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世界文化遺産の厳島神社の紹介です。厳島神社の建造物は、『1件6棟』として『本社本殿、幣殿、拝殿など)』、『本社祓殿』、『摂社客神社本殿、幣殿、拝殿など』、『摂社客神社祓殿』、『廻廊東廻廊』、『廻廊西廻廊』が国宝に指定されています。

2015秋、厳島神社と出雲大社(5/17):厳島神社(5):回廊、獅子像、太鼓橋、スケッチ展

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2015/11/17 - 2015/11/18

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旅行記グループ 2015春、宮島と原爆ドーム

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旅人のくまさん

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世界文化遺産の厳島神社の紹介です。厳島神社の建造物は、『1件6棟』として『本社本殿、幣殿、拝殿など)』、『本社祓殿』、『摂社客神社本殿、幣殿、拝殿など』、『摂社客神社祓殿』、『廻廊東廻廊』、『廻廊西廻廊』が国宝に指定されています。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 行儀よく座ったブロンズの狛犬と、その脇の雪見灯篭風の石灯篭の光景です。狛犬は台座の上でしたが、石灯篭は海中から立ち上がっていました。それで、うまく高さのバランスが取れていました。雪見灯篭は、足が短いのが特徴の灯篭ですが、足長の雪見灯篭風のスタイルでした。

    行儀よく座ったブロンズの狛犬と、その脇の雪見灯篭風の石灯篭の光景です。狛犬は台座の上でしたが、石灯篭は海中から立ち上がっていました。それで、うまく高さのバランスが取れていました。雪見灯篭は、足が短いのが特徴の灯篭ですが、足長の雪見灯篭風のスタイルでした。

  • 厳島神社の中から眺めた、少し小高い場所に建つ豊国神社と五重塔の光景です。左端に屋根だけ見えているのが豊国神社です。豊国神社は邸、通称千畳閣と呼ばれます。桁行13間、梁間8間、建物の長辺側は46.2m、短辺側は28.2m、高さは17.4mの大規模な建物です。手前正面の建物は、厳島神社の摂社客(まろうど)神社祓殿と呼ばれているようです。

    厳島神社の中から眺めた、少し小高い場所に建つ豊国神社と五重塔の光景です。左端に屋根だけ見えているのが豊国神社です。豊国神社は邸、通称千畳閣と呼ばれます。桁行13間、梁間8間、建物の長辺側は46.2m、短辺側は28.2m、高さは17.4mの大規模な建物です。手前正面の建物は、厳島神社の摂社客(まろうど)神社祓殿と呼ばれているようです。

  • 厳島神社の朱塗りの回廊の光景です。西回廊と東回廊を合わせ、その長さは260メートルとされます。日本一の規模の回廊とされているようです。東・西廻廊は、永禄年間(1558~1569年)から慶長年間(1596~1614年)に整備されました。東廻廊の折曲り延長が四十五間、西廻廊の折曲り延長が六十二間とされます。

    厳島神社の朱塗りの回廊の光景です。西回廊と東回廊を合わせ、その長さは260メートルとされます。日本一の規模の回廊とされているようです。東・西廻廊は、永禄年間(1558~1569年)から慶長年間(1596~1614年)に整備されました。東廻廊の折曲り延長が四十五間、西廻廊の折曲り延長が六十二間とされます。

  • 逆光での撮影となりましたが、豊国神社(千畳閣)の脇の五重塔の光景です。宮島の五重塔は、応永14年(1407年)に建立された塔で、高さは27.6m、国の重要文化財に指定されています。豊国神社(千畳閣)より先に建立されました。内部は完全な唐様で、天井には龍や葡萄唐草、壁には蓮池や白衣の観音像などが描かれているようですが、一般の見学は不可となっています。

    逆光での撮影となりましたが、豊国神社(千畳閣)の脇の五重塔の光景です。宮島の五重塔は、応永14年(1407年)に建立された塔で、高さは27.6m、国の重要文化財に指定されています。豊国神社(千畳閣)より先に建立されました。内部は完全な唐様で、天井には龍や葡萄唐草、壁には蓮池や白衣の観音像などが描かれているようですが、一般の見学は不可となっています。

