2015/11/17 - 2015/11/18
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旅人のくまさんさん
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広島平和記念公園の中にある、慰霊施設などの紹介です。原爆の子の像、平和の灯(ともしび)、原爆慰霊碑や原爆資料館(正式名:広島平和記念資料館)等です。因みに、2014年度(平成26年度)の入場者数は131万人(累計6583万人)、そのうち外国人は23万人(いずれも端数切捨)でした。
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『原爆の子の像』の周りの光景の紹介です。像を取り囲むブースの中に、夥しい折り鶴や、世界平和を祈願する絵や文字のメッセージが籠められていました。『原爆の子の像』は、三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右に少年少女の像がある、高さ9mの記念像です。その三脚の一部が右端に見えています。
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『原爆の子の像』の周りを取り囲むブースのズームアップ光景です。『本日はこちらのブースに折鶴を捧げてください』の表示がありました。特定のブースに片寄らないよう、均等に振り分けられているようでした。この『原爆の子の像』に捧げられた数多くの折り鶴を雨露から守るため、2002(平成14年)年4月に、像の周囲に新たに屋根付きの折り鶴台(ブース)が整備されました。
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『原爆の子の像』の周りから眺めた、中央奥に見える原爆ドーム方面の光景です。佐々木禎子さんは『鶴を千羽折ると病気が治る』と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けました。病気を乗りこえ、懸命に生きようとした『サダコの物語』は、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。
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『平和の灯』の周りの光景です。灯火台は、高さ3メートル×幅13メートル×奥行8メートルの鉄筋コンクリート構造です。手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現し、その中央に火が灯されています。
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『平和の灯(へいわのともしび)』と呼ばれている灯火です。丹下健三の設計により、昭和39年(1964年)8月に建立されました。『丹下健三(たんげ・けんぞう:1913~2005年)』は、東大教授で世界的に著名な建築家で、都市計画家でした。
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同じく、『平和の灯』の光景です。核廃絶と恒久平和実現まで燃やし続けられる明りとされます。火種は、全国12宗派からの『宗教の火』、全国の工場地帯からの『産業の火』や、宮島・弥山(みせん)の『消えずの霊火』が用いられました。
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写真がぼやけてしまいましたが、『平和の灯』のズームアップ光景です。北側の原爆ドームに向かって、平和の灯、慰霊碑、広島平和記念資料館が同一南北軸線上に施設されています。
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世界的に著名な建築家の『丹下健三(1913~2005年)』の設計により、昭和39年(1964年)8月に建立された、『原爆死没者慰霊碑』の光景です。斜め後ろから眺めた光景です。正式名称は、『広島平和都市記念碑』とされます。
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『原爆死没者慰霊碑』の見学に集まって来た見学者の方達の傘の列です。外国人の姿や、国内の学生さん達の姿も多く見えました。『平和記念公園』をはじめとする施設が、世界平和への願いや、ノーモア・ヒロシマの願いに大きく寄与していることを感じる光景でした。
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側面から眺めた、『原爆死没者慰霊碑』の光景です。後に、『世界のタンゲ』と呼ばれた、丹下健三氏がまだ若い頃、東大助教授時代の設計です。屋根の部分が、はにわの家型をしています。中央に置かれた石棺には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者すべての氏名を記帳した名簿が納められています。
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『原爆死没者慰霊碑』の前の見学者の光景です。長く立ち止まる人は少ないようでしたから、暫くは離れた場所で待機です。今日はあいにくの空模様でしたから、『原爆資料館』などの建物内部での見学者が多そうでした。
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イチオシ
見学者が立ち去った後での撮影です。正面から眺めた、『原爆死没者慰霊碑』の光景です。『原爆死没者名簿』に記載された広島市関係者は29万2325人(平成14年)とされます。因みに、長崎市関係者は16万2083人(平成13年)とされます。慰霊碑から眺めた先に、原爆ドームが見えています。
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イチオシ
『原爆死没者慰霊碑』に捧げられた献花です。その先の石碑には、『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』の文字が刻まれています。この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したものです。主語等を巡って多くの議論がありました。
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同じく、斜め前から眺めた、『原爆死没者慰霊碑』の光景です。前方に、『平和の灯』と『原爆ドーム』の姿が見えています。先ほどの碑文の主語の話題の続きです。広島市としては、主語は『人類全体』との見解とされます。
