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出雲大社の遷宮は、概ね60~70年毎に行われています。2008年(平成20年)の『仮殿遷座祭』以降、本殿の屋根等の大改修が行われ、2013年(平成25年)5月に、御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する『本殿遷座祭』が行われました。『平成の大遷宮』です。

2015秋、厳島神社と出雲大社(16/17):出雲大社(6):大国主命像、神馬、懸崖菊

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2015/11/17 - 2015/11/18

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旅行記グループ 2015春、宮島と原爆ドーム

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旅人のくまさん

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出雲大社の遷宮は、概ね60~70年毎に行われています。2008年(平成20年)の『仮殿遷座祭』以降、本殿の屋根等の大改修が行われ、2013年(平成25年)5月に、御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する『本殿遷座祭』が行われました。『平成の大遷宮』です。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 『素鵞川』の光景です。この場所より東側で『吉野川』と合流し、『堀川』を経て日本海に注ぎます。出雲大社の本殿背後(北側)には『素鵞社』が祀られ、『蘇我氏』に通じる意味合いを持つ『素鵞』の呼び名です。『蘇我氏』は、古墳時代から飛鳥時代(6~7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出した有力豪族です。中大兄皇子、中臣鎌足らによって入鹿が暗殺され、勢力は衰えました。

    『素鵞川』の光景です。この場所より東側で『吉野川』と合流し、『堀川』を経て日本海に注ぎます。出雲大社の本殿背後(北側)には『素鵞社』が祀られ、『蘇我氏』に通じる意味合いを持つ『素鵞』の呼び名です。『蘇我氏』は、古墳時代から飛鳥時代(6~7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出した有力豪族です。中大兄皇子、中臣鎌足らによって入鹿が暗殺され、勢力は衰えました。

  • 『三の鳥居』になる『鉄の鳥居』の光景です。出雲大社の四つの鳥居は、『一の鳥居』から順に、石製(鉄筋コンクリート製)、木製、鉄製と銅製と、それぞれ材質が異なっているのが特徴です。この鉄の鳥居部分だけが直進が出来ず、両脇への迂回になります。松並木保護のためのようでした。

    『三の鳥居』になる『鉄の鳥居』の光景です。出雲大社の四つの鳥居は、『一の鳥居』から順に、石製(鉄筋コンクリート製)、木製、鉄製と銅製と、それぞれ材質が異なっているのが特徴です。この鉄の鳥居部分だけが直進が出来ず、両脇への迂回になります。松並木保護のためのようでした。

  • 江戸時代の本居宣長(1730~1801年)が『玉勝間』に記したところによれば、かつての出雲大社の本殿は、現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈(48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)とする伝承を紹介しているようです。木造建築では実現不可能とされた規模の神殿です。写真は、出雲大社の境外と、その周りの光景です。

    江戸時代の本居宣長(1730~1801年)が『玉勝間』に記したところによれば、かつての出雲大社の本殿は、現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈(48m)、さらに上古(神代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)とする伝承を紹介しているようです。木造建築では実現不可能とされた規模の神殿です。写真は、出雲大社の境外と、その周りの光景です。

  • 本居宣長は、契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し 、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られます。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著しました。現代でも、その労作は高く評価されています。

    本居宣長は、契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し 、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られます。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著しました。現代でも、その労作は高く評価されています。

  • ここからは、樹齢400年ともいわれる『松の並木の参道』の紹介です。地元では、『馬場の参道』とも呼ばれているようです。この松並木は、当時の出雲松江初代藩主の堀尾忠氏(ただうじ:1578~1604年)』夫人の『長松院(ちょうしょういん)』が、寛永年間(1624~1645年)に祈願成就のお礼に1000本を寄贈したものと伝わります。

    ここからは、樹齢400年ともいわれる『松の並木の参道』の紹介です。地元では、『馬場の参道』とも呼ばれているようです。この松並木は、当時の出雲松江初代藩主の堀尾忠氏(ただうじ:1578~1604年)』夫人の『長松院(ちょうしょういん)』が、寛永年間(1624~1645年)に祈願成就のお礼に1000本を寄贈したものと伝わります。

