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尾張一宮の真清田(ますみだ)神社の紹介です。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社です。古代に尾張地方を治めた尾張氏の祖神の天火明命を祭神としています。

2015秋、尾張一之宮・真清田神社(1/6):西門の鳥居、社務所、楼門、神橋

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2015/10/09 - 2015/10/09

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旅人のくまさん

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尾張一宮の真清田(ますみだ)神社の紹介です。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社です。古代に尾張地方を治めた尾張氏の祖神の天火明命を祭神としています。

  • 名古屋駅から乗車し、JRで一宮駅に到着しました、名鉄駅と一体となった駅舎の光景です。JR側は尾張一宮駅、名鉄側は、名鉄一宮駅と呼ばれています。

    名古屋駅から乗車し、JRで一宮駅に到着しました、名鉄駅と一体となった駅舎の光景です。JR側は尾張一宮駅、名鉄側は、名鉄一宮駅と呼ばれています。

  • 駅近くにあった付近図です。許運の目的地の真清田神社も表示されていました。歩いても10分ほどの距離です。

    駅近くにあった付近図です。許運の目的地の真清田神社も表示されていました。歩いても10分ほどの距離です。

  • 一宮駅前からは、銀座通りとも呼ばれるシンボル通りをロータリーまで歩き、ロータリーを左折すると、真清田神社までは一直線です。ここはまだ、シンボル通りです。

    一宮駅前からは、銀座通りとも呼ばれるシンボル通りをロータリーまで歩き、ロータリーを左折すると、真清田神社までは一直線です。ここはまだ、シンボル通りです。

  • シンボル通りの花壇で咲いていた花の光景です。名前は調べていませんが、キク科の植物のようです。

    シンボル通りの花壇で咲いていた花の光景です。名前は調べていませんが、キク科の植物のようです。

  • 同じく、シンボル通りの花壇で咲いていた花の光景です。こちらは、黄色と、オレンジ色の花共にマリーゴールドです。こちらもキク科の植物です。

    同じく、シンボル通りの花壇で咲いていた花の光景です。こちらは、黄色と、オレンジ色の花共にマリーゴールドです。こちらもキク科の植物です。

  • シンボル通りの終点の交差点です。ここを左に進みますと真清田神社の方角です。『宮西通り』の表示がありました。

    シンボル通りの終点の交差点です。ここを左に進みますと真清田神社の方角です。『宮西通り』の表示がありました。

  • 『宮西通り』を真清田神社に向かって進んだ、その途中の街並み光景です。

    『宮西通り』を真清田神社に向かって進んだ、その途中の街並み光景です。

  • 『宮西通り』の歩道脇の緑樹帯で咲いていた花の紹介です。食用になる、ニラ(韮)の花のようです。

    『宮西通り』の歩道脇の緑樹帯で咲いていた花の紹介です。食用になる、ニラ(韮)の花のようです。

  • 同じく、歩道脇の緑樹帯で黄色の花を咲かせていた、ヒマワリ(向日葵)の花です。

    同じく、歩道脇の緑樹帯で黄色の花を咲かせていた、ヒマワリ(向日葵)の花です。

  • 前にも名前を調べたことがある花ですが、すぐには見つかりませんでした。最初、『イカズチソウ(雷草)』と覚えていましたが、違っているようでした。

    前にも名前を調べたことがある花ですが、すぐには見つかりませんでした。最初、『イカズチソウ(雷草)』と覚えていましたが、違っているようでした。

  • ブルー・サルビアのようです。近縁種のブルー・セージの方かも知れません。こちらも、じっくり調べないと名前が特定できない花です。

    ブルー・サルビアのようです。近縁種のブルー・セージの方かも知れません。こちらも、じっくり調べないと名前が特定できない花です。

  • 『宮西通り』を真っ直ぐ北方面に歩いて、東西に延びる広い通りと出会いました。真清田神社は直ぐ近くです。

    『宮西通り』を真っ直ぐ北方面に歩いて、東西に延びる広い通りと出会いました。真清田神社は直ぐ近くです。

  • 先ほどの広い通りで右に交差点を渡り、もう一度左に交差点を渡っても真清田神社の方角です。更に直進して、真清田神社の西側の門に到着しました。

    先ほどの広い通りで右に交差点を渡り、もう一度左に交差点を渡っても真清田神社の方角です。更に直進して、真清田神社の西側の門に到着しました。

  • 真清田神社の西側の入口にある鳥居の光景です。以前にも来たことがある神社ですから、距離感と方角はおおよそ頭に入っていました。

    真清田神社の西側の入口にある鳥居の光景です。以前にも来たことがある神社ですから、距離感と方角はおおよそ頭に入っていました。

  • 西側の入口にある鳥居の手前にあった赤い鳥居の列です。三八稲荷大明神の幟がありました。最後の方で見学しました。

    西側の入口にある鳥居の手前にあった赤い鳥居の列です。三八稲荷大明神の幟がありました。最後の方で見学しました。

  • 西門の鳥居の光景です。江戸時代の尾張徳川家と真清田神社の繋がりの紹介です。名古屋城築城後、初代尾張藩藩主の徳川義直公は、寛永8年(1631年)に社殿の大修復を行なっています。また、尾張藩四代藩主の徳川吉通公は、元禄15年(1702年)に本殿を修造し、更に宝永4年(1707年)には楼門を再建しました。

    西門の鳥居の光景です。江戸時代の尾張徳川家と真清田神社の繋がりの紹介です。名古屋城築城後、初代尾張藩藩主の徳川義直公は、寛永8年(1631年)に社殿の大修復を行なっています。また、尾張藩四代藩主の徳川吉通公は、元禄15年(1702年)に本殿を修造し、更に宝永4年(1707年)には楼門を再建しました。