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『原爆死没者慰霊碑』の近くから眺めた、『原爆資料館』の建物光景です。正式名は、『広島平和記念資料館』です。この建物が本館で、左側に東館があります。この後、引き続いて見学しました。
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本館に向かって右手になる、西方向の建物光景です。右端の建物は『広島国際会議場』です。昭和30年(1955年)に『広島市公会堂』として建てられたものを、平成元年(1989年)7月に現在のものに建替え、『広島国際会議場』と改称されました。
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本館に向かって左手になる、東方向の建物光景です。中央付近に見えるのが原爆資料館の東館です。『広島平和記念資料館』の略史を紹介します。1951年(昭和26年)2月に着工され、1955年(昭和30年)8月に竣工しました。『平和記念陳列館』と呼ばれていた時代のことです。
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イチオシ
小雨降る中を、原爆資料館の本館に向かって歩いた時の光景です。後ほど、東館から入場して、本館内部も見学しました。1994年(平成6年)6月、展示・収蔵機能や平和学習の場を充実するため、平和記念館を改築し、『平和記念資料館東館』として開館されました。2006年(平成18)年7月、本館建物が、戦後建築として初めて国の重要文化財に指定されました。
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本館の前で左に折れ、東館から入場しました。その1階ロビーの光景です。建物案内の平面図がありました。2017年(平成29年)4月、東館がリニューアルオープンしました。2019年(平成31年)4月、本館がリニューアルオープンしました。以上で、『平和記念資料館(原爆資料館)』の略史紹介はお終いです。
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自ら被爆者であることを公表されていた著名人の一人、東京芸大学長だった平山郁夫さん(1930~2009年)の作品、『平和のキャラバン』です。文化勲章も受賞された著名な日本画家です。
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平山郁夫さんの作品紹介のパネルです。著名な被爆者の方には、焼物(三彩)で人間国宝だった加藤卓男さん(1917~2005年)もいます。お二人で開かれた作品展を見学したこともありました。お二人とも、取材ノートのスケッチなどが素晴らしかったことも記憶に残っています。
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現代彫刻風の石碑の光景です。左下に説明プレートがありました。制作者は、広島出身のイタリア在住の彫刻家、杭谷一東氏(1942~)です。イタリアのカラーラ産白色大理石を使った彫刻上部の抽象彫刻像は、『世界中が肩を寄せ合って調和と安定、共存を未来へ向けて志向する状態を表し』、人類の平和への願いが込められています。
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『ローマ法王平和アピール碑』のタイトルがあった説明プレートです。1983年の日付がありましたから、『ヨハネ・パウロ二世(1920~2005年:在位1978~2005年)』を指しているようです。パウロ二世は、ポーランド出身の第264代ローマ教皇でした。
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1階ロビーに置かれていた『濵井信三像』です。濵井信三氏(1905~1968年)は、初代の公選広島市長です。一貫して核兵器の全面禁止を訴え、広島の父、または原爆市長と称されました。
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ここから有料で入場しての見学です。修学旅行生で大混雑していました。1945年8月6日に撮影された、原爆投下によるキノコ雲の写真です。当時の広島市の人口35万人(推定)のうち、9万~16万6千人が被爆から2~4ヶ月以内に死亡したとされます。
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投下された原爆によるキノコ雲写真を、ピックアップしての紹介です。積乱雲の一種で、原子雲とも呼ばれます。米軍機が撮影した写真を基に測定された結果、約16000メートルの高さに達していたことが判明しました。当初予測の2倍とされます。
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キノコ雲の熱気は上空で冷やされ雨となりました。この雨は大量の粉塵・煙を含み、粘り気のある真っ黒な大粒の雨でした。この雨は『黒い雨』と呼ばれ、広範に放射線被曝を齎しました。その範囲は広島市北西部の南北19キロ×東西11キロの楕円形の領域に及び、1時間以上強く降り続けました。原爆投下の当日、広島市上空には南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動しやがて崩壊、日本海方面へ流れていきました。
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原爆投下後、まだ煙が立ち上る時のセピア写真です。広島原爆には約50キロのウラン235が使用され、この内約1キロが核分裂を起したと推定されています。1キロのウラン235の核分裂によって、0.68グラムの質量欠損が生じ、そのエネルギーはアインシュタインの質量とエネルギーの等価式によれば、約63兆ジュール、TNT火薬換算で1万5千トンに及びました。
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被爆後のイラストを背景にした、実際に被曝した赤煉瓦やコンクリート片などの展示です。核分裂により生じたエネルギーは、50%が爆風(衝撃波、爆音)、35%が熱線、15%が放射線になったと推定されています。
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核分裂による高温と爆風で剥がれ落ちた赤レンガの光景です。爆発の瞬間、爆発点の気圧は数十万気圧に達し、これが爆風を発生させ、爆風速は秒速440メートル以上と推定されています。この時の爆風のエネルギーは、台風の暴風エネルギーの千倍とも例えられます。また、核分裂で出現した火球の表面温度は数万度に達し、地表温度は3~6千度Cに達しました。
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