  • 厳島神社の赤い『大鳥居』の正面光景です。『朱丹の大鳥居』とも呼ばれる、厳島神社を象徴する建造物です。世界遺産の『厳島神社』を構成する文化財の一つで、国の重要文化財です。神社を海上社殿として大修築した平清盛が創建したとされ、天文16年(1546年)大内義隆らが再建した時から両部鳥居になったと言われます。現在のものは明治8年(1875年)再建の8代目、もしくは9代目です。

    厳島神社の赤い『大鳥居』の正面光景です。『朱丹の大鳥居』とも呼ばれる、厳島神社を象徴する建造物です。世界遺産の『厳島神社』を構成する文化財の一つで、国の重要文化財です。神社を海上社殿として大修築した平清盛が創建したとされ、天文16年(1546年)大内義隆らが再建した時から両部鳥居になったと言われます。現在のものは明治8年(1875年)再建の8代目、もしくは9代目です。

  • もともと厳島は、弥山(標高529.8メートル)も含めた島全体が神聖な場所として崇められてきました。このため、島自体がご神体と考えられ、島にある木を伐採し、そこに神社を建てるのは恐れ多いという深い信仰心から、海の上に神社が創建されたと言われています。

    もともと厳島は、弥山(標高529.8メートル)も含めた島全体が神聖な場所として崇められてきました。このため、島自体がご神体と考えられ、島にある木を伐採し、そこに神社を建てるのは恐れ多いという深い信仰心から、海の上に神社が創建されたと言われています。

  • 『厳島神社』として、世界遺産に登録されている範囲は、厳島神社に限らず、前面の海と背後の弥山を含む森林区域にまで及びます。これは、厳島全体が神聖な場所として信仰されてきた日本独特の歴史が、厳島神社、海、弥山という調和により、ほかには見られない独特の世界観を具現化していることが認められたことによるものです。

    『厳島神社』として、世界遺産に登録されている範囲は、厳島神社に限らず、前面の海と背後の弥山を含む森林区域にまで及びます。これは、厳島全体が神聖な場所として信仰されてきた日本独特の歴史が、厳島神社、海、弥山という調和により、ほかには見られない独特の世界観を具現化していることが認められたことによるものです。

  • 1168年、神主だった佐伯景弘が社殿の造営を行ったことが記録として残されています。もちろん、1人の神主の財力で成し得たとは考にくく、そこに平清盛の援助があったことは確実です。このとき、平清盛は武士として初めて太政大臣に昇りつめ、権力が絶頂にあった50歳でした。現在残る主な社殿は、鎌倉時代、1241年に造営されたものと言われています。

    1168年、神主だった佐伯景弘が社殿の造営を行ったことが記録として残されています。もちろん、1人の神主の財力で成し得たとは考にくく、そこに平清盛の援助があったことは確実です。このとき、平清盛は武士として初めて太政大臣に昇りつめ、権力が絶頂にあった50歳でした。現在残る主な社殿は、鎌倉時代、1241年に造営されたものと言われています。

  • 全ての柱が朱色に塗られた回廊の中の光景です。『廻廊は幅4メートル、長さは約275メートルです。床板の間に目透しという隙間があり、高潮の時に下から押しあがってくる海水の圧力を弱め、海へ流す役目を果たしています』(廿日市市観光公式サイト)

    全ての柱が朱色に塗られた回廊の中の光景です。『廻廊は幅4メートル、長さは約275メートルです。床板の間に目透しという隙間があり、高潮の時に下から押しあがってくる海水の圧力を弱め、海へ流す役目を果たしています』(廿日市市観光公式サイト)

  • 『国内でも唯一の海に建てられた能舞台です。現在、重要文化財に指定されている国内五つの能舞台のうちの一つです。厳島での演能は、永禄11年(1568年)の観世太夫の来演が始まりとされ、慶長10年(1605年)には福島正則が常設の能舞台を寄進しました。現在の舞台と橋掛および楽屋が建立されたのは藩主が浅野氏に代わった延宝8年(1680年)のことです』(廿日市市観光公式サイト)

