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日本神話に登場する神々は、天津神(あまつかみ)と、国津神(くにつかみ)とされ、天津神は、高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称で、国津神は、地(葦原中国)に現れた神々の総称とされます。天津神の主催神が天照大御神とされ、国津神の主催神が大国主神とされます。神話は、勝者による歴史ですが、消し去ることのできない歴史事実も反映されているようです。

2015秋、厳島神社と出雲大社(14/17):出雲大社(4):瑞垣、お御籤掛、境内社、千家

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2015/11/17 - 2015/11/18

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旅行記グループ 2015春、宮島と原爆ドーム

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旅人のくまさん

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日本神話に登場する神々は、天津神(あまつかみ)と、国津神(くにつかみ)とされ、天津神は、高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称で、国津神は、地(葦原中国)に現れた神々の総称とされます。天津神の主催神が天照大御神とされ、国津神の主催神が大国主神とされます。神話は、勝者による歴史ですが、消し去ることのできない歴史事実も反映されているようです。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 南東側から眺めた、『瑞垣(みずがき)』の東南面の光景です。中央よりやや右手に見える2階建ての建物は『観祭楼(かんさいろう)』です。楼門と同じく1667年に建てられ、1744年の造営の時に解体移築されました。二階には二つの畳敷きの部屋があり、ここを朝廷や幕府の要人、または藩の重臣などが訪れた際、南側の境内を観ることができました。(出雲大社公式HP参照)

    南東側から眺めた、『瑞垣(みずがき)』の東南面の光景です。中央よりやや右手に見える2階建ての建物は『観祭楼(かんさいろう)』です。楼門と同じく1667年に建てられ、1744年の造営の時に解体移築されました。二階には二つの畳敷きの部屋があり、ここを朝廷や幕府の要人、または藩の重臣などが訪れた際、南側の境内を観ることができました。(出雲大社公式HP参照)

  • 写真は、本殿の西側に位置する鎮守の森の光景です。大木に育った杉や松、公孫樹の木等がありました。『観祭楼』の紹介の補足です。『要人を迎えるため、良質な材料が使われ、造りは質素な「白木造り(しらきつくり)」で、屋根部分は『楼門』と同様に入母屋造に檜皮葺の屋根です』(同上)

    写真は、本殿の西側に位置する鎮守の森の光景です。大木に育った杉や松、公孫樹の木等がありました。『観祭楼』の紹介の補足です。『要人を迎えるため、良質な材料が使われ、造りは質素な「白木造り(しらきつくり)」で、屋根部分は『楼門』と同様に入母屋造に檜皮葺の屋根です』(同上)

  • 近くにお神籤を販売する社務所か、授与所があるためでしょうか、辺り一面がお御籤だらけの光景になっていました。境内の樹木を取り囲むように『お御籤掛け』がセットされているのは、樹木の保護も兼ねているようでした。しかしながら、その思惑を超えて、枝先にお御籤が結ばれていました。

    近くにお神籤を販売する社務所か、授与所があるためでしょうか、辺り一面がお御籤だらけの光景になっていました。境内の樹木を取り囲むように『お御籤掛け』がセットされているのは、樹木の保護も兼ねているようでした。しかしながら、その思惑を超えて、枝先にお御籤が結ばれていました。

  • 公孫樹の大木が、まるで、白い服を着たような姿になっていました。お御籤は、幹回りだけでなく。低い位置の枝先にも結ばれていました。高いところのお御籤は、多分、肩車をされて結ばれたもののようです。

    公孫樹の大木が、まるで、白い服を着たような姿になっていました。お御籤は、幹回りだけでなく。低い位置の枝先にも結ばれていました。高いところのお御籤は、多分、肩車をされて結ばれたもののようです。

  • お御籤だけでなく、その右奥に見える絵馬掛けも満員状態でした。さながら、『お御籤・絵馬通り』の観でした。『絵馬の奉納は、個人的な動機による神仏への願掛けであり、かつては人に見られない時間帯を選んで行われました。また、今日のように絵馬に実名を記すことはなく、「寅歳女」のように生まれた干支と性別のみを記しました』(ウィキペディア)

    お御籤だけでなく、その右奥に見える絵馬掛けも満員状態でした。さながら、『お御籤・絵馬通り』の観でした。『絵馬の奉納は、個人的な動機による神仏への願掛けであり、かつては人に見られない時間帯を選んで行われました。また、今日のように絵馬に実名を記すことはなく、「寅歳女」のように生まれた干支と性別のみを記しました』(ウィキペディア)

