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梯梧之塔

名所・史跡

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昭和高等女学校の生徒からなる 梯梧 学徒隊の犠牲者 9 名をはじめとした学校関係者が祭られている慰霊塔です。~梯梧之塔~

  • 5.0
  • 旅行時期:2016/03(約10年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

糸満・ひめゆり クチコミ:207件

観光客で賑わうひめゆりの塔西側、お土産物屋?ひめゆり観光センターでいご?の駐車場奥に梯梧 之塔は建っています。訪れる人も少なくひっそりと静かに今の時間を過ごしているようにも見えます。昭和 5 ( 1930 )年 3 月に山梨県出身の 八巻太一校長によって 那覇市崇元寺町(現泊)の西南に設立されたことに始まった私立の商業学校で、商店・会社・銀行の事務員養成を主目的としてそろばん、簿記、英文・和文タイプなどを教える当時では実務教育を念頭に置いた女子の高等教育機関として設立されました。沖縄戦が始まる寸前の昭和高等女学校 12 期生 31 人の内17名は昭和 20(1945) 年 3 月 6日に沖縄県立首里女学校生徒で構成されたずゐせん学徒隊と共に第 62 師団(石部隊)野戦病院、通称石 5325 部隊に学徒看護隊要員として配属され、島尻郡南風原町のナゲーラ壕(現沖縄自動車道那覇 IC 付近)へと入ります。 4 月 29 日には最初の戦死者を出し、その後戦況の悪化とともに収容患者数が増え続け、手狭になったナゲーラ壕から第二分院となる識名壕へと 9 名が移動しますが、その際に 2 名の戦死者を出しています。 5 月末頃には軍司令部からの南部への撤退命令により武富・米須・伊原の壕へと分散して入るものの、米軍の執拗な攻撃下で伊原の壕にいた 6 名が戦死されます。そして昭和20 年 6 月 19 日砲弾の飛び交う中解散命令が下されます。学徒隊の戦死者数9名、職員3名、生徒50名の計62名の名前がこの梯梧之塔に刻まれています。

梯梧学徒の呼称は、学校のあった崇元寺の梯梧並木と梯梧の花をあしらった校章から後に呼ばれるようになりました。沖縄戦によって彼女らの母校昭和高等女学校は消滅し、戦争がなければ事務方のキャリアとして活躍しただろう乙女たちの手には遂に卒業証書が渡ることはありませんでした。

戦後間もない頃八巻校長をはじめとした生徒の遺族や学校関係者によって、昭和高等女学校の跡地に初代の梯梧之塔が建立されたのは昭和23年のことでした。その後遺族の願いである学徒隊終焉の地である現在の場所に移築されたのが昭和46(1971)年6月23日のことでした。

梯梧之塔すぐ近くには、ともに第62師団陸軍病院に配属された沖縄県立首里高校女学校の犠牲者を祀るずゐせんの塔もありますが、こちらも残念ながら参拝をされている姿を見たことがありません。多数の犠牲者を出したひめゆり学徒が有名になることは当たり前のようには思えるものの、学徒として倒れたうら若き少年少女は他にもいることを知って足を運んで頂きたく思います。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
ひめゆりの塔からすぐ。
人混みの少なさ:
5.0
平日は訪れる方もおられません。
バリアフリー:
4.0
塔の周りは舗装されています。
見ごたえ:
5.0
考えさせられます。

クチコミ投稿日:2016/03/07

いいね!:12

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