    『国内でも唯一の海に建てられた能舞台です。現在、重要文化財に指定されている国内五つの能舞台のうちの一つです。厳島での演能は、永禄11年(1568年)の観世太夫の来演が始まりとされ、慶長10年(1605年)には福島正則が常設の能舞台を寄進しました。現在の舞台と橋掛および楽屋が建立されたのは藩主が浅野氏に代わった延宝8年(1680年)のことです』(廿日市市観光公式サイト)

  • 骨組みだけになった回廊の光景です。推測ですが、イベントが開催されるときなどに床板が張られ、壁面などが設けられるのかも知れません。写真中央奥に、大鳥居が小さく見えていました。

    骨組みだけになった回廊の光景です。推測ですが、イベントが開催されるときなどに床板が張られ、壁面などが設けられるのかも知れません。写真中央奥に、大鳥居が小さく見えていました。

  • 200メートル先の沖合に建つ、その赤い『大鳥居』の光景です。少しだけズームアップしました。この場所からも、ほぼ正面に鳥居が見えましたが、下部の柱が大きく見えてきました。鳥居に向かって、左側に移動したためのようです。

    200メートル先の沖合に建つ、その赤い『大鳥居』の光景です。少しだけズームアップしました。この場所からも、ほぼ正面に鳥居が見えましたが、下部の柱が大きく見えてきました。鳥居に向かって、左側に移動したためのようです。

  • 少し干潮になったのでしょうか、あるいは、元々潮位が低い場所かも知れません。基礎の石まではっきりと見えていました。嚴島神社が海に浮かんで見える潮位の目安は 250㎝以上、大鳥居の根元まで歩いて行ける潮位の目安は100㎝以下、潮干狩りに適する潮位の目安は40㎝以下、と紹介されていました。

    少し干潮になったのでしょうか、あるいは、元々潮位が低い場所かも知れません。基礎の石まではっきりと見えていました。嚴島神社が海に浮かんで見える潮位の目安は 250㎝以上、大鳥居の根元まで歩いて行ける潮位の目安は100㎝以下、潮干狩りに適する潮位の目安は40㎝以下、と紹介されていました。

  • 側面から眺めた、太鼓橋の光景です。この後紹介する、スケッチ大会でも、五重塔や大鳥居と並んで、人気のモチーフになっていました。現在は通行禁止になっている橋です。国宝に指定される西廻廊へと渡る橋で、『反橋(そりばし)』とも呼ばれています。全長24m、幅4mで、高欄は丹塗り、橋脚は墨塗りになっています。国の重要文化財に指定されています。

    側面から眺めた、太鼓橋の光景です。この後紹介する、スケッチ大会でも、五重塔や大鳥居と並んで、人気のモチーフになっていました。現在は通行禁止になっている橋です。国宝に指定される西廻廊へと渡る橋で、『反橋(そりばし)』とも呼ばれています。全長24m、幅4mで、高欄は丹塗り、橋脚は墨塗りになっています。国の重要文化財に指定されています。

  • 少し場所を移動して、太鼓橋の橋脚がよく見える位置からの撮影です。名前の通りの太鼓橋で、往時は天皇からの使者(勅使)だけが渡ることを許されたことから、『勅使橋』とも呼ばれています。とても渡れるような形状ではなく、中央に階段を設けて渡ったものと推測されています。鎌倉時代には架橋されていたとされ、現存する橋は、弘治3年(1557年)、毛利隆元、元就父子が再建したものです。

    イチオシ

    少し場所を移動して、太鼓橋の橋脚がよく見える位置からの撮影です。名前の通りの太鼓橋で、往時は天皇からの使者(勅使)だけが渡ることを許されたことから、『勅使橋』とも呼ばれています。とても渡れるような形状ではなく、中央に階段を設けて渡ったものと推測されています。鎌倉時代には架橋されていたとされ、現存する橋は、弘治3年(1557年)、毛利隆元、元就父子が再建したものです。