  • 『瑞垣』の光景です。中央やや右手の立札には、『窯社仮殿』の表示がありました。『釜社(かまのやしろ)』は、『素戔嗚尊(スサノオノミコト)』の子の『宇迦之魂神(ウカノミタマノカミ)』を祀る』、と紹介されていましたが、素戔嗚尊との関係はよく分かりませんでした。記紀に登場する穀物を司る女神で、一般には、稲荷神社の祭神として知られます。

    『瑞垣』の光景です。中央やや右手の立札には、『窯社仮殿』の表示がありました。『釜社(かまのやしろ)』は、『素戔嗚尊(スサノオノミコト)』の子の『宇迦之魂神(ウカノミタマノカミ)』を祀る』、と紹介されていましたが、素戔嗚尊との関係はよく分かりませんでした。記紀に登場する穀物を司る女神で、一般には、稲荷神社の祭神として知られます。

  • 西面の『瑞垣』越しに眺めた社殿の光景です。本当は、横から眺めた『本殿』を撮影したかったのですが、叶いませんでした。『大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)』が、西向きに鎮座されていますから、西側になるこちらが、その正面になります。

    西面の『瑞垣』越しに眺めた社殿の光景です。本当は、横から眺めた『本殿』を撮影したかったのですが、叶いませんでした。『大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)』が、西向きに鎮座されていますから、西側になるこちらが、その正面になります。

  • 同じく、『瑞垣』越しに眺めた社殿の光景です。出雲大社の境内図には、この辺りには『筑紫社』か記されていませんでした。その『筑紫社』は、『神魂御子神社(カミムスビミコノカミノヤシロ)』とも呼ばれます。天照大御神と素戔鳴尊とのご誓約によって生まれた女神で、福岡県の宗像大社に祀られる祭神です。

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    同じく、『瑞垣』越しに眺めた社殿の光景です。出雲大社の境内図には、この辺りには『筑紫社』か記されていませんでした。その『筑紫社』は、『神魂御子神社(カミムスビミコノカミノヤシロ)』とも呼ばれます。天照大御神と素戔鳴尊とのご誓約によって生まれた女神で、福岡県の宗像大社に祀られる祭神です。

  • 枝先にびっしりと結わえられたお御籤のズームアップ光景です。この後、境外摂社と、末社の一部を紹介します。出雲大社の祭神である大国主大神の后神・御子神など、特に関係の深い神々を祀るのが『摂社』、それに次ぐ神々を祀るのが『末社』とされます。

    枝先にびっしりと結わえられたお御籤のズームアップ光景です。この後、境外摂社と、末社の一部を紹介します。出雲大社の祭神である大国主大神の后神・御子神など、特に関係の深い神々を祀るのが『摂社』、それに次ぐ神々を祀るのが『末社』とされます。

  • 境外摂社の『氏社(うじのやしろ)・南』の光景です。『氏社・南』の御祭神は、『神宮向宿禰(ミヤムキノスクネ)』です。『天穂日命(アメノホヒノミコト)』より十七代目の神裔で、允恭天皇の元年はじめて國造出雲臣の姓(かばね)を賜っています。境外摂社は、自由時間の時に、もう一度見学しました。

    境外摂社の『氏社(うじのやしろ)・南』の光景です。『氏社・南』の御祭神は、『神宮向宿禰(ミヤムキノスクネ)』です。『天穂日命(アメノホヒノミコト)』より十七代目の神裔で、允恭天皇の元年はじめて國造出雲臣の姓(かばね)を賜っています。境外摂社は、自由時間の時に、もう一度見学しました。

  • 左側が『氏社(うじのやしろ)・南』、その奥が『氏社(うじのやしろ)・北』です。『氏社・北』の御祭神は、『天穂日命(アメノホヒノミコト)』、天照大御神の第二子、出雲國造の始祖であり、大国主大神の祭祀を司られ、その神裔は出雲大社宮司家として連綿と続き今日に至っています。出雲大社教の教祖と仰がれています。