  • 長松院の寄贈から、400年を経た松並木は、現在も60本ほどが現存しているようです。一部が通行禁止になっていたのは、この古松を保護するためのようでした。通行禁止にされた並木の脇には、観光用の舗装道路が整備されていました。

    長松院の寄贈から、400年を経た松並木は、現在も60本ほどが現存しているようです。一部が通行禁止になっていたのは、この古松を保護するためのようでした。通行禁止にされた並木の脇には、観光用の舗装道路が整備されていました。

  • 400年近くを経た松もあるとされる松並木の光景です。この松並木は、『出雲大社の馬場の松』の名称で、1983年(昭和58年)に『日本の名松100選』に選ばれ、1985年(昭和60年)には出雲市の指定文化財になっています。『日本の名松100選』には、京都・宮津市の『天橋立の松』や、静岡・清水市の『三保の松原』、佐賀県の『虹の松原』なども選ばれています。

    400年近くを経た松もあるとされる松並木の光景です。この松並木は、『出雲大社の馬場の松』の名称で、1983年(昭和58年)に『日本の名松100選』に選ばれ、1985年(昭和60年)には出雲市の指定文化財になっています。『日本の名松100選』には、京都・宮津市の『天橋立の松』や、静岡・清水市の『三保の松原』、佐賀県の『虹の松原』なども選ばれています。

  • この『松並木の参道』は、皇族や貴族、例大祭の時の勅使だけが通行がs出来たとされます。推測ですが、この松並木が『松の馬場』と呼ばれるのは、例大祭の時の『的射祭(まといまつり)』や『流鏑馬(やぶさめ)神事』で、馬が疾駆したことに因むのかも知れません。

    この『松並木の参道』は、皇族や貴族、例大祭の時の勅使だけが通行がs出来たとされます。推測ですが、この松並木が『松の馬場』と呼ばれるのは、例大祭の時の『的射祭(まといまつり)』や『流鏑馬(やぶさめ)神事』で、馬が疾駆したことに因むのかも知れません。

  • 傾いだ古松は、支柱などを用いて、手入れをされていました。大きく傾いだ木の幹は、先端が切り詰められていました。この状態では、通行制限がされるのは、止むを得ません。名古屋では、織田信長が『桶狭間の戦い』の戦勝お礼に、日置神社1000本の松を寄贈しましたが、明治の頃までにすべて枯れてしまいました。

    傾いだ古松は、支柱などを用いて、手入れをされていました。大きく傾いだ木の幹は、先端が切り詰められていました。この状態では、通行制限がされるのは、止むを得ません。名古屋では、織田信長が『桶狭間の戦い』の戦勝お礼に、日置神社1000本の松を寄贈しましたが、明治の頃までにすべて枯れてしまいました。

  • 雨粒で読み難くなっていましたが、『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『幸魂・奇魂』については、大国主命と一緒に国造りをされた少名毘古那神にまつわる出来事として、古事記・日本書紀に記述があります。出雲大社の祝詞の最後に『奇魂(くしみたま)幸魂(さちみたま)守給(まもりたまえ)幸給(さきわへたまえ)』と唱えます。

    雨粒で読み難くなっていましたが、『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『幸魂・奇魂』については、大国主命と一緒に国造りをされた少名毘古那神にまつわる出来事として、古事記・日本書紀に記述があります。出雲大社の祝詞の最後に『奇魂(くしみたま)幸魂(さちみたま)守給(まもりたまえ)幸給(さきわへたまえ)』と唱えます。

  • 横から眺めた『大国主命(オオクニヌシノミコト)』の姿です。『古事記』、『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によれば、『須佐之男命(すさのおのみこと)』の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされています。父は『天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)』、母は『刺国若比売(さしくにわかひめ)』とされます。日本神話に登場する神で、国津神の主宰神とされます。

    横から眺めた『大国主命(オオクニヌシノミコト)』の姿です。『古事記』、『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によれば、『須佐之男命(すさのおのみこと)』の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされています。父は『天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)』、母は『刺国若比売(さしくにわかひめ)』とされます。日本神話に登場する神で、国津神の主宰神とされます。