  • 廿日市市宮島町に位置する、の『大願寺(だいがんじ)』の山門光景です。高野山真言宗の寺院で、山号は亀居山、院号は放光院です。本尊は薬師如来です。幕末には長州の乱終結の会談を『勝海舟(1823~1899年)』と『桂小五郎(1833~1877年)』がこの大願時で行いました。桂小五郎は、後の木戸孝允(たかよし)です。

    廿日市市宮島町に位置する、の『大願寺(だいがんじ)』の山門光景です。高野山真言宗の寺院で、山号は亀居山、院号は放光院です。本尊は薬師如来です。幕末には長州の乱終結の会談を『勝海舟(1823~1899年)』と『桂小五郎(1833~1877年)』がこの大願時で行いました。桂小五郎は、後の木戸孝允(たかよし)です。

  • 大願寺の本堂と、その前に立つ『九本松』の光景です。伊藤博文によって植えられたとされる、根元から9本に広がった松です。本堂には、神仏分離令によって厳島神社から遷された弁才天像(秘仏で開帳は毎年6月17日)など、多くの仏像が安置されています。

    大願寺の本堂と、その前に立つ『九本松』の光景です。伊藤博文によって植えられたとされる、根元から9本に広がった松です。本堂には、神仏分離令によって厳島神社から遷された弁才天像(秘仏で開帳は毎年6月17日)など、多くの仏像が安置されています。

  • 明治時代に焼失したものを、140年振りの2006年(平成18年)に再建された大願寺の護摩堂です。本尊は厳島大仏といわれる不動明王像ですが、撮影禁止です。拝観はしていませんが、総白檀の像とされます。ネット写真で見ることができますが、インド産の約20トンの白檀で出来た高さ約4メートルの不動明王です。

    明治時代に焼失したものを、140年振りの2006年(平成18年)に再建された大願寺の護摩堂です。本尊は厳島大仏といわれる不動明王像ですが、撮影禁止です。拝観はしていませんが、総白檀の像とされます。ネット写真で見ることができますが、インド産の約20トンの白檀で出来た高さ約4メートルの不動明王です。

  • 平重盛公が手植えされたという老松の枯れた姿です。『平重盛(1138~1179年)』は、清盛の嫡男で、保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世しました。清盛の後継者として期待されながらも、政治的には清盛と対立した後白河法皇に近い立場にあったとされ、父より先に病没しました。

    平重盛公が手植えされたという老松の枯れた姿です。『平重盛(1138~1179年)』は、清盛の嫡男で、保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世しました。清盛の後継者として期待されながらも、政治的には清盛と対立した後白河法皇に近い立場にあったとされ、父より先に病没しました。

  • 『金刀比羅(ことひら)神社』の鳥居と社殿の光景です。左側に立てられた説明立札には、御祭神は、『大物主神(オオモノヌシノカミ)』と『佐伯鞍職(さえき・くらもと:生死年不明)』と記されていました。由緒と鎮座の年代は不明です。三輪山の大神神社に祀られ、 『日本書紀』の諸伝承の中には、オオモノヌシを大国主神 (オオクニヌシノカミ)、大己貴命の別名とするものもあります。

    『金刀比羅(ことひら)神社』の鳥居と社殿の光景です。左側に立てられた説明立札には、御祭神は、『大物主神(オオモノヌシノカミ)』と『佐伯鞍職(さえき・くらもと:生死年不明)』と記されていました。由緒と鎮座の年代は不明です。三輪山の大神神社に祀られ、 『日本書紀』の諸伝承の中には、オオモノヌシを大国主神 (オオクニヌシノカミ)、大己貴命の別名とするものもあります。

  • 通路脇に掲示してあった『厳島神社』のスケッチの紹介です。個人情報に関わる部分はマスクしてありますが、どの作品も力作揃いでした。小学生から高校性までの出品で、広島県全域からの応募のようでした。中学2年生の方の金賞作品の粗油会です。この後は、一口感想だけを記すことにします。社殿群と五重塔がバランスよく描かれています。