    左側が『氏社(うじのやしろ)・南』、その奥が『氏社(うじのやしろ)・北』です。『氏社・北』の御祭神は、『天穂日命(アメノホヒノミコト)』、天照大御神の第二子、出雲國造の始祖であり、大国主大神の祭祀を司られ、その神裔は出雲大社宮司家として連綿と続き今日に至っています。出雲大社教の教祖と仰がれています。

  • 呼び方は色々あるようですが、一般に『お御籤掛け』と呼ばれて、紐が何段にも張られた架台の光景です。この『お御籤掛け』は、6段に張られた紐が、完全に満席になっていました。多分、定期的にお祓いをした後で処分されるお御籤のようです。

    呼び方は色々あるようですが、一般に『お御籤掛け』と呼ばれて、紐が何段にも張られた架台の光景です。この『お御籤掛け』は、6段に張られた紐が、完全に満席になっていました。多分、定期的にお祓いをした後で処分されるお御籤のようです。

  • 本殿の周りの見学を終え、次に向かう私達のツアーメンバーです。門の先に見えている建物は、先に見学した『神楽殿』の建物のようでした。強い降りではありませんでしたが、中々止みそうにありませんでした。

    本殿の周りの見学を終え、次に向かう私達のツアーメンバーです。門の先に見えている建物は、先に見学した『神楽殿』の建物のようでした。強い降りではありませんでしたが、中々止みそうにありませんでした。

  • 並木のように立ち並ぶ背の高い樹木の光景です。欲に張り出した枝が少ないようですから、『鎮守の杜』の光景とは別の景色でした。本殿へのショートカットになる道のようでしたが、なぜか通り抜け禁止になっていました。大勢の見学者が訪れた時の混乱予防かも知れません。

    並木のように立ち並ぶ背の高い樹木の光景です。欲に張り出した枝が少ないようですから、『鎮守の杜』の光景とは別の景色でした。本殿へのショートカットになる道のようでしたが、なぜか通り抜け禁止になっていました。大勢の見学者が訪れた時の混乱予防かも知れません。

  • 左向きの矢印で施設が案内されていた看板の光景です。結婚式場らしい『婚儀殿』、すでに見学した巨大な注連縄飾りがあった『神楽殿』と、まだ見学していない『出雲国造・千家国造館』の道案内でした。ところで、茶道の『千家(せんけ)』の始まりは、千利休の祖父である田中千阿弥とする説がありますが、確証はないようです。時代が離れていますので、『千家(せんげ)』との繋がりは不明です。

    左向きの矢印で施設が案内されていた看板の光景です。結婚式場らしい『婚儀殿』、すでに見学した巨大な注連縄飾りがあった『神楽殿』と、まだ見学していない『出雲国造・千家国造館』の道案内でした。ところで、茶道の『千家(せんけ)』の始まりは、千利休の祖父である田中千阿弥とする説がありますが、確証はないようです。時代が離れていますので、『千家(せんげ)』との繋がりは不明です。

  • 吉野川の支流の『素鵞(そが)川』になるようです。『素鵞(そが)』は、古代豪族の『蘇我氏』に繋がる呼び名かも知れません。古墳時代から飛鳥時代(6世紀~7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族です。岸辺の木々が紅葉を始めていました。

    吉野川の支流の『素鵞(そが)川』になるようです。『素鵞(そが)』は、古代豪族の『蘇我氏』に繋がる呼び名かも知れません。古墳時代から飛鳥時代(6世紀~7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族です。岸辺の木々が紅葉を始めていました。

  • 南北に通る参道にある、『素鵞(そが)川』に架かる橋は『祓橋』の名前が記されていましたが、この橋の名前和まかりませんでした。『素鵞(そが)川』が南北に流れる、『祓橋』より下流に架かった橋です。『祓橋』の読み方は記されていませんでしたが、多分『はらいばし』です。

    南北に通る参道にある、『素鵞(そが)川』に架かる橋は『祓橋』の名前が記されていましたが、この橋の名前和まかりませんでした。『素鵞(そが)川』が南北に流れる、『祓橋』より下流に架かった橋です。『祓橋』の読み方は記されていませんでしたが、多分『はらいばし』です。

  • 通り道でしたから、『神楽殿』の中を通って西方向に向かいました。読み解けなかった『神光海蔽』の扁額が宿題として残りました。出雲大社の歴史から言えば、引佐の浜の先に見えるのは韓半島の『新羅(しらぎ)』の国ですから、そのことに関連するような四文字でした。