  • 記紀の現代語訳では、『葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させましたが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に、幽冥界の主、幽事の主宰者となりました』、と紹介されていました。推測ですが、『大国主命』が殺されたことを示唆する叙述のようにも思えます。

    イチオシ

    記紀の現代語訳では、『葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させましたが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に、幽冥界の主、幽事の主宰者となりました』、と紹介されていました。推測ですが、『大国主命』が殺されたことを示唆する叙述のようにも思えます。

  • 祈りを捧げる『大国主命』の像と一体になった天地創造の場面のようです。出雲大社の公式HPには、この像群の正式名は『ムスビの御神像』と紹介されていました。昭和61年(1986年)に寄贈されたもので、『ムスビの御神』は、『大国主命』とも紹介されていました。その大国主命の前に、『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』が現れた場面とされます。

    祈りを捧げる『大国主命』の像と一体になった天地創造の場面のようです。出雲大社の公式HPには、この像群の正式名は『ムスビの御神像』と紹介されていました。昭和61年(1986年)に寄贈されたもので、『ムスビの御神』は、『大国主命』とも紹介されていました。その大国主命の前に、『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』が現れた場面とされます。

  • 大国主命の前に現れた、『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』のズームアップ光景です。『国譲り』に関する、出雲大社の公式HPでの説明の紹介です。『これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます』、と説明されていました。

    イチオシ

    大国主命の前に現れた、『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』のズームアップ光景です。『国譲り』に関する、出雲大社の公式HPでの説明の紹介です。『これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます』、と説明されていました。

  • 記紀を基にした『国譲り』に関する、出雲大社の公式HPでの説明の続きです。『大国主大神様は目に見えない世界を司られ、天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました』、この建物が出雲大社(の前身)です。

    記紀を基にした『国譲り』に関する、出雲大社の公式HPでの説明の続きです。『大国主大神様は目に見えない世界を司られ、天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました』、この建物が出雲大社(の前身)です。

  • 最後にもう一度紹介する、『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』と『大国主命(オオクニヌシノミコト)』の像の光景です。『国譲り』に関する、出雲大社の公式HPでの説明の締め括りです。『大国主大神様は永久にお鎮まりになって、人々の幸福のために慈愛をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をお受けになっています』、と記され、記紀でのシナリオが今日まで成功してきたようです。

    最後にもう一度紹介する、『幸魂・奇魂(さきみたま・くしみたま)』と『大国主命(オオクニヌシノミコト)』の像の光景です。『国譲り』に関する、出雲大社の公式HPでの説明の締め括りです。『大国主大神様は永久にお鎮まりになって、人々の幸福のために慈愛をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をお受けになっています』、と記され、記紀でのシナリオが今日まで成功してきたようです。

  • 『銅の鳥居』の左手前に位置する『手水舎』の光景です。『手水舎』は、『ちょうずや・ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ』などの読み方があります。参拝者が身を浄めるために手水を使う施設のことで、『水盤舎(すいばんしゃ)』、『御水屋(おみずや)』とも呼ばれます。

    『銅の鳥居』の左手前に位置する『手水舎』の光景です。『手水舎』は、『ちょうずや・ちょうずしゃ・てみずや・てみずしゃ』などの読み方があります。参拝者が身を浄めるために手水を使う施設のことで、『水盤舎(すいばんしゃ)』、『御水屋(おみずや)』とも呼ばれます。

  • 鳥居の最後の『四の鳥居』になる『銅の鳥居』の光景です。鳥居の先に見えている建物は、出雲大社の『本殿』の前(南側)に位置する『拝殿』です。『銅の鳥居』の素材は青銅。高さは6メートルです。江戸時代の1666年、長州藩の二代藩主の毛利綱広公の寄進により建造されました。

    鳥居の最後の『四の鳥居』になる『銅の鳥居』の光景です。鳥居の先に見えている建物は、出雲大社の『本殿』の前(南側)に位置する『拝殿』です。『銅の鳥居』の素材は青銅。高さは6メートルです。江戸時代の1666年、長州藩の二代藩主の毛利綱広公の寄進により建造されました。