    通路脇に掲示してあった『厳島神社』のスケッチの紹介です。個人情報に関わる部分はマスクしてありますが、どの作品も力作揃いでした。小学生から高校性までの出品で、広島県全域からの応募のようでした。中学2年生の方の金賞作品の粗油会です。この後は、一口感想だけを記すことにします。社殿群と五重塔がバランスよく描かれています。

  • 近景に朱塗りの回廊を入れた大胆な構図で、太鼓橋を描いています。太鼓橋の橋脚の黒色と遠景の木の緑が、その引き立て役です。<br />

    近景に朱塗りの回廊を入れた大胆な構図で、太鼓橋を描いています。太鼓橋の橋脚の黒色と遠景の木の緑が、その引き立て役です。

  • 小学生の方の作品ですが、少し漫画チックで、見所いっぱいの絵です。赤い鳥居と鹿に袋に入った食べ物を奪われそうな場面が、絵のメインでした。干潮時の大鳥居も素晴らしいスケッチです。

    小学生の方の作品ですが、少し漫画チックで、見所いっぱいの絵です。赤い鳥居と鹿に袋に入った食べ物を奪われそうな場面が、絵のメインでした。干潮時の大鳥居も素晴らしいスケッチです。

  • こちらも小学生の方の作品ですが、『大鳥居』を中心に、力強いスケッチでした。鳥居の最上段の笠木、黒い扁額と、水に浸される柱の下部も、しっかりスケッチされていました。

    こちらも小学生の方の作品ですが、『大鳥居』を中心に、力強いスケッチでした。鳥居の最上段の笠木、黒い扁額と、水に浸される柱の下部も、しっかりスケッチされていました。

  • さすがに高校生の方の入賞作品です。太鼓橋の橋脚などが見事にスケッチされていました。近景の回廊を含め、色遣いにも落ち着きがありました。

    イチオシ

    さすがに高校生の方の入賞作品です。太鼓橋の橋脚などが見事にスケッチされていました。近景の回廊を含め、色遣いにも落ち着きがありました。

  • 中学生の部の入賞作品です。朱塗りの建物群と、その背後に五重塔が描かれていました。筆太なタッチです。

    中学生の部の入賞作品です。朱塗りの建物群と、その背後に五重塔が描かれていました。筆太なタッチです。

  • 中学生の部で金賞を受賞した作品です。几帳面に描かれた、色彩を抑え気味の作品です。中央付近の橋と、その先に続く家並みを密度濃く表現していました。

    中学生の部で金賞を受賞した作品です。几帳面に描かれた、色彩を抑え気味の作品です。中央付近の橋と、その先に続く家並みを密度濃く表現していました。

  • 小学生の部で金賞を受賞した作品ですが、デッサン力の素晴らしさに驚きました。左手の近景の石灯篭、中景の千畳閣と樹木、右手の遠景の五重塔、それぞれに見事でした。

    小学生の部で金賞を受賞した作品ですが、デッサン力の素晴らしさに驚きました。左手の近景の石灯篭、中景の千畳閣と樹木、右手の遠景の五重塔、それぞれに見事でした。

  • いかにも水彩画らしいタッチの、中学生の方の銀賞受賞の作品です。絵の主題は、中央に描かれた灯篭と、その背後の太鼓橋のようですが、前景も主役を競っていました。ユニークな構図です。

    いかにも水彩画らしいタッチの、中学生の方の銀賞受賞の作品です。絵の主題は、中央に描かれた灯篭と、その背後の太鼓橋のようですが、前景も主役を競っていました。ユニークな構図です。

  • 金賞を受賞した、中学生の方の作品です。海辺に建つ朱塗の柱と、渋い色の柱の建物のコントラストと、その背後の森の光景です。森の描き方と、絵を引き締めていた灯篭列が、殊に印象的でした。

    金賞を受賞した、中学生の方の作品です。海辺に建つ朱塗の柱と、渋い色の柱の建物のコントラストと、その背後の森の光景です。森の描き方と、絵を引き締めていた灯篭列が、殊に印象的でした。

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