  • 真清田神社の境内の光景です。尾張徳川家と真清田神社の繋がりの紹介の続きです。延享4年(1747年)には第八代藩主の徳川宗勝公が本殿を修造、寛政4年(1792年)には第九代藩主の徳川宗睦公が本殿修造を重ねています。

    真清田神社の境内の光景です。尾張徳川家と真清田神社の繋がりの紹介の続きです。延享4年(1747年)には第八代藩主の徳川宗勝公が本殿を修造、寛政4年(1792年)には第九代藩主の徳川宗睦公が本殿修造を重ねています。

  • 境内にあった巨木のズームアップ光景です。真清田神社は、平安時代(794〜1185/92年頃)から大社として認められ、尾張国の一宮としての社格が与えられました。祭神は、天照大御神の孫で、尾張地方の開拓に力を尽くした尾張氏の祖先神、天火明命(アメノホヒカリノミコト)です。

    境内にあった巨木のズームアップ光景です。真清田神社は、平安時代(794〜1185/92年頃)から大社として認められ、尾張国の一宮としての社格が与えられました。祭神は、天照大御神の孫で、尾張地方の開拓に力を尽くした尾張氏の祖先神、天火明命(アメノホヒカリノミコト)です。

  • 真清田神社の社務所の建物光景です。唐風の造りの玄関に注連縄が飾られていました。

    真清田神社の社務所の建物光景です。唐風の造りの玄関に注連縄が飾られていました。

  • 真清田神社の社務所の玄関脇にあった樹木のズームアップ光景です。クスノキ(樟)でしょうか。

    真清田神社の社務所の玄関脇にあった樹木のズームアップ光景です。クスノキ(樟)でしょうか。

  • 正門に当たる南側の入口にある鳥居の光景です。内側から眺めた光景です。

    正門に当たる南側の入口にある鳥居の光景です。内側から眺めた光景です。

  • 楼門の光景です。第二次大戦時、一宮空襲での消失は免れましたが、昭和36年(1961年)に再建された建物です。

    楼門の光景です。第二次大戦時、一宮空襲での消失は免れましたが、昭和36年(1961年)に再建された建物です。

  • 太鼓橋越しに眺めた、楼門の光景です。中世期の真清田神社の様子を知る絵図としては、『真清田神社古絵図』(一宮市指定有形文化財)があります。

    太鼓橋越しに眺めた、楼門の光景です。中世期の真清田神社の様子を知る絵図としては、『真清田神社古絵図』(一宮市指定有形文化財)があります。

  • 太鼓橋のズームアップ光景です。『神橋』と呼ばれています。室町時代の頃の『真清田神社古絵図』によれば、主要社殿として朱塗りの本殿・縦長拝殿・勅使殿、楼門、その左右に末社、神庫、更に境内両端や参道には東西神宮寺、新八幡社、山王社の様子が描かれています。

    太鼓橋のズームアップ光景です。『神橋』と呼ばれています。室町時代の頃の『真清田神社古絵図』によれば、主要社殿として朱塗りの本殿・縦長拝殿・勅使殿、楼門、その左右に末社、神庫、更に境内両端や参道には東西神宮寺、新八幡社、山王社の様子が描かれています。

  • 横から眺めた石造りの太鼓橋の光景です。一宮市博物館には、この絵図に基づいた1/150スケールの復元模型が展示されているようです。まだ目にしたことはありません。

    横から眺めた石造りの太鼓橋の光景です。一宮市博物館には、この絵図に基づいた1/150スケールの復元模型が展示されているようです。まだ目にしたことはありません。

  • 『神橋不可渡』の文字が刻まれていた、年代を経た石柱です。現在の一宮市は、その昔、木曽川の流域に沿っていたとされます。木曽川の灌漑用水の清く澄んだ水によって水田が形成され、『真清田』の名の起源となったとされます。

    『神橋不可渡』の文字が刻まれていた、年代を経た石柱です。現在の一宮市は、その昔、木曽川の流域に沿っていたとされます。木曽川の灌漑用水の清く澄んだ水によって水田が形成され、『真清田』の名の起源となったとされます。

  • かなり長い前書きのあとに、和歌が記された歌碑の光景です。和歌の部分は、『賤の男の』の大きな文字で始まっていました。

    かなり長い前書きのあとに、和歌が記された歌碑の光景です。和歌の部分は、『賤の男の』の大きな文字で始まっていました。

  • 若の詠者は『赤染衛門』、和歌は『賤の男の種ほすといふ春の田を 作りますだの神に任せん』です。詠者の『赤染衛門』は、源氏物語の作者、紫式部が尊敬した尾張国司の女房と紹介してありました。

    若の詠者は『赤染衛門』、和歌は『賤の男の種ほすといふ春の田を 作りますだの神に任せん』です。詠者の『赤染衛門』は、源氏物語の作者、紫式部が尊敬した尾張国司の女房と紹介してありました。

  • 『真清田大神』の文字が記された、扁額の光景です。楼上南側に掲げられたこの扁額は、伝聖武天皇ご宸筆の旧額を模して、人間国宝・平櫛田中氏が彫刻を施したものとされます。

    『真清田大神』の文字が記された、扁額の光景です。楼上南側に掲げられたこの扁額は、伝聖武天皇ご宸筆の旧額を模して、人間国宝・平櫛田中氏が彫刻を施したものとされます。

  • 楼門から眺めた本殿方面の光景です。楼門にも注連縄が飾ってありました。

    楼門から眺めた本殿方面の光景です。楼門にも注連縄が飾ってありました。

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