  • 右がブロンズ製の神馬、左がブロンズ製の御聖牛が祀られた建物の光景です。お賽銭が、片方に偏らないようにも配慮されたのでしょうか、その中央に賽銭箱が置かれていました。低い柵は設けてありますが、撫でることが出来るような配慮がされていました。

    右がブロンズ製の神馬、左がブロンズ製の御聖牛が祀られた建物の光景です。お賽銭が、片方に偏らないようにも配慮されたのでしょうか、その中央に賽銭箱が置かれていました。低い柵は設けてありますが、撫でることが出来るような配慮がされていました。

  • 神馬の隣に置かれていたのは、菅原道真公に縁が深い御聖牛です。道真公の『遺骸を牛車にのせて人にひかせず、牛の赴くところにとどめよ』という遺言により、遺体は道真の住んでいた榎社から牛車で運ばれ、四堂という場所で牛が動かなくなり、その地が墓地となりました。現在の太宰天満宮が建つ場所です。うずくまった姿の牛は、その伝説によるものです。

    神馬の隣に置かれていたのは、菅原道真公に縁が深い御聖牛です。道真公の『遺骸を牛車にのせて人にひかせず、牛の赴くところにとどめよ』という遺言により、遺体は道真の住んでいた榎社から牛車で運ばれ、四堂という場所で牛が動かなくなり、その地が墓地となりました。現在の太宰天満宮が建つ場所です。うずくまった姿の牛は、その伝説によるものです。

  • 厩の中にいた、造り物の白馬の神馬を先に紹介しましたが、こちらはブロンズ製の神馬でした。撫でられることが多いのか、顔を中心に地肌の色が浮き出していました。櫛を入れたような造りの鬣(たてがみ)でした。

    厩の中にいた、造り物の白馬の神馬を先に紹介しましたが、こちらはブロンズ製の神馬でした。撫でられることが多いのか、顔を中心に地肌の色が浮き出していました。櫛を入れたような造りの鬣(たてがみ)でした。

  • 本殿の前に位置する『拝殿』の光景です。通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われる建物です。失火により焼失し、6年後の昭和34年(1959年)に再建された建物です。<br /><br />

    本殿の前に位置する『拝殿』の光景です。通常は参拝者の御祈祷が行われ、古伝新嘗祭等のお祭の他、さまざまな奉納行事が行われる建物です。失火により焼失し、6年後の昭和34年(1959年)に再建された建物です。

  • 平成の大遷宮のために、平成28年まで一時閉鎖中の宝物殿の光景です。宝物殿の正式名称は『神祜殿(しんこでん)』、昭和56年(1981年)、建築家の『菊竹清訓(きよのり:1928~2011年)』氏の設計により竣功した建物です。

    平成の大遷宮のために、平成28年まで一時閉鎖中の宝物殿の光景です。宝物殿の正式名称は『神祜殿(しんこでん)』、昭和56年(1981年)、建築家の『菊竹清訓(きよのり:1928~2011年)』氏の設計により竣功した建物です。

  • 右側に見える看板には、右手に『国宝・出雲大社本殿』の建物と、『平成の大遷宮』が紹介されていました。左手が、境内で出土した平安時代末期に建造された本殿の柱跡の紹介でした。現在は、古代出雲歴史博物館で展示されています。高さ48メートル(16丈)とされる、古代の本殿の想像写真も紹介されていました。

    右側に見える看板には、右手に『国宝・出雲大社本殿』の建物と、『平成の大遷宮』が紹介されていました。左手が、境内で出土した平安時代末期に建造された本殿の柱跡の紹介でした。現在は、古代出雲歴史博物館で展示されています。高さ48メートル(16丈)とされる、古代の本殿の想像写真も紹介されていました。

  • 団体行動の時には、ゆっくり撮影できなかった一対の懸崖菊の再度の紹介です。こちらは赤色系統の懸崖仕立ての菊です。ふんわりと盛り上がるように造られ、先端は先細りになっていました。懸崖作りの中でも全国的に作られているのが前垂れ型懸崖です。上から下にかけて、だんだん細くなる長細いハート形で、断面は中央部を少し高いかまぼこ形に仕上げるのが標準形のようです。