    通り道でしたから、『神楽殿』の中を通って西方向に向かいました。読み解けなかった『神光海蔽』の扁額が宿題として残りました。出雲大社の歴史から言えば、引佐の浜の先に見えるのは韓半島の『新羅(しらぎ)』の国ですから、そのことに関連するような四文字でした。

  • 少し離れた西南側から眺めた『神楽殿』の光景です。入口に吊下がっているのは、5トンを超える巨大注連縄です。その製作工程をネットで見ることができます。数年ごとに交換される『大注連縄』は、島根県の飯南町を舞台に1年以上の歳月と延べ1000人の町民の手によって作られています。

    少し離れた西南側から眺めた『神楽殿』の光景です。入口に吊下がっているのは、5トンを超える巨大注連縄です。その製作工程をネットで見ることができます。数年ごとに交換される『大注連縄』は、島根県の飯南町を舞台に1年以上の歳月と延べ1000人の町民の手によって作られています。

  • 最初に紹介した、『神楽殿の大注連縄』ですから、説明は省略します。『神楽殿(旧称:風調館)』や、この後紹介する『永職館』と『祖霊社』は、明治15年に設立された『出雲大社教(いづもおおやしろきょう)』の管理下に置かれているようです。初代管長が出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造の『千家尊福(せんげ・たかとみ)』です。教派神道(神道十三派)の一つです。

    最初に紹介した、『神楽殿の大注連縄』ですから、説明は省略します。『神楽殿(旧称:風調館)』や、この後紹介する『永職館』と『祖霊社』は、明治15年に設立された『出雲大社教(いづもおおやしろきょう)』の管理下に置かれているようです。初代管長が出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造の『千家尊福(せんげ・たかとみ)』です。教派神道(神道十三派)の一つです。

  • 『千家国造家・永職館』の名札があったシックな造りの門の光景です。『永職館の呼び名は、出雲國造(千家國造)の特別な立場を考慮された霊元天皇(在位:1663~1687年)の計らいに由来しています』(永職館公式HP)、と紹介されていました。寛文5年(1665年)、 江戸幕府の『諸社禰宜神主法度』の公布に対する、出雲大社の例外扱いが認められたようです。

    『千家国造家・永職館』の名札があったシックな造りの門の光景です。『永職館の呼び名は、出雲國造(千家國造)の特別な立場を考慮された霊元天皇(在位:1663~1687年)の計らいに由来しています』(永職館公式HP)、と紹介されていました。寛文5年(1665年)、 江戸幕府の『諸社禰宜神主法度』の公布に対する、出雲大社の例外扱いが認められたようです。

  • 『千家国造家・永職館』の建物の外回りの光景です。このところ、日本百名城と、続日本百名城巡りを続けていましたので、思わず『切り込み接ぎ(きりこみはぎ)』と『亀甲積(きっこうずみ)』の石垣に目が行きました。その内側には、格式が高い、シックな造りの築地塀が見えていました。

    『千家国造家・永職館』の建物の外回りの光景です。このところ、日本百名城と、続日本百名城巡りを続けていましたので、思わず『切り込み接ぎ(きりこみはぎ)』と『亀甲積(きっこうずみ)』の石垣に目が行きました。その内側には、格式が高い、シックな造りの築地塀が見えていました。

  • 『出雲大社境内案内図』などを参照しますと、『社家通り』の延長線上を、さらに西に向かっているようでした。『出雲国造・千家国造館』辺りから左折すると、『祖霊社』、さらに進めば『駐車場』方面になるようでした。

    『出雲大社境内案内図』などを参照しますと、『社家通り』の延長線上を、さらに西に向かっているようでした。『出雲国造・千家国造館』辺りから左折すると、『祖霊社』、さらに進めば『駐車場』方面になるようでした。

  • 右側の門柱に『出雲国造・千家国造館』、左側の柱には『永職館』の表札がありました。大きな注連縄が、入口門の上にありました。『千家国造館』の公式HPに、『天穂日命以来代々出雲大社に奉仕される出雲國造がお住まいになるのが國造館です』、と紹介されていました。

    イチオシ

    右側の門柱に『出雲国造・千家国造館』、左側の柱には『永職館』の表札がありました。大きな注連縄が、入口門の上にありました。『千家国造館』の公式HPに、『天穂日命以来代々出雲大社に奉仕される出雲國造がお住まいになるのが國造館です』、と紹介されていました。

