散命令が6月19日に出されることとなる。この際の学徒隊生存者10名のうちグループからはぐれた2名が戦死したが、残り8名は米須一帯を彷徨っているうちに米軍に収容され、九死に一生を得ることとなる。動員された17名のうち9名が戦死するものの8名が生き永らえたことはまさに奇跡とも言えよう。 手に職をつけようと入学した学校は戦火により焼失し、戦後復興することなく廃校となった。沖縄戦を生き抜いた生存者達によって学徒隊の中でいち早く慰霊祭が行われたのが私立沖縄昭和高等女学校慰霊祭、つまり梯梧学徒隊である。また慰霊祭を挙行するにあたり校舎跡地に梯梧之塔が建立されたが、後に犠牲者を出した伊原近くの現在地に移設され現在に至っている。この移設前の慰霊塔に関する記述がないので予想ではあるが、現在の梯梧之塔が学校跡地に建立されたものだと思われる。 現在安里川沿いの学校跡地には私立沖縄昭和高等女学校跡地と刻まれた碑が建てられている。マンションが立ち並ぶ場所の一角に建立された碑は、ただ通るだけではなかなか見つけることができないのではと思われる小さなものである。犠牲者を祀る米須の梯梧之塔、そして学校跡地の碑。どちらも花が開くことなく蕾で散った少女達が生きていた証であると私には思えてならない。地図に載っているものも少ないために周知されていない感はあるものの、学徒の足跡を辿るに是非訪れて頂きたいと強く感じた私立沖縄昭和高等女学校跡地であった。 閉じる
クチコミ・評判
3.29
(2件のクチコミ)- アクセス:
- 4.25
- ゆいレール牧志駅より徒歩10分。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
- 人混みの少なさ:
- 4.25
- 訪れた際には誰とも会わなかった。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
- バリアフリー:
- 4.00
- 碑の周りは舗装されている。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
- 見ごたえ:
- 4.00
- 通っていた少女達の声が聞こえてくるような気がした。 by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
基本情報(地図・アクセス・営業時間)
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