    イチオシ

    団体行動の時には、ゆっくり撮影できなかった一対の懸崖菊の再度の紹介です。こちらは赤色系統の懸崖仕立ての菊です。ふんわりと盛り上がるように造られ、先端は先細りになっていました。懸崖作りの中でも全国的に作られているのが前垂れ型懸崖です。上から下にかけて、だんだん細くなる長細いハート形で、断面は中央部を少し高いかまぼこ形に仕上げるのが標準形のようです。

  • こちらの懸崖菊は、花をアップで紹介した黄色系の方です。懸崖用の小菊は、標準形のほか、動物や鳥等の形に仕立てるものもあります。大きなものでは五重塔やお城、富士山などが作られます。

    こちらの懸崖菊は、花をアップで紹介した黄色系の方です。懸崖用の小菊は、標準形のほか、動物や鳥等の形に仕立てるものもあります。大きなものでは五重塔やお城、富士山などが作られます。

  • 左側の建物が、本殿を取り巻く二重目の垣根の『瑞垣(みずがき)』と、その南面に設けられた二階建ての接待用の建物で、『観劇楼』と呼ばれています。中央奥の平屋の建物は、『東十九社』と呼ばれています。出雲に訪れる神々の宿泊所の意味合いの建物です。本殿の西側には『西十九社』があります。

    左側の建物が、本殿を取り巻く二重目の垣根の『瑞垣(みずがき)』と、その南面に設けられた二階建ての接待用の建物で、『観劇楼』と呼ばれています。中央奥の平屋の建物は、『東十九社』と呼ばれています。出雲に訪れる神々の宿泊所の意味合いの建物です。本殿の西側には『西十九社』があります。

  • 『東十九社』の建物のズームアップ光景です。出雲大社よりも東の地域の神社(茨城県の鹿島神宮や愛知県の熱田神宮など)に祀られている神様は東の十九社に、出雲大社より西の地域の神社(福岡県の大宰府天満宮や広島県の厳島神社など)に祀られている神様が西の十九社に滞在するとされます。

    『東十九社』の建物のズームアップ光景です。出雲大社よりも東の地域の神社(茨城県の鹿島神宮や愛知県の熱田神宮など)に祀られている神様は東の十九社に、出雲大社より西の地域の神社(福岡県の大宰府天満宮や広島県の厳島神社など)に祀られている神様が西の十九社に滞在するとされます。

  • すでに紹介した本殿の建物光景ですが、締め括りにもう一度紹介しておきます。『出雲大神は、荒ぶる八十神を平定して日本の国土経営の礎を築きました。また出雲大神には祟り神としての側面があり、転じて「病を封じる神(医療神)」になったといわれます』(ウィキペディア)

    すでに紹介した本殿の建物光景ですが、締め括りにもう一度紹介しておきます。『出雲大神は、荒ぶる八十神を平定して日本の国土経営の礎を築きました。また出雲大神には祟り神としての側面があり、転じて「病を封じる神(医療神)」になったといわれます』(ウィキペディア)

  • 出雲大社本殿の正面光景です。最前列に見える正面の建物は、『八足紋』と「楼門」です。正月3箇日以外は、一般参観者は通ることはできません。その手前に見える3か所の丸い印は、平安末期頃に建てられた本殿の柱跡です。9箇所の柱のうち、3箇所だけが腐朽せずに遺跡として残りました。豊富な地下水が影響したようです。1箇所当たり、3本の柱が束ねて使われていました。

    出雲大社本殿の正面光景です。最前列に見える正面の建物は、『八足紋』と「楼門」です。正月3箇日以外は、一般参観者は通ることはできません。その手前に見える3か所の丸い印は、平安末期頃に建てられた本殿の柱跡です。9箇所の柱のうち、3箇所だけが腐朽せずに遺跡として残りました。豊富な地下水が影響したようです。1箇所当たり、3本の柱が束ねて使われていました。

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