  • 大注連縄に取付けられる飾りとなる、円錐形の『〆の子(しめこ)』の下から眺めた。『出雲国造・千家国造館』の内部光景です。高円宮家の次女・千家典子さんが、2014年(平成26年)に25歳で千家国麿(せんげくにまろ)氏と結婚し、民間人になりましたが、そのお住まいかも知れません。

    大注連縄に取付けられる飾りとなる、円錐形の『〆の子(しめこ)』の下から眺めた。『出雲国造・千家国造館』の内部光景です。高円宮家の次女・千家典子さんが、2014年(平成26年)に25歳で千家国麿(せんげくにまろ)氏と結婚し、民間人になりましたが、そのお住まいかも知れません。

  • 『祖霊社(それいしゃ)』の建物光景です。玄関前の右側の石柱に『敬神崇祖』の文字が、左側の石柱には『報本追遠』の文字がありました。『敬神崇祖』は、読んで字の如しでしたが『報本追遠』の『報本』は、初めのものに報いること、『追遠』は、『先祖の徳を追慕して、その供養を怠らないこと』の意味とされますから、同じ意味を重ねた四字熟語のようです。

    イチオシ

    『祖霊社(それいしゃ)』の建物光景です。玄関前の右側の石柱に『敬神崇祖』の文字が、左側の石柱には『報本追遠』の文字がありました。『敬神崇祖』は、読んで字の如しでしたが『報本追遠』の『報本』は、初めのものに報いること、『追遠』は、『先祖の徳を追慕して、その供養を怠らないこと』の意味とされますから、同じ意味を重ねた四字熟語のようです。

  • 『祖霊社(それいしゃ)』の大きな文字が記された立看板の光景です。『出雲大社教』のHPからの紹介です。『大国主大神は目に見えない「幽世(かくりよ:神々の世界・霊魂の世界)」を司られるとの御神徳に基づき、死後の霊魂は幽世へと帰って大国主大神の御加護を受け、末永く家の守護神として鎮まるとの出雲大社教独自の「幽冥(ゆうめい)信仰」が確立され、祖霊社が創建されました』、と紹介されていました。

    『祖霊社(それいしゃ)』の大きな文字が記された立看板の光景です。『出雲大社教』のHPからの紹介です。『大国主大神は目に見えない「幽世(かくりよ:神々の世界・霊魂の世界)」を司られるとの御神徳に基づき、死後の霊魂は幽世へと帰って大国主大神の御加護を受け、末永く家の守護神として鎮まるとの出雲大社教独自の「幽冥(ゆうめい)信仰」が確立され、祖霊社が創建されました』、と紹介されていました。

  • 『祖霊社』に関する説明看板の光景です。明治6年(1873年)創建で、初代管長の『千家尊福(たかとみ:1845~1918年)』名の立看板でした。出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始した人です。宗教家で政治家で、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事を歴任したのち、第1次西園寺内閣で司法大臣を務めました。

    『祖霊社』に関する説明看板の光景です。明治6年(1873年)創建で、初代管長の『千家尊福(たかとみ:1845~1918年)』名の立看板でした。出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始した人です。宗教家で政治家で、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事を歴任したのち、第1次西園寺内閣で司法大臣を務めました。

  • 名前:『マリーゴールド』<br />分類:キク科コウオウソウ属(マンジュギク属)<br />分布:アメリカ大陸の熱帯と温帯にかけて約50種が分布。<br />その他:「聖母マリアの黄金の花」の意味です。祖霊社の花壇で咲いていました。

    名前:『マリーゴールド』
    分類:キク科コウオウソウ属(マンジュギク属)
    分布:アメリカ大陸の熱帯と温帯にかけて約50種が分布。
    その他:「聖母マリアの黄金の花」の意味です。祖霊社の花壇で咲いていました。

  • 名前:『ニチニチソウ(日々草)』<br />分類:キョウチクトウ科ニチニチソウ属の一年草<br />分布:マダガスカル原産<br />その他:熱帯各地で野生化し、温帯でも栽培可能でです。

    名前:『ニチニチソウ(日々草)』
    分類:キョウチクトウ科ニチニチソウ属の一年草
    分布:マダガスカル原産
    その他:熱帯各地で野生化し、温帯でも栽培可